故 小永井征也会員 追悼例会


小永井会員を偲んで

在籍チャーターメンバー

奥山直秀

皆さんこんにちは小永井さん長い間いろいろお世話になりましてありがとうございました。我々のこの会もこのように発展しております。当時、公務に、または会員のためにいろいろご活躍していただいた姿は本日と比べると雲泥の差でございます。どうかご冥福をお祈りいたしまして、私の挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。

高橋権也

高橋です。こういう日が来るとは本当に考えたこともなかったんですけども、私が小永井さんと初めて知り合ったのは宇治鳳凰のチャーターメンバーとしてです。その時は常盤特別代表が「初代の会長は小永井さんで、高橋君は2代目の会長になれ!ロータリーにNOはない」と命令しました。どこでどういうふうに決まったのか知らないけれど、ロータリーのことを何ひとつ知らない私にそんなことできるかなと思いました。しかし1代目の小永井会長の人選というのは的確で、さすがと思っています。それは全く新しい組織をまとめまして、本当にゼロから出発したということです。2代目というのは1代目の真似をして、あまり違わないようなことをするということで私は納得し、小永井さんのやられた通りに私はやってきたつもりです。その時にもう1人橋内さん、今の橋内会員のお父さんになります。彼は非常に実務に秀でた方でありまして、幹事役が本当に適任で、一生懸命やって下さり、スタートは非常によかったなと思います。

その後、私と小永井さんとの一番のつき合いはポリオミッションです。1996年より私はモンゴル、ネパールと行って、その次の1998年のラオスだったんですが、小永井さんも一緒に参加されまして、同じ部屋でほとんど一緒に行動しました。その時、小永井さんはこのポリオミッションに対して大きな意義を見出されまして、その後ずっと私と一緒にポリオミッションを熱心にやられました。小永井さんは、途中で病気をして参加できないこともあったのですが、ほとんどは私と一緒に参加されまして、同じ部屋で行動を共にしました。

彼にとって一番のハイライトは、5年前だったと思います。キリバスという国があります。南の国、赤道直下で小さな島々が集まった人口6万人ぐらいの国なんです。サンゴ礁の上に乗っている島で、海抜が一番高いところでも3m 、4mぐらいのところです。津波が来たらもう全然逃げることはできない。毎年、海面が少しずつ上昇していますので、いつかは太平洋に沈んでしまうような島なんです。そこでミッションがあったときに彼は先発隊として行かれました。もう1人は乙訓の山本さん、先週ゲストで来ておられた方です。その2人が先発隊でした。ミッションを組む時は、半年ぐらい前に少人数で予備調査に行きます。その国の基礎的なデータを集め、ミッションの活動予定を立てます。この予備調査に基ずいて準備をします。それからいよいよ本番が始まるという1週間ぐらい前に、先発隊が行って予定していた行事の準備ができているかどうかを確認します。そのとき小永井さんと山本さんが行かれました。当日、私たちは関空からグアムに行き、グアムで乗り換えてフィジーに行き、フィジーで乗り換えて、キリバスに行く予定だったんです。しかしフィジーまで来たけれど、キリバスの空港が大雨で飛行機が飛ばない。1日待ちましたがますます雨が激しくなってきて、キリバスの空港の滑走路が壊れて、離着陸ができない状態になりました。従って帰る便も出なくなる。これは大変だということになりました。しかし、先発隊の小永井さんと山本さんはキリバスに残って、予定していた行動をすべてやられました。いろんな支援とか、予定した行事を全部実施しました。我々はと言いますと、フィジーで飛行機を待つ毎日でした。明日は日本に帰るという前日の夜になっても、小永井さんたちが帰ることができなかったらどうなることか、奥さんも日本で心配されたと思います。ここで帰れないと、空港の修理が終わる2ヶ月先まで帰れないということでした。その時、キリバスには早期に帰国を希望する各国の人が大勢いまして、飛行機が無理に飛ぶということになりました。深々としたサンゴ礁の海の上に浮いているような滑走路を使って、満席のジェット機がやっと飛び立つことができたそうです。フィジーを離れる前日に小永井さんたちは本体と合流し、全員が一緒に帰国できました。

彼はその時、非常に能力を発揮しました。それが私にはとても印象に残りました。彼は決断が的確で、バランスが取れていて、いつも落ち着いていて、彼が興奮したことは見聞きしたことがなく、いつも冷静です。すごいなと今でも思っています。いい思い出ばかりを彼は私に与えてくれました。どうもありがとうございました。

神田 豊

雑誌委員会 アンケートとbrightのことを少しお話しします。

城島年度にその雑誌委員会が私にまわってきました。あまりぱっとしない、めだたない委員会でした。雑誌を読む、読まないにかかわらず強制的に買わされ、読むのがしんどい雑誌でした。

で、まあ雑誌委員会をやるからにはこの友をみなさんに興味をもってもらわなくては思ったんです。しずかーにしとけばいいのにと思ったんですが25周年だということでがんばる人もいるし、聞けば友はロータリーの情報誌、教科書のようなものであるから読むことは大事とどこかで聞いたような。

友を読んでいるか、現状を知りたい意識アンケートをとりました。

結果は読んでいるがたった一人、写真だけが4.5名 ぺらぺらめくるだけの回答もありました。

広報委員会全体に協力してもらって当番制にして紹介記事を派手に載せることにしました。

2014-2015 城島年度の広報委員会の北村 奥山林、雑誌委員会の神田 山形 IN委員会 安井というメンバーでした。記事を選ぶ、それぞれの個性が出れば皆さん興味が湧くかなと思って上記のメンバーのご協力をお願いしました。

もう一つ、小永井さんに雑誌委員会が目立つ、ひとめでわかる、見出しを英語で作ってくれと依頼しました。THE ROTARY-NO-TOMO makes you brightが出来上がりました。

ロータリーを読めばあなたをかがやかせる。

再度のアンケート結果は15人が読むようになりました。依頼するにあたって実は小永井さんとは年齢的に同級生なんです。が、君とか、征也とか、小永井とか呼び捨てできない冗談いったつもりがもっときつい冗談がかえってくる。ロータリーや他の会のオーラーがあって、小永井さんのもっている品格がじゃまなんです。それもおおいにありますがロータリーでは実績があるんです。

初代会長を務める。ポリオに何回も行っている。

一回は後続隊が台風で来られず、全部自分ひとりで用意したとか、ガバナー補佐をやったり、常盤特別代表の洗礼を受けている。それにしゃべりがべらんめー調で流暢なんです。品格に圧倒されてばかなことを言ってられない雰囲気があるんです。

けっして大声をあげない。トーンをあげない。

しずかーに鼻にかかったひく―い声でかんださんと来るわけです。 2015.1月に年男放談がありました。彼の語った内容をすこしだけ。

常盤特別代表がロータリアンとしての大前提というのは三つある。(で、長いので前後を省略して2番目を紹介したいと思います。)

ちゃんと家族がロータリーと言うものを理解してバックアップしてくれるようなものでなかったらロータリアン資格はないぞ、家族といっても特に奥さんのことですが奥さんが(小永井-このクラブではないんですよ、よそのクラブでこれだけはきちっと申し上げておきますが)横向いているのに俺はロータリアンだと言っている人と何人か会うことがあり、そういうことを見るにつけ特別代表がおっしゃったロータリーってのは家族がみんな応援してくれて、それでこそ意味があるんだぞということがある。

実は先日行われた我々のクリスマス例会、あの時に私は本当に嬉しい思いで座っていました。どうしてかというと、だいたいクリスマス例会というのはメンバーとその奥さんがほとんどなんです。それ以外にあんまり集まっているところなんてないわけではないんですが多くない。ところが前回のクリスマス例会、本当にこんな小さなお子さんが、よちよち歩きのお子さんからだんだん大きくなって、私の孫も小学校6年生と4年生ですが2人とも毎年楽しみにしちゃっている。「いつあるんだ」ってうるさいぐらいに楽しみにしてくれているのを見ているとうちのクラブというのは本当にうまく育ってくれたといえば言葉は悪いんですけども、本当に25年経ってここまでなってきたんだなと気持ちを非常に強く持ちました。だから大人だけが集まっている組織じゃなくて特別代表がおっしゃったロータリアンというのは家族の支援があって初めて成り立つんだぞというのは実はクリスマス例会のとき本当にしみじみ思いをいたしました。

城島健治

失礼いたします。ただいま高橋さん、神田さんからいろいろと小永井さんの思い出をお話されました。私もいろいろと考えてはきたんです。だいたいほとんどおしゃべりになりました。その内で私自身最初に小永井さんとお目にかかりましたのは1989年頃だと思います。宇治ロータリークラブ、スポンサークラブで常盤特別代表の研修を受けさせていただく。その時にチャーターメンバー30名が勢揃いしたのが初めてでございます。それからその時に会長は小永井さんということでご紹介がございました。その翌年には認証状伝達式、そしてチャーターナイトがあり研修を受けながら3月29日、ちょうど小永井さんの誕生日になんですね。その日に平等院で行われました。認証状の伝達式、チャーターナイトがあって、このクラブと小永井さんとの縁というのもその時に感じたのでございます。そしてそれからいろいろと小永井さんとお付き合いをさせていただきました。特に創立25周年を私がさせていただいた時にどういう事業をしょうかなということでいろいろと考えておりまして、自分自身の考え、思いを小永井さんに申し上げました。そうすれば「それやったらいいじゃないか、やってみたら」と、そういうお言葉をいただきまして背中を押していただきました。そして25周年のいろんな事業をさせていただいたわけです。ちょうどこの前に慰霊のお写真がございます。これもこの時に25周年に向けてケアンズロータリークラブと友好を結ぶと言うときに奥様もご一緒していただきました。そのクラブの思い出写真を1人ずつ撮りました。その時の写真でございます。大変思い出深い写真でございます。そしてお亡くなりになった日、3月20日、この日も我々7名で次年度30周年ということでケアンズロータリークラブにおじゃましている時に小永井さんの訃報を聞きまして、みんな、信じられない様子で言葉がなかったのです。又、酒田スワン25周年の時もご一緒し、その時は羽黒山へご一緒させていただいていろいろと思い出の多いことが沢山ございます。又、写真同好会がございます。そちらでもいろいろ特に中国黄山のほうにご一緒させていただいたり、大変良いお付き合いをさせていただきました。今年の3月、ケアンズに参りますちょっとその前、車の方ですがもう乗られないという事で、時々、城島君今日ちょっと送ってくれないかということで背中をポンと叩かれまして、どうぞ、どうぞと言って数回お送りしました。その時も今度30周年に成なりますな、あれから早いものでもう30年も立ってたんですなと話をされていただいたのがまだ昨日の事の様です。思い出ばなしはつきませんがこのクラブが発足し初代会長としましてこのクラブの道筋をつけていただいたと私は思っております。そういう思いでこれからもクラブに頑張っていきたいな。それが小永井さんに対するお礼になるのではと思っております。ご冥福をお祈りいたします。

堀井長太郎

皆さんこんにちは実は昨日は縣祭りでした。真夜中の祭りで皆さんご存知なんですけども、小永井さんが浴衣を着られて梵天渡御を観られているのがつい最近のこと。こんな早くお別れが来るとは本当に思いませんでした。実は小永井さんと私は古くからお会いしています。というのはここに大川さんがやはりますけども35年前、静山荘には照子さんと千鶴子さんというすごい大女将がおられまして、出入り業者で静山会というのを作ろうというときで、小永井さんはその時、荒川さんというお名前でした。私はその分時まだ会社に入って2年ぐらいでした。父親の代わりに行って来い言われ横に座ったのが荒川さんやったんです。それから約15年後くらいになって40歳になってチャーターメンバーのキーメンとしてそこでまた再開するなんて本当に思わなかったんです。それよりも小永井さんはいろいろ役を言われてすね、引っ張り出す。この人は絶対やられる方だなということで引っ張り出したのがうちの親父であったと思います。キーメンとしてロータリークラブ設立、そして宇治商工会議所の副会頭、それから宇治の簡易裁判所の民事の調停委員、さらに縣神社の総代、みんな何も嫌と言わんとやっていただいて私はそのオヤジが亡くなった後からは小永井さんを期待してこの人やったら行ける。お付き合いする。私はただ引っ張っていただいただけかなとつくづく思っておりまして小永井さんの姿を見ながらロータリーでも何でも失敗なく来たんではないかなと喜んでおります。ロータリーの設立の後は夫婦何でも参加せよということではないかと思っています。

ヌワラエリア、セイロンへ一緒に行かせていただいた。オーストラリアのケアンズも行かせていただきましたけども奥さんを大事にされる姿というのは本当にお慕いして、それをそのまま教えていただいたように思っております。

それからもう一つ小永井さんはすごいことをやっておられました。高橋先生のおっしゃったキリバス、ポリオミッションとか旅行いかれるたびにすごい紀行文を、感想文も作られております。先日もお悔やみに寄せていただいた時には枕元に本が数十冊積み重ねて置いてありました。これを読んでますと本当に小永井さんの人柄そのもの、また感想を、人を映し出されたものやと思って、読み直して本当にありがたかったなあとつくづく思っております。キリバスミッションの最後に小永井さんの人生そのものやったんと違うかなという文章を書かれていますのでそれをちょっとご紹介して終わらせていただきたいと思います。

それにしてもこれほど予想外の出来事が連発するミッションは始めてだった。同時にこれほど充実したミッションも初めてだった。イラついて慌てて憤慨し喜び落胆し嬉しさにしたり驚きとあらゆる感情が毎日時間ごとに押し寄せてくる。目の前に出てくるものにとりあえず対応し方法を考え動き回り何とかやっつける。日々そのような連続だったような気がする。長かったようでありあっという間であったように思われる。気が付いたら終わっていた。これほどの経験をさせてもらうことはこれからはもうそうあるまい。このようにおっしゃっています。おそらく小永井さんの人生はこの通りやったんだと思います。今日はよくお越しいただいてありがとうございました。これで終わらせていただきます。

最後に小永井会員のご長男、正継さんのよりご挨拶の方法をお願いしております。また小永井様よりはクラブにおきまして過分な御礼をいただいております。そして我々会員一人一人にもお土産を頂戴しております。ありがとうございます。よろしくお願いします。

小永井家ご挨拶

小永井正継 様

ただいまご紹介に預かりました小永井征也の長男であります株式会社京南の小永井正継と申します。父の征也の也はもらわずに、征の正しいの方をもらってしまいまして名前には也がないということ、ちょっと残念な感じなんですけども先程、見せていただきましたが1371回ということで概ね30年ぐらいということで父が鳳凰ロータリークラブを立ち上げようと思ったのが30年前やったのか、と改めて本日知ったような状況ではあるんです。仕事も一緒にしてたりとかする中でなかなか実はこういった話、ロータリーの話とか、仕事の話もほとんどすることがないままに他界しまして実際他界してから皆様方にこういった形で生前の父の活動をお教えいただく、そういう形になってしまいまして非常に恥ずかしいなと思いながら今皆さんのお話をお伺いしておりました。喪主の挨拶でも申し上げてたんですけども父は仕事とお酒とロータリーのボランティア、この三本がここ20数年来の本当に生きる糧やったかなと思います。それが年数と共にやはりボランティアにかける思いがどんどん強くなり、それを達成するために生きてたんかなと思うぐらいになりました。途中でベトナムかどこかへ行ってた時に、どこかの穴に落ちてけがしてというようなことがあって家族みんながもう行くのはやめたの方がいいんちゃうかと申し上げながら本人はまだまだ行くんやと言って、その後もまた何回もよせていただいて、参加させていただきました。病気のほうも今回はがんで亡くなったんですがそれまでに何度も入退院を繰り返しましてそのたびにあかんのんちやうかと実は家族の中で何度もあったんですけどもそれでもやはりこのボランティアにかける思い、ロータリーにかける想いというところが強くて、75まで頑張ってこれたんかなと思います。本当に生前は皆様にはお世話になりっ放しで本当に最後ご挨拶する間もなく逝ってしまいました。ただ今日ですね、父をしのぶ会を開催していただきまして本当に感謝しております。また私、母もお招きいただきましたことを本当に感謝しまして改めて父がどういった事をしてきたのか少しかいま見ることができました。本当に皆さん今日はありがとうございました。

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