農業土木の仕事に携わって42年

【宇治鳳凰ロータリークラブ例会・講演要旨】  H30.11.1


     平成30年11月1日   古川和吉

 先程、林さんより紹介頂きました古川です。よろしくお願いします。本日は、宇治鳳凰ロータリークラブ例会にお招き預頂き有難うございます。また、私の拙い経験談をお聞き頂けると言うことで大変恐縮しております。

 さて、私は、昭和19年に旧田辺町生まれ、地元の小、中学を経て城南高校に進み、京大農学部の農業工学科に入り、農業土木技術を学びました。そして、昭和43年4月農林省に国家公務員上級職の職員として入省し、以来、農林省他関係機関で農業土木技術者とし土地改良事業の実施に務めて参りました。

 土地改良事業とは、農業のためのダム、堰、用排水機場、用排水路、ため池等の農業水利施設を造成する仕事です。このほか、開墾、干拓、埋め立て、圃場整備、農道整備、集落排水などの事業を行います。これらの事業は、規模によって国営、都道府県営、市町村他団体営事業に分かれます。例えば、農業水利事業では、受益地が3000ha以上は国営事業で、200ヘクタール以上は県営事業で、20ヘクタール以上は団体営事業として実施します。 1、国営母畑開拓建設事業所: 

 昭和43年5月に農林省での最初の職場、東北農政局の国営母畑開拓建設事業所に着任しました。事業所は福島県石川町と言う山間部にあます。この事業は、福島県の阿武隈山地に、1000haの畑地と72haの水田を新たに造成し、これらの農地に灌漑する千五沢ダム、堰、揚水機場 、パイプラインを建設する事業です。当時の総事業費は130億円で工期は10年とされていました。初年度の予算は、10億円です。この事業所は、発足したばかりで、年度前半は、事務所、職員宿舎、独身寮の建設がなされ、年度後半は、ダムで水没する県道の付替工事と工事用道路の建設が始まりました。私は、道路測量、河川測量や道路工事の補助監督員を担当しました。次の年度は、いよいよダム本体の設計、積算、施工が始まりました。ダムの建設費は、一期工事として、8億3千万円です。国内でダムの貯水効率が1,2位を争う効率的なダムで貯水量は1200万トンと規模の大きいダムです。私は、ダムの放流施設の設計積算を任されました。3年目に入り、ダムの基礎工事が終わり、盛土工事と放流設備の工事が始まりました。ダムの完成まで見届けたかったのですが道半ばで所長より、9月から、本省の開発課の係員に転勤だとの内示がありました。事業所のあった、石川町は、ラジウム温泉で有名な母畑温泉が有り、私が家を離れ初めて住んだ町で、職場の皆さんと和気藹藹で仕事をした思い出の多い第2の故郷となりました。

2.本省開発課国営班係員: 昭和45年9月本省に赴任しました。私は、構造改善局建設部開発課開発第1班第2係の係員として配属されました。本省は、予算編成、全国の土地改良事業の推進と問題案件の処理、国会対策、マスコミ対応と年中緊張感のある日々が続きます。私の担当は。母畑開拓のような全国の国営農地開発40地区の予算編成と事業実施指導が主な仕事でした。私のような、本省の行政を知らない新人にとっては厳しい環境でした。特に、農林省は古い官庁で今だ、課長補佐を通称班長と呼ぶ習わしが残っています。この班長が、実質農林行政の要を担っていると言っても過言ではありません。権限も有り、威張っているので班長は本当に怖い存在でした。本省は予算に明け予算に暮れる1年です。この他、国会対応とマスコミ対策も大事な仕事で作業が深夜に及ぶことがザラでした。こうして、無我夢中の1年半が過ぎ、今度は、昭和47年4月に総理府に出向することとなりました。

3.総理府中央防災会議事務局係長:

 私の出向した部署は、総理府中央防災会議事務局業務第2係長と言うポストでした。入省5年目で初めての係長職です。この事務局は、寄り合い所帯で、建設省3人、総理府3人、運輸省、農林省、自治省、警察長から1人ずつの10人で構成されていました。中央防災会議と言う組織は、委員会、局員会議、主事会議の3段階の組織からなり、委員会は内閣総理大臣が議長を務め、委員は外務大臣除く各大臣で構成される大会議ですので、重要災害案件がある時だけしか開催されません。私の在任期間2年半で1度、大規模震災対策要綱の改正があった時だけでした。局員会議は、各省の担当局長の集まる会議で、大災害時の非常災害対策本部の設置や、政府調査団に派遣の決定などが行われます。主事会議は、各省の担当課長で構成され、局員会議の荒ごなしや激甚災害の指定に関する連絡調整などのため開催されます。ほとんどの災害案件は、主事会議の開催で済ますことが殆どでした。

 この他、事務局の主な仕事は、防災白書の作成、大災害時の激甚災害の政令指定、災害対策衆参特別委員会への対応、災害対策に関する各省との総合調整などがありました。激甚災害の指定については、皆さん時々耳にされていると思いますが、大災害の場合一般の災害復旧費の補助率の嵩上げ措置が講じられる制度です。一般公共施設の場合は、70から80%へ、農地農業用施設の場合は80~90へ嵩上げされほとんどが国費で災害復旧工事が行われます。今年の、西日本7月号や、北海道胆振東部地震に際しても激甚災害の指定がなされました。 また、大災害時には、昼夜、土日を問わず災害の被災状況の把握に務め、被害が大きくなれば政府は、非常災害対策本部を設置し政府調査団を派遣し被災状況を掌握の後、各省に被災救援対策を指示します。私は、農地農業用施設や農産物の被災状況の把握と、天災融資法の発動の情報把握に務めます。衆参の災害対策特別委員会は毎週開かれることとなり、質問取り、質問の割り振り、答弁書の作成、委員会での質疑応答の聴き取り、必要な措置の各省への連絡調整等があわただしく進められます。私の着任した47年7月には台風と豪雨による死者行方不明者4百数十人に及ぶ大災害が発生し、事務局はてんやわんやの状態でした。この他にも、大阪ガス爆発、徳島コンビナートの火災、冬の48豪雪、次の夏の大干ばつ、桜島噴火災害とたて続きに大災害が発生し、その対応で激動の2年間を過ごしました。大変貴重な経験をさせてもらったと感謝しています。

4.本省建設部開発課開発第2班第1係長:

 昭和49年10月、再び本省に戻り、再び開発課に配属されました。私の担当は、開発第2班第1係長と言うポストで、各都道府県が実施する県営農地開発事業の予算編成、補助金の配布、事業実施指導、班の筆頭係長としてのまとめ役と言う仕事です。私の係で年間予算は、70億、そのほか2係、3係と合わせて班全体で約150億でした。県営事業は、全国で50地区実施されており特に北海道、東北、九州地方に多く実施されていました。当時、ミカンを始めとする果樹の生産過剰や担い手の減少、過疎化、高齢化の影響を受け事業が減退し、新規地区が減少しつつありました。このため、制度改正に取り組みました。採択基準60ha以上を40haに緩和する取り組みです。大蔵折衝は上々でしたが、土地改良関係の新規事項が多く、今年は断念してくれと言うことで次年度の実現を期待して引き下がりました。2つは、建売農場方式の新規事業制度要求です。通常の農地開発は農家自らが土地を調達し、その土地を開墾する事業制度ですが、この制度は、各県にある農地保有合理化法人が土地を確保し、その土地を開墾し最小限必要な果樹棚、防風林等を設置して農場を完成し、その後、この法人が各農家に長期低利融資で貸し付け、若しくは売却する制度です。農家は、土地確保の資金が要らず、借り受けてすぐに営農が始められるメリットがある制度です。厳しい大蔵折衝の上新規制度は無事創設出来ました。こうして2年半が過ぎ、中国四国農政局の技術事務所と言う所に転勤しました。

5.中国四国農政局技術事務所技術情報課長

 昭和52年4月岡山にある技術事務所に赴任しました。技術事務所は土地改良事業にかかわる技術センターの役割を担っています。私は、技術情報課長として配属されました。農林省入省後10年目の初めての課長ポストです。技術情報課は、管内の新技術、新工法や技術雑誌の参考文献の収集・蓄積、これら技術情報の検索システムの開発、技術情報提供等の業務を行う課です。この事務所に3年間務め、次は、中海干拓事務所への転勤となりました。

6.中海干拓事務所工事1課長、調査設計課長:

 昭和55年4月中海干拓事務所に赴任しました。中海干拓事務所は、松江市にあります。中国四国農政局管内の最大の事務所で、年間予算約40億円の事業を実施する所でした。中海干拓事業は、3つの事業目的をもって進められていました。1つは、中海に5工区、合計2500haの干拓を行い新しい農地を造成すること、2つは、宍道湖と中海を淡水化し新たな農業用水を開発すること、3つは、この新規農業用水を2500haの干拓地と宍道湖・中海の沿岸に展開する水田・畑あわせて15000haに灌漑することを目的とする事業でした。この事務所の工事1課長として配属されました。工事1課は、干拓堤防の造成、干拓地区内の道路・水路の整備を行う課です。私はこの課には1年しかいませんでしたが、淡水化事業を目前に控え、淡水湖締め切りラインとなる3か所の干拓堤防を締め切ることがこの年の最大の課題でした。色々の課題が残されていましたが何とか処理し年度末には3か所の堤防締切り工事を完成しました。

 次の年の4月には、事務所の技術関係の主管課である調査設計課長を命ぜられました。この課は、事務所の予算編成、関係機関(本省、農政局、島根県、鳥取県、関係12市町村、建設省、環境庁)との協議、連絡・調整、マスコミや国会対応、淡水化影響評価委員会のフォローと淡水化事業の推進、事務所内関係7課との連絡調整等を担う、大切な課です。私はその責任者として3年間この仕事に取り組みました。中でも、最も大変な仕事は、仲の悪い島根、鳥取両県の事業推進上の合意をまず取り付けることです。次に、淡水化の実施に向けて淡水化影響評価委員会の中間報告書を取り纏め、淡水化しても中海・宍道湖の水質は変わらないと言う研究成果を関係機関に説明し了解を取り付けることでした。これに対して淡水化すると両湖の水質は悪くなり環境悪化を招くとして淡水化に反対するマスコミ、両県の環境部局、宍道湖漁協、島根大学の学者に説明を繰り返し説得する仕事でした。昭和56年度は、淡水化の初期段階である中浦水門の試験運転を実施し、水門は淡水化の実施に際し全く問題が無いことが実証出来ました。57年度は、いよいよ淡水化の前段階である試行作業に入る予定でした。しかし、淡水化反対の世論が大きくなり、本省、農政局の指示を受け、強硬策を避けることになりました。58年度にかけて更に反対運動が大きくなりその対応に終始したところです。結局、淡水化の実施にはこぎつけられず大変無念な思いを残しこの事務所を去ることになりました。4月から本省に新設された管理技術班の班長としての転勤内示を所長より受けました。班長に成れるのだから所長は喜んでくれましたが、新設班で管理のかも知らない者に務まるのかとの不安のまま転勤でした。

7.農林水産省構造改善局建設部水利課管理技術班課長補佐

 昭和59年4月、入省して16年目で憧れの本省の班長ポストに配属されました。管理技術班は、土地改良施設の管理についての財政支援、技術指導の制度を充実強化することが仕事でした。土地改良事業は、農家、土地改良区の要請に基づき国、都道府県が事業の調査計画を実施し、農家、土地改良区の同意を得て事業が実施されるわけですが、土地改良事業完了後は、この事業によって造成された土地改良施設は、99%のが地元土地改良区の管理に委ねられます。管理の費用は全て土地改良区負担となっています。1%の施設は、国が自ら管理したり、県が管理したりする施設があり、これらは国、県と土地改良区の費用負担で管理されます。従って、管理の問題は、土地改良区が管理する施設に対する財政支援と、技術指導が大きな課題となっています。特に、国営造成施設は近年大規模化、高度化、システム化され、その操作管理に高度な技術と財政負担が伴います。これに対して、土地改良区の技術者は不足し、賦課金の増額も困難で技術的にも財政的にも管理が困難になって来ています。これでは適正な管理が期待出来なくなります。このような状況に鑑み、まず本省に管理に関する組織を作ろうとして設置されたのがわが班でした。4月に転勤した直後、上司から2つの使命を与えられました。まず1つは、この班を核として施設管理を充実強化するための室組織を作り上げること、2つは、国の施設の土地改良区管理に対する財政的、技術的援助の制度の突破口を開くことでした。室については、上司と関係各課の協力があり厳しい財政当局の抵抗にも関わらず施設管理室として設置が新年度に認められました。もう1つの新規制度ですが、土地改良区管理の管理体制を整えるための制度の創設です。即ち、国営事業完了前から地元土地改良区の管理体制強化のため、管理技術者の研修、養成、実施訓練を充実するための財政支援をする制度を創設することとなりました。管理費用は土地改良区が負担するものとの考えが強く、省内での合意形成に苦労し、大蔵省との折衝にも難渋し、夜討ち朝駆けで必要性を説明し、ようやっと国営造成施設管理体制整備促進事業と言う長い名前の制度を新年度に向けて創設することが出来ました。管理制度、組織の充実強化の第1歩が踏み出せた訳です。次の年度は、施設管理室が出来、室長ともう1班を加え2班9名体制となり少し組織は大きくなりました。この

年度は、国の直轄管理をする制度の拡充、国の施設を県が管理する場合の補助対象施設の拡充、土地改良施設の修繕事業の創設に取り組みました。直轄管理は、2県にまたがる施設との制約がありましたが、1県の中でも大きな河川の流域に点在する複数のダムや堰などの土地改良施設を統合的に管理する必要がある場合には、この限りにあらずとしてこの制約を撤廃しました。この制度の1号が、兵庫県の加古川流域にあるダム4か所、堰2か所を管理する統合管理制度です。次の県管理補助は、ダムのみが対象でしたが、それに堰を加えました。修繕事業は、1か所2千万円以上の土地改良施設の修繕にかかる費用の1/3ずつ国と県が補助する制度でこの制度を創設しました。2年間で、弱小班としては良くやれたと思っています。今度は、佐賀県に出向を命じられました。

8.佐賀県農林部農地整備課長、土地改良課長:

 農業土木が佐賀県に出向するのは初めてのことです。昭和61年4月に農林部に赴任しました。佐賀県は、県土面積の小さな県ですが、耕地率が他県に比べ36%と高く農業が盛んな県です。このため、国営事業2か所を始め、県営、団体営の土地改良事業が盛んに行なわれていました。1年目は、農地整備課長と言うポストで、この課の仕事は、県営の圃場整備、地盤沈下対策事業等の実施と佐賀、福岡両県にまたがる国営筑後川土地改良事業事業との調整業務でした。私の主な仕事は、県を代表して予算の確保、新規地区の採択について先頭になって農政局、本省と掛け合うことでした。

 次の年、筆頭課である土地改良課長に昇格しました。この課は、土地改良3課の主管課で、土地改良事業全体の人事、予算、組織管理を担い、そのほか、設計積算施工指導、調査計画、かんがい排水事業の実施等の仕事が主でした。農林部長と次長は、私を良く支えてくれ、私のペースで仕事が出来ました。国営事業2地区の採択、県営圃場整備8地区、広域農道3地区、農免農道8地区の新規地区採択を図りました。当時、佐賀県の土地改良事業は最盛期で、県営、団体営事業全体で350億円実施し、全国で5番目の事業実施県となりました。3年間。佐賀県に出向し大変いい勉強になりました。そして、多くの県職員と接し沢山の知人友人を持つことが出来たことは私にとって大きな財産となっています。今度は、国に戻り、北陸農政局の建設部次長にとの内示がありました。

9.北陸農政局建設部次長:

 平成元年4月北陸農政局建設部の次長に就任しました。北陸農政局は、金沢市にあります。北陸4県が守備範囲で、この4県内の国営事業の実施、県営、団体園事業の予算配分、事業実施指導を行う役所です。土地改良事業は、国営、県営、団体営を合わせて年約1500億円の事業を実施していました。次長の仕事は、特命事項として建設省との河川協議、国営事業の新規着工にかかわる業務や既に実施中の国営事業の計画変更の指導でした。石川県能登地方には、栗園を造成する5地区の国営農地開発事業が実施されていましたが、栗の値段が上がらず外国産の栗に押され事業が下火となっていました。この事業を早期に縮小し、完了を図る計画変更を行うことが必要となっていました。私は、開発課と特別チームを結成し、石川県と、関係市町村との調整を繰り返し2年間で5地区の計画変更を終了させました。もう1つは、佐渡島に3か所のダムを造成し、その灌漑用水を全域に配水する国営かんがい排水事業の新規着工をさせるべく奮闘したことです。佐渡出身の大物県会議員と一部の受益者が事業に反対する運動を展開し農家の同意作業が大幅に遅れていたので、何度も、佐渡島に渡りこの県会議員への説得や関係市町村長や土地改良区の理事長などに協力要請に回りました、幸い、何とか着工にこぎつけられました。次長は、まさに機動部隊のような役割でした。2年間の勤務を終え、本省に4度目の転勤を命じられました。

10.農水省構造改善局建設部水利課国営事業調査官:

  平成3年4月に本省水利課の国営事業調査官に着任しました。国営事業調査官の仕事は、課長を補佐する副課長のような役割で、国営事業の在り方の検討、予算編成、新規事項要求に際して班長さん方の指導、建設省との河川協議の調整が主なものでした。また、建設部長からの特命事項の仕事有りました。固定した仕事を持たず先ほど言った機動部隊のような仕事が主です。1年が過ぎ、課長から、4月から福島県への出向の内示がありました。

11.福島県農地林務部次長:

 平成4年4月に福島県の農地林務部次長として出向しました。福島県は、北海道、岩手県に次ぎ、国内3番目の県土面積を持つ大県です。このため、県内では5地区の国営事業と多くの県営、団体英事業が実施され、年間事業費は1千億円に達しておりました。土地改良の組織も大きく農地計画課、農地建設課、農地整備課の3課体制を取っていました。通常の県は2課体制です。私は、そのキャップの次長職に就任しました。大きな県でしたので仕事にやりがいがありました。2年間の勤務を終え、農林省の外郭公団である、農用地整備公団に出向せよとの内示があり、福島県を去ることになりました。

12.農用地整備公団九州支社長:

 平成6年4月に農用地整備公団の九州支社長に就任しました。九州支社は熊本市に有ります。まず農用地整備公団は、農水省の委託を受けて農村地域に幅延長10㎞幅員7mの2車線の大規模道路を建設し、道路周辺に展開する水田、畑の圃場整備を一体的に行う公団で、東京に本社があり、全国に4つの支社がありました。九州支社が最大の支社でした。わが支社では、阿蘇地域の牧草地域における大規模農道整備と沖縄県宮古島での地下ダム工事を併せて実施していました。年間予算は、約90億円です。支社長は、工事の契約、実施や新規地区の調査計画、諸経費の支出等全ての執行権限が与えられています。いわば、一国一城の主と言えます。支社長専用の運転手付きの車がつき、毎日、宿舎からの支社までの送迎をしてくれました。

 阿蘇地域では、外輪山周辺に展開する広大な牧草地に延べ50㎞の大規模農道を新設する事業を実施していました。私のいた頃は、事業の最盛期で年間30数億の事業を実施していました。沖縄県では、宮古島で2ヶ所の地下ダム工事を実施していました。ここに溜まった農業用水を、ポンプアップして、パイプラインでサトウキビ、パイナップル、マンゴウ等の作物に灌漑するのです。当時、2か所の地下ダムとも大規模で1千万トンの貯水容量を持っていました。事業計画では灌漑する面積は7千haに及びます。これらのダム事業に年間30数億円の費用を掛けていました。更に、公団本来の大規模農道と圃場整備を一体的に行う事業は、大分県、宮崎県、鹿児島県で始まりつつあり、3県合わせて10数億の工事を実施中でした。支社長職も2年で終わり、農林省での最後の職場となった近畿農政局の建設部長への内示を本省から受けました。

13.近畿農政局建設部長: 

 平成8年4月近畿農政局の建設部長に就任しました。近畿農政局は、京都市にあり、近畿6府県が仕事の範囲です。建設部は、これら6府県で実施される国営事業7地区の予算確保と実施指導並びに、6府県で実施される県営、団体営の土地改良事業の予算の配分と実施指導を行う組織です。年間予算、国営事業200億、補助事業1000億の 併せて1200億円の事業を実施していました。建設部長は、この総括責任者で農業土木の憧れのポストの1つです。ようやっと、国の重要なポストに就けた訳です。当時局長は、農水省始まって以来の女性局長で、土地改良については口を挟まれず、建設部に任せっぱなしで、その分、責任が重い仕事でした。農林省に入って以来、初めて郷里の地域の仕事に携われ、近畿地域の農業の発展に貢献出来たことを誇りに思っています。

 平成9年3月末に、本省の農業土木のトップから、この3月末を持って後進に道を譲り農水省を退職して欲しい、後のことはお任せ下さいとの内示を受けました。遂に、農水省での約30年間の勤務を平成9年3月に終え、農水省を退職しました。上級職の農業土木の職員は、皆52歳前後で肩叩きをされることになっていました。まだ年金も出ず、今後のことが心配でしたが、後日、本省から、農水省の外郭団体である農村環境整備センターの常務理事として再就職斡旋の連絡があり、一安心しました。

14.農村環境整備センター常務理事:

 この4月から農村環境整備センターの常務理事として勤務し2年半勤めました。平成10年9月から、中堅ゼネコンの役員としての再就職の斡旋があり快くお受けしました。

15.鉄建建設(株)常務執行役員:

 再就職した会社は、鉄建建設株式会社と言う中堅ゼネコンです。再就職の条件は、勤務は満年齢65才まで、給料は農水省退職時と同額、処遇は常務執行役員として言うことでかなり良い条件でした。職員数2千名、年間受注額2千億の中堅会社です。私の仕事は、営業活動を全国的に行うことです。地方の支店には、農政局地域のOBがそれぞれおり、彼らと共に、土地改良事業実施現場や、農政局を訪れ、仕事の掘り起こし活動を行い、年間、10件、15億円の仕事を受注していました。この会社に11年間務め、平成22年6月の株主総会をもって65才で退職し、すべての職を終えたと言う次第です。

 農水省に入省して以来、約42年間一貫して農業土木職として働いて来ましたが、1つの仕事を、続けられたことを幸せに思っています。

 以上、私の42年間の体験談でしたが、ご清聴どうも有難う御座いました。

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