故 山形隆夫会員を偲んで

2019.1.31 


会員 辻幸男 

山形さんは大正13年山口県の徳山市、今の周南市にお生まれになりましてその後成人され、戦争にいかれました。行かれた先は満州で通信兵として従事され、終戦を迎えられました。ソ連のシベリア収容所に捕虜として、3年間地獄の苦しみを体験されその悲惨さは何度も皆様卓話でお話を聞きよくご存じだと思います。そして復員引揚者として帰ってこられたのでございますが、田舎ではシベリア帰りということでなかなか勤め先がありません。それはなぜかと申しますと収容所で捕虜たちに社会主義の思想教育が一部されておりましたので、大変差別・偏見がございまして田舎ではそんな人間は雇えないということで仕事が全く見つからない状況でした。しかたなしに京都に親戚を頼ってやって来られました。そのご親戚は当時、現職の国会議員でありまして、その方が身元保証人になられ、そして無事就職先が見つかりました。

その会社は燃料の会社でございまして、今でこそ、石炭を販売している会社はございませんが、当時の石炭や石油、重油を売る会社に就職をされまして大変有能な営業マンで、街をずーっと歩いて煙突が見えたら煙突のあるところは全部飛び込みで、片っ端から石炭を売り込んでいく、やり手の営業マンで大変会社に貢献されました。そしてその会社の幹部にまで登り詰められました。しかし、山形さんは自分で商売がしたいという夢をお持ちだったので、なかなか会社のほうも有能な社員でございますので、なかなか辞めさせてもらえませんでしたがどうしても独立したいということで、普通は会社をかわるとその経験と人脈を生かして同じ商売か、同業他社に勤めたりとか、同じ商売をする人が多いのですが山形さんは義理と礼儀の人ですから、全く畑違いの水処理の会社を起こされました。初めはメーカーからは全く信用されず仕入れをお願いしても難しく、現金と引き換えでないと売ってもらえない。信用がございませんでしたので大変苦労されましたが、持ち前のガッツと人柄でどんどん売り上げを伸ばしてお得意先からもメーカーからも信用されて、地区の総代理店として成功されました。

ロータリーには平成4年に68歳の時に入会されまして80歳で会長をされました。私は平成9年に入会しまして6年後に幹事をさせていただきました。同じ干支のねずみ年で二回り下の、24歳下の親子、まるで親子のコンビで一年間頑張らしていただきました。 大変気配りの人で絶対、人の悪口を言わないまた、人の誤った行いや言動を許す心の広い方でございました。私とえらい違いでございます。わたしはいつまでも根に持つほうでございます。

常に大きな声で「ワッハッハー」と何事も笑い飛ばしておられました。健康で元気でお歳は申し分のないお歳でございましたけども、絶対100歳まで、いや、100歳以上生きられると思っていましたがあっけなくお亡くなりになりました。長患いもせず誰にも迷惑をかけない山形さんらしい潔い亡くなられた方だったと思います。ただ、残念なのは一年三ヶ月前で、亡くなられる九ヶ月前、運転免許証を返納されましてからちょっと元気がなかったのでございます。高齢者の免許返納は時代の流れで、事故防止のため、私も賛成ですが山形さんに関しては行動範囲が狭くなりまして好きなゴルフも自分の足で行けず送り迎えをしてもらわないと行けなくなりほぼ、ゴルフは引退に近い状況で大変寂しそうにしておられました。「山形さん、電車で行かはったらわゴルフへ」といったら、「ゴルフ場みたいなん、みんなあ山んなかで駅前にあらへん」と言うておられました。

それともう一つ残念なのは、全く些細なことでございますけども山形さんは例会の日に亡くなっておられます。其の一週間前に最後の例会になりましたが、私は毎回送り迎えをしていましてその日、11時半ごろ迎えに行く予定がいつも山形さんは伊勢田神社の辺に10分まえから待っておられまして、その日に限って私は30分ほど遅れました。何か心残りと申しますか、ストレスをあたえたのが私が遅れたためかなと思っております。とにかく最後の最後までロータリアンとして、みんなの模範として生きて来られました。心からご冥福をお祈り申し上げまして私のご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。

越智よし子

本日は、私よりももっと山形さんとたくさんの思い出をお持ちの方もいらっしゃる中で、私がこのようにお話しさせていただくなんて本当に恐縮なのですが、大変有り難い機会を頂いたと感謝しております。今日は、私と山形さんの思い出というよりも、私の山形さんに対する想いというものをお話しさせていただきたいと思います。

 私が、宇治鳳凰ロータリークラブに入会させていただきましたのは、今から4年半ほど前になります。新入会員は、自動的に親睦委員となりますが、山形さんもちょうど同じ時期に親睦委員をされていまして、いつも例会が始まる前に受付カウンターであれやこれやと優しく話しかけてくださっていたことを思い出します。話の内容は本当に他愛無いものでしたので、これといったエピソードは特にはないのですけども、「会員の顔と名前を覚えるのは親睦で受付するのが一番早いんや」とか、「いまのは誰々さんや」とか、入会したてで緊張し戸惑っていた私をいつも助けてくださいました。

私の山形さんに対する印象はこのような表現が適切かどうかわかりませんが、「本当にまるで生き仏のような方だな」というものでした。今でもニコニコと福々しい笑顔で、大きな声で、わっはっはっと楽しそうに笑っていらっしゃるご様子しか思い出されません。そして事あるごとに「毎日、本当に幸せなんや。有り難いわ。」といつも仰っていました。

そんな山形さんですが、やはり戦争のお話、特にシベリア抑留の頃のお話をされているときは、いつも苦しそうなお顔でお話をされていました。私も父方母方に祖父がおりまして、特に母方の祖父などは戦争の際、銃で右腕を負傷して少し不自由なところがあったのですが、私が子供だったせいもあるかもしれませんが、祖父から戦争の話を聞いたことは一度もありませんでした。また、子供ながらに何となく聞いてはいけないことなのかなぁと思っていたようにも思います。でも、山形さんは、戦争の愚かさを、今の私達のような戦争を全く知らない世代にも伝えていかないと、という使命を持っていらっしゃったのだと思います。確か入会して間もなくの頃だったと思いますが、亀石楼さんで親睦委員会が行われまして、その時にたまたま山形さんと同じテーブルに座らせて頂きまして、話の流れでシベリア抑留のお話しを暗い感じでせつせつとお話しして下さいました。私も実際にシベリア抑留を体験された方のお話を聞いたことがなかったので、非常に大きなショックを受けたことを覚えています。

それがきっかけということでもないのですが、戦争のことだけでなく、戦後の復興のこと、その後の高度成長、バブル等と激動の日本の中で、山形さんがどのようにして過ごされてきたのか、その時、どんな思いでおられたのか、辛いことも苦しいことも、今の私達の世代では考えられないほど大きな経験をされてきたと思います。そんな話を沢山、山形さんから聞かせていただきたいなという思いが募るようになりました。ただ例会ではそれほど込み入った話をさせていただく機会も時間もありませんので、いつもは天気やニュースや日々のたわいない話で終わってしまって、また、山形さんもお元気でいらっしゃったので、またいつか、何かの会で隣の席に座らせてもらって、ゆっくりお話できる機会があればいいなぁと悠長に考えておりました。ですので、例会の当日に、山形さんがお亡くなりになったと、突然の訃報を聞いたときは本当にショックで、どうしてこれまでいっぱいチャンスがあったのに、もっと山形さんとお話してこなかったのだろうと、本当にしばらくの間、後悔ばかりしていました。

何でも先送りにしてしまいがちな自分の性格をこんなに悔やんだことはありませんでしたし、当たり前の毎日が、当たり前の様に過ぎていくことは、決して当たり前ではないのだと、毎日毎日を悔いがないように生きていかないといけないと痛感しました。

亡くなってしまわれてからまだ日も浅いですし、ふとした瞬間に山形さんのことを思い出すことがありまして、お亡くなりになる前よりも、山形さんへの思いが募るようになったような気がします。私と山形さんは45歳ほど年が離れておりましたので、幸いにもと言って良いのかどうかわかりませんが、いわゆる道ならぬ恋に私が苦しむようになることはありませんでしたけども、山形さんがあと25歳ほど若かったら危なかったかもしれないなと、本当にそう思うことがありました。それぐらい山形さんは人間としても男性としても、とても魅力的で、素敵な方でした。例会の握手のとき、いつも大きくて柔らかい手で握手してくださるのが、本当に安心して心地よかったです。

今すぐ会いに行きますとは、さすがにまだいえませんが、いつかは、またあちらの世界でお会いできる日がやってくると思います。順番通りに行けば、私が行く頃には、今ここにいらっしゃる会員の皆様も、ほぼほぼ揃っていらっしゃるのでは無いかと思いますので、いつかまたの遠い未来に、あちらの世界で山形さんと、そして皆さんと一緒に例会なんて出来たらいいなと思っております。そんな風に思ったら、この先歳を重ねていくのにも、また別の楽しみが出来たかなと思います。それまで、またあちらの世界で山形さんとお会いしたときに恥ずかしくないように、山形さんを人生のお手本として、清く正しく生きて参りたいと思います。少しお待たせするかもしれませんが、あちらの世界ではほんの一時だと思いますので、どうか待っていてください。いつかまた、お目にかかれますことを楽しみにしております。ありがとうございました。

雨堤孝夫   

皆さんこんにちは。辻さん、越智さん、だいたい私が思っているようなことを全部しゃべってくれましたので付け加えることもないんですが私と山形さんは高橋権也年度の同期の入会でございます。それで名前も字が違いますが孝夫で、隆夫で、ずっと親近感をいだきながら26年間おつき合いさせていただきました。また、山形さんとの例会以外での思い出となりますとやはりゴルフじゃないかなと思います。ゴルフがお好きで自分で車を運転して結構遠いゴルフ場まで出かけて行かれてました。それで私どもも山形さんのメンバーコースへよくご一緒させていただきました。非常に淡々とプレーをされる方でして、晩年はスコアーカードを待たずにコンペの場合は自分でスコアーを提出する必要がありますので書いておられることもありましたがまあ要はボールをクラブで打って11.5cm のカップにホールアウトする言うことが楽しみであり、別にスコアーというものは後で付いてくるものなので4で上がろうが8で上がろうが全く動じずに淡々とプレーされておりました。最近は乗用カートでコースの端っこの道路をカートが走っておりまして、それに乗って移動するんですが山形さんいわく、ボールのところからカートのところまで歩いて、それでみんなと半分か3分の1ぐらいしか飛んでいないので、すぐ降りてまたボールの所へ行くくらいだったらまっすぐボールの所へ行った方が実は近いんだ。それも一つの健康の秘訣やったのではないかと思います。ですから若い方々もだいたいワンラウンドしてカートに乗って歩いた場合、1万歩~1万3000歩ぐらいになるんです。それを山形さんはずっと歩かれます。多分1万6000~2万歩ぐらいは歩いておられるのではないかと思います。そういう意味でもゴルフの最大の目的はやはり運動すること、楽しむことで、スコアーとかそういうものを目くじらを立ててどうのこうのするのはまあ、邪道だというのを身をもって我々に教えてくださったように思います。晩年はもうちょっとハーフで上がるわと上がられて、それから2時間あまり、我々が上がってくるまでクラブハウスで待ってくださってて、でまぁ帰りはみんなでワーワー言いながら帰ってくるというふうな楽しいゴルフをご一緒させていただきました。もう車の免許を返納するのでゴルフもちょっと行けないわとおっしゃった時もみんなで迎えに行きますからぜひ行きましょうと言ったんですが。多分、今は、あちらの世界でゴルフを楽しんでいることだと思います。

山形さんとの思い出というのはそういうところが多いんですがたまたま切地年度の年会会報に7月13日の週報コラムに書いていらっしゃいます。これを紹介します。

山形隆夫

「93歳になります」

私が入会した当時は吉田末雄さん、南郷さんらご年配の人がおられました。私一人が残ってしまいました。もう来てもいいですよというお迎えが大体来る予定ですがちょっとまだ、足が遠のいています。其のうち、お迎えが出てきましたら喜んで向こうのほうへ行きたいと思います。家内も元気にしております。

ここからは独り言夫婦の絆って何だろう。一人の男と一人の女がある時、どこかで出会う。お見合いでも、恋愛でも、やっぱり偶然なんだ。自分とは違う、もう一人の人間に興味を持って、この人と一緒になったら面白い人生が味わえるかしら・・・と勝手に創造し、契りを結んだ。楽しかったり、苦しかったり、嬉しかったり、時には喧嘩して、

夫婦の絆が切れそうになったり、いろいろな事がありました。年季の入った芝生より若い芝生がいいと思ったり、いろいろな事がありましたが、この世におさらばするときに、今日は死ぬのにとってもいい日だ、なんていってみたい気がします。「迷惑かけたね」「もっと迷惑かけてもよかったのよ」なんて言ってもらえたら嬉しいけど、そんなにうまくいくはずはないな。

こういうコラムを載せてらっしゃいます。年輪を重ねて人生を達観してこうあったらいいなという形ですね。今日死ぬんやけどもいい日だな。こういう感じで亡くなられたのではないかと思います。我々にとっては憧れる生き方ではないかなと思います。山形さんは随分苦労し、生死の境を何回も歩いてこられた方です。そういう意味ではやはり、そういう苦労とかに対してそれなりのご加護を与えたのではないかなと思います。山形さんがよくおしゃっていましたが生まれた時に産婆さんはこの子は育たないというので確か4月でしたね。生まれになったのは。戸籍上は8月になっている。戦後捕虜になられてシベリアではそれこそ生還した人の方がはるかに少ない状況で生還されました。

それともう一つ、ロータリーでご一緒させていただいていた時に奥さんから電話がありまして、実はちょっと入院したので例会を休ませていただきますと連絡がありました。東北の方へ奥さんとのご旅行で、初日の旅館で風呂へ行こうと思ってスリッパを履こうとしたんです。うまく履けないんですね。なんでやろな。まあ、このあたりが我々と違うところです。山形さん、いろいろと冷静に考えられました。そういうと2週間前に階段で足を滑らして頭を打ったな、こらどうやろとというんですぐにその場から取って帰りまして、多分息子さんにだろうと思いますが京都駅に何時につくから病院へ行く段取りをしとくようにと言って病院へみずから行かれて、頭に出血があったのをすぐに除去して大事に至らなかったと私のお聞きしている範囲でも、これは非常に寿命のある方だなとすごく思っておりました。やはりこういう方は長生きして、それで周りに迷惑をかけることなく、本当にスーッとこの世界から去って行かれるんだな。これもやっぱり天がそういうふうに引き受けてくれているんだなと思います。

我々の山形さんに対する思いというのはクラブの大きな自慢でございました。よそのクラブへ行ってやあ、うちのクラブには90過ぎてもまだゴルフをされてかくしゃくと毎週例会に来てくれる山形さんという会員がいるんです。それだけで他クラブ行った時に我がクラブの自慢ができる方でございました。我々に対して、またクラブに対しても、大きな足跡を残され、特に私ども心のお土産と言うんでしょうか、大きなものをいただきました。まあそういういろんな意味で大きな人物でございました。笑い声も声も大きかったです。人も人なりも一回り大きい方だったと思います。我々も近い将来行くことになると思いますけども、その時はまた大きな声で迎えていただきたいと思います。同期に入会したのはたった二人でした。その2人が長いこと、このクラブに在籍させていただきました。山形さんはおっしゃっていました。うちのクラブはいいな。よそへ行けばなかなかこういう雰囲気はないで。これが何よりだと思います。これからも我々いろんな事を引き継ぎまして、楽しくいい雰囲気で実りある活動を行っていきたい。残せるかどうかわかりませんけども、やはりその辺を目指して、現役でロータリーを去りたいな、人生を終えたいな。これは私の目標です。本当にいいお手本がいらっしゃいますんで日々これからも精進したいと思います。どうもありがとうございました。息子さんもぜひ、お父さんが長年通ってこられましたこのクラブへご入会をしていただきますようお願いしまして本日はどうもありがとうございました。

安井幹事

私は入会して12年になります。入ったときは一番若手でございまして、勿論山形さんは最年長でごさいました。すぐ気さくにしゃべっていただけますがこちらからもしゃべりにいかないとあかんなということ、いろいろ毎週考えていたんです。その際にTVを見ておりまして、山崎豊子の不毛地帯でしたが唐沢寿明が主役のドラマ。シベリアの話で商社の瀬島龍三がモデルだったようなドラマでした。ああ、これはいいわ。それで次の週に、山形さんにこの会話で盛り上がると思ておりました。で、こう切り出したんです。この度フジテレビで不毛地帯というシベリア抑留をされた方が商社でのし上がっていくようなドラマで瀬島龍三が熱演してます。見るのを楽しみにしてますわといったら、いつも優しい山形さんが血相を変えて、わしはあいつらきらいじゃーいうて、わあ、いらんこというたか。上官と部下との間で誤差別があったみたいでそういう思い出が蘇ったみたいで怒られたみたいな思い出がございました。

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