故 太田壱将会員 追悼例会

2019年11月14日


堀井長太郎会員

皆さんこんにちは、まず大田会員さんのご冥福を心からお見舞い申し上げたいと思います。私と太田さん、チャーターメンバーということで一緒にロータリーをやらせていただきましたけども、それより以前から何か深いご縁というか、すごくありまして思い出がすごく多いです。またほうぼうなところでご活躍されておりまして皆さんもご存知と思います。私との深い関係と言いますか、事を思い出しながらお話させていただきます。

実は皆さんご存知のように私はお茶やで、戦後すぐ昭和30年代、私は幼稚園から小学校ぐらいの同級生です。もう大家族の中で過ごした思い出があります。お茶やが茶摘み時期になるとホイロ士さんという方が来られたり、修行される全国のお茶屋の息子さんお預かったりすごい大人数でして物事を食品等を買う場合はどれはどうというふうに決まっていたようでその中ですごく印象深いのが太田さんのほうの醤油ですね.当時は今でこそコンビニ等で小さな瓶とか、一升瓶とかありますがうちは樽でお醤油を持って来ていただいたりします。それも濃い口のお醤油でないとだめやったようです。薄口はまたお醤油屋さんで清水醤油、丸宇というところがあって、それぞれに使い分けさせていただいておりました。太田さんとこのお醤油は特にですね、お正月の前になりますとお餅つきがありましてお餅を大きく固めてまた薄っぺらく切って寒い間に乾かしておかきを作ります。そのおかきを焼くときの濃口醤油がおかきにしみてですね、この醤油でないとおかきの味が出ないなというすごく太田さんの丸五の亀甲の真ん中に蘭と書いてあったんです。それが非常に印象に残っております。

学生時代になると昭和40年代です。当時私の同志社の大学に通っていたんですけどもその同志社へ行っている学生ばっかりで宇治クラブというのがありまして、学部は関係なしに寄り集まって、その夏休み中に宇治の小学校の生徒を集め夏期学校というのを学生が先生をするわけです。そこで私は太田さんのお父さんと初めてお会いしました。その頃から同志社に行って昔のことですからそういう事業ができるということが懐かしいと言いますか、菟道小学校は確かに昭和43年ぐらいに今の場所から変わりましたがあそこの古い校舎で生徒さんを集めて1週間か10日ぐらいあったと思いますが先生役をやって、こないだもふとアルバムを見てますと太田さんとご一緒に興聖寺の前で写生してたんではないかと思いますけどもそういう思い出がありました。そのあとこのロータリークラブに入らせていただいてチャーターメンバーとして一緒にさしていただいたわけなんです。

当時、同志社は通園さん、寺川さん、奥山さん、私と結構、同志社の卒業の者が多くて、特に私と通円さんは同志社香里のほうから内部進学をして、お父さんは岩倉の本校でそこのご出身で、すごく誇りと同志社意識をすごく持たれていて、常にそういうお話を聞かされたような思い出が沢山ありました。また、このクラブの創立チャーターメンバーで鳳凰ロータリーが発足しましたがその初めのほうは何かロータリーの行事等があれば夫婦で出て来いということがすごくありまして太田さんのお母さんにも出ていただいていろんなところでお会いさせていただいた思い出があります。またおばあさんもうちの父親が商工会議所の会頭してた時に婦人部が設立されまして、その役員として婦人部の活動にすごく活躍していただいていた、そういう話を父親からも聞いていて、やはり太田さんと何かご縁があるなと感じておりました。そのあとも近くにある介護施設の私、理事をさせていただいていますがビラ鳳凰の評議員として入っていただいて槙島地区、福祉の事情を地域からお話していただいたことも大変印象に残っております。

このクラブでは19代目の会長としてご活躍いただきました。振り返ってみると太田さん会長でいながら幹事色もすごく勤められていたように思います。戸山さんの事務所に私も時々行ってたわけですけども、よく太田さんは通われてたようです。クラブの20周年に向けての基礎作り、しっかりと土台固めをやっていただいたのも太田さんのおかげではないかというふうに大きな足跡を残されたように感じております。

太田さんとはそのロータリー以外でも商工会議所の役員を一緒にしましたし、役員旅行というのがあって沢山、方々行かせていただきました。持ち前の温厚でやさしい暖かく私らに接していただいて第一声は長太郎君なあと、堀井君と言わんと長太郎くんなあとこういうお声掛けをいたのは今でも思い出されて、人の接し方とか、お付き合いのあり方の根本、そういうなの太田さんから私に教えていただいたように感じております。

来年クラブは30周年を迎えるわけですけどもご一緒にお祝いをしたく思っておりましたが本当に残念でございます。でもきっと天国から私たちのクラブの発展を見守っていただいている事と確信しております。これをもちまして追悼の言葉とさせていただきます。どうぞご冥福をお祈りいたしたいと思います。失礼します。

熊谷良生 会員

こんにちは、太田会員を忍んでゴルフの方で何か一言お話を、人柄というのは今、堀井さんから話があったように僕は一応入会してから太田さんとはゴルフを通じていろいろとお世話になりましたし、沖縄のほうにも沢山行かせてもらいましたがその時のことを少し話をさせてもらいます。

まず、僕が入会するきっかけになったのがゴルフを通じてなんです。ゴルフがあるから参加しないか。まぁ、僕もゴルフ嫌いでないのでいいですよとクラブのコンペに参加させてもらって2、3回そこで太田さんと顔を合わせました。それが終わった時点で雨堤さんともう今は辞めてますけども田村さんという方がうちの方に見えましてロータリークラブに入会員になってます。ロータリクラブって何ですかということでまぁその中でいろいろ話を聞いている間にももうニュー会員になっているからよろしくお願いします。入らせてもらったわけです。それから3年ぐらいしてから那覇西の記念式典に参加した時が沖縄に行った最初のゴルフやったんです。その時にロータリーの沖縄大会というのがまず日本でいくつか大会というのがあったみたいなんで。東京、北海道、沖縄、残っていたのが北海道と沖縄ぐらいしかなかったんです。それに参加させてもらってから毎年一緒に沖縄のほうにクラブとして行くようになったんです。その中でうちのクラブで行ってたのが大体常時4人というのが主やったんですがその中でティーショットと言いまして一番最初に打つところなんですけども僕と太田さんというのはだいたい距離的に同じぐらいなんです。それよりも20ヤードくらい先に雨堤さんのボールがあります。それよりも30ヤードぐらい先に南郷さんのボールがあるんです。いつもセカンドを打つのは僕と太田さんが並んでそこからセカンドを打っていくようなことでした。いつも思うのにあとの2人よりも20ヤード、50ヤード手前から寂しいねえと会話をしもって.それだけはどうしようもないので、幾ら頑張ってもそれ以上は飛ばない。僕がドライバーを打ってもそのぐらい。南郷さんがスプーンで打っても僕よりも50ヤードぐらい先に行っている。ゴルフをやる人はドライバーとかスプーンとか、そういうヤードというのはわかると思います。ゴルフに全然無関係の人はどういうことかなという話と思います。ヤード約1m ぐらいということで計算してもらえばわかると思います。

毎年2泊3日で沖縄で、午前中11時半ぐらいに那覇に着きます。そして昼からはワンラウンド、それから夜の会食、それは那覇西のメンバーも一緒にゴルフに参加してくれますので夜の会食は全部那覇西のメンバーさんが設定しといていただきます。一緒に、まあ、私は飲みませんけども太田さんお酒が好きで紹興酒や泡盛はそれを飲んでもやはり次の日はきちっとしてゴルフできるんです。それが毎年3月か4月ぐらいに定例の行事になっているぐらい。いつもなかの琉球とリンクス、それにあと有名なコースばかりでプレーするんですが1時、久世カントリーに行こうかということで太田さんが段取りをして行ったこともあります。久世カントリーというところは周りに湖があってその横に建物が建っている。一応リゾート地なんです。そこで2回ぐらいゴルフをしました。楽しい思い出も沢山作らしていただきましたし、ロータリーの中でのゴルフに関して沢山の思い出もいただけました。今年がちょうど、私、1月から体調を崩して入院してて太田さんが亡くなったということも全然知らなかったんです。たまたま帰った時に太田さん亡くなったということでええっということで今年はそういうことで沖縄には行かなかった。毎年毎年一緒に沖縄にゴルフに行くことを楽しみにしていたんですけどもこれからは一緒に行けないなと思うと本当に寂しくなってきます。

ゴルゴによってクラブの中で久しくお付き合いさせていただいたことも確かでございますし、またゴルフができる方が沢山入ってきて欲しいと思います。息子さんの方に関してはお父さんがこよなく愛したクラブの方にまたできれば一緒に活動ができれば幸い思います。よろしくお願いいたします。 

南郷孝 会員 

南郷です。ゴルフのお話ですがいつも沖縄へ行く時には、太田さん、雨堤さん、熊谷さん、それと入会した何年かは、大西さん、岩井さん、山形さんも元気に一緒にゴルフをさしていただいていました。

このメンバーの中でお酒を飲むのが僕と太田さんぐらいであとはあまりお酒を飲まれませんでした。泡盛のボトルを分けて最後まで飲んでいた思い出があります。

何でも人の面倒が見るのがものすごく大好き人間でした。ゴルフを一緒に回っていても自分のボールを探しに行ったらいいのに人のボールを探しに行ってくれるのはいいのですが、自分のボールがどこへ行ったかわからないようになってそしてみんなでまた探しに行くこともありました。やはりやさしい面がものすごくあったことを覚えています。ゴルフは沖縄と酒田のほうも行きました。いつもメンバーで行くと一将さんは僕の横にいて注ぎ合って飲みます。

一時体調を崩され入院されていて、また復帰していただいて元気な姿も見せていただいていましたが本当にあっけない、元気おられた人がこんなにあっけなく逝かれるのかなと今もすごく痛感しています。

これから太田さんにいただいた温情を大事にしていきたいです。

切地 会員

今日はありがとうございます。大先輩の太田さんのことを語るなんて私ごときがおこがましい限りだと思うのですがプログラム委員長のからロータリーの話、それから人柄については皆さんお話されるでしょうから消防の話をちょっとして頂きたいということでお受けしました。宇治市消防団には女性だけの朝霧分団を含め六つの分団がございます。その中で私は宇治分団、太田さんは槙島分団ということで分団の違い、それから入団年月に約20年のずれがございます。現役の時、私が太田さんと消防の事で接したことが無いものですからちょっとした勘違いや、こちらの思いこみで話をしてしまうことがあるかもしれませんがその時はお許しをいただきたいと思います。

太田壱将さんは1970年、昭和45年に宇治市消防団槙島分団、団員を拝命され平成18年3月31日、本団の副団長で退団されるまで実に36年という長きにわたり地域の防火防災の要として活躍されました。その中で特筆すべきは平成2年から15年の13年間にわたり槙島分団の分団長として異例に長く、槙島分団を引っ張ってこられたということであります。分団毎にいろんな事情というものがありますが13年もの間、分団の長を務められたというのは本当に大変だったと思います。火災現場にも何度となく出動されていたようですが分団長の在任中に槙島の六石山、槙島というのは非常に多くの飛び地を持っておられるところでありまして六石山というのは宇治市斎場、金井戸のもうちょっと南東あたりになります。そこで林野火災が発生した時に即座に分団員を招集、そして出動の時に訓示で消防団員として林野火災の三つの鉄則というものを述べられました。消防団員として、決して火を追わないという事。それから決して単独での活動、行動はしない事。そして必ず人員、機材の確認報告をするという事。この三つ、これは二次災害を防ぐためには必ず必要なことであります。これを太田さんは全員を前にして述べられ、そして出動、見事に消防職員と協力、鎮圧、鎮火され分団員全員並びに機材を無事帰還させられたそうであります。この時の太田分団長の活躍には目を見張るものがあったと当時の体験者は今も言われます。数々のご功績があって現役時代には12もの表彰をお受けになられました。そして退団後は平成24年春の叙勲におかれまして瑞宝単光章を受章されました。今年二月、そんな大先輩の太田さんと私は今まで消防のことでほとんど話すことはなかったのですが一度だけご相談に伺ったことがあります。消防団員の任期は2年が一期です。私は本来ならば宇治分団長として次の3月31日までは任期がありました。ところが事情がありまして任期半ば1年を残して辞めさせて頂きたいと言うことを太田さんにご相談に上がりました。太田さんは「なんでや、切地さん、あんたは団歴何年?」31年です。「31年やったら叙勲対象までもうちょっとやろ、もうちょっと頑張ったらどうや」と言われました。いやー自分は叙勲なんて大それた事は考えておりませんし、勲章を貰いたくて入ったわけでもないと申し上げました。理由というのは消防団には定数というのがあり宇治分団は有難い事に私が分団長になってからずっと満数の75名であった所に今年5名の入団希望の若者が現れました。やはり順番に年のいった者、それから辞めてもいいという者を順番にお願いに上がったのですけがどうしても1人分足りない。

そういう対象になる人がいなかったわけです。それと自分の身体的な問題がございまして現場に出ても皆に迷惑をかける事があれば申し訳ない。この二つの理由で辞めさせていただきたいのです、と申し上げました。その日は結論も出ずに失礼しました。只、家に帰った時に太田さんは私のことを思って言ってくれたのにあんな言い方もなかったんじゃないかな!次の例会でお会いしたら一番に謝ろうと思いました。そしたら次の例会で太田さんの方が私の方に駆け寄っていただいて、「切地さん、このあいだは悪いこと言ったなー、やっぱしアンタの言う通りや、やっぱり後進に道を譲るということは何よりも大事なことや」そう言われまして何かつっかえが降りたような気がして即座に上申書に私の退団の意向を書かせていただきました。そんな、いつもいつも寄り添っていただける太田さんでした。

ロータリーの事についても一昨年、私が会長をさせていただいた時に通常の夜間例会をやらせて頂きました。その理由というのは若い方に入っていただきたい。ただ、働き盛りの方は昼間時間が取りにくいからというような話をしておりましたら、また太田さんはその時に「本当やな、私もな、そろそろ息子に代わってやりたい。いい会やから、ぜひとも息子を入れてやりたい。ただやはり、現状では平日の昼間仕事から抜けるということは難しいから、それはもうアンタの言う通りやと思う。これからはこのクラブを維持していくためには例会の時間であるとか、いろんなことも考えないかんやろなー」ということを太田さんには言われました。いつもいつもそうやって私の考え方に寄り添って頂きました。太田さんが亡くなられる1年ほど前から現役の会員さんが太田さんを含めて3名亡くなられました。で、私がこの SAA の着任の挨拶をする時にそれぞれの方の個性で言わしていただいたのですけども太田さんの時はやはり『やさしい兄貴のような太田さん』と言わせて頂きました。そのような太田さんが今もいつも心の中には残っております。この4月、桜祭りの時、奥様と一緒に店の方に来て頂きましした。あの小柄な太田さんですが弱音を聞いたのはその時初めてでした。「こんな体になってしまってもうどうしようもない。タクシーを呼んでくれないか」もうちょっと待ってもらって送りますからと言ったのですが、いやいやいやという話になりました。そのあと4月の最終例会、ちょうど今日来て頂いております辻さん(城陽RC)、それから宇治RCクラブの左さん、それと雨堤さん、太田さんと私、同席させて頂き楽しい時間を過ごさせて頂きました。しんどそうなところはなく、お元気でした。あれが出席して頂いた最後の例会になるとは心にも思いませんでした。本当にお元気な姿が今も目に焼きついております。一緒に行ったスキーの話なんかもさせて頂きたかったのですけども・・・・・。ひたすらご功績を称え、そして私に対するご厚情に感謝し、そしてただただご冥福をお祈りしたいと思います。どうもありがとうございました。

高橋権也 会員

故太田会員は2008年から2009年まで第19代目の会長をなされました。会長テーマは「次代に花を咲かせよう」でした。

その年のRI会長のテーマは「夢を形に」でした。その目標はロータリアン一人ひとりに幸せと健康に恵まれた平和な世界を築くという夢に向かって共に歩もうとするものでした。

その年の地区の川端ガバナーのテーマは「次の世代にときめきを」でした。そこに住むすべての人達が生涯をそこで終えてもよいと思える街づくりを提唱しました。

太田さんの テーマ「次代に花を咲かせよう」はそれらを受けて、宇治鳳凰RCのそれまでの18年間の活動の伝統を引き継ぎ発展させて、それらの活動を通して次の世代がときめきを覚えることができ、美しい花が咲く社会の実現に向かって一歩でも近づきたいというものでした。

任期が終わる平成20年7月3日の週報コラム欄に西村大治郎パストガバナーの言葉を引用して次のような文章を投稿しています。少し長いですが、面白いので引用します。

ロータリーは紳士の修養道場であるから長期間にわたってロータリー生活を続けている間に目覚ましい人間的成長を遂げる。   具体的には ①視野が広くなる。②行儀がよくなる。③人柄が謙虚になる。④顔がきれいになる。⑤仕事が几帳面になる。⑥社交的になる。⑦話題が豊富になる。⑧話術が上手になる。⑨童心にかえる。⑩良い友達に恵まれる。

ここからが太田さんの言葉です。一年間会長を務めこの十徳を得る機会は随分増えました。しかし本人の心構えが悪かったこともあり、話題が豊富になる、話術が上手になるという徳は充分には得られませんでした。「最もよく奉仕するもの最も多く報いられる」というモットーを、会長職を終える頃になって改めて思い知った次第です。これからもこのことを忘れずにロータリーの十徳を得られる様活動していきたいと思います。と結んでいます。

確かに太田さんは自分から積極的にそのテーブルでの話題をリードする方ではありませんでした。しかし私たちがする質問には誠実に答えられました。わからないことがあると次回お会いした時に教えていただいたことが強い印象として残っています。

太田壱将さん静かにお休みください。

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