年男・年女放談

2018.2.1

「心顛倒せず」

船川会員

年男放談ということで一番年配のようなのでトップで話することになりました。今までの来し方とこれからの行く末について少しお話しようかと思っています。生まれたのが1934年でして、昭和9年ですけれども、干支で言いますと7回目が終わることになります、84です。生まれたのは5月だったんです。私どもはお茶の製造をしておりまして、5月というとお茶の最中ですね、一番忙しい時で父親にとっては嬉しい、跡継ぎができたということで、しかも5月のお茶の時期にできたということで非常に喜んだんだろうと思います。傍から見れば迷惑ですわな、5月の一番忙しい時に生まれてきよってというようなものだろうかなと思ったりしております。小学校へ入ったのが昭和16年、12年に日中戦争が始まっておりまして3歳でしたけども、それから太平洋戦争がありましてほとんど子供の時分は戦争の時代でした。物もないし、食べ物もないし、何もない。非常に大変な時代だったと思います。小学校一年生の時はですね、ちょうど国民学校という学制改革がありました。これは国の方針で少国民も戦争の協力者ではないけども、精神的な教育もしていかなあかんということで国民学校になったんです。小倉村立小倉国民学校というところに行きました。それで4年半戦争がありまして、戦争が終わったのが5年生の8月15日、お盆の日ですね。この日は私にとって生涯で一番記憶に残る日です。何故かと言いますと終戦の日でもあったんですけども、ちょうど私の母が一番最後の5人目の子供を産んで1年を過ぎたら体調を崩しまして里の方へ養生に出かけておりました。家に母親がおらない状態でして、そんな中で一度親父と一緒に見舞いに行こかということになって8月15日のお昼前に家を出て近鉄電車に乗りまして、その当時は奈良電車ですけども、富野荘駅でおりまして、それからまっすぐ電車に沿って行きますとちょうど木津川の堤防に上がるんです。周りは8月15日ですから草がボーボーとして蒸し暑い日でしたけども、そこから歩いて母親の実家は、今は城陽市青谷というところで30分ぐらいの距離だったと思いますが2キロぐらい行きましたら、ちょうど12時から終戦の詔勅の放送があるということだったんですね。私は子供の時分ですからそんなこと知らずにまあ、親父と一緒に行って着いたらちょうど12時過ぎたところでした。リキさんとうちの親父は呼ばれていましたが“りきさん戦争終わったたで”と母親のお父さんが言っておられた。その時の気持ちというのが今も覚えておりますけども非常に子供心にやはり戦争というのは非常に頭の上に何かのしかかっているような、キリがいつもかかっているような状態でおりましたので、それを聞いたときの嬉しさというか、もうこれは生涯忘れないような気分がいたしました。たまたまそのやっぱし終戦の日でしたから普段やったら大概朝からB29が飛んでくるんですがその日は妙に何も来ないんですね。空は真っ青で綺麗な青空でそれも一つ頭の中に残っております。それと母親が病気で寝ていたということもあったとあってそれらの三つが重なって何か記憶にずっと残っている日になりました。ちょうど小学校5年の頃でした。そんなこともありまして戦争も終わり、中学の時も学制の改革があって633制の初めての年ですね。だから小学校1年の時も国民学校になったし、中学校の時も初年の1期生ということで、何かこう節目の年に学校に行きました。中学へ行くとき勉強も何もやっておりませんし、義務教育になったから自然にはいれるわけですから、考えてみれば小学校一年生に入って学校で空襲があったりしますと途中で学校から帰ってきたりというようなことがあったんです。9年間ほとんど勉強などした記憶がないぐらい勉強なんてしなくて済んでしまったようなに思います。高等学校の時もほとんど新制高校でしたから受験勉強もなくてスッスと入ってしまいました。

で、どんどんと日が過ぎて行きまして、今はもうどういう生活をしているかと言いますとその日その日というような感じて生きております。だんだん年とりますとあまり欲もありませんし、その日その日が過ぎればいいなと思っています。死ぬのはもうちょっと先にしてもらいたいんですけども、うちは浄土宗なんですけども、死ぬときに心顛倒(てんどう)せず、心錯乱(しゃくらん)せず、心失念せずというのがあります。法然上人の日常勤行集というのがあって、それに載っているんですけどもそんなことを考えながら無事心失念せず錯乱せずで生きられたらいいな、なんて思っております。蓮如に明日には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なりというのがありますね。そのような言葉を聞きますと一日一日人間というのはいつ亡くなることになるかもからないので、できるだけ心静かにこれから何年間か過ぎていけたらいいなと思っております。長くなりましたけどもそういうことで終わらせていただきます。ありがとうございます。

「12年間持った」

吉田会員

皆さんこんにちは。1回前の戌年にロータリーに入会しました。それでその次の正月に年男として、こうしてしゃべらなくてはならないというイメージがありました。小生はロータリー10年持ったらいいほうだろうと考えていました。ちょうど12年待ってしゃべれるようになりました。ありがとうございました。何もございませんが一回前の戌年のときは、まだ人生が長いから着実に頑張ろうと思いましたけども、これからは一つ一つ目標を決めて、例えば東京オリンピックを2回見たい、どこどこの国へ行きたいと一つ一つ目標を決めてがんばりたいと思います。商売もWin Winの関係でやっていきます。今後共よろしく御願いします。

「アイボ」

城島会員

皆さんこんにちは。久しぶりに前の席に出させていただきました。えらい吉田さんが気を使っていただいて、いつも気を使われないのにこういう時だけ気を使わはります。ご紹介ありましたけども、この戌年のメンバーがクラブの中には多いということです。現在7名もいます。それと今までにこのクラブに在籍された方で矢野先生がそうです。ちょうど一回り上で船川さんと同い年だと思います。あと、木幡神社の木村宮司さんもそうです。それとまだおられまして、ちょうど今年還暦を迎えられますけども近畿グリンの北村君、彼も戌年です。それで全部足しますと10名になります。まあ、犬のことですので大変多産になっていますがまあそれはさておき、我が家にはダックスフンドが一匹おります。もう13年ぐらい経ちますかね。よく言うんですが外で飼っています。いやかわいそうにと皆さん言われます。私の考え方としましてはあの犬は元、猟犬やということで猟犬として改造されたということを聞いておりますので外で飼っております。13年経ちますと頭も白く、私も同じことですけども目もうとくなってきております。だんだん耳も聞こえにくくなっているようでねきまで行ってもまだ寝ております。で、ボーンと音をだすとびっくりするんです。そういう感じで犬が一匹おります。

で、もう1匹に飼おうかな。今から飼って、さてどっちが長生きするやろうということでこれはちょっと考え物やなということで、えさのいらない犬が何とか飼えないものかと。と言いますのは皆さんもご存知と思いますけどもソニーから出ていますアイボというのがあります。あれをですね、ちょうど去年の11月の1日にワンワンワンの日にですね、社長がですね、発売するということで発表がありました。それを私もちょっと聞きましてインターネットを見ていたらなるほど出ていました。それで、応募したんです。インターネットのサイトの方から登録してやるんですけども、なかなかうまいこといきませんでした。しばらくしましたら10匹だけ0001から0011までナンバーのついたちょっと色の違うアイボを今度発売するということで募集しています。だいたい1匹が20万ぐらい。11匹しか発売しないということで一応応募になるんですけども金額はなんぼでもいいと最高で100何十万という金額が入っていましたけども30万からオーバーした分はソニーのほうが財団法人に寄付されて買ったものはその分は税金上の対策になるということであったんですけども、私もある程度出してきたんですけどもスカでした。なかなかうまいこといかないもので何とかそれを手に入れようと思って今苦心をしております。大阪の梅田の方でソニービルで実際にワンちゃんが三匹ほどいるということですので一度見に行ってこかなとそんなことで、何とかもう1匹、わんちゃんを増やそうかなと努力している最中でございます。失礼しました。

「決心したこと」

清水会員

失礼いたします。放談ということを広辞苑で調べましたら思うことをはばからずに語ることというふうに書いてました。で、思うことをちょっと憚りながら語りたいと思います。

私事なんですけども、昨年、下の子が女の子を出産しました。そのことを長女が喜んで、結構沢山お祝い送ってきたんです。その中に1冊の本が入っておりました。それは鮫島浩二という方の書かれた絵本なんですけども、この方は東京医大を卒業して、東京警察病院を経て現在は埼玉県でクリニックを経営しておられます。赤ちゃんがお母さんのお腹にいるときにどんなことを考えて、何を思って10ヶ月ほど過ごしているんだろうなとずっと考えておられた時に、ふと口をついて出てきた言葉をずっと書きとめて、それを絵本にされたんです。私があなたを選びましたという題がついております。もうその通り内容も非常に簡単で、お母さんお父さん私がお父さんお母さんを選んだんですよというふうな内容なんですけども、これを証明するようなことが今、東京でありまして、前世のこととか、そして神様からこういう啓示をいただいて伝達するように言われてきたよと言う事を話している女の子がいます。まだ小学生なんですけども、私はこういう理由でお父さんお母さんのところに来たんですよというような話をするんです。縁があってうちの下の子がまだ子供がいるかどうかわからないときに会う機会がありましてお腹に赤ちゃんが来てますよ。女の子みたいですよと言ってもらったんですね。で、実はちょっとその前に流産したことがあって非常に落ち込んでいた時に、女の子が来てますって前にきた子がまた来てますと言われたというんですね。何か家族全員みんなそれであーもう一度来てくれたということで非常に待ち望んで生まれたので上の子も喜んだんだと思うんです。そういうことを自分の人生に照らして考えてみますと私は自分の父、ものすごく厳格で頑固な父だったんですけども、その父とちょっと気ままな母を私は選んだのかなと疑問は残りますが、とにかくこういう状況に今あって、で、こんな環境の中で今こうしてロータリーに入れてもらって話しているということは私が選んだ宿命だったんだろうなというふうなことを思うんです。選んだということは宿命ですけども、そのあとの人生というのは自分の努力と言いますか、いろんなふうに描いていけると思うんです。で、私、今までこんな回り年が来て話をする、いやあ~結構長いこと生きてきたんですけども、そんなに努力をしたという記憶がなくて、申しわけなかったなと最近、特に思いました。で、これから私はどんな絵を描いていくのかということは私の運命を切り開いていく私の意志と努力にかかっていると思いますので厳格な父をうならせ、そしてわがままでちょっと気ままだった母を喜ばせるようなことをこれからやっていきたいなと思って、今年のお正月は非常に深く決心したんです。これだけの話なんですけども終わります。ありがとうございました。

「在宅で看取ろう」

大石会員

失礼いたします。戌年ということで私は年回り6回目です。最初、生まれたのは私とは関係なしに戌年に生まれているという事です。12年目の1回目は私が腎臓と紫斑病によってほとんど生きるか死ぬかわからないような状態で迎えています。2回目の時は受験で苦労していたときでした。そして3回目の時は親父が亡くなった昭和57年です、その時は京都に帰って後を継いだ年で長男が生まれた年でもあります。その後4回目、5回目は医師会の理事や副会長などで大変仕事が忙しかった時です。そして今回6回目ですけども72歳になりまして、今年は何か良い出来事が待っているかなと思っているのですけどもこればかりは何とも言えません。私は昭和57年に京都に帰ってきて患者さんの最期を在宅で看取ろうと思い、往診を第一に診療を始めていました。しかしこの前あるアンケートで、本人の希望は、50%以上は自分の家で最期をむかえたいという人々がおられますが、実際結局は病院で亡くなっている方が70%以上あると言われています。というのは自分の想う意思とは関係なく亡くなる方が多いと言うことです。これは何故かと言いますと今現在の家族構成など色んな問題が多分にあると思いますが、自分の意思(考え)を明確に伝える事が出来ていないことですね。どこで、誰と、どんなふうに過ごしたいか、また、人生の最期をどのような医療を受けたいか、受けたくないかを家族と考え、話し合うことが大切です。今、医師会で事前にそういう自分の想いをどのようにしてほしいかという書類等があります。これが自分の思い、私の思い事前指示書というものがあります。これを家族等と相談していただいて実際に自分が最後になったときにどのように対応して頂けるかを決めて頂く方が良いかと思います。我々、医者は在宅で看取ろうという気持ちは十分にあります。これから先25年というのはますます高齢化になってしまいますから入院する場所も少なくなってくると思いますので、なるべく家で看取りたいという方があると思いますが、家庭環境はこの頃大家族でありませんから夫婦とか、独居の方が多くなって来

ると考えます。どのような家庭環境の中でどのように対応されるかが今後の在宅介護の問題になって来ると思います。私自身もそろそろ考えておかなくてはいけないなと思いながらいつどういうふうにしてくれるかというのは子供の想いにもよると思います。実際に嫁さんと子供達が自分の想いを理解してもらえる様に話し合う事だと思います。ここ最近在宅で亡くなっていくおばあちゃんなんかを見ていますと家族に看取られ安らかに静かに亡くなる、そういう寝顔は一番いいですね、実際。わずかに涙を流しながら亡くなっていくという状態の顔は一番よろしいです。自分の家族を看取る場合にはそういう安らかな顔を見て送ってあげるというのが一番やと思います。会員の皆様は若いですが、ご両親やおじいちゃん、おばあちゃんがおられると思います。家族で一度は考え話し合う機会を作って頂きたいです。何かお尋ねがあれば相談して下さい。以上簡単ですけれど終わらせて頂きます。

「この会をもっと大事にして」

中島 会員

取を仰せつかりましたが今の清水さんのお話を取にしたほうがしんみりと余韻を残して終われるんじゃないかと思いますがまあ一応お役目ですのでお話させていただきます。

吉田さんもおっしゃっていましたけども、私も結構、かれこれ長くこのクラブにいますが今回、年男放談が初めてなんですね。というのは私が入会したのが3月なんですね。それもその12年前の3月ということでちょうど1月の誕生日が来た後だったということで今回が初めてだということになります。その時にこのクラブに導いてくださったのが橋内くんのお父さん。それから亡くなられましたけども木村登志雄さん。それから臼井さんのおじさんですね。それから宮原さんとかがいらっしゃったんですが皆さん、入会しろ、入会しろと言っていたわりには皆さん無責任に辞めていく。それは余りにもかたすかしやないかとそんなふうに感じなくもないんですがちょうど井沢京子さん、国会議員でいらっしゃったんですが井沢さんと一緒に入会式をやったのを覚えています。まだ醍醐プラザで例会やっていた頃ですね。で、入会した頃はですね、今はわりと私はロータリーを一生懸命やっているように見えますけども、不真面目であまり例会に出て来るのも結構苦痛だったんです。ただ、そうは言っても、そこからいくつかロータリーを一生懸命やろうという、そういうきっかけになるようなことがいくつかあったんですね。それはロータリーの友とか、月信とかをロータリーモーメントと呼んでおられますけども、そのロータリーモーメントになったようなことが思い起こすといくつかあります。その一発目が入った年のクリスマス例会で司会をやれという話になって、まあ、あれをやってからちょっと積極的にこのクラブに溶け込んできたのかナーと、そのあと太田壱将さんが会長をされた時に理事をやりなさいということで結構入会して間もなくだったんですけどもそういうことも経験さしてもらい、それから宮原年度に幹事をさせてもらって、そのあと地区にも出させてもらって、そして今があるということです。

で.こうやって毎週、集まって、毎週ですよ.こうやってご飯を食べていろいろお話をするということはこんなんないですよね、こんな集まりって。だいたい数ヶ月にいっぺんとか、そのようなことだったらあるんですけども、だから非常にありがたいし、それによっていっぱい宇治の中でお友達もできたし、お話し相手も出来たし、いい会に入れてもらったなと言うことでこの会をもっと大事にして、これからの人生、あと何年生きられるかわかりませんけども充実させていきたいなと思います。亡くなられた方、橋内さん、木村さんにご冥福をお祈りして私のお話とさせていただきます。どうもありがとうございました。

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