新年例会・卓話 松殿山荘

2017.1.12

新春移動例会

年頭所感

会長挨拶

皆さん新年あけましておめでとうございます。今年のお正月はわりかし暖かかったもんですから皆さんご家族お揃いで新年を迎えられたこととお喜び申し上げます。昨年は宇治ロータリークラブと宇治鳳凰ロータリークラブの合同例会をはじめ、認知症の勉強会、そして家族のレクレーション、ワイン例会、それから年末のクリスマス例会で家族の皆さんとにぎやかにやっていただきましてありがとうございました。これも一つの場があるということだと思って喜んでおります。今年は新年になりまして新春移動例会をここは木幡の地で知られていないのですけども、木幡の松殿山荘で開会させていただいております。今日は平岡様に後ほど充分にお話をしていただけると思いますどうぞよろしくお願いいたします。今日の午後からウッティを描こうの審査会があります。これが後半のスタートですので皆さんよろしくお願いいたします。以上簡単ですが新年のご報告とさせていただきます。


松殿山荘 代表理事

平岡己津夫

皆さんあけましておめでとうございます。ここ松殿山荘(しょうでんさんそう)という場所なんですけども、ここの場所は今から900年ほど前.平安時代の終わりに、その当時の関白だった藤原基房という人が松殿(まつどの)という別業を営んでおられたところと言われております。その当時の屋敷を取り囲んでたであろう土塁が現在も残っております。それが一つの手掛りとなって、ここの場所が松殿のということがわかるわけなんですけども、それを新しくしたということでその松殿を音読みに読み替えた名前をつけていただいた、松殿山荘という名前をつけていただきました。そのつけていただくことになったのはこういった平屋の建物なんですけども、すべて茶室として作ったものです。お茶はここ宇治で沢山とれるところということでもありますし、そのお茶を生かそうというような意味、それから大正から昭和にかけて、この建物を建てたんですけども、その建物を作った意味というのがその当時流行っていたお茶が小間のお茶、わび茶ばかりであったというのはおかしいんじゃないかというような想いから広間の茶がもともとの興りなので、それを復興しようということで結果としてこんなにだだっ広い物を作ることになったわけです。後ほど、その茶室なんかもご覧になっていただきますし、今いらっしゃるここ、大書院で一番広い部屋です。30畳の広さがあります。そんな茶室が本席として使える茶室が全部で17作っております。ここの大書院、中書院、眺望閣もございます。そんなところも後ほどご覧になって頂こうというふうには思います。ここの建物の特徴としましては日本の建築が一番華やかであったであろう時代、その時代に材料が手に入り、その材料を生かす技術があった時代、例えばここの鴨居なんかも見ていただきますと5間の間、ふしがない材料、柱を下から支える物がないままで5間の間を支えることができるというこういうこと、そういう技術があった時代であったと言えるかと思います。そういったところもご覧になっていただこうと思っております。いつもは今まで茶会では使っていたんですけども、ほとんど公開することもなく、今から言いますと3年前になりますけども公益財団法人の認定をいただきました。公益活動としての広く皆さんに使っていただけるようにということで今日はロータリーさんの新年会ということでお使いいただくことになりましてありがとうございます。そういったところなんですがまた茶会に使いたいとか言われるようなこともございますようでしたらお声をかけていただけると大変うれしゅうございます。本日はようこそおいでいただきました。

もう少しこの部屋の話、或いは今日開かれているところのお話なんか少しします。ここの建物が、この場所自体を買い求めたのが大正7年です。それまでここを建てました高谷恒太郎という人はもともと生まれたのが江戸の末期、嘉永4年、1851年、九州大分で生まれています。最初は東京に出まして大蔵省から司法省へ勤め、官吏の仕事をした人です。明治26年にはその官吏の仕事を辞めまして弁護士を始めました。その弁護士の仕事を始めた場所が大阪で阪神間のお酒やさん中心に回っていた銀行、灘商業銀行を立て直す仕事だったんです。その仕事も3年ほどでうまく回っていくようになり、その当時の頭取であった菊正宗の嘉納治郎右衛門さん、或いは白鶴の嘉納治兵衛さん、こういった方々、或いは野村證券の野村徳七さん、こういった方々の知遇を得ることになり後々のこの松殿山荘に繋がってくることになりました。大阪でその弁護士をしていた時に住んでいたのが昨年の3月までテレビドラマで「あさが来た」というのをやってました。この主人公の「あさ」の姉さん「はつ」という人が嫁いだ先、それが天王寺屋五兵衛という両替商へ嫁いでおられます。ドラマの中では和歌山のミカン農家へ転出されたような話になっていましたけども実際のところはその両替商自体がうまく立ち行かなくなって、どうも東の方へ流れられたというのが本当のところ史実ではあったように聞いております。で、その天王寺屋五兵衛の居宅、これが今橋2丁目にあったんですけどもそこを買い取って、そこを法律事務所兼居宅として使ってたんです。その天王寺屋五兵衛の家にあった大黒柱がこの大書院のその丸い柱となってよみがえってます。もともと四角い柱だったんですけども8角、16角というふうにだんだん角を落として行って丸く仕上げています。それ以外にも、その天王寺屋五兵衛の家から持って来た茶室、天五樓(てんごろう)という席もございます。天王寺屋五兵衛の家で一番広かったところ、15畳敷きの部屋がここへ移って来ています。それ以外にも私の後ろの方に見えています楽只庵という席、そのもう一つ奥にある不忘庵という席もやはり天王寺五兵衛の家にあった茶室です。それを持ってきてます。ただ、そのまま持ってくるっていうことだけじゃなしに、ここを一つのお茶の道場としたかったということがあって、いろいろ工夫をしています。ここの大広間、こんな広い部屋でお茶をするってどんなことをするんですかと尋ねられた方もいらっしゃいました。一度に30人の方に落慶の茶会で高谷恒太郎自らが30人の方に濃茶を振る舞っています、この部屋で。そういう大勢さんなんかが入られるとなるとどうしてもこういう広い部屋が必要だということで、こんなだだっ広いものを作ってますし、それから利休の始めたわび茶、小間の席っていうのも、それなんかも合わせて作っております。天五樓と楽只庵(らくしあん)、不忘庵(ふぼあん)というふうなところのお話をしました。ここと比較される所の中書院、後ほどご覧になっていただきますがそこには霞棚というのがあります。霞棚というと棚が霞の雲がたなびいているような形に並べた棚なんですけども、それの本歌って言いますか、元になったものがあります修学院離宮のそのままを真似をするのは良くないからということで床の間と棚をちょうどひっくり返して、左右を逆にしたような形の部屋に作っています。で、中書院そのものは10畳敷きです。大勢さんになったりしたら次の間があります。間のふすまをとっぱらって二間続きで大勢さんの席を持てるように工夫もしています。別名、瑞凰軒(ずいおうけん)という名前も付けております。これは大正15年9月にスウェーデンの皇太子妃がお見えになって、まだこの大書院が出来上がってなかった関係で中書院でご休憩いただいて、その先の申々居(しんしんきょ)というところで献花と献茶を高谷宗範自ら行っています。それで瑞国のほうの皇太子の方はお見えいただけなくって、皇太子妃だけがお見えになったので鳳凰の凰を取って瑞凰軒という名前を、これは自分でつけた名前です。そういったところもご覧になっていただけます。それから、らせんの階段をあがっていただいて上の茶室、18畳ある眺望閣というのがございます。そこは周りの景色、四方とも窓をわざと低くして周りの景色を楽しみながらお茶ができるようにと言うふうにして作った茶室なんですけども、椅子に腰かけてする立礼というやり方ができるようにというふうにしております。ここから見ていただく景色なんですけども、ちょっと今日窓を開けた時に見てたんで、西の方、少しケムっていました。今現在のものが見えるかなと思ってたんですけども、石清水八幡宮の男山、山崎、このあたりは見えていました。それから京都西山がずっと見えています。右の方へ回っていきますと愛宕山が見えます。ちょっと真北のほうには山科の街から、そして比叡山が見えます。もう90度振っていただくと、ちょっとここからでは見えないんですけれど、 醍醐の山、これを借景として取り入れた景色がご覧になっていただけます。今少し登れなくなっているんですが五大力さんの中の准胝堂、あれが雷で焼けちゃったんで上へ登れないんか、横の方にあります開山堂のところまで見えるんですけれども、ちょっと雑木が大きくなっちゃって今すぐにご覧になっていただくことはできない状況です。で、その同じ連なりの山が五雲峰のほうも見えますし、それから生駒の山もご覧になっていただけます。そういう周りの景色を楽しみながらお茶をしていただこうということなんです。今日、ご覧になっていただけるところはそういったところを一応用意させていただきました。以上です。

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