女子大学に勤務して48年

米田泰子

 皆さんこんにちは、ただいまご紹介いただきました米田でございます。どうぞよろしくお願いいたします。城南高校の卒業者がこちらのクラブには5人ほどおられるということをお聞きいたしております。城南高校というのは宇治にございまして、私は京田辺に産まれまして、京田辺で育ちまして、京田辺にお墓もございまして、そこに入るつもりでございます。勤務先は京都の一番端の下鴨にございます現在の京都ノートルダム女子大学に勤務いたしておりました。今日のテーマなんですが、私は「大学教育に48年間携わって」と言う題名かと思っていました。大学教育はこの48年間どのように変わってきたかというあたりを今日皆さんにお話すればいいのかなと思っていました。事務所に問い合わせますと女子大学に勤務して48年という題名をいただいていますということだったので、こうなると大学教育ではなくて、女子大学というのはどんなものか、皆さんがお知りになりたいと思っておられるのかな。そちらの方を特にお話します。

 女子大学というのはどんどんとなくなって参りました。ほとんどが男女共学ということで、すべてが小学校から全部男女共学ということで、女子だけ、或いは男子だけというのが京都でもなくなってきました。その中で京都のノートルダムは馬鹿なんでしょうけれど.まだいまだに女子大でやっています。どんどんと細ぼっているのではないかと思っています。私はもう20年ほど前に男女共学にしようと声をからして言ったんです。だめでした。そしてその時男女共学がだめなら大学を合併しよーとこれもまた声をからして言いました。まずカトリックの大学をなくしてはならないと言って、まず聖母と一緒になろう。そして東京の聖心でもいいし、上智でもいい。一緒になろうとやかましく言ったんです。ところが理事長から全部だめということで。聖母の場合も5、6回お見合いをしたんです。これもだめでした。結局、聖母はつぶれました。次に潰れるのはノートルダムです。そんなのは当たり前だと私は思っています。やはり時代に合ったものに改革していかなければ生き残れないというのは何でもそうだろうと思います。

 48年前、私が女子大に入学したのは52年前です。この大学を選ぶ理由は何もなかったんです。勉強しなくてもいいところならばどこでもいいわと思って、そして入学試験が一番速かったので、一番に決まるからと思ってこの大学を受験しました。ところが私が考えているほど甘くはなかった。

アメリカ人が何人もおられ、それが全員シスターで、すごい、入った途端から学校は二足制で、靴を履き替えます。この間、トランプさんにスリッパを履かすのにどういうスリッパを履かしたら良いかというのをみんな一生懸命考えたということを聞かれたことはありませんか。

 相撲の土俵に上がるときにスリッパを履かなければならなかったのでスリッパを履いたことのない人にスリッパを履かすのはどうしようというのを一生懸命に考えたそうです。私はそんなことを聞いたら簡単や、アメリカ人が履くスリッパってこんなもんやと教えられたのですが。私らは全員履かされましたから、それで当日ニュースでみました、トランプさんの履いておられたスリッパを。普通のスリッパのように見えましたので、全然昔の経験は生かされてないなと思いました。私らの頃は足袋のようになってまして、こはぜはありません。靴のように履くんです。で、指は別にわかれていません。靴ようになっていて布でできているのです。校舎の床は大理石でできていたのでサーッと滑って走ってました。女子大生が廊下をサーッと滑っている。アメリカ人の神父さんは靴の上からそれを履いておられて、それで教室で授業をされていました。そんな時代でした。アメリカのすべての文化がそのままとりいれられて、そこで食生活も全部アメリカの食生活を経験して参りました。なんと豊かな、何と素晴らしい食生活だろうと思ってすごく豊かな4年間を送ったところでございます。

 随分経ってから府立大学の先生とか、いろんな人から聞くんです。私が学生の頃、この女の園の周りを何回廻ったかと言われます。なんでと聞くんですが。なんでそんな大学の周りを廻るの。私には全くわからない。男性の先生が何回も廻ったと言われるんです。京大の卒業生や他からもそういうことを聞きました。だから、この女の園で何が行われているのか、そういう不思議な場所であったんだなと思ったりしておりました。

 女性ばかりでしたので男性に頭を叩かれることもなく、悠々と4年間を過ごしたところです。アメリカから来たシスター方はもちろん全員女性ですので日本人の男性の先生は、もう小さくなっておられました。それで私たちも堂々と4年間を過ごすことができました。現在、女子大を社会でアピールしている方法の一つですが、女子大がなぜいいかというのがそこなんです。この男女共同参画社会を目標にしている現在、まだまだ女性の社会ではない。ところがその4年間に男性がいなくてリーダーシップを学べるという、そういうところは女子大で養われるというようなところを頭に出してアピールしていることもございます。

 もう、そんな事を言っていてもしょうがない。私なんか、なんでしょうか、私は3人姉妹でした。城南高校までは男女共学で小学校から行きました。でも、女子大は女性ばっかり。男性に仕えるとか、そういう気持ちは全くなくて、男性にとっては嫌な女やな、とずっと思われてきたと思います。それでもそういうわけにも行かなくなって、男性に、とっても嫌な女と思われるわけにも行かなくて、どういうふうに生きていったらいいかというところを、そして学生にどのように教育していったらいいか、女性の教育をどうしていったらいいかというのを、いろいろと社会で頭を打ちながら勉強したところでございます。

 それは何かと申しますと、例えば学生にはもうプライドを捨てなさいと言ってよく教育したことがございます。それはなぜかと言いますとアメリカ人の教育というのはとても厳しくて、本当にみんな何度泣いたかわからない。というような教育を受けて参りました。その教育に耐えられるためにはどうすればいいかということを私流に考えました。自分のプライドを捨てたらいい、これは簡単やと思いました。プライドを捨てたら何の矛盾も何も考えなくても、とてもうまくやって行ける。

 私が就職しましたのがアメリカ人の助手として就職いたしました。3年間は我慢して、とよく誰かに言われましたけどけれど、その3年間は毎日涙涙でトイレに行っては泣いていました。その時に考えたんです。なぜ、この3年間涙を流しているのか、どうしたらいいのか、考えました。その時に私はこのアメリカ人がどうしても私が必要だと思ってくれるような私にならなければならない。この人にそう思わせようと思ったんです。だからそのアメリカ人にとって私は必要である。どうしても必要である。辞めてもらったら困ると思ってもらえるために毎日をやろう、仕事をしよう。このように思ったんです。それからはとても楽になりましたね。ずっとそのアメリカ人が定年になるまで一緒に夏休み、冬休みは私の家に連れて帰って一緒に生活する。

 この話をあるときに、松下幸之助さんの秘書というか、仕事を一緒にしておられた江口さんという方がおられます。で、松下電器、パナソニックに勤めている人は松下幸之助を知ろうと思ったら江口さんの本を読めば一番よくわかる。私の息子の友達なんか,パナソニックに勤めている人が言ってましたけれど、江口さんがあるとき、私のところの大学の理事長になられました。短い期間で2年ぐらいでした。その時にいろんな話を聞きました。その中で、江口さんが松下幸之助さんにどのようにして仕えたかと言う話になって、そこで私と意気投合しました。だから江口さんも松下幸之助さんがどうしても江口さんがいないと困ると思うように私は仕事をしましたとおしゃっておられました。ということで松下幸之助さんの奥さんが先に亡くなられておられたので晩年はお一人で住んでおられたそうです。そうするといつ電話がかかってくるかわからない、24時間。そして夜も枕元に電話を置いて江口さんは寝ていたという話をしておられました。電話がかかってきて、今すぐ来て、食事を一緒にしたいと言われて家まで走る。そのような晩年を過ごされた話を聞きました。その時に江口さんは松下幸之助さんにとって私はどうしても必要な人間であると思ってもらうために、私は働きました。私と同じだということで、私の方法もまあ、間違ってはいなかったかなと思っています。

 ロータリーの教えを見ていますと中核的価値観というのが今、言われておりますが、中核的価値観ってなんや、私はわからなかったもので、ネットで見ますと、中核的価値観というのは親睦、多様性、高潔性、リーダーシップをコアーにして、そこに価値観を見出し、そしてロータリーを運営していくことかなと思ったところです。それから四つのテストがございます。四つのテストの真実かどうか、公平かどうか、それから好意、友情を持ってしているかどうか、みんなにとってそれはいいことなのかという四つのテストがございます。これら全て、私には抵抗がなく、最初からすんなりと受け入れることができました。何故かと言いますとこれはすべてカトリック精神と全く良く似ております。アメリカでロータリーが設立されたというのはアメリカ人のカトリック精神のもとに作られているというふうに私は勝手に思っています。皆さんは別にそう思われなくていいです。私が勝手に思っています。そのカトリックの教えを受けた私にとっては生活の基盤としてこの言葉を容易に受け入れることができるといつも思っているところです。特別に勉強しなくてもいい。特別に修行しなくてもいい。そのものずばりだと勝手に思っています。

 例えばアメリカ人の厳しい教育に耐えていくためにプライド、私はまずプライドをなくしました。自分のプライドをなくすことがとても大切ではないかと思って。で、日本人の学生にもその厳しさを受け入れるためにはどうしたらいいか、それはなぜなのかということを日本的に日本の文化に合わせて、そして教えていったときに、「もう、あんたそんなプライドやめとき」「プライドなくし」と私がいいますと学生たちはそれをなくしてくれて。例えば私は食物をやっておりますので調理実習室のお掃除はとても大切にしております。自習室のお掃除をさせるのにみんな床も全部手で拭かせます。学生は家でもしたことのないことを、すんなりするわけがありません。でも、それをしてもらうためにいろいろと教えます。そうすると「先生、ここできた。次どこをすればいい」と言って聞いてくれます。もう時間だから結構です。もうやめますと言いますが「次どこ」と聞いてくれるんです。「お掃除ってすごく楽しいやろ」って教えると、「うんものすごく楽しい」と言ってくれます。

 プライドをなくすということは相手を尊敬することができる。人を尊敬することができる。相手を大切に思うことができる。これはカトリック精神の、カトリックというのは何か、キリスト教とは何かといいますと「愛」の一言で説明するのです。哲学者のソクラテスは世界は真、善、美で全て説明できると説きました。キリスト教は愛ですすべてが説明できるというものであります。相手を大切に思う、相手を尊敬する、そうできるには自分のいらないプライドをなくさねばならない。でもプライドのすべてをなくすのではなくて、大切なプライドをもちろん持たなくてはならなりませんが、そのプライドをなくすことによって自分自身が強くなれます。強くなって他から見ると美しく見えると思うのです、自分自身が。嫌な、変なこと、他人に迷惑をかけるようなこと、或いは利益をむさぼること、すべてから解放される、自分のプライドをなくすと。というふうに私はずっと思ってきたところです。こういうことが女の園で養われていったことではないかと思います。

 私も専門的に今、大川会長の方からお話があったんですけども、食べ物に関してお仕事をやっておられるということで現在の食べ物を小学生にだしの取り方を教えて、そして本物の日本料理というものを伝えていきたいというのが、今ずっと京都の芽生え会とか、京都の料理屋さんの旦那衆が集まってやっておられる活動なんですね。この時代だからということでございました。今の時代というのは食べ物がほとんどすべて外に出てしまった。家庭の中ではなくって外に出てしまったからだということになりますか。まず最初に家庭から外に出たのは建築です。家庭科では衣食住と表現するんですが。最初に外に出たのは住です。皆、自分で家を作っていたのが大工さんが作るようになり、それから次に外に出たのが衣です。服ですけどもこれは家で全て作っていたんですが、それが全部外に出てしまった。家で作っている人はもちろんありますけどもでも全部外に出てしまった。食も出て欲しいとずっと私は思ってきました。何故かと言いますと私は男性の先生と同じように大学で仕事をして、帰りに買い物をして、家に帰ったら洋服一枚脱いではガスをつけ、また一枚脱いでは、お鍋をかけて、服を脱ぎながら料理を始めて、そしてガス口が三つで 足らない場合は電子レンジを使って、オーブンを使ってとか、それを頭の中で考えておいてパーっと一気に料理をするわけですね。家族がお腹を空かして待っていますから。それが大変でいつもこの食の分野も外に出るといいな、外に出て欲しいな、家でしなくてもいいのにな、と随分と思ってきたところです。で、この10年ほどで、ほとんど外に出てしまって、ずっと見てますと朝も自動車がコンビニに止まって、コンビニの袋を持って飲み物とお弁当を入手した人が車に乗り込んで、出勤される。この様子をずっと見て参りました。現在朝食を家で取る人は少なく、お昼はもちろん外です。夜だけということなんですけども、その夜も外食をしようとか言って、今日はどっかへ出かけようとか、家族で出かけようとかになって、ほとんど外に出てしまいました。もちろんそうでない方も多くおられますが、このことが無理なく、可能になってまいりました。これでいいのかどうかというのは、ものすごい問題があります。だからもう一度食の分野を家庭に戻せといってもきっと戻らないと思います。どうしてかと言いますと女性が仕事を持っている限り、これは大変なことなんです。だから男性と毎日交代で食事の準備をするとか、そういうふうになればまた家の中で、家で調理をするということもできるかと思うんです。そういうことは今のところ、全く考えられないような状態ではないでしょうか。男の人は絶対「私はお料理なんかできひん」という。「できひんねんと違う。しんとしょうがないやろ」というんですが、「できひんと言ったら終わるんやったらそれはええな」と言っています。そういう時代です、今のところ。ということで外に出てしまうということは仕方がないのではないでしょうか。

 ここで私が大学でやってきたことが何かというところなんですけども、ずっとアメリカ人の助手から、講師、助教授の間、全てアメリカ人のために働き、アメリカ人が夏休みでアメリカに帰っている間に研究をし論文を書いて全てファーストネームはアメリカ人の名前で発表をしていました。やっぱり自分の先生ですから自分で研究したものでも仕方がないと思っておりましたから。でも、だんだんとそのような時代ではなくなりました。現在は論文の価値を高めるために最後に教授の名前を使う時代、それからその研究に直接かかわっていなければ名前が列挙できない時代に代わってきました。あるときから私も独立をすることの決心をしました。このノートルダムの中にいては仕方がない、外に出なければならないと思って、いろんなことに挑戦してみました。その前にやはり外国に行って勉強をと思い、パリに夏期の講習に赤ん坊を家に残して出かけました。1フランが65円もした時代でした。コルドンブルーという料理学校で夏休み中勉強に行くということを何回か繰り返しました。また、中国の北京で中華料理の勉強をすることも繰り返しました。アメリカでも夏休み中、アメリカ人の食生活をいろいろ調査研究したこともありました。そういうところから外国のものと日本のものを比較するという方法を学んだわけです。比較によってさらに日本のものがどういうものであるか。日本人の食べ物の真理は何か。それはどうするべきか。どうしていけばいいか。というのがわかるわけなんですね、他と比較することによって。で、そういう事をやっておりました。

 平成の始め頃5、6年間、京都新聞と一緒に「京都のおばんざい」という、大村しげさんが使われた言葉だといわれているのですが、これを京都人の中で広め、京のおばんざいとはどのようなものかを京都人のコンセンサスをえることによって確立させる仕事を行いました。

 それが終わって次に何をしたかと申しますと。「外国に学生を連れて行ったらみんなブランド製品、ブランドのかばんばかりを追っかけまわしているのと違うか」とみんなに言われまして、そんなことを言わないで日本でも外国人に追っかけまわされるブランド製品を作っていかんとあかんやろ。それがないから外国へ行ってみんな買いあさるんや。日本にあればそんなことみんなしません。だから日本でそういうもの作ってください、ということをよくいってきました。やっとできて、最近わかりませんけども船の帆で作ったかばん、早く悪くなったらいいのにな。新しい鞄に変えたいと思っているんですが全然悪くならないので、次の鞄がもてなくて、あの鞄はとても人気があるようですが。このように並んで買ってもらえるような物を作らないと。今は食べ物でラーメンやアイスクリームとか甘党のお店にみんなが並んで待っているのが、テレビなどで放映されますが、食べ物ではなくて、もっと他のもので、並んで買ってもらえる物を日本人は何で作らないのかと私が言ってたのが、平成5年頃でした。ちょうどそのころ、京都府が野菜を売り出そうとして「ブランド京野菜」と名前をつけてました。ブランドというのはそれで固有名詞になるの、と私も言ったのですが、ブランド京野菜というのを京都府のふるさと産品協会が企画し、21品目を選出しました。その時も、ブランド京野菜として選んでいいかどうか、そういうアドバイスのお手伝いをいたしました。現在はそれからどうなったかと言いますと、この企画が日本中にその地域の野菜を大切にするという風潮が広がりました。やはり新しいことはすべて京都から発信することになるのだなと思いました。その運動が日本中に広がって、大阪でも難波のブランド野菜など、いろんなところでやっています。あれは京都で始めたものです。ということでそれはやはり昔からあるものを大切にするということで違った方法で発信していくという方法、これは京都人が持っている宝物ではないでしょうか。そういうことで私もブランド京野菜に関していろいろ仕事をして参りまして、おばんざいに関しても同様で、多くの日本人に影響を与えることができたと思っております。

 70歳で定年になりまして、それまでは京都の北の端まで通っておりましたので田辺のロータリーにお昼間帰るなんていうことは不可能なことでしたが、定年とともに友達がそれも城南の時の友達が入れ入れとうるさく言うもんで、それは林さんではなかったんですけども京田辺にいる友達です。断り切れず、決心しました。「私はロータリーのためにお金を使いたくないんやけれど、あんたのためにお金使うわ」と言って入ったのが4年前の71歳の7月でした。「ロータリークラブのメンバーが年寄りばかりになったらあかん」とみんなに言われてるんですけども、そう言われても私は初めから年寄りなんでどうしたらいいのかわからへんのです。その若い人に入ってもらえとか、中核的に価値観の中にも若い人、それからリーダーシップを要請せよとか、いろんなことが言われますが、いつも小さくなっています。それならいつ辞めても困らないのですが、私としましても入ってまだ4年が過ぎたところで、この7月から5年目です。それにやめてええやろか。48年間も私は仕事を続けてきたんですよ、仕事を。それにここで辞めていいんやろかと思っておりまして、それなら死ぬまで行くか、というのが現在の気持ちでございます。以上です。どうもご清聴ありがとうございました。 

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