「時代を切り拓く-明治維新、その光と影-」

日本文化史学研究家

神官 露原 懿(ただし)

いつもこの明治維新を考えるときに思い出す言葉がございます。それはトルストイのアンナ・カレーニナという非常に有名な作品があります。この作品の冒頭に次の言葉が出てきます。

すべて幸福な家庭は互いに似かよっているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣を異にしているものである。

特にこんにちにおいて、これを国民全体として考えたとき、やはりこの幸福ということことには前提条件があるんではないか。それは誰もが気が付くことですが国家としての確立ができているかどうか、その国が安定しているかどうか、近代的な諸制度が整備されているかどうか、これがやはり前提条件になって国民の幸せというものが考えられます。

そういう意味からするとこれからお話いたします明治維新というのは非常に大きな意義があったんではないか、このように思っています。私はこれまで明治維新に関しましては勝海舟、佐久間象山、それから吉田松陰などについての講演を各地で行ってきましたが、特に明治維新を専門にしてきたわけではありません。ただ、私個人としては明治維新に非常に思う所があるんです。今日はその話をすれば面白いんですけども、それは私事のことが多くなりますので控えまして、研究者のいろんな本を参考にしてですね、皆さんに明治維新を考えてもらおうかな、ということで、あえてこのテーマを選んだ次第であります。

お手元のプリントの初めに、吉田松陰の歌があります。2枚目に維新の3傑、明治維新といえば、まず3人の名前が取り上げられます。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、これを維新の3傑といいます。もう一人忘れてならない人物があるのであります。それが高杉晋作であります。この高杉晋作という

人物の活躍がなかったら明治維新はあの時点で実際に行われたかどうか、後の日本のこの時代の動きが少し変わったんではないか。それほど重要な人物てあります。この高杉晋作は新政府ができる前に病気で亡くなっています。この高杉晋作の先生があの有名な吉田松陰であります。私が明治維新に取り掛かりましたきっかけは、高校時代に松陰の研究でも非常に有名な学者がありまして、その学者のお話を聞き、吉田松陰の名前は知っててもどんな人だかよくわからなかったんですけども、その先生のお話を聞いてから非常に興味を持ち、そして大学へ行き、佐久間象山という大変な天才的な学者ですがこの人物についての集中講義を受けました。それから私の別の先生が勝海舟のお話をされました。いつも西郷隆盛と勝海舟を並べてお話される。これがまたですね、大学の時に聞いたものですから非常に関心をもつようになり、それに私の個人的な体験があります。私はもちろん明治生まれではありませんけども、私の家族の一員がその明治維新に関わっていたという、直接ではありませんけども、関係者と深く交わっていたということがあって明治維新を少し勉強しようかなということなったしだいです。

この吉田松陰といえば

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

実はこれは、松陰の心境を歌ったというよりも、あの有名な赤穂四十七士の墓のある泉岳寺の前を通りました時に、いわゆる、その靈に捧げる歌、いわゆる手向けの歌としてこの歌を詠んだといわれています。しかし、よくよく読みますと手向けの歌ではありますけども、この意味から読み取るとやはり松陰がペリー来航によってアメリカへ行こうとする、失敗して捕えられた。そして江戸へ送られる時の歌なんですから、やはり自分自身のことにもおそらく心は動いたんじゃないか、そういう意味で二重の意味があるんじゃないかと思われます。

それから次の

親おもふ 心にまさる 親心 けふのおとづれ 何と聞くらむ      

これは松陰がいよいよ幕府によって刑死、つまり殺されるんですけども、その前に家族宛に手紙を書きます。それにある歌なんです。

親おもふ 心にまさる 親心 けふのおとづれ 何と聞くらむ 

よく親に先立つ不幸と言いますけども、おそらく自分が国を思ってやったことによって. 幕府にとらえられて死刑になる。そのことを知った親の気持ち、これはたまらないと思います。それがよく出ているんですね。

親おもふ 心にまさる 親心 けふのおとづれ 何と聞くらむ 

受け取った親としては大変残念、それ以上のものだったと思います。

そして次に

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置まし 大和魂    

これは松蔭がいよいよ首をはねられる。自害してはねられるんですけども、その前日に書き留めた留魂録という非常に有名なものがあります。この留魂録のはじめに

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置まし 大和魂  

こういう歌を詠んでいます。

で、この松陰先生が、いよいよ殺される、井伊大老による安政の大獄、そのあと井伊大老が桜田門外の変で殺されます。そののち、この遺体を引き取っていいとこういうことで高杉晋作らがですね、先生の亡骸を引き取って行く話があります。これは実は、私、随分前に何かの本で読んで、その本を探していました。あの話、面白かったなと思って探していたら、ちょうど出て参りまして、ちょっとその話をここではさみたいと思います。

これは高杉晋作をほうふつさせる話です。

各藩が処刑された人々の遺体をそれぞれ引き取りに行くんです。それで、高杉晋作は伊藤俊輔ら、これはもちろん、のちの内閣総理大臣、伊藤博文のことですが、この人をふくめて何人かで引き取りに行く。小塚原の回向院に出向いて亡骸を引き取ります。そして高杉晋作は馬に乗って進んでいくと、ちょうど橋にかかる。ところがその橋には禁制の立て札がある。その橋、面白いことに通路を三つに分けてある。欄干があって、それで区別してある。真ん中のところは将軍が通るところ、或いはその代わりのもの、その両端は他の武士とか一般の人で、真ん中は絶対通ってはいけない。そういう橋にさしかかったわけです。そうしましたらみんな、これは大変だなと思います。なんと高杉晋作はですね、この橋の真ん中を通れというのです。従っておった伊藤俊輔がこれはちょっとやばいなと躊躇するんです。高杉晋作は容赦なく渡れとこういうんです。そして大将格の高杉晋作がそういうものですから、いわゆる行列がその真ん中を進もうとしたその時に役人が飛んでくる。待てということです。そして、その時にもちろん止められるんです。なぜここを通る、禁制の立て札があるじゃないかということなんですね。で、伊藤俊輔がすかさず、それは前の人に聞いてくれと言うんです。前の人とは高杉晋作が先頭を切っている。何か、もたもたしているなということで、何をしてるんだ、早く渡らんか、とまあこういうことだったわけです。前の人に聞いてくれと言われた役人が前方に走っていって、高杉に、なぜここを通るのかと必死になっていうんです。役人が言うのは当然ですね。通ってはいけないところなんです。その立て札が目につかんのかとものすごく怒るんですね。役人がその橋の真ん中を通ったらあかんと言ったにもかかわらず、無視してそこを通っていくんだから、これはもう大変なことであります。そして次のやりとりがあります。

一体これは何を運んでいるんだ、役人が聞きます。

そしたら

棺桶である。

この橋を何と心得るか!

上野の三枚橋であろう。

その中央は?

将軍専用と書いてあったな。

黙れ。わかっててそこを通るのか。そんな不浄の棺桶を通すわけにはいかぬ。

不浄なものと聞いたもんだから高杉晋作は非常に怒るんです。

不浄とは何を申すか。勅命によって通るものをなぜ止めるか。

聞いた役人は、勅命とな。

ではそれはどういう人の亡骸だ。

晋作は、松陰、吉田寅次郎先生のご遺体である。

それを聞いた役人は

何と申したか。それは公儀の罪人ではないか。

そしたら高杉晋作は馬上から

黙れ、朝廷から特赦を受けて、勅命によって改葬するものである。

その勅命を軽んじて、幕府の掟を押し通そうとするのであれば、返答しだいによっては考えがござる。返答をせよ。と、こう詰問する。

そして役人は一瞬、はっとたじろぐ。高杉晋作は後ろを向いて、伊藤俊輔らに「早く渡れ!」と言って、禁制の橋を渡りきってしまった。

役人は「お待ちなされ。名前は何という。」と言ったら、

高杉晋作は「長州藩士、高杉晋作と申す。御免」

つまりこれは、話では何でもないことですけれども、大変なことなんです。

つまり、高杉晋作の気迫が勝ってしまっているんです。高杉晋作の先生、吉田松陰の志を一番受け継いだのが、この高杉晋作なんですね。

吉田松陰は、ペリー来航によって外国のことを学ばないと日本はだめだ、ということで艦に乗り込もうとして失敗している。その他の言動によって結局切腹を命じられますけれども、そのときに長州藩の政治家で村田清風という、幕末では非常に有名な政治家が、吉田松陰が捕まって牢屋に放り込まれる、これがすべてのはじまりじゃと言う。これ大変なことなのです。普通の人なら、そんな無茶なことをするから捕まって仕方ないわな、ということで諦めがくる。それで終わってしまう。これが普通の考え方ですが、村田清風という大政治家は藩の財政を何回も立て直す努力をして実際立て直していき、現実の問題を処理していく能力のあった人です。その人が、これがすべてのはじまりじゃと言う。

いったいどういうことかと言うと、ペリーが軍艦四隻でやってきた、その次またやってきて国を開かせようとしますけれども、そのことの恐ろしさを一番具体的にわかっていたのが佐久間象山。

たとえば幕府は大砲を持っております。ペリーの軍艦に大砲を撃つとしても、届かない。ところが相手はなんぼでも届く。そしてペリーの黒船が江戸湾に深く入ってくる。あるところまで入ってきて、そこで大砲を撃ったら、江戸城まで届くんです。それを既に佐久間象山はその恐ろしさを知っているんですね。この人は天才的な人でありまして、それで幕府に言うんだけれども幕府の人は聞こうとしない。でもなんとなく恐いなとはわかるんだけれども、本当に怖いのがわかっているのが佐久間象山。それを吉田松陰は学んだのです。だから外国とこれからいろいろ関わっていくときに何がおこるか。

何が始まるかというと、単なる強い相手に対して腰が引けて、弱い立場の者として何とか交渉して、乗り切っていこうかな、ということでは日本の主体性も何もない。主体的な国として対等にするためにはどうしたらいいか。軍事力というのは背景に経済がある。金がなかったら軍事力は完備できない。お金もいる、兵士もいる。そういった条件が整ってはじめて、軍艦というものができて、日本にやってくることができる。そうすると単に浦賀に来て、江戸湾に侵入するといっても背景にいろんなものがあって、それに対して日本がいろいろ構築していかなければならないわけです。吉田松陰が捕まって、ああバカなことをしたな、ではないんです。厳然として脅威がそこにある、そのときにこれから日本が主体性をもって立ち向かっていくにはどうしたらいいか、いろんなことが実際に起こってくる。そこで一番やっていかねばならないことがある。それは幕府を倒すこと。

そして幕府を倒すために高杉晋作はものすごい働きをするんですね。よく坂本龍馬が薩摩と長州を手を握らせ薩長同盟をしたといわれますけれども、たしかにそれは間違いではないのですが、事はそんな単純なものではないんです。なぜかというと、薩摩と長州はものすごく仲が悪いんです。むしろ長州は、薩摩を憎んでおります。なぜかというと禁門の変で薩摩と会津が組んで、長州を敗退させているのですね。だから薩摩に対しては憎しみのような感情を持っている。長州が薩摩と手を組むはずがない。それを坂本龍馬が手を結んでやったと、そんなもんでできるわけはない。もちろん努力はしています。これにはわけがある。それは、薩摩も主導権をもって、幕府を倒すように動く。ところが二回目の長州征伐のときに、高杉晋作がものすごい働きをするんですね。もしも高杉晋作がいなかったら、あるいは高杉晋作のはたらきがなかったら、長州はどうなっていたか。長州がどうなるかわからないとなれば、薩摩一藩ではとても幕府を倒せない。そこで、薩摩は考えた。これまで長州をいじめたが、そのまま置いておこう。そして幕府が長州を倒してしまわないようにしておかないとだめだ。なぜかというと幕府が長州を倒したら、幕府の力は絶大だということで他の藩も幕府を恐れ、そうしたら尊皇攘夷、倒幕なんてものはできっこない。

そこで薩摩はなんとか長州と協力する方がいいと考える。こうした機運があったんですね。そこで坂本龍馬が動いて活躍をする。そして第二次長州征伐のとき、ものすごく戦って、幕府の侵攻を食い止めた。ところが残念ながら、高杉晋作は死ぬんですね。死ぬんだけれど、倒幕という動きは止められなくなって、薩摩と長州が協力しながら幕府を倒し、とうとう大政奉還、王政復古の大号令となっていく。ところがこれで幕府は完全に倒れたわけではないんです。徳川氏と深く関わっている会津藩も健在で、そこで鳥羽伏見の戦い、江戸城総攻撃の前に、勝海舟と西郷隆盛の話し合いがあり、江戸城の無血開城になる。ところがそれでも不満分子があって、彰義隊の戦いがあった。いよいよこれで終わりかといえば、最後に会津藩を叩かねばならない。会津藩は徳川氏と深い関係がありますから、完全な幕府側です。会津藩を攻めるときにすごい戦いになって、会津藩は徹底的にやられる。白虎隊やいろいろな悲劇が会津に集中しておこる。

そして会津藩の敗けた後の処罰が厳しんです。記録が残っていますけれども、それを読んだら涙なしでは読めないくらいの厳しい処罰を受けて、会津藩士は散々な目にあっています。これまでに読んだ本に出ていた話ですが、ある人が観光で会津に来て、タクシーに乗った。タクシーに乗って話をしていて、山口から来ました、というのを聞いた運転手が車を停めて、降りてくれと言った。またある人がお寿司屋さんに入った。店の人と話をしていて、やはり山口から来たと言うと、金は要らないから出て行ってくれと言われる。フィクションでしょうがこういうようなことが言われる、という。安倍晋三総理が前の参議院選挙のとき応援に行って「私は長州出身の総理大臣である。私の先祖が会津若松に大変ご迷惑をかけた。長州出身の総理としてお詫び申し上げます」と街頭演説でこう言った。それを聞いた会津若松の人は逆に怒った。「それはリップサービスだ。もしもその気持ちがあるのなら、あの飯盛山に行って、白虎隊の兵士の墓の前で手を合わせて、あらためて今言ったことを記者会見でいうのならまだわかる。」と言って、さんざん不評だったそうです。戊辰戦争から百何十年たっても、首相が謝る、このようなことがあるんですね。会津と萩は仲良くしないといけない、ということで両方の市長が参加しての話しあいの会があったようですが、うまくいかなかった。そこであらためて話し合いを持つことになった。プリントのようにそのことが各新聞に報道されておりました。

明治維新はすばらしいことですが、大きな変革であっただけにこういう積み残しがあるということです。歴史というものは、滔々と流れる大河のようなものであって、その流れの中には人々の悲しみとか怒りとか、苦しみが潜んでいるのですね。やがてそれは消え去って行くものではありますけれども、ときどきこうやって浮かび上がってくる。だから歴史からいろいろなことを学んでいくということは、これからの国家的大事業をおこなう時には、ぜひ考えておかなければならない問題を示しているのではないかと思っております。

時間が来たようなのでこれで終わらせていただきます。どうもご清聴ありがとうございました。

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