豊国神社とその歴史

2019年8月8日


神職

豊国神社権禰宜 田中神社禰宜

大島大直 

皆さんこんにちは。高いところから失礼いたします。石津君から紹介に預かりました豊国神社の権禰宜の大島大直と申します。本日は30分程どうぞよろしくお願いを申し上げます。本日私がお話をさせていただきますのは普段ご奉仕をさせていただいております京都は東山区にございます豊国神社のお話でございます。場所的には京都国立博物館の北隣にございまして大和大路通りに面しております。三十三間堂とか京都国立博物館のほうは割と人が行きましてワイワイとしておりますけども一歩中へ入りますと豊国神社あたりは割と静かなところでございます。ちょうど正面通りに面してございますので住所的には大和大路正面と言うことになります。

今日お話させていただきます豊国神社でございますけども京都の皆さんは大体、豊国(ほうこく)神社豊国(ほうこく)さんというふうにお呼びになります。正式にはと豊国(とよくに)神社と申し上げます。お祀りしている神様は皆様よくご存じの豊臣秀吉公をお祀りしている神社でございます。秀吉公のお墓も当所にございます。秀吉公はご生前のことはドラマでありますとか小説でありますとか、いろいろなことで皆さんよくよくご存知かと思いますけどもお亡くなりになった後どうなったかということは皆さん意外と知られない。お墓もどこにあるのということで知らない方が結構いらっしゃいますので今日は亡くなった後、死後の豊臣秀吉公についてお話をさせていただきます。

秀吉公は慶長3年の8月18日、西暦1598年京都伏見城において数え年63歳、満62歳でお亡くなりになります。当時朝鮮出兵中でございましたのでその死は極秘ということになりまして、亡くなられたということは伏せて朝鮮から撤兵すると言うことになります。その死が公表されましたのが翌慶長4年の正月元旦です。そして東山阿弥陀ヶ峰という山がございます。こちらのほうに秀吉公は葬られるわけなんですけどもこの阿弥陀ヶ峰に葬られたというのは秀吉公の御遺言なんです。御遺命と言いますけども、遺言によって阿弥陀ヶ峰に葬られます。この阿弥陀ヶ峰という山、これは奈良時代に行基というお坊さんが阿弥陀さんをお祀りしたので阿弥陀ヶ峰といますけども平安時代は鳥辺山と言われております。鴨川から東側は今の七条とかあたりは鳥辺野と申しまして、その中心地が鳥辺山、平安京の葬送の地であったわけであります。源氏物語では葵の上や夕顔が荼毘にふされた場所でもありますし、歴史上の人物でいいますと藤原道長でありますとか、その息子の頼通さん、この鳥辺野で荼毘にふされ宇治のお墓に葬られたと言うことになります。清少納言の枕草子にも出て参りまして峰は阿弥陀の峰と書かれております。大変、形の美しいきれいなお山でございまして昔から有名なお山でございます。こちらの方に秀吉公は葬られることになります。この阿弥陀ヶ峰という名前から秀吉公はこの山を選ばれたんだと思うんですけども秀吉公は死んだ後、神様として祀って欲しいとご遺言される、で、その神様というのが八幡様。八幡様というのは武神でありまして武の神様であります。その八幡様の新しい神様、新八幡としておまつりして欲しいという希望があったようでございますけども八幡様というのは存じのとおり応神天皇のことであります。朝廷はやはり当時から秀吉公の出自ということはよくよくご存知でございまして、陛下と同じ八幡という神号を名乗らせるのはちょっと問題があったようでございましてあらたな神号を秀吉公に与える。それが豊国大明神という御神号でございます。神様としてのお名前ですね。

この豊国というのは豊臣の国と言うわけではございません。これは古事記や日本書紀では日本の国名を豊葦原瑞穂国、豊葦原中津国、このように書かれております。この一番上の豊、一番下の国を取って豊国なんです。ですので秀吉公は天下を統一された方でございますのでその統一した天下を末永くお守りくださいと言う願いを込めて朝廷は秀吉公に豊国大明神というご神号を賜ったわけでございます。今風に言えますと日本神社、日本大明神みたいな名前がついたお社でございます。そして秀吉公は豊国大明神というご神号をいただかれ、正一位の位をいただかれます。正一位豊国大明神として京都東山阿弥陀峰の中腹に創建されました豊国神社で神様としてお祀りされるようになります。そのお祀りされるようになったのが西暦1599年、慶長4年4月18日のことでございます。4月の18日が豊国神社のご鎮座日ということになります。現在でもそうですけども4月の18日は阿弥陀ヶ峰の秀吉公の墓前で毎年お祭りが行われ、表千家、裏千家のお家元が隔年交代でお献茶をされております。豊国神社は豊臣家がその創業者であります秀吉公をお祀りするために創建した神社でございますので大変巨大で豪華な神社でございました。その境内の広さは30万坪と言いますから約100万平方メートル、東京ドームにするとだいたい21個分ぐらいの広さでございます。この境内の中には現在もございます三十三間堂、智積院、養源院、妙法院、そして方広寺大仏殿、これら全部がその境内地に取り込むという巨大な神社でございます。そしてご鎮座日であります4月18日、そして秀吉公がお亡くなりになりました8月18日、この2日間を例祭日と定めまして毎年朝廷からは陛下のおつかいであります勅使が参り、また大阪からは豊臣秀頼公の名代の大名の参拝があり、また町衆の参拝で大変にぎわっておりました。中でも慶長9年、1604年の8月に行われました豊国大明神臨時祭礼というお祭り、こちらは空前絶後の大祭礼であったというふうに伝えられております。

で、本日、当社の宝物としてその様子が描かれた豊国祭礼図屏風についても少しお話をさせていただきます。

向かって右側が右隻、左側が左隻、六曲一双屏風でございます。まずこの屏風につきましてお話させていただきますとまずこのお祭り、豊国大明神臨時祭礼というお祭りなんですがこれは京都でも毎年ありますような祇園祭、葵祭等、毎年行われるようなお祭りではなく、たった一度きりのお祭りでございます。このお祭りを記録に残そうということで、施主であります秀頼公が片桐且元を奉行としてお祭りを行います。そして片桐且元はその記録として当時の豊臣家のお抱え絵師でありました狩野内膳重郷という人物にこの屏風の作製を命じます。ということでこの屏風は豊臣家オフィシャルによる祭典の公式記録と言うことになります。文章としては信長公の伝記を書きました「信長公記」という本があるんですがその作者であります太田牛一という人が「豊国大明神臨時御祭禮記録」という書物でも残されております。文章と 絵の両方が残されて空前絶後の大祭礼は記録されているわけでございます。

詳しく見ていきますと右隻側、中央の上のほうに大きく描かれている建物が昔の豊国神社でございます。

三十三間堂があります。その上の屋根が養源院さんの屋根です。馬の行列が入って行こうとする門があります。この門が今の七条通に立っていたものです。場所的には大和大路七条の交差点のところ、国立博物館の西南の角です。大仏前交番というのがあります。あの辺り今、西之門町と言いますがこの門があった場所でございます。この門は今も現存しておりまして移築されています。皆さんもよくご存知の東寺さん、正門の南大門、1号線に面して立っているものがこの門です。東寺さんは鳥羽伏見の戦いで南大門とか近くにあります八幡宮とかが焼かれているんですけども、明治時代に方広寺西大門を移築して現在も残っています。もともとは慶長5年に豊臣秀頼公が作られた門でございます。今も三十三間堂の南大門、それに続く太閤塀というのが重要文化財として残っております。それに連続してあったものがこの門でございます。馬の行列が描かれております。これは神官と楽人さんによります二百騎による馬揃えの場面であります。馬揃えと申しますと京都で織田信長さんが行なった馬揃えが大変有名でございますけども、その規模をはるかにしのぐ馬揃えが行われております。建仁寺を出発いたしまして大和大路を南下、先程の門をくぐって神社にお参りをして照光院というお寺で終了という行列がありました。

続いて能楽猿楽です。舞台上では4人の翁面をつけた人物が能を奉納している場面です。この能を奉納しておりますが、大和猿楽4座合同です。金春、宝生、観世、金剛、この4座があわせて三番叟と思われる能を奉納しております。そして門の右左には御簾の下がっているところがあります。その下に桐紋の幔幕がついております。ここが豊臣家のお席です。この中には豊臣家の北政所様、当時は高台院さんと言いますけども豊臣関係の皆さんがこの御簾の中から能楽をご覧になっているという場面が描かれております。この能舞台のあるのが京都国立博物館の本館あたりです。今本館の発掘調査をしておりますけどもこのような遺構が出てこないかなと楽しみにしています。豊国定舞台と呼ばれておりまして秀吉公は大変お能が好きな方でございましたので毎年4月、8月の例祭のときには必ず能が奉納されておりました。

続きましてご覧いただきますのが門の下の階段の下で坊主頭の人が何か投げています。ここは田楽を奉納している場面です。この坊主頭の人が投げているのは小刀でございまして今で言うナイフのジャグリングみたいな出し物があります。田楽座の中には品玉師(しなだまし)という人がいらっしゃいましてその中の刀玉という出し物を奉納している場面でございます。

豊国神社の昔の本社でございます。権現造りと申しますけども、京都でいいますと北野天満宮さんの国宝の御本殿がございます。この御本殿は慶長12年に豊臣秀頼公が造営になったものですがこの御本殿をさらに規模を大きくして黒い漆を塗って金箔をバンバンと貼って彫刻で一杯飾るとこんな神社になります。後世に徳川家康公を祀る東照宮がこの形式を使ったために東照大権現をお祀りする神社の形式が権現造りと呼ばれるようになりました。東照宮はこの豊国社を、形式をそのまま踏襲しておりまして権現造りの最初のほう、始まりの部分の建物ということでございます。もし残っていれば世界遺産に間違いないだろうなというような建物がありました。この建物があったのが今の秀吉公のお墓の下に太閤垣という広場があります。そちらの方に建っていたわけです。東山七条から京都女子大学のほうへ上がっていく坂道のことを女坂と呼びますけども、あの坂道の突き当たりでございます。あの坂道は通称女坂といいますけども、正式には豊国廟参道になっておりまして、当社の敷地でございます。

続いて左隻です。有名なのが風流踊りという踊りが奉納されているところでございます。輪になってみんなが揃いの衣装を着て踊っているという場面でございまして、当時上京から2組、下京から3組、1組300人構成です。それが5組でましたので1500名の人たちが出たわけです。それぞれ豊臣家からお金が出ていますので、揃いの衣装を作り傘鉾という傘を真ん中に立てて、その周りで踊る。私たちは豊国踊りと言っていますけれども、当時は風流踊りといいます。風の流れと書きまして風流(ふうりゅう)と書きますけれども、読む時には風流(ふうりゅう)踊りというふうに呼びます。この輪になって踊るのが今も残る盆踊りの原型であり、これが阿波に伝わり阿波踊りになるわけであります。大変有名な屏風でございますので教科書なんかにもこの場面はよく載っております。大変面白い人物が描かれております。ちょっと画像が荒いので見にくいかもわかりませんが、この三角形の人物、これはタケノコの着ぐるみを着た人物です。今でいうゆるキャラみたいなものです。当時は「一つもの」と呼ばれまして、南蛮人の仮装でありますとか、七福神、あとは鍾馗様とか、そういった様々な仮装した人物が出てきます。その中でもとりわけ珍しいタケノコの着ぐるみを私たちは「タケノコ男」と呼んでおりますけども、これでちょっとキャラクタグッツなども作ったりしております。祇園祭にも孟宗山があるのをご存知の方がいらっしゃるかもしれませんが、中国の書物に24編の孝行話を記した二十四孝という書物がございます。その中に雪中のタケノコというお話がございます。ある時、真冬に年老いたお母さんがタケノコを食べたいとおっしゃるわけです。息子の孟宗という方が無理だと思いながらも山の中を雪をかき分けてタケノコを探しに行く、そうすると天の神様がその孝行な心に感じてタケノコを生やしてくれたというお話があります。おそらくそれを題材にした扮装だと思われますけれども、秀吉公はお母様であります大政所様を大変大切にされた方でございますのでおそらくそういうこともあってこのタケノコ男の扮装が出てきたんだろうなと思われます。 

それぞれの団体が控えているところでございまして、南蛮人の服装とか中心には傘鉾という大変飾った鉾を立てて待機をしている場面です。狩野内膳の落款も入っております。そしてこの部分、皆さんよくご存知の清水寺です。赤い建物は清水寺の名前の興りとなった音羽の滝。この舞台は徳川将軍3代の家光公が造営になったものです。その一代前の清水の舞台と言うことになります。ここに描かれている欄干に乗っかった子供、この子供は実は人間ではございません。蹴鞠の精霊なんですね。この欄干に乗った子供を見て驚いているという場面なんですけども、この蹴鞠の精霊が出た時には国家安泰天下泰平であるというお話が清水寺にございまして、それが絵の中に描きこまれているという場面でございます。

このように細かく見ていきますと大変楽しい屏風でございまして、通常当社にお越しいただきますと宝物館の方でご覧いただけます。宝物館の方は拝観料300円です。300円でこの立派な屏風がご覧いただけますのでぜひお参りいただきました時にはぜひ宝物館の方も合わせてご覧いただきたいと思います。

このように繁栄をしておりました昔の豊国神社ですけども慶長19年、1614年の大阪冬の陣そして1615年翌年の大阪夏の陣で豊臣家が滅んでしまいますとこの神社は廃社ということになってしまいました。これは幕府の命でそういうことになってしまうんですが社領地も没収、みんな追放と神社も燃やしてしまえというような命令がくだされるんですけども当時まだご存命でありました奥様、北政所様が徳川家康さんにお願いをされまして何卒ご本殿だけ残して欲しいというお願いをされます。家康公はとりあえずそれは聞き入れられますけども参道はふさがれてしまいますし、壊れてきて修理もできない、お参りできないという状態になりにして、だいたい江戸時代の中頃にはもう草むらに戻ってしまいまして跡形もなく無くなってしまったようでございます。

そして江戸時代はこの神社なかったわけでございますけども、明治になりまして明治天皇が豊国神社の復興の御沙汰を出されます。それを出されたのが実は大阪でして、大阪で神社を再興しましょうという話に一旦なります。やはり秀吉公といえば大阪城、大阪というイメージがやはり明治の初めの頃の人たちにもあったわけでございまして、それを聞いたのが京都の皆さん。もともと京都にあってお墓も京都にあるのだからということで大運動をなさいます。そして京都だ、大阪だという引っ張り合いがございまして、とりあえず明治6年に秀吉公墓前をもって別格官幣者という大変高い社格でもって神社は再興されます。そして新しい御社殿を建てなければいけないと言うんですがそれが京都、大阪を張り合っていたんですが、明治8年にとうとう国の方から命令が出ました。方広寺の大仏殿跡地に神社を再興しなさい。大阪にはその別社を作りなさいと言う命令がくだされた。そして明治8年に大仏殿跡地に決定されまして工事が始まります。そしてでき上がりましたのが明治13年のことでございます。西暦で言いますと1880年、現在の豊国神社は再興されましてこれで名実ともに秀吉公が27.07復興になったということになります。そして合わせて秀吉公のお墓のほうも何とか整備しなくてはならないということでございまして、阿弥陀ヶ峰のほうにもやはり再興の手が入ります。それには莫大な費用がかかるということで明治23年に豊国会という奉賛団体が東京本部で作られます。会長には黒田さん。黒田官兵衛の子孫の方です。そして副会長には蜂須賀さん。蜂須賀小六ですね。子孫の方がなられまして明治の元勲と呼ばれる伊藤博文とか山県有朋、井上薫、そういった方々がメンバーになりまして募金活動を始めます。明治31年がちょうど秀吉公のお亡くなりになって300年という記念の年でございます。その年までに何とかお墓のほうの整備をしましょうと言うことになりまして募金はあっという間に集まりまして整備が始まります。

そしてでき上がりましたのが今の豊国廟、大体明治35年頃の写真でございまして、これは女坂です。今は見る影もありませんけども東大路通りから石段を一直線に山のてっぺんまで作りまして、てっぺんに秀吉公のお墓が作られます。設計は伊藤忠太という方です。山のてっぺんには五輪の塔が建っています。これが秀吉公のお墓ですので写真ではあまり大きさはわかりませんけども高さ約10m あります。五輪の塔としてはおそらく日本一大きな五輪の塔です。機会がありましたらこのお墓の前まで行けますのでぜひお参りをしていただきたいと思います。ここに上がっていただくためには約500段の石段を登っていただくことになります。夏の暑い時はちょっと避けていただいて気候の良い時にぜひお参りいただいたらと思います。大河ドラマとかでいろんなドラマで秀吉公の役をされる方、大概お参りに来られます。秀吉というドラマが何年か前に竹中直人さん主演でありました。あれ以来竹中さん毎年お参りに来られます。いつもこのお墓の前までに来てお参りして帰られますね。一方本社の方ですけども豊国神社本社にお越しいただきますとまず目に入るのがこの唐門という門でございます。この内側には普段お入りいただけません。

ご参拝いただく時には賽銭箱の前でお参りをしていただくことになります。この唐門は国宝でございます。元は伏見城にあったものだというふうに伝えられております。伏見廃城後は京都二条城二の丸庭園の入口にありました。そして二条城から今度は南禅寺金地院に移されまして明治になりまして豊国神社のほうへ移築されてきた。これだけ大きな建物が何度も引っ越しをしております。もちろん昔は新築するよりも移築した方が簡単ですのでバラしてまた組み立ててということを何度も繰り返して今に残るという建物は沢山ございます。京都では国宝の三唐門、また京の三唐門と言いまして当社の門、それから西本願寺さんの唐門、それから大徳寺さんの唐門。この三つの唐門を京の三唐門と言います。大徳寺は聚楽第、西本願寺と当社は伏見城の遺構とそれぞれ伝えられております。唐門と申しますのは正面についております屋根の形、弓なりの形を唐破風と呼びます。この唐破風がついている門のことを唐門といいます。これが正面についてますと向かい唐門、これが横についていると平唐門と呼びます。その代表的なものが醍醐寺三宝院さんの唐門です。桃山時代の大変豪華絢爛なものでございまして沢山の彫刻がついております。彫刻に関しましてはよくご存知の左甚五郎です。ちょっと立派な彫刻がついているとすぐ左甚五郎の名前がでてきますけども、先日、日光東照宮に行って眠り猫を見てきましたけども甚五郎さんの彫刻だというふうに当社も伝えられております。門の左右の扉についております彫刻。鯉の滝登りの彫刻です。鯉は龍門の滝をのぼって龍と言われております。つまりこの門をくぐると出世する、登竜門となっているわけです。5月5日のこいのぼりも同じ意味でございます。そして屋根の蟇股の左右には鶴の彫刻があります。鶴は子孫繁栄の象徴でございまして、実はこの鶴には目の玉が入れてありません。甚五郎の目なし鶴という名前がついております。これは目の玉を入れると命が宿って飛んでいってしまうから入れなかったんだよと言う伝説つきでございます。実はこの豊国大明神と書かれているこの額の左右に今の鶴の彫刻があります。この額の裏にはその中に小さな鶴がいます。そういう彫刻があるんですけどもその額があるためにその彫刻まではご覧いただけませんけども、この額は慶長12年に時の天皇であった後陽成天皇が豊国神社に奉納されたものです。昔の豊国神社が廃社となった後は妙法院に伝えられておりまして現在の豊国神社が再興された時に妙法院から返却されたものが今の国宝唐門にかけてあるというものでございます。

今の豊国神社はこの方広寺大仏殿跡にこざいます。この門のあるところに今、神社の鳥居がありましてその前の石段、その左右の石垣が今も残っております。お越しいただいた時にはこの昔、大仏殿の跡であった今の豊国神社、お参りいただきまして、隣には方広寺というお寺があります。昔有名な方広寺大仏殿の国家安康の鐘が野ざらしで置いてあったという写真でございます。昭和48年まで胸から上だけの大仏殿が方広寺に残っておりましたがこれも昭和48年に燃えてなくなってしまいました。大変残念なことなんですが方広寺の大仏は大変災害に合う大仏でございまして昔から地震雷火事親父、いろんな災害を受けている大仏です。京都の皆さんは京都の災害を一身に背負って代わりに受けたんだというふうに伝えられております。そういうことも思いながらこの大仏殿周辺、秀吉公の遺跡が沢山ございます。またお越しいただきましたらぜひ当社にもお参りいただきまして400年前のことを思っていただければなと思います。本日はこうやってご縁をいただきまして皆さんの前でお話させていただきました事を大変光栄に存じます。暑さがこれからますます厳しくなって行きますのでどうぞお身体ご自愛のいただきましてこれからの活躍をお祈り申し上げます。本日はご清聴誠にありがとうございました。

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