2650地区 米山奨学生

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「ハンガリーから始まった少女マンガ研究」

カールビッチ・ダルマ

本日は、私がどのように故郷のハンガリーで日本のマンガ文化を発見したかと言うことと、そこからたどり着いた日本で行う少女マンガ研究についてお話させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 ハンガリーは中央ヨーロッパにある小さな国です。ハンガリー人がアジアから馬に乗ってヨーロッパにたどり着いたのは西暦895年であり、王国として認められたのはそれから100年後でした。それからの歴史の中でハンガリーは色々な民族の襲撃を受けるようになります。 オスマン帝国や ハプスブルク帝国の次に第二次世界大戦の敗戦の後、ハンガリーはソ連の影響下に置かれ、40年間社会主義の東側諸国に組み込まれた国家となりました。1989年にハンガリーはソ連の影響から逃れ、民主主義国家となり、そして 2004年には、ヨーロッパ連合に加盟するまで至っています。

 私は 1981年にこのハンガリーに生まれ、子供時代を社会主義のゆるめられた最後の10年や、それから訪れる突然の自由に戸惑った時代に過ごし、日本のマンガと出会いました。私は日本のアニメと出会ったのは1993年でした…と言うよりも、この時点で見ているアニメが日本製だということを発見しました。実際、80年代の間に民主主義の国からのコンテンツ輸入が以前より許されるようになり、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』なども映画館で見ることができましたが、日本で制作された作品ということが知られていませんでした。しかし、ハンガリーが90年代に民主主義になってから外国のテレビ番組が自由に見られるようになり、 おかげで私はドイツのテレビで日本のアニメを再発見したのです。

 現在、世界中で最新のマンガやアニメがファンの興味を得ている状況ですが、インターネットが普及する以前の90年代前半には当時のメディア環境のおかげで70年代や80年代のアニメが沢山放送されました。私にとって一番衝撃的だったのが 70年代の有名な少女マンガ作品、『ベルサイユのばら』でしたが、それ以外も 60年代末の『アタックNo.1』や 『リボンの騎士』、70年代の 『キャンディ・キャンディ』などの昔のアニメを多く見ました。そのため、 古いマンガやアニメに対する抵抗がなく、むしろ好きになり、マンガやアニメの歴史に強い関心を持つようになりました。この経験がなかったら、恐らく私も、現在、日本に来ていないかもしれません。そして、日本で60年代の少女マンガを研究しているのも『ベルばら』などのおかげだと言っても過言ではありません。

 90年代後半にテレビでアニメが増えるにつれて、少しずつハンガリーでもマンガやアニメが知られるようになりました。マンガやアニメに関する仕事に努めたいという夢を持っていた私に2000年代に入るとそのチャンスが与えられました。 大学に通いながら2003年から4年間小さな非営利ラジオステーションでマンガとアニメに関するラジオ番組を放送していました。番組を通して色々な人とつながることができ、おかげで大学を卒業した時に、マンガの翻訳や、新しいマンガ・アニメ情報雑誌の記者および編集に携わる仕事につくことができました。しかし、 ハンガリーの面積は日本の約4分の1ほどであり、人口は12分の1しかないため、市場の規模は非常に小さいです。そのため、世界金融危機の影響でハンガリーの経済が悪化した時、サブカルチャー的なマンガ・アニメ市場は崩れてしまいました。この状況で私はマンガやアニメに関する仕事を続けられなくなりましたが、あえてこれをチャンスとして捉えました。

私は90年代後半からドイツ市場のおかげでマンガを読めるようになりました。2000年代に入ると、すでに、日本の少女マンガとは世界的なマンガの成功に重要な役割を果たしている、独特なジャンルとして世界中で認識されていました。海外のコミックスは元々ほとんど男性向けであり、女性たちは日本のマンガで初めて自分のためのマンガを発見したのです。しかし、それらはほとんど最新の作品だけであり、私が好きになった昔のアニメの原作にあたるマンガを読むのは困難でした。それでも、マンガの歴史に強い関心を持っていた私は、出来るだけ昔の少女マンガについて調べ、やがて現在の研究の出発点となった、少女マンガ史の偏っている有様に気づきました。

 少女マンガは少年マンガと同じぐらい長く存在していますが、原点として扱われる手塚治虫の1953年に発表された「リボンの騎士」以外には、70年代以前の作家や作品についてほとんど言及されていません。70年代は、「少女マンガの黄金時代」として注目され、この時期に発表された革新的と言われる作品、例えば 私が大好きだった『ベルサイユのばら』や 萩尾望都の詩的な吸血鬼マンガ『ポーの一族』や (22) 竹宮惠子の成長物語『風と木の詩』などが多くの人々に語られました。しかし、マンガは文化でもあり、ビジネスでもあります。私は、業界のレベルで突然の大きな変化はあり得ないと思い、70年代のいわゆる「革命」に疑問を抱きました。そのため、70年代直前の忘れられてきた時代、60年代の少女マンガに注目し始め、その研究のために2013年に来日しました。

 日本で研究を始めて間もなく少女マンガ史が偏っていることの一つの理由が分かりました: 70年代以前のマンガを研究するのは極めて難しいことです。現在、マンガはマンガ雑誌での連載を経て単行本で改めて出版されるのが一般的ですが、70年代以前には、このシステムがまだ存在していませんでした。新装版単行本がほとんど出版されず、マンガ作品は雑誌とともに捨てられ、消えてしまいました。マンガ史は基本的に単行本を元に成立しているため、単行本時代以前のマンガ史で隠された時期や作家、作品などが多くあり、必然的にそれらの記録は欠けたままとなっています。

 これに気づいたため、自分の研究を60年代の少女マンガ雑誌に基づかせようと決めました。当時の少女マンガは週刊誌によって形成されたため、 研究対象として一番人気の少女雑誌で1963年に創刊された『週刊マーガレット』と姉妹雑誌の『別冊マーガレット』を選びました。しかし、そこで新たな困難が待っていました。マンガ雑誌は昔から捨てられるものだったため、雑誌の多くが消えてしまい、子供の一時的な娯楽として長い間図書館で保存しようとされませんでした。その結果、現在、昔のマンガ雑誌が全部揃っている施設は存在しません。

  しかし、近年、マンガの文化的価値が認識され、資料の保存が重視されてきたため、マンガを多く保存する施設がいくつか立ち上げられています。加えて、文化庁がメディア芸術、つまりマンガ、アニメ、ゲームなどの長期保存に向けてデジタルアーカイブ事業というプロジェクトを始めました。簡単に言えば、マンガなどのデジタル保存のことです。デジタル化を通して資料の劣化を防ぐことができるようになり、アナログ資料ではあり得ない新しい使い方も可能になります。例えば、デジタルでしたら、地理的な制約がなく、たとえ海外からでも資料にアクセスできます。しかし、この理想を現実とするためにはまだ著作権などの問題を解決しなければなりません。

 日本にある貴重なマンガ資料を有効に使えるために適切なデータベースも必要です。私が2013年に研究を始めたころ、マンガに関する情報を得るのは非常に困難でした。第一に、マンガ雑誌を保存する施設の共有データベースがなかったため、図書館を一つ一つ調査しなければなりませんでした。第二に、雑誌やマンガ作品の具体的なデータ、物語やテーマ、作家の作品リストなどのデータベースが存在しませんでした。ところで、現在、第一の問題が解決しました。以前述べた文化庁のメディア芸術デジタルアーカイブ事業において、いくつかのマンガ関連施設の共有データベースが作られ、2015年にメディア芸術データベースとして公開されました。このデータベースで マンガ雑誌や単行本などの書誌データが集まれており、 協力する施設にその資料の有無に関しても情報を提供しています。このデータベースはまだ開発中ですが、いつか完成したら、マンガ研究者や一般読者にも貴重な情報源になるはずです。

 メディア芸術データベースは、マンガ雑誌のコンテンツも収集し始めましたが、数が少ないため、使い道がまだ限られています。もちろん、私の研究に必要な雑誌のデータもまだ記録されていません。そのため、私はこの数年の間 60年代の少女マンガを知るために『週刊マーガレット』の創刊の1963年から1970年にかけて出版された約400冊と姉妹雑誌の『別冊マーガレット』の約75冊のデータを取りました。調査を通して、60年代の少女マンガ市場が大きく変わったことが分かりました。これからこの変化を紹介したいと思います。

 少年向け雑誌と同じように、戦後の少女向け雑誌はまだマンガ雑誌とは言えませんでした。 例えば、50年代前半においては『少女ブック』という少女月刊誌でマンガの割合が10%しかありません。この時ではマンガより小説や絵物語が誌面のメインでした。しかし、50年代の間に娯楽メディアが段々ビジュアル化し、子供向け雑誌ではマンガが主役になってきました。この流れの延長線で1963年に『少女ブック』の跡継ぎとして創刊された総合雑誌の『週刊マーガレット』でもマンガの割合がどんどん増えていき、最初の33%から1970年には75-80%まで至っています。作品数や作品のページ数も増えていき、60年代末には現在知られている「マンガ雑誌」が誕生しました。

 掲載作品数が増えるにしたがって新たなマンガ家が必要になりました。60年代のもう一つの大きな変化はマンガ家のジェンダーと世代の交代でした。50年代の少女マンガ家はまだほとんど男性でした。手塚治虫の『リボンの騎士』が一番多く知られていますが、『仮面ライダー』などで知られる石ノ森章太郎や 『おそ松くん』の赤塚不二夫も少女マンガを描いています。そして50年代後半に最初の女性作家が登場しました。例えば、手塚治虫に衝撃を受けマンガ家になった水野英子や、貸本マンガでデビューしたわたなべまさこや、リカちゃん人形のデザイナーとして知られる牧美也子などです。彼女らは60年代の間も作品を発表し続け、少女マンガのベテランとして活躍しました。水野英子は ハリウッド系のラブコメディーを描いたあと60年後半にアメリカの社会問題についてのマンガを発表しました。家族や双子もので知られたわたなべまさこのマンガは心理的重みを獲得し、88歳の今でも大人女性向け作品を発表し続けています。牧美也子は 60年代前半に『銀河鉄道999』などで知られる旦那さん、松本零士と共作の少女マンガも発表しました。

 60年代の少女雑誌ではすでに意図的に女性作家を募集し、次々と非常に若い女の子をデビューさせました。また、新しい作家の一部が貸本少女マンガから移動しました。例えば、 アメリカンラブコメディーでブレイクし、テレビドラマにされた『奥様は18歳』の本村三四子や、『アタックNo.1』で大人気のスポーツ少女マンガを描いていた浦野千賀子や『ベルサイユのばら』の池田理代子も60年代後半にこのようにマーガレット系雑誌で活躍し始めました。京都造形芸術大学に務めた志賀公江は同人誌でデビューし、その後『週刊マーガレット』で活発な、強い女の子についてのマンガを描きました。60年代に影響力が強かった西谷祥子も同人誌出身であり、 彼女の装飾的な絵柄や日本の学園を舞台にしたロマンスを描くことが、多くの若い作家の願望でした。

 しかし、60年代にマンガ家募集の一番重要な方法はマンガスクールでした。『週刊マーガレット』の姉妹雑誌、『別冊マーガレット』がスタートさせた(現在も続けられている)、将来のマンガ家を育てる「別マ少女マンガスクール」がすぐ成功し、他の少女雑誌にも導入されました。美しい絵柄で知られる高橋京子や、楽しいラブコメ、 その中でもテレビドラマ化された『美人はいかが?』を発表した忠津陽子や、現在もなお続いている『ガラスの仮面』で知られた美内すずえなど、60年代や70年代の重要な作家がここでデビューしました。

 60年代の少女マンガに新しい若い作家たちも重要でしたが、当時のメディア環境もマンガのテーマと相互関係にありました。例えば、60年代前半に少女マンガがお姫様に注目した時、他の記事では 日本の皇室や 外国のお嬢様(例えば、最近まで日本での米国大使と務めたキャロライン・ケネディ)について書かれました。時代の変化とともに 記事がファッションやアイドルに移り、この傾向がマンガ作品でも反映されました。しかし、反映されたのは楽しいことだけではありません。アフリカやベトナムでの戦争について複数の記事が書かれ、そして 強い反戦メッセージを持って複数の少女マンガが発表されました。同じく、当時行われた悲しい集団水難事件や 飛行機ハイジャックについてもマンガが描かれ、少女マンガは社会の移り変わりに敏感なジャンルとなっていたのです。

  少女マンガは現在も多様ですが、近年、イメージが極めて狭くなり、恋愛ものだけのジャンルと思われるようになってきました。多様なテーマを表現できるジャンルであると伝えるためにも、少女マンガの歴史的多様性を再確認する必要があります。もちろん、私の研究の第一目的は少女マンガの系譜の整理と今まで忘れられてきた重要な歴史的なマンガ資料の記録ですが、この時代の少女マンガを現在のマンガ読者にも紹介してゆきたいです。『週刊マーガレット』の調査を終えても、これはまだ第一歩にしか過ぎません。目的を果たすまで、特に再紹介に関しての課題がまだ多いです。将来はこの目的に向けて頑張りたいと思います。ご清聴ありがとうございました。


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