会員卓話 臼井龍介 石津祥治

2017、12.7

「母の背中」

臼井龍介

皆さんこんにちは。今日は時間をいただきましてありがとうございます。まず始めに昨日、ええとこ連れてってもらいまして、どうしても今日のスピーチがあるので早く帰らせてくれとお願いしていましたが最後までかまっていました。で、考えることなく卓話に臨まないといけないのかということで、今日は大変不安です。2ヶ月ほど前に藤森プログラム委員長より12月の最初に話をしてくれと言われた時に予備で書いたものがあるのでそれを読ませていただきます。プログラム委員長はきっちり、かっちりした人でいろいろメンバースピーチの構成マニュアルというのがありまして、一応それに沿ってお話させていただきたいと思います。

まず、私的な面ということで

この職に就いたきっかけはなんですか。

私は小さい頃から親の職業は何をしていたかというのは実のところあまり知りませんでした。今考えると小中高校になっても多分知らなかったんじゃないかなと思います。そうですけども、何かおかしいんですけども、親の会社に行くのかなというのは何となくぼんやりですけれど、まあ考えていたように思います。それで、私、学校の方はよくさぼる方で、大学の就職ゼミで進路相談がありました。案内プリントが家に来てました。まん悪く、親に見つけられ「わし行く」と言われました。学校行事なんて一回も来た事がないと思います。小学校の運動会からずっと来たことがないのに何を思ったのか、これはわしが行かねばと言われ、やばいと思いました。大学はほとんど行ってませんでしたので絶対怒られるわ、それでも仕方がないから一緒に行きました。そしたらゼミの先生と親子が座って僕の成績収得単位を見て、こんな単位を取ってない人は初めて見ましたと言われてドキドキ。これ卒業できるかな、みたいな話をずっとしていたのを覚えています。それでその時にこの人はもうちょっと最後まで授業に出ないといけませんね。ちょっと就職活動はできませんね。その先生が私の助手をやれと言う話をされていました。うちのお父さんが「いや、先生に迷惑かけられない」とそんな話をしていたので、もしかして、僕、もてるのかなと思って、ちょっと勘違いしていたことがあります。まあ、そういういきさつはありましたけども、まあ、当然帰ったらお父さん激怒したはりました。お母さんはビビッて、ちゃんと卒業できるのやろうとか言って泣きそうでした。が、これはちゃんと継続的にされているものだからちゃんと卒業できますということで何とか無事に卒業させていただきました。

 日常の業務、日々の仕事と生活ですが私の日常の業務というのは朝7時ぐらいには会社に行きます。また、誰も来ていないので、その時に自分のやらないといけない仕事(これは電話がかかってくるとちょっと仕事が進まないので)朝早いうちに片付けます。社員の人が来る頃は社員を捕まえて文句を言うてるだけなんで結構会社はでは嫌われています。わりと寄り合いとか、何とかの会に出ないといけないので週に2、3回あって、懇親会もあるのでだいたいそれに出て、帰宅するとうちの娘には酒臭いと怒られてます。

 この職業でよかったこと。前回、私の職業でお話しておりましたけどもうちの実家は中京の二条で旅館をしておりましてお母さん、おばあちゃんが旅館の仕事をしてはったんです。そのため僕をわりかしほったらかしで、1人でいてました。で、なかなか寂しいもんで、お母さん、おばあさんのそばにへばりついて旅館の邪魔をしているのか、手伝っているのかわからない。よく張り付いていました。お客さんの方からは、昔はよう、お菓子屋さんとか、おもちゃ屋さんとか、まあいろんな方が出張なんでしょうか、来られてたんで僕はよう女の子に間違えられて、かわいいな、なんてお人形をいただいたり、お菓子をいただいたりしていました。そのお人形をわりと一緒に寝ていました。今でもいとこからお人形にも名前がついていたらしくてぽっぽちゃんと言いますが、ポッポちゃん元気かと今でも冷やかされます。そんな中でお客さんがうちの母とかおばあさんの方にまた来月来ますしとか言ってくれたりします。それは母、おばあちゃんがお客さんに行き届いたおもてなしをしている。子供心にそういった母の背中を無意識に見ながら育ってきました。気づかいのご愁眉というか、褒められる、喜ばれるというようなことを傍にいてて、身についたような気がします。褒められたり喜ばれたりすると嬉しいものでもっと褒められるようなことをしたいなというのが根底にあって、仕事をしているのかなと思います。この職業でよかったというよりも働くことというか、何かすることによって人に褒められるとか、褒められるというのはとても嬉しいことだな。それを生きがいに仕事をしています。だからどの仕事がどうということでは僕の中ではありませんし、まあ、今の仕事をやっていましてお客さんに怒られることは当然あります。でも一度失敗したことは同じような轍は踏まないように日々頑張っているつもりです。

この仕事で嫌だったことは見当たりません。今後の目標や夢は今51歳です。あと何年働くかわかりませんが60までというとあと10年ぐらいあります。今やっている仕事の形を3年そこそこでもうちょっと整えて、10年後ぐらいにまでには自分の目標としているところに到達したいなと思っています。それに合わせて社員のかたも20歳から60歳まで勤めていただけるとしたら、40年あるわけで、私は少なくとも10年はいますので、その間に今20歳代の社員を2、3人育てて次の世代にバトンタッチできたらと思っています。

この業界は、今は自動運転が世界的に動き出して来ています。路線バスや貨物運送、高速での利用方法など様々これから変化していくと思います。その中で交通行政、死者数の減少、環境汚染の問題、整備不良の問題を預かっています。そういう部門の社会的責任を果たすように頑張らなくてはと思っていますし、その辺のところを考えながら、気づかいながら人のためになるような提案をして行こうと思っております。ありがとうございました。

「私のスタイル」

石津 祥治

皆さんこんにちは。皆さんの貴重な時間をいただきましてありがとうございます。私、この鳳凰ロータリーに入らしてもらった時には不動産管理という職種でした。確かに不動産管理はしているんですけども私は宅建の免許もなく、ただ自社の管理をしているだけです。なんか気の悪い感じがいたしまして、会長に変えられるか?日頃やっている農業にできますか?出来るでという話ですので、では農業に変えてください。で、私日頃やっている農業という職種で札に書いております。農業は何をしているかというとまあ、確かにろくな仕事もあまりできてないんです、実は。蒔くだけは蒔くんです。トラクターで畝を立てて種を買うて蒔くだけは蒔くんですけども、そのあとがちょっと問題なんですね。ありがたいことに私の奥さんと2人で農業をしとるんですけども、2人にしては多いんですよ。できないんです、多すぎて。それで何とか今年も雨が多い中、何とか早い目に蒔いた場所がありまして、大根と今大きなっているのはネギと、で、そろそろ早くしないとあかんなというのが水菜ですね。それが今大きくなっています。あと花菜がちょっとあります。これを2人でやるというのはなかなか苦痛でございまして、全量を裁くということは今までしたことないです。こっちにちょろちょろ、あっちにちょろちょろとやって、結局、半分以上3分の1ぐらいしかできてない状態でなんです。そんなんでいいのかという感じなんですけども、私のスタイルはこういう感じなんです。で、機械代とかに農業は高くつくんで、やはり機械がないと今の農業はできません。ですから3分の1しか収穫をしていないところで、その機械を農機具屋さんに勧められたりとか、またオークションで買うんですけども、それを買うたりするとまたその間に取りに行かなあかんとか、オークション したらやりとりをやらないかんとか、その間仕事ができません。私は仕事よりもそういうやりとりが好きなんです。毎日楽しんでやらしてもろてるわけでございます。で、農業をもっとしっかりせいうことなんですけども、私、実は資料としてお配りさしていただきました大阪ブルーリボンの会というこのリーフレットなんですけども、私、これに入っておりまして、そこで理事をさしていただいております。私はまだここに入らしてもらって4.5年ぐらいですかね、まだ歴史は全然ないんですがお前ちょっと理事してくれへんかっみたいなことを頼まれました。私実はご存知のように断ることができないという性格なんです。はい!わかりましたいうようなことで、で、こういう運動をやっているんです。今日はこの鳳凰ロータリーで卓話さしてもらうのにええのかなと思いながらも、これは政治的な問題ではないと私らの大阪 ブルーリボンでは唱えておりますので、まあ、問題ないかなと。実は今年のワイン例会をサボらせていただきまして私は11月の15日から新潟の方に行っていました。それはなんでかというと横田めぐみさん、中学一年生のときに拉致された。皆さんご存知だと思います。それで、それが11月の15日なんです。その日に向こうで救う会みたいなものがありまして、そこが大きく大会をするということで、また横田めぐみさんが拉致されて40年になります。このリーフレットを見ていただきますとめぐみさんの 写真ですね。これはものすごく暗い感じのめぐみさんが写っていますけども、実はこの時は中学校一年生の4月の入学式やったんです。なぜこんな暗い顔をしているかと言いますと風疹にかかられたんです。お父さんが結構写真が好きで、横田滋さんが、それでずっと子供の頃からお撮りになられていて、で入学式に出席できないということで、風疹の病上がりで、いやいやいやいやと言うてるのに無理やりお父さんが連れ出して校門の前で、桜の前で撮したということです。

ネクタイもバッチもすべて新品の状態のときの写真です。その4月に入学されて、そして11月の15日の夜の6時~6時半のその間に北朝鮮に連れ去られた、拉致されたということです。その現場を見に行こうということで40年前の現場を見に行ったんです。まあ普通の住宅街でありまして、で、中学校から自宅まではだいたい500m ぐらいでしょうか。そこからまだ奥の方に海岸があるんです。その海岸から連れ去られたということになっています。可愛らしい可愛らしくて、写真は暗い感じのイメージがあるんですけど、実際は違うんです。書道がすごく上手いんです。お母さんの早紀江さんはもともと書道の先生でこういう拉致の問題がなかったら私は書道の先生をしていただろうということをおっしゃっていました。賢い、できた、ハキハキとしたお子さんみたいだったんです。私はその11月15日の時に新潟へ行かしてもらって、その大会の時にめぐみさんの同級生と会いました。もう53才です。同級生の仲間で拉致問題の話し合いをやっているそうです。その話し合いで意見が分かれるそうです。実際は新潟に来られたのは小学校6年の2学期なんです。結局、新潟には1年ぐらいしかおられなかったんですがこの同級生はもっと長くいてたような感覚があるということを言っていました。5年生の時に引っ越しされて来たのではないかとおっしゃっていましたけどもね。でも実際は違うんですね。ですからそれほどにものすごくフレンドリーな賢いめぐみさんだったということです。

15日、学校からの帰り道、6時といえば真っ暗です。バス通りでは車が走っていますが大きな道からちょっと横へ入るともう全く人がいない。そこで多分さらわれたのではないかという現場に行ってきました。15年前に小泉内閣の時に5名の拉致被害者が北朝鮮から戻ってこられました。その中に志村さん、蓮池さん、一番後ろに1人でお帰りになられた曽我ひとみさん。この人とは前回の時にお話を聞かせていただきました。めぐみさんより1年後、曽我さん、地村さん、他の4人の方は1978年の1年後にさらわれています。

 ひとみさんは無口な方です。向こうでは24年間、日本語をしゃべるなと教育されていました。で、ひとみさん曰く、24年間あまり日本語をしゃべるな、必要な時はいいけれど、話はしてもいいけれどということでほとんど日本語でしゃべれなかったんですね。でも日本語を聴くこともできて、読むこともできて、書くこともできるんですがやはり24年間というのは長い年月でありまして、しゃべることができなかったということでした。で、記者会見のときに何か言ってくれということでしたが日本語をしゃべれない、話せないということです。今、もし横田めぐみさんが40年目、40年過ぎて日本へお帰りになったらおそらく日本語は多分忘れたはるのと違うかなと思います。ぶつ切りの話ばかりで申しわけなかったですけれど時間となりました。ありがとうございました。

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