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ガバナーアドレス

2017.10.10ガバナーアドレス2650地区ガバナー 田中 誠二改めまして皆さんこんにちは。ただいまご紹介ございましたように国際ロータリー2650地区の2017~18年度のガバナーを拝命します田中誠二と申します。1年間どうかよろしくお願いをいたします。さて、ご案内の通り、私は6月11日で還暦を迎えさせていただきました。人生の60年という大きな節目を迎える中、ガバナー職を拝命させていただきました。1年間自身の使命を全うするよう、意思と覚悟を持って取り組ませていただきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。さて、今日は宇治ロータリークラブさん、そして宇治鳳凰ロータリークラブさん、この二つのクラブの合同公式訪問例会の開催ということで早朝より市内から楽しみに出て参りました。まずは2クラブとも共に2年間連続して合同での公式訪問、例会開催のご理解をいただきましたことを改めて御礼を申し上げます。宇治ロータリークラブさんは2年後に60周年、そして宇治鳳凰ロータリークラブさんは2年後に30周年をお迎えになり、それぞれクラブでは創始の哲学や想いを大切に、先達ベテランロータリアンの皆さん方々のご努力でクラブの発展に尽くされ、現在に至るまで50名近い会員を維持されながら地域に根差した奉仕プロジェクト、或いは奉仕の精神を国際的にも広げる卓越したお取り組みをされていることに改めて敬意を表し、感謝を申し上げます。さて、まず始めに、ガバナーの公式訪問の役割について、皆さんにご紹介したいと思います。まず一つ目はロータリーの会員の皆様方の最大の関心事について詳しくわかりやすく説明せよという役目であります。それはとりもなおさず今年度の国際ロータリー、イアン・ライズリー会長の年次テーマであります「Rotary: Making a Difference (ロータリー:変化をもたらす)」の言葉に集約されたライズリーRI会長の想いと、今年度国際ロータリーの運営の構想について、今日はそれを中心にお話しさせていただきます。このRI年次テーマを受けて地区スローガンを「愛着と誇り」に定めさせていただきました。後半は、「愛着と誇り」のスローガンに基づく私の想いと1年間の地区運営についてアドレスいたします。二つ目の役割、これは皆さんご存知の通り、私たちロータリアンは日々の例会や奉仕事業への参画を通じて、ロータリアンとしての奉仕の志、心を磨き高めることを大きな使命としています。もっと一歩踏み込んで言うならば、ロータリーは、多様な実業人、職業人の集まりでありますので、職業を通じて私たちは地域社会に日々貢献し、それぞれの職業を高潔なものにし、倫理を重視しながらそれぞれの仕事の道徳的水準を高める努力をしています。このことに加えて私たちは、ロータリアンとして奉仕の精神を磨き、心を高めることのみならず、具体的に地域の課題に対してソリューション、問題解決を提供する。或いは地域の具体的な助けの声に手を差し伸べる形で奉仕事業を組み立てるといった具体的なアクションを引き起こすことが求められています。換言すると磨いた奉仕のマインドを行動に移し、奉仕活動を実践展開すること、ぜひ、奉仕事業に参加くださいということを私はみなさん方に啓発する役目があります。既に、私が申しあげる前に2クラブともに奉仕事業については、我が地区に97クラブある中で、卓越した奉仕活動を実践いただいています。例えば宇治ロータリークラブさんは先日も洛南タイムスに取り上げられましたスリランカの子供たちに食育の事業を展開しながら地域の課題である栄養の改善と普及活動に取り組んでおられます。私も存知あげませんでしたが、スリランカでは若い世代の糖尿病、これに悩む方が非常に多く、食生活の改善を通じながら地域社会を豊かに健康にして行こうという取り組みはまさにライズリー会長が提唱される「人々の人生をプラスに変え、地域に変化をもたらす活動」であろうと思います。また西 宇治 地域の助けを求める声に応じて、中国からの帰国子女の方々に対する様々な支援活動を宇治ロータリークラブさんが一生懸命になって地域と連携して日本語の能力の向上、識字の向上を含めた大きな貢献をこれまで長年されていることは大変素晴らしい地域に根差した奉仕プロジェクトでもあります。さらに、宇治鳳凰さんでは、我が国で初めてウミウの人工ふ化に成功したことに着目され、これを大きな地域経済の目玉にし、そして子供たちにとっては郷土愛や地域の誇りにつなげていく奉仕事業を展開されています。このウッティーの支援事業、これは3年間限定でやろうという枠組みの中で、ロータリーの支援が終わった後も地域が自立して、この郷土の宝を大切に育み、そしてこの事業を持続可能な地域の発展、創生につなげていこうという大きな志の下で展開される奉仕事業の取り組みだと私は思いました。このように、2クラブともに親睦と奉仕を大切にして、これらを連携・融合させることで、クラブの発展につなげて行こうという想いが藤井会長、切地会長の所信からかいま見ることができます。それぞれのクラブの志が奉仕の人の和の広がりとなってクラブの発展にこれから大きく貢献し、私たち2650地区にもプラスの影響を与え、変化をもたらすことに繋がるものと確信します。改めてライズリー会長のプロフィールについてお話しします。イアン・ライズリーさんはオーストラリアのご出身です。オーストラリアをご存知の方は地図を思い浮かべていただきまして、メルボルン市と言うオーストラリアで2番目に大きな街があります。そこから20分ほど北東に行ったところにサンドリンガムという街があります。そのサンドリンガムロータリークラブのご出身で、奥様のジュリエットさんも実は同じくロータリアンでガバナーの経験者でもあります。サンドリンガムロータリークラブは、会員数が27名で、比較的小さな規模のクラブからRI 会長が輩出されました。ライズリー会長は自分のクラブのことを次のようにおっしゃっています。クラブ会員数の多寡に関係なく、世界の地域の課題を解決するために、或いは、地域からの助けの声に応じて手を差し伸べるために、ダイナミックでインパクトのある奉仕事業を世界のロータリアンのネットワークを上手に活用しながら企てて、実践できることがロータリーの醍醐味であり、良い点であると明言されました。ガバナーになるにはいくつか関門があります。ガバナーノミニー及びガバナーエレクトの2年間にわたって RI から指定される研究会、研修会、或いはセミナー、諸行事に必ず参加することが義務付けられます。この間に改めてロータリアンとして資質を高め、ロータリーの知識を深耕することに努めよと命令が下るわけです。ガバナーになるための勉強の機会の集大成が、毎年1月に米国カリフォルニア州、サンディエゴという軍港の町で8日間にわたり開催される国際協議会への参加です。これがガバナーエレクトとしての最後の研修会、セミナーとなるわけです。ここには全世界540の地区からガバナーエレクトが集まり、その多くはご夫婦お揃いでの参加ですから大体1000名規模のコンベンションです。ご夫婦と言っても539のうち103名のガバナーエレクトは女性でいらっしゃいますので、その場合はご主人方のご同伴でした。国際社会ならではと思ったのは、夫婦が正式な婚姻の関係でなくても、パートナーとしての登録が許されるという、そういう仕組みでありました。話が脱線しましたがこの539のガバナーエレクトが世界中から集まった国際協議会の席上、最初の全体会議でガバナーエレクトのライズリーさんの肉声を聞くことができました。それから何回か全体会議、そして分科会、或いはランチ、ディナーもラウンドテーブルで、ディスカッション形式でパワーランチ、或いはワーキングディナーと称してまさに8日間ロータリー漬けの日々を送らせていただいたわけです。  ライズリー会長の複数のアドレスの中で重要な視点をいくつか紹介したいと思います。ライズリーさんはロータリーの集会は全世界どこに行っても共通点があります。それはロータリーの会合にはロータリアンの良き心の香りがするとおっしゃいました。会場に特に特別な匂いや香りは実際はしないんですけれどね。  ただ昨年は皆さんよくご存知の通りアーチ・クランフが1917年にアトランタの国際大会で世界に良いことをしようということでロータリー財団を建立しました。最初に申し上げたようにロータリアンとしての私たちの務めは奉仕の心を磨き、高めることのみならず、その行動、具体的な気持ちの証として奉仕事業に参画する。奉仕を組み立て実行していくこと。これも私たちの大きな役割であるということを申し上げました。アーチ・クランフが建立したこのロータリー財団は100年にわたり世界中に人道奉仕を中心に奉仕事業を展開してまいりました。ポリオ撲滅運動もそうですし、識字率の向上や水と衛生、母子の健康、疾病の予防、地域の経済発展や紛争の解決等様々な観点から奉仕事業を世界中のロータリーネットワークを使って運営をしてきたのがロータリーです。 その実績の後押しをしたのはいうまでもなくロータリー財団であるということは衆目の一致するところではないかと思います。そしてこの本日の例会もそうですけれど、みなさん方の良き心、奉仕を通じて地域社会をより豊かに、そしてそれがひいては世界の平和と繁栄につなげていきたいと言う一人一人の志がその良き心としての香りをかもし出したのではないかと思いました。さて、 ライズリーさんの「Rotary: Making a Difference (ロータリー:変化をもたらす)」このメッセージは大変シンプルであります。それは私たちの奉仕活動を通じて人々の人生をプラスに変える。そしてそのことが私たちの地域に、国に、そして世界に変化をもたらし、やがては私達ロータリアンの一人一人の心の中にプラスの変化、これはより良き人生を歩んでいるという実感、或いは奉仕事業を通じて少なくともこの人たちの人生を、おこがましい言い方ですがプラスに変えたねと言う実感。そのプラスの良き心の充実感がクラブにあるからこそロータリアンは長年これまでもこれからも地域をクラブを愛し、それぞれの発展に尽力する、そういう変化をもたらす。そういう一年にしたいというのがライズリー会長の想いであり、願いであります。そのように見ると私たちはロータリアンとして少なからずロータリーに入って自分たちの人生がプラスに変わった。これは人との出会い、そして様々なこととの出会い、それぞれのクラブにおいて、ロータリアンとしての充実した奉仕と人としての成長の実感が共有されるからこそ、これまでクラブに所属することが楽しくて、そしてそれが次なる奉仕への気持ちに繋がっていくのではないかと思います。ライズリー会長は、私達ロータリアンが地域や世界にプラスの変化をもたらして来たからこそ、私たちのクラブ、ロータリーの存在価値は高められたとおっしゃっていました。さて、ロゴをご覧ください。実は私、国際協議会に行くまではこのロゴに対してあまり関心を寄せてはいませんでした。ライズリー会長はじめスタッフの皆さんは、国際ロータリーの年次テーマを広めるために1年間の思想設計、コンセプトである年次テーマの概念をマーク、ロゴに表現することに大変力を注ぐとおっしゃいました。今年度のロゴについて少し触れさせていただきたいと思います。余談ですが、毎年、このような「ロゴ」を作成するのに大変な時間と労力が傾注されます。そしてそれはそれだけ大きな意味合いが込められているということです。丸の中に高さの違う円柱があって、そしてそれぞれに色合いをつけて、居並ぶような形で位置しています。これはとりもなおさず人種の壁、或いは国境、言葉の違い、或いは国の社会体制やジェンダーの違いがあるかもしれませんがそれぞれの異なりをロータリアンが認めながら相互に敬愛して力強く奉仕の理想に向かって、高みを目指して全世界で活躍している様子を示したのがこのロゴだそうであります。200の地域、国にまたがり、123万人の国際組織であるロータリーが、その年次テーマをわかりやすく会員の皆さんに伝え浸透させるために、自分たちの思想設計をロゴの中に凝縮させて、造形化することに心血を注ぐという手法に対して、改めてなるほどなと腑に落ちました。このように考えてみると皆さん昨年のアメリカ合衆国ご出身のジョン・ジャーム会長のロゴを覚えていらっしゃるでしょうか。或いは2年前のスリランカ出身のラビンド・ラン会長のロゴを覚えていらっしゃるでしょうか。ご紹介しますとライズリー会長年度のロゴは、この円柱でしたけれども、前の会長、お二方に共通するのは、地球儀をモチーフにしたロゴでした。ジョン・ジャームさんはアメリカ出身ですので、世界地図の中心には北アメリカ大陸が大きく描かれています。日本は多分その裏側に位置するはずですから全く見えません。  ラビンド・ランさんはどんな世界地図、グローブだったかというと中央に大西洋です。我々日本人になじみのある地球の地図というのは太平洋が真ん中です。だから日本はちょうど真ん中に位置します。ラビンド・ランさんは大西洋が真ん中で、右がヨーロッパ、アフリカ大陸、左が南北アメリカ大陸で日本はちょうど裏側にあってこの年のロゴも見えませんでした。これは何も国際ロータリーが日本パッシングをしているという事ではなくて、改めてライズリー会長は、ロータリーも世界も人が中心で、真ん中であることを私たちは忘れてはならないと仰っているように私は感じました。といいますのも2016年の規定審議会の結果を受けて様々な柔軟性がクラブにもたらされることになりました。これは定款に例外規定を設けてクラブが柔軟性を発揮できるように細則でその例外を定めることができるようになりました。ちょっとおさらいになりますけども、例会は月2回以上でいいよ。或いは会員の資格は従来の正会員、或いは名誉会員に加えて法人会員、准会員 、家族会員を設定しても良いし、ローターアクターも二重会員として在籍することが細則で決められるということになりました。また、会費や入会金に関しても、これまでは平等の原則であったものが会員資格に応じてとってもとらなくてもいいし、入会資格に応じて変えてもいいと言うことになりました。これをもってライズリー会長は、2016年の規定審議会の結果を受けて、どのようなクラブの仕組みにするか、クラブの運営に変化をもたらすかは、これは所属するロータリアン、そしてクラブが決めること。RI がああしてくれ、こうしてくれということは一切ありませんと言うことをおっしゃいました。それからもう一つ重要なことは、ロータリー112年の歴史の中で、全世界123万人の会員、そして35000以上のクラブ、これを繋いできたもの、これは改めて「倫理の重視と超我の奉仕への献身」。繰り返しますと「倫理の重視と超我の奉仕への献身」。これはこれからも今までも変わりがないロータリーの普遍的な原理、プリンシプルであることを強調されました。そして私たちの言葉で言うとまさに不易流行の視点で、ぜひクラブの柔軟性は様々いろんな形で反映はできるけどもロータリークラブとして倫理の重視、超我の奉仕への献身、これだけは変えないでください。これが私たちロータリーの中核的な、普遍的な精神であり、これからも新しい世代に対して伝え育み、守るべきものというふうに明確におっしゃったのが大変印象的でありました。最近のRIのシニアリーダーや歴代RI 会長のアドレスの中で、超我の奉仕への献身と倫理の重視について、ライズリー会長ほど強調された年度はなかったと記憶しています。人道奉仕の重点化に向けて積極的に奉仕プロジェクトを企て、設えて、やり遂げることに加えて、公共イメージの向上、クラブの基盤の強化等の戦略的優先項目を中心に取り組んでいくことは、各クラブ、地区ともにたいへん重要な領域ではあります。そして、守るべきものは守り、変えるべきものは変える中でロータリーの普遍的な精神であります倫理の重視、超我の奉仕への献身が改めてRI 会長のアドレスの中で強調されたことに対して私は少なからず大変感銘を受けた次第でありました。大いにインスパイア、触発され、やる気になりました。今まではいろんな迷いがありましたけれども、やはりロータリーはこうなんだ、これでいいんだという確信に満ちた想い、ロータリー観を描けるようになったわけであります。改めて1923年のセントルイスの国際大会で採択された社会奉仕の声明文に描かれたロータリーの基本理念を思い出しました。ロータリーとは基本的には人生哲学で私たちの心の中には二つの気持ちがある。一つは自分自身の利己的な気持ち。もう一つは、一方で世のため、人のために尽くしていきたい。日本語で言うと利他的な気持ちを大切にしたい、この利己的な気持ちと自他的な精神、この二つの二律相反する気持ちの対立軸、相克(そうこく)に対してこの迷いを和らげるのが超我の奉仕だと決議23-34の中では解説をされていました。さて、これは超我の奉仕を理解するのに大変わかりやすい声明文だと私は解釈しています。超我の奉仕、Service above Selfというのは大変難しい概念ではありますけども、私はこれを自分の人生の座標軸を自分軸のみならず世のため、人のためという広く社会、世界に座標軸をおいて、常に職業や奉仕活動を通じて地域社会に貢献する姿勢を持ってロータリアンとして取り組んでいくことと理解しています。その取り組みの原点がこの超我の奉仕であろうと実は私は思っております。そのように考えるとロータリー112年の歴史の中で私たちは超我の奉仕や倫理の重視を謳ってきたけれども地域社会、或いは世界の情勢はどうであるか、ライズリーさんはこのようにもおっしゃいました。今も昔もずっと道徳の危機、或いは紛争の危機、これは終わらない課題で、だからこそ地域社会に私たちロータリークラブが必要ではないかと強調されました。つい最近、日本においても世界で活躍する上場会社の倫理にもとる不祥事がありました。こうした事案、事件を見るにつけ、私達のロータリーの精神はこの時代だからこそ地域社会に必要ではないかと思いますし、ロータリーの哲学は、社会が求める規範意識ではないかと改めて思う次第であります。ライズリー会長はクラブの自治、自立、自主性、これが守られてこそ、そして実践されてこそロータリーの発展があるともおっしゃいました。そういった意味でこれから、ライズリー会長が提唱される持続可能な発展をクラブに反映させるという視点で、60周年、そして30周年を目指されるそれぞれのクラブのみなさん方が会長を中心にぜひ未来志向でこうありたいという理想の未来像を描いて、ロータリーは単年度制ではあるけれど、会員増強や奉仕事業を中長期の観点から少なくとも直前会長、会長、会長エレクト、会長ノミニーの4世代が連携して構想され、取り組む必要があるのではないかと思います。最後になりますけども、22世紀を迎えるとき、ロータリーは、それぞれのクラブは、存続できているのだろうか?私たちは今、まさに真価が問われる時代を生きています。80年後、自分たちは生きていないから関係ないというのではなく、将来を見据えたダイナミックな視野を持って私たちの活動を見直し、どのようなクラブにしていきたいのかを考えていく必要があります。ロータリーの奉仕の精神を次世代、さらに次々世代に伝えていくために、ともにさらにもう一歩踏み込んで考えていきたいと思います。是非、様々な観点からこれからのクラブの発展について、クラブに所属するみなさん方が若い世代、或いはシニア世代、老壮青、男女、バランスよくそれぞれのロータリー感の違いはあるけれど、考え、行動していただきたいと願います。私たちの人生にとってロータリーは何を意味するのか、我々にとってロータリーは何なのかを考え、それぞれのロータリー観を温め、そして自分たちの仕事、地域、クラブ、それぞれに愛着と誇りを持ちながら是非、クラブ内でロータリアン同士がその思い談論風発いただきビジョンを描くことで素晴らしい2017-18年度を築いていただきますことをお願い申し上げて私のアドレスとさせていただきます。本日はご清聴ありがとうございました。またちゃんちゃんこをありがとうございました。

2650地区 米山奨学生

 2650地区 米山奨学生「ハンガリーから始まった少女マンガ研究」カールビッチ・ダルマ本日は、私がどのように故郷のハンガリーで日本のマンガ文化を発見したかと言うことと、そこからたどり着いた日本で行う少女マンガ研究についてお話させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 ハンガリーは中央ヨーロッパにある小さな国です。ハンガリー人がアジアから馬に乗ってヨーロッパにたどり着いたのは西暦895年であり、王国として認められたのはそれから100年後でした。それからの歴史の中でハンガリーは色々な民族の襲撃を受けるようになります。 オスマン帝国や ハプスブルク帝国の次に第二次世界大戦の敗戦の後、ハンガリーはソ連の影響下に置かれ、40年間社会主義の東側諸国に組み込まれた国家となりました。1989年にハンガリーはソ連の影響から逃れ、民主主義国家となり、そして 2004年には、ヨーロッパ連合に加盟するまで至っています。 私は 1981年にこのハンガリーに生まれ、子供時代を社会主義のゆるめられた最後の10年や、それから訪れる突然の自由に戸惑った時代に過ごし、日本のマンガと出会いました。私は日本のアニメと出会ったのは1993年でした…と言うよりも、この時点で見ているアニメが日本製だということを発見しました。実際、80年代の間に民主主義の国からのコンテンツ輸入が以前より許されるようになり、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』なども映画館で見ることができましたが、日本で制作された作品ということが知られていませんでした。しかし、ハンガリーが90年代に民主主義になってから外国のテレビ番組が自由に見られるようになり、 おかげで私はドイツのテレビで日本のアニメを再発見したのです。 現在、世界中で最新のマンガやアニメがファンの興味を得ている状況ですが、インターネットが普及する以前の90年代前半には当時のメディア環境のおかげで70年代や80年代のアニメが沢山放送されました。私にとって一番衝撃的だったのが 70年代の有名な少女マンガ作品、『ベルサイユのばら』でしたが、それ以外も 60年代末の『アタックNo.1』や 『リボンの騎士』、70年代の 『キャンディ・キャンディ』などの昔のアニメを多く見ました。そのため、 古いマンガやアニメに対する抵抗がなく、むしろ好きになり、マンガやアニメの歴史に強い関心を持つようになりました。この経験がなかったら、恐らく私も、現在、日本に来ていないかもしれません。そして、日本で60年代の少女マンガを研究しているのも『ベルばら』などのおかげだと言っても過言ではありません。 90年代後半にテレビでアニメが増えるにつれて、少しずつハンガリーでもマンガやアニメが知られるようになりました。マンガやアニメに関する仕事に努めたいという夢を持っていた私に2000年代に入るとそのチャンスが与えられました。 大学に通いながら2003年から4年間小さな非営利ラジオステーションでマンガとアニメに関するラジオ番組を放送していました。番組を通して色々な人とつながることができ、おかげで大学を卒業した時に、マンガの翻訳や、新しいマンガ・アニメ情報雑誌の記者および編集に携わる仕事につくことができました。しかし、 ハンガリーの面積は日本の約4分の1ほどであり、人口は12分の1しかないため、市場の規模は非常に小さいです。そのため、世界金融危機の影響でハンガリーの経済が悪化した時、サブカルチャー的なマンガ・アニメ市場は崩れてしまいました。この状況で私はマンガやアニメに関する仕事を続けられなくなりましたが、あえてこれをチャンスとして捉えました。私は90年代後半からドイツ市場のおかげでマンガを読めるようになりました。2000年代に入ると、すでに、日本の少女マンガとは世界的なマンガの成功に重要な役割を果たしている、独特なジャンルとして世界中で認識されていました。海外のコミックスは元々ほとんど男性向けであり、女性たちは日本のマンガで初めて自分のためのマンガを発見したのです。しかし、それらはほとんど最新の作品だけであり、私が好きになった昔のアニメの原作にあたるマンガを読むのは困難でした。それでも、マンガの歴史に強い関心を持っていた私は、出来るだけ昔の少女マンガについて調べ、やがて現在の研究の出発点となった、少女マンガ史の偏っている有様に気づきました。 少女マンガは少年マンガと同じぐらい長く存在していますが、原点として扱われる手塚治虫の1953年に発表された「リボンの騎士」以外には、70年代以前の作家や作品についてほとんど言及されていません。70年代は、「少女マンガの黄金時代」として注目され、この時期に発表された革新的と言われる作品、例えば 私が大好きだった『ベルサイユのばら』や 萩尾望都の詩的な吸血鬼マンガ『ポーの一族』や (22) 竹宮惠子の成長物語『風と木の詩』などが多くの人々に語られました。しかし、マンガは文化でもあり、ビジネスでもあります。私は、業界のレベルで突然の大きな変化はあり得ないと思い、70年代のいわゆる「革命」に疑問を抱きました。そのため、70年代直前の忘れられてきた時代、60年代の少女マンガに注目し始め、その研究のために2013年に来日しました。 日本で研究を始めて間もなく少女マンガ史が偏っていることの一つの理由が分かりました: 70年代以前のマンガを研究するのは極めて難しいことです。現在、マンガはマンガ雑誌での連載を経て単行本で改めて出版されるのが一般的ですが、70年代以前には、このシステムがまだ存在していませんでした。新装版単行本がほとんど出版されず、マンガ作品は雑誌とともに捨てられ、消えてしまいました。マンガ史は基本的に単行本を元に成立しているため、単行本時代以前のマンガ史で隠された時期や作家、作品などが多くあり、必然的にそれらの記録は欠けたままとなっています。 これに気づいたため、自分の研究を60年代の少女マンガ雑誌に基づかせようと決めました。当時の少女マンガは週刊誌によって形成されたため、 研究対象として一番人気の少女雑誌で1963年に創刊された『週刊マーガレット』と姉妹雑誌の『別冊マーガレット』を選びました。しかし、そこで新たな困難が待っていました。マンガ雑誌は昔から捨てられるものだったため、雑誌の多くが消えてしまい、子供の一時的な娯楽として長い間図書館で保存しようとされませんでした。その結果、現在、昔のマンガ雑誌が全部揃っている施設は存在しません。  しかし、近年、マンガの文化的価値が認識され、資料の保存が重視されてきたため、マンガを多く保存する施設がいくつか立ち上げられています。加えて、文化庁がメディア芸術、つまりマンガ、アニメ、ゲームなどの長期保存に向けてデジタルアーカイブ事業というプロジェクトを始めました。簡単に言えば、マンガなどのデジタル保存のことです。デジタル化を通して資料の劣化を防ぐことができるようになり、アナログ資料ではあり得ない新しい使い方も可能になります。例えば、デジタルでしたら、地理的な制約がなく、たとえ海外からでも資料にアクセスできます。しかし、この理想を現実とするためにはまだ著作権などの問題を解決しなければなりません。 日本にある貴重なマンガ資料を有効に使えるために適切なデータベースも必要です。私が2013年に研究を始めたころ、マンガに関する情報を得るのは非常に困難でした。第一に、マンガ雑誌を保存する施設の共有データベースがなかったため、図書館を一つ一つ調査しなければなりませんでした。第二に、雑誌やマンガ作品の具体的なデータ、物語やテーマ、作家の作品リストなどのデータベースが存在しませんでした。ところで、現在、第一の問題が解決しました。以前述べた文化庁のメディア芸術デジタルアーカイブ事業において、いくつかのマンガ関連施設の共有データベースが作られ、2015年にメディア芸術データベースとして公開されました。このデータベースで マンガ雑誌や単行本などの書誌データが集まれており、 協力する施設にその資料の有無に関しても情報を提供しています。このデータベースはまだ開発中ですが、いつか完成したら、マンガ研究者や一般読者にも貴重な情報源になるはずです。 メディア芸術データベースは、マンガ雑誌のコンテンツも収集し始めましたが、数が少ないため、使い道がまだ限られています。もちろん、私の研究に必要な雑誌のデータもまだ記録されていません。そのため、私はこの数年の間 60年代の少女マンガを知るために『週刊マーガレット』の創刊の1963年から1970年にかけて出版された約400冊と姉妹雑誌の『別冊マーガレット』の約75冊のデータを取りました。調査を通して、60年代の少女マンガ市場が大きく変わったことが分かりました。これからこの変化を紹介したいと思います。 少年向け雑誌と同じように、戦後の少女向け雑誌はまだマンガ雑誌とは言えませんでした。 例えば、50年代前半においては『少女ブック』という少女月刊誌でマンガの割合が10%しかありません。この時ではマンガより小説や絵物語が誌面のメインでした。しかし、50年代の間に娯楽メディアが段々ビジュアル化し、子供向け雑誌ではマンガが主役になってきました。この流れの延長線で1963年に『少女ブック』の跡継ぎとして創刊された総合雑誌の『週刊マーガレット』でもマンガの割合がどんどん増えていき、最初の33%から1970年には75-80%まで至っています。作品数や作品のページ数も増えていき、60年代末には現在知られている「マンガ雑誌」が誕生しました。 掲載作品数が増えるにしたがって新たなマンガ家が必要になりました。60年代のもう一つの大きな変化はマンガ家のジェンダーと世代の交代でした。50年代の少女マンガ家はまだほとんど男性でした。手塚治虫の『リボンの騎士』が一番多く知られていますが、『仮面ライダー』などで知られる石ノ森章太郎や 『おそ松くん』の赤塚不二夫も少女マンガを描いています。そして50年代後半に最初の女性作家が登場しました。例えば、手塚治虫に衝撃を受けマンガ家になった水野英子や、貸本マンガでデビューしたわたなべまさこや、リカちゃん人形のデザイナーとして知られる牧美也子などです。彼女らは60年代の間も作品を発表し続け、少女マンガのベテランとして活躍しました。水野英子は ハリウッド系のラブコメディーを描いたあと60年後半にアメリカの社会問題についてのマンガを発表しました。家族や双子もので知られたわたなべまさこのマンガは心理的重みを獲得し、88歳の今でも大人女性向け作品を発表し続けています。牧美也子は 60年代前半に『銀河鉄道999』などで知られる旦那さん、松本零士と共作の少女マンガも発表しました。 60年代の少女雑誌ではすでに意図的に女性作家を募集し、次々と非常に若い女の子をデビューさせました。また、新しい作家の一部が貸本少女マンガから移動しました。例えば、 アメリカンラブコメディーでブレイクし、テレビドラマにされた『奥様は18歳』の本村三四子や、『アタックNo.1』で大人気のスポーツ少女マンガを描いていた浦野千賀子や『ベルサイユのばら』の池田理代子も60年代後半にこのようにマーガレット系雑誌で活躍し始めました。京都造形芸術大学に務めた志賀公江は同人誌でデビューし、その後『週刊マーガレット』で活発な、強い女の子についてのマンガを描きました。60年代に影響力が強かった西谷祥子も同人誌出身であり、 彼女の装飾的な絵柄や日本の学園を舞台にしたロマンスを描くことが、多くの若い作家の願望でした。 しかし、60年代にマンガ家募集の一番重要な方法はマンガスクールでした。『週刊マーガレット』の姉妹雑誌、『別冊マーガレット』がスタートさせた(現在も続けられている)、将来のマンガ家を育てる「別マ少女マンガスクール」がすぐ成功し、他の少女雑誌にも導入されました。美しい絵柄で知られる高橋京子や、楽しいラブコメ、 その中でもテレビドラマ化された『美人はいかが?』を発表した忠津陽子や、現在もなお続いている『ガラスの仮面』で知られた美内すずえなど、60年代や70年代の重要な作家がここでデビューしました。 60年代の少女マンガに新しい若い作家たちも重要でしたが、当時のメディア環境もマンガのテーマと相互関係にありました。例えば、60年代前半に少女マンガがお姫様に注目した時、他の記事では 日本の皇室や 外国のお嬢様(例えば、最近まで日本での米国大使と務めたキャロライン・ケネディ)について書かれました。時代の変化とともに 記事がファッションやアイドルに移り、この傾向がマンガ作品でも反映されました。しかし、反映されたのは楽しいことだけではありません。アフリカやベトナムでの戦争について複数の記事が書かれ、そして 強い反戦メッセージを持って複数の少女マンガが発表されました。同じく、当時行われた悲しい集団水難事件や 飛行機ハイジャックについてもマンガが描かれ、少女マンガは社会の移り変わりに敏感なジャンルとなっていたのです。  少女マンガは現在も多様ですが、近年、イメージが極めて狭くなり、恋愛ものだけのジャンルと思われるようになってきました。多様なテーマを表現できるジャンルであると伝えるためにも、少女マンガの歴史的多様性を再確認する必要があります。もちろん、私の研究の第一目的は少女マンガの系譜の整理と今まで忘れられてきた重要な歴史的なマンガ資料の記録ですが、この時代の少女マンガを現在のマンガ読者にも紹介してゆきたいです。『週刊マーガレット』の調査を終えても、これはまだ第一歩にしか過ぎません。目的を果たすまで、特に再紹介に関しての課題がまだ多いです。将来はこの目的に向けて頑張りたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

~週末ライフワーク~

2017.9.7~週末ライフワーク~菊地勝彦菊地です。今日は私がすごくハマっているというか、素晴らしい世界やなと思っている自転車について皆さんの貴重な卓話の時間をいただいて発表させていただきます。この機会を通じて自転車を皆さんに知っていただいて、息子さんやお孫さん、もちろんここにいらっしゃる皆さん方にも、ちょっと興味が湧いたらある程度の知識を持って自転車を購入したり、走ったりできるようになっていただけたらありがたいなと思っています。まず、宇治川上流でツーリングをした動画を見てください。(動画上映)では私が今まで自転車と言う乗り物にどういうふうに接してきたかということからお話します。初めて自転車に乗ったのは小学2年の頃で普通よりはちょっと遅かったんですが、それ以来すごく自転車でどこかへ行きたい、遠い所へ行きたいという思いがありました。ある日、宇治まで行ってみたいなと思いました。住んでいるのは黄檗なのでその年代の子供にとって宇治とは結構遠い場所やったんですが、それでも道順が大体わかっていたので友達に声をかけました「宇治まで行こうやないか」と。で、当日がきました。誰も来ないのです。後で訳を聞くとお母さんが危ないし行ったらあかんって言わはった、ということでした。私の母はその辺寛大なのか、鈍いのか、好きなとこへ行っていいよと言ってくれてたんで1人で宇治を回って帰ってきたんがまあ、ちょっと自転車で遠いところへ行く一番最初のきっかけになりました。その後、小学4年になると親戚が大阪の牧野にありまして、そこまでもだいたい自分で道順がわかってきたんで1人で牧野まで走って行ったりしていました。それから中学に上がるとランドナーと言うタイプの自転車を手に入れることができました。ランドナーとは長距離の旅をするための自転車なので、これで日本一周したりできるぞ!とよく考えたりはしていたんですが、実際はそういう夢もかなわず悶々とした中学時代を過ごすことになりました。高校に入りまして山岳部に入ったんです。その中で、部員の同級生の中で、同じタイプの自転車に乗っているものが2人もいまして、3バカトリオと言われるぐらいにいつも3人で山岳部の装備を持ち出しては丹後半島一周やら琵琶湖一周のロングツーリングに出かけることができるようになりました。その中で丹後半島一周の時にあったアクシデントなんですが、クランクの所に付いている大きいギアの中心にベアリングが入っています。それがどうも自分で組んだ時に組み付け方が悪かったみたいで、走っている最中に中でギヤが砕けてしまったんです。当時、あの部品はフランス製の、もう、小遣いをはたいて買ったようなものでしたので、修理に専門工具がいるんです。でもそれは持っていくのを忘れていて、地元のおっちゃんになんとか修理をお願いしたんですが、専用の工具は無いし、傷がつくのは惜しいけれど、これ以上ここに滞在していても迷惑をかけるからということで、まあ、荒い作業で泣く泣くベヤリングを直してもらったという経験がありました。また、大晦日の日にも走っていて、かなり暗くなってからテントを張らなければならなくなってしまって設営地を探していました。ある民家の横が広く空き地になっていたので、ちょっとこの民家の方にテントを張りたいんやけどと聞いてみますと、まあ張ってもいいよということで快く承諾していただいたのでテントを張ることができました。ところが、なにか朝起きるとどうも顔が水につかっている。耳の中に水が入っている状態で、爆睡していてふっと起きたらそこら辺、一面水たまりになってまして。えー!と思って外へ出てみるとそこが田んぼやったんです。明け方に降った雨ですっかり水が溜まっていまして、そら、水はけが悪いはずや、と。そういうハプニングもありました。自転車は学生時代はそういうことで親しんでいたのですが、その後仕事やいろいろありまして自転車からはちょっと離れておりました。そんな中で25歳のときに足首を骨折しまして、2ヶ月ほどギブスを巻くことになりました。ギブスを取るとすごくふくらはぎがもう細くなって歩けないような状態になってました。それで、慌てて近くのアスレチックスジムに通うことにしました。そこで自転車とは関係がないのですが、水泳に興味を持ちました。とにかく泳ぎたい。当時100m のクロールが泳げなかったんでとりあえず長く泳げるようになりたいということで練習をしていたところ、ジムの方から水泳大会の参加を誘われます。それで、その大会に出させてもらったところ、いきなり入賞してしまって、なにか自分ってすごいっていう気持ちになったのと、初めてそういう、表彰をされるという経験をして、競技というのは面白いもんなんやと気づいたんです。その当時トライアスロン競技が結構流行っていました。琵琶湖でアイアンマン(鉄人レース)というのがありまして、これにすごく憧れるようになりました。トライアスロンというのはご存知の通り水泳、自転車、最後にランニングの3種類の競技を一つのレースとして連続してする過酷な競技なんですね。もともと自転車が大好きだった私はすぐに挑戦してみたくなりました。そうは思っていましたが、すぐに出られるかと言えば、トライアスロンの大会は前もってこれまでの競技実績等を記入しまして申し込みをして抽選をして、その抽選で選ばれるとやっと出場 OK という流れをふまないと出られません。なので、そんなにすぐには出られないなと思っていたところ、たまたま友達がある理由で出られない大会があるからそれに出てみないかという話になったのです。地方の初心者対象の大会で、スイムが1キロ、バイクは20キロ、ランニングが5キロというちょっと短い大会に出させてもらえることになりました。それもいきなり3位に入賞してしまって。代わりに出てくれと言った本人が結構慌てていて、ワシよりなんでという雰囲気でした。そんな経緯があって、どんどんトライアスロン競技にはまっていくわけです。で、25歳から始めて5年くらいした頃、どうしても長いレースに出たくなりました。最終的にはアイアンマンレースに出場したい。当時、琵琶湖のアイアンマンというのも、もうなくなっていて、国内で長いレースというと皆生温泉でのロングタイプのレースと、佐渡島のコースが一番長いものでバイクだけで190キロと、かなり長い過酷なレースです。あと宮古島というところでストロングマンレースがあります。南の島で泳げて綺麗でいいよと言う話を聞いていたので宮古島にすごく憧れていました。宮古島に出たい想いは募りましたが、やはり長いレースを踏まえて挑まなくては、そもそも抽選に参加できないので、まず最初は佐渡島のレースに参加することにしました。水泳は3.9km 、沖に小さな船があり、そこでターンするのでどんどん沖まで泳いで行くんですが、たどり着くとその小さい船はじつはすごくでっかいフェリーでした。それを折り返して帰ってきて、次に佐渡島一周の自転車です。島というのはすごく起伏の激しい外周でして、登ったり下ったりを繰り返して190km。とりあえず自転車で帰ってこれたんですがもうその時点で体力を使い果たしていまして、もう放心状態なんです。次のランニングをする気力というか、頭がそういう方向に向かなくてただ、ぼーっと呆然としていると応援に来ていたかみさん(奥さん)が「お父さんこっちこっち!」と言ってランニングのグッズのあるほうを指すんです。「ああ、声かけて欲しくなかったな、休んでたいのに」というのが正直な気持ちでした。なんとかランニングを走り出したところ、2キロ走ると足がつってくるんです。はぁと思って、補給地点に向かいます。そこにたどり着いて水を飲みたいのですけれど、もうその手前で足がつって伸ばして、という状態で。普通ランニングというのは5時間ぐらいで完走ですがその時は7時間ぐらいかかってしまって。今から思えば人間使ってはいけない力を振り絞らないとあかん時があって、その時それをすごく振り絞って帰ってきた結果、もう20歳ぐらい老けたような状態でゴールすることになりました。でもそれで頑張った結果、ついに宮古島の大会に出られるようになりました。宮古島の水泳のスタートですが、参加人数が1500名います。ヨーイドンで第1ターンに向かって泳いでいきます。それで第一ターンというのは幅が制限されていまして、10m ぐらいしかありません。そこへ向かってヨーイドンですから。そこまで500m ぐらいあるんですが一番全力で行って苦しい時にその第一ターンを迎えますので、もうここでとにかく辞めたいとか、もう溺れるとか、そんな感覚がすごく頭の中によぎって、もう逃げてしまいたい自分の気持ちを必死で抑えつつ泳いで、まあ何とか耐えて帰ってきます。前の選手がいきなり平泳ぎをして、かかとがゴーグルにめり込んだこともありますし、もう蹴られたり殴られたり格闘技みたいな競技です。それから帰ってくると次は自転車です。浜から上がっていってバイクトランディションという自分のバイクを置いてある場所でウエットスーツを脱いで、ウエットスーツの中にある程度自転車の服を着ているのでそのまま走り出すことができます。5回連続出場したんですけども、3回目の時にあるはずのものがなかったんですね。自転車には専用のバイクシューズがいるんですが、それをどうも忘れて来てたみたいで靴が無い。ウワーどうしょうと思って。まあ、とにかく裸足で乗らなしゃあないなということで、裸足で150キロ走りきるわと思って走り出したんですけど、もう5キロも走ってないうちに足の裏が攣って来まして、これはとてもやないけどあかんとなって、マーシャルという監視しているバイクの人がおって、その人に、ちょっと宿までシューズを取りに行っていいですか、コースアウトしてもいいですか、と問うたところ、大丈夫や行ってきなさいということで、宿に駆け上がって靴を履いてまたコースに戻ったという、そういう経験があります。後に、他のクラブの会報で、何かはだしで走っている変な人がおったというのをきっちり載せられた、という。ハプニングというと他にも、この宮古島トライアスロンではないんですけども、当時加賀、福井ですね。そこで石油が流失してすごく海岸が汚れたという事故がありました。その時にちょっとでも加賀という場所を注目してもらうためにトライアスロンが開催されて私も参加しました。その時に自転車のパートで直線を走ってたんです、一本道で。ところがなぜか気が付いたら目の前に田んぼがあって。そのまま田んぼの中に自転車ごと突っ込んだんです。泥だらけになるわ、田んぼは一坪ほど稲をなぎ倒すわ、フレームは変形するわでもう最悪です。その後もレースを続けてランニングに移りまして走ってたところ、みんなが振り返るんですね。この泥だらけの人間はなんやということで。それでまたテンションが下がってすごくまた辛いレースになりました。トライアスロンの自転車はちょっと特殊なものでして、ポジション的にはDHバーという二本の棒状の持ち手がハンドルの真ん中のところに付いています。DH ポジションというまあ言えばタイムトライアルでちょっとでも空気抵抗を減らすために上半身を前に深く倒して両腕を伸ばすような姿勢で乗ります。それで車みたいに時速40km近くで走り続けたりできるわけです。ランニングについてはこれもすごく勝負どころになります。水泳が終わってバイクで走って、そこまでをいかに体力を温存して進めるかで、力を残して最後のランニングに賭ける方もおられるし、できるだけ自転車で頑張って逃げて、あとはランニングはもう我慢大会という形で勝負をする人もいます。僕は後者の方なんで得意の自転車で稼いでおいてランニングは抜かれっ放しです。抜かれるとなにかエネルギーを吸い取られるようなすごく不思議ないやーな感じになってくるんです。そんな感じでランニングは私の一番苦手とする種目でした。ちょっと話が逸れましたが、それで、自転車から42.195kmのランニングをして、宮古島のゴールを迎えるわけです。順位が決まって表彰をもらうんですが、5回連続参加させてもらって一番最初は1500人中で200位という順位をもらいました。この大会の一番の特徴は完走Tシャツという、完走した人だけがもらえるTシャツがありました。その当時、PAPASというアパレルメーカーが協賛しておりまして、そのPAPASの格好良いポロシャツの袖口にその順位が入っている物がもらえるんですね。速い人はガツンとその数字を見せて、弱い人は袖口を折ったりして、ちょっとでもコレクションとして順位の高い表彰というか完走Tシャツの、より小さい数字のを、できれば2ケタなんかやったらめちゃくちゃカッコイイ、そういうのをもらいたいと思ってました。で、次の年が体調を崩していたこともありまして順位がちょっと落ちました。それでももっと何とか順位を上げたいということでだんだん練習量も増やして、ちょっと順位が上がってきました。それで4回目になりますと103位、大幅にジャンプアップです。宮古島は毎年応募するんですけども非常に申し込み者数が多いんで、いつ外されるかわからないという危機感がすごくありました。来年も出たいなと思えば100位以内に入ることでシード選手扱いになるんで確実に出られるようになります。その時はもう必死やったんで、頑張って100位以内に入りたいと思っていまして次の年、挑んだところついに65位という順位をいただきました。なぜか9時間がきれなかったというジンクスがあるんですけども、最後のランニングが3時間29分ということで普通のランニング単品で出たときよりもいい、ベストタイムがこの大会で出せて、いかに体調とか、モチベーションとか、いろんな要素が絡み合ってすごくいい状態でレースができたかがわかります。この時のランニングは、いつもはエネルギーを吸い取られる方だったのに、エネルギーを吸い取った側に回りましてすごく楽しいというか、軽快な走りができました。それで帰りまして、かみさんに「シード選手とったから来年もバッチリ出れるわ」と言ったら「いやいやいや、もうこの辺でやめといたほうがええ。もうこれ以上の順位は望めへんやろ」と言われまして、そういうたらそうやなと思いました。まあ有終の美というか、一番上で辞めるというのもあるな、潮時かな、ということですんなり納得しました。実際この頃になると週に17時間確保という感じでトレーニングに時間を割いていました。朝は5時に起きて10キロランニングして。仕事を終わって1時間自転車に乗って1時間走るとか、そういう生活がずっとやったんで体も多分、免疫とかも落ちてたのか顔は水泳のプールの塩素にやられて肌がカサカサになっていたり、後、一番びっくりしたのが、息子が二人いるんですが、長男と次男が六つ年が離れています。なかなか次男ができなかった。トライアスロンをやめた途端に次男が生まれたということで、そういうこともあるんかなと、いかに体力を使い果たしていたかということがありましたね。そんな中、次に何かやりたいなとは思っていたんですけどもなかなか新しくスポーツとか、そういうのが見つけられなくて、ちょっと悶々としていました。そんな時、仕事で一般のお施主さんから家をこうしたいんやとご相談を受けてその家にお伺いしました。すると玄関口に明らかにシリアスなランナーが履くようなシューズが転がっていました。ウーン、何か走らはんのかなと気になって、商談が済んでから「すみません、玄関に転がっている靴はご主人のですか?」と聞くと「いや、わっしゃウルトラやってんねん」と。「ウルトラって何なんですか?」と聞くと「ウルトラマラソンや」。「ウルトラマラソンって?え?」と言ったら、「100キロ以上走るのがウルトラマラソンと言うんや」と教えてくれました。100キロかぁと思って、今までフルマラソンしか走ったことがなかったので、100キロの世界というのはまたすごい世界なんだろうなと興味が湧きました。それで、それからその方にお世話になっていろいろ練習とかつき合っていただいて、1年後に和歌山県の那智の滝のあるところで開催される「奥熊野いだ天ウルトラマラソン」というのに初めて参加しました。那智の滝というのはかなり山の方にあるんですね。そこがスタートで、さらに山の中に駆け行くマラソン大会で、ふと周りを見ると電信柱もないし、何にもないし、もう文明を示すようなものが一つもないような場面もありまして、すごく高低差の激しいタフなレースでした。藤森プログラム委員長:(時間ですよ!)もう30分も経ったんですか。せっかく皆さんの前で自転車を披露しようと持ってきたんですが、その説明はおいといて、この前、乗鞍岳に行ってきました。その動画を映させていただいていいでしょうかね。そのシーンだけ見てくださいませ。(動画上映) ご視聴ありがとうございました。

「混迷する消費税制度について」

2016、10、13 税理士 金井恵美子物品税と消費税ひとつの税には、必ず長所と短所があります。したがって、異なる種類の税を適度に組み合わせて、全体としてバランスの良い公平なデザインをするというのが、近代税制の姿でございます。消費税の前に間接税の中心であった物品税は、贅沢品に課税して生活必需品には課税しないという考え方で、贅沢品と判断されたものとその税率を課税物品表に掲名して課税する税でした。この課税物品表は、さながらブラックリストの様相ですが、急激に大きく変化する消費態様にうまく対応してリストアップすることはできません。しかもサービスには全く課税しないので、公平性、中立性が確保できないという問題があり、課税範囲が限定的であるため、税収も低迷していました。消費税の役割は、まず直接的な期待としては、この物品税の不公平を解消し、間接税分野の税収を上げることでした。何を買おうが、どのような消費をしようが、とにかく同じ税率で一律に税がかかるという公平を実現し、そうすれば税収も格段に上がります。消費税は、物品税とは反対に、医療や教育や社会福祉といった特定のものだけが非課税になります。これはホワイトリストアップです。名指しで「あなたは課税しない」と言われたものだけが課税されない、それ以外は全部課税されるわけですね。どのような形で商品開発をしても、ホワイトリストに載らなければ課税されます。所得税と消費税現在は、所得税とペアを組んで、所得税が担うべき公平の側面、消費税が担うべき公平の側面、こういうバランスで、国の基幹税となっています。所得税は、貧しい人の税は安く、裕福な人の税は高くなる税です。子どもがいる、医療費がかかったなどという納税者一人ひとりの事情に配慮するため、どんどん複雑になります。消費税は、消費者が負担した税を事業者が申告納税をする間接税として仕組まれています。したがって、国からは一人ひとりの負担者である消費者の顔は、全く見えないのです。物を買う人がお金持ちか、貧困の中にあえいでいるか、そんなことは見えないのです。見えないから、人それぞれの所得の大きさに応じた税負担というものは考えられません。それは、所得税が引き受けています。消費税がこの国で所得税とペアになって存在するという存在意義は、所得税にない別の角度の公平、何もかもに一律に課税するという公平です。すべての人に、すべての消費に、画一的に比例税として負担を求める、このことが良い特長ですね、所得税とは違いますね、といって税制全体のバランスの中に取り入れられたわけです。したがって、単一税率であるということが、消費税の命、ということでございます。ヨーロッパの失敗食料品について軽減税率を入れるということは、相手の顔が見えないのに、何らかの累進的な措置を入れようということなのですね。まるで、物品税のように。日本には、物品税を捨てた歴史があります。ヨーロッパでは、軽減税率を入れても低所得者のためにはならないばかりか、それによって減らした税収を補うために標準税率がどんどん高くなるという失敗の証明があり、単一税率の付加価値税は理想的なデザインだと評価しています。OECDやIMFは、単一税率の国に対して、複数税率を入れないように警告しています。その物品税を捨てた歴史と失敗の証明にもかかわらず、複数税率に移行するという日本の方向性は、世界の多くの研究者にとって、ミステリーということになるでしょう。税制に関する議論の中で、どの政党が何をおっしゃっているかということには、私どもはあまり興味がございません。しかし、あるべき税制の理想的な姿から外れていくのであれば、外れていくだけの相当な理由が必要である、と考えているわけです。痛税感の緩和このたびの軽減税率導入について、政府は、国会で何度も何度も、「痛税感を緩和するため」と答弁されています。買い物のたびに安くなっていることを消費者が実感して、痛税感を緩和すると。こういう理由を第一に掲げられたわけです。痛税感の緩和には、どういう意味があるのでしょうか?痛税感はあったほうが良い、というのが租税理論の基本でございます。国民一人ひとりが税を払っているという実感を持ってこそ、あるべき税制を考える議論に真剣に参加する、税の使い途を監視する機能が働く、というのが租税理論の基本でございます。痛税感を緩和するというのは、見ないでください、あまり議論しないでください、目の前で物が安ければいいでしょうと、こういうことを言っているに等しい。これは、国民を、納税者を、英語ではタックスペイヤーと言いますが、税を支払って国を支えている納税者に対する、少し失礼な考え方ではないかな、と私どもは思っております。逆進性の緩和そして、2つ目は、消費税の枠内で逆進性を緩和するという説明です。逆進性というのは、所得の少ない人ほど所得に対する税の負担率が高くなるという意味でございます。たとえば、所得が100万円の人が全部使って10%の税率で10万円の税を払うと、所得に対する負担率は10%になります。これに対し、1億円稼いだ人が9000万円貯金して1000万円を使い10%の税率で100万円の税を払うと、1億円に対する100万円ですから所得に対する負担率は1%となります。10倍の税金を払っていますが、負担率は10分の1です。これを逆進性と表現いたします。貧しい人は、稼いだもの全部を使います。お金持ちは、充分に貯金します。だから、消費税には逆進性があると批判されるのですね。しかし、この批判は的外れです。なぜかというと、消費税は、税の負担者の顔を見ないで何もかもに一律に公平に課税する、その点が良いところですよ、所得税とは違う特長で全体のバランスの中で役割を果たしてください、ということで税制の主要なメンバーに入れられたわけです。それを今さら、所得税に比べて逆進性があるからけしからん、というのは、これはお門違い。消費税の逆進性は、所得税や社会給付によって補われるべきなのです。支出の時点で負担を軽減する支出の時点で負担を軽減するというのは、例えば100円のものに8%、10%と違う税率で、108円と110円という値段が付いたとします。そうすると、貧しい人が食料品を買う時に、財布から出ていくお金が少なくて助かるということです。生活に困窮する人に、年が明けて、所得の計算をして貧しいことが証明されたらお金をあげる、といっても暮らしは成り立ちません。お金が出ていく時点で救済することができるところが、軽減税率の利点であるといわれています。しかし、企業のトップにいらっしゃるみなさまはお分かりだと思いますが、消費税の税率で物の値段が決まるわけではありません。消費税も含めた需要と供給の関係で、市場の力によって、物の値段は変わるわけです。軽減税率が適用される、標準税率が適用される、それは表面的なことに過ぎません。108円になるはずのものが、本体価格を102円に上げたら、たちまち110円になります。イギリスでは、食料品と子供服は0%になっていますが、標準税率を引き上げると、これらの商品の値段も総体的に上がると報告されています。支出の時点で低所得者の対策となるというのも、実は幻である、ということになります。転嫁のチェーンが切断されない非常に専門的なお話になりますが、非課税は、仕入税額の非控除によって転嫁のチェーンを切断するけれど、軽減税率はその問題がない、という論点がございます。売上げが非課税ですと、その仕入れは仕入税額控除ができません。控除できない税は、事業者の利益を圧迫する、あるいは、本体価格に潜り込んで消費者の負担となる、これを「転嫁のチェーンの切断」と呼んで、非課税は、消費税にとって非常に良くない制度だとヨーロッパの研究者はいいます。日本の研究者もいいます。軽減税率であれば仕入税額控除ができるので「転嫁のチェーンの切断」がないということでございます。それはその通りなのですが、では、現在ある非課税についてもあらためて議論する必要があるのではないか、という疑問が生じるところでございます。軽減額と軽減率28年度税制改正によって軽減税率が法制化されたわけですが、先ほど申し上げましたように、政府の答弁の中心は、痛税感の緩和と逆進性の緩和という2つの理由でした。そこで、今回入った軽減税率によって、逆進性がどれほど緩和されているのかということを、数字で見てみたいと思います。財務省が公表した数字をもとに、作成したグラフが2ページにございます。グラフの縦棒の短いところ、これが一番所得の少ない人たちです。右に行くほど、所得の多い、稼ぎの多いグループに上がっていきます。この棒の長さは、金額です。10%の標準税率に8%の軽減税率を入れたときに、1年間にどれだけ消費税の負担額が減るか、というのが棒の縦の長さでございます。一番所得の少ないグループの人は5000円~6000円ぐらいしか減りません。一年間の金額です。そして、一番所得の多いグループの人の平均は、18000円程度となります。というのは、お金持ちのほうが高い食材を買います。生活を切り詰めて食費も切り詰めている人よりも、贅沢に食べたいものを食べている人の軽減額が多いのは、当然のことです。そして、折れ線は、所得に対する消費税の負担率でございます。オレンジの折れ線は、軽減税率が入らない場合の負担率でございます。所得の少ない人の方が、やはり負担率は高い。逆進的です。そして、グレーの折れ線は、軽減税率を入れた場合の負担率です。二つの折れ線には、ほとんど差がありません。ほぼ同じ折れ線でございます。8%の軽減税率を入れても、逆進性はほとんど改善されないのです。ほとんど改善されないのですけれども、1兆円を超える国家予算を使って軽減税率を実施いたします。その1兆円の多くが高額所得者の利益となる、こういう試算になっております。この試算を見れば、逆進性緩和のために、低所得者のために1兆円の予算を使うのだという説明には、疑問が生じるのではないか、ということでございます。諸外国の軽減税率次に、主要諸外国の付加価値税の税率をご覧ください。棒の上の方にある、四角で囲んだ数値が標準税率で、青く塗ってあるところの真ん中あたりにある数値が、食料品一般に対する軽減税率でございます。棒全体が青い国は、軽減税率がないということを示してございます。OECD及びEUのところをご覧いただくと、軽減税率を入れている国の標準税率は、ほとんどが20%以上です。その中で、10%とか、5%とか、0%の軽減税率を設定しています。これだけ、軽減税率と標準税率とは差があるということでございます。10%以下の標準税率で軽減税率を入れている国は、OECD加盟国ですと、スイス、オーストラリア、カナダしかありません。スイスは標準税率8%に対し軽減税率が2.5%、オーストラリアは標準税率10%に対し軽減税率が0%、カナダは標準税率5%に対して軽減税率が0%、ただしカナダは、別に州税がありますので、実際の標準税率は10%を超えております。こんな中で日本が、10%の標準税率に対し8%の軽減税率となります。いままで単一税率でヨーロッパから理想的と憧れのまなざしで見つめられた日本の消費税は、10%の標準税率で2%だけ軽減する、という形に変わります。こんな国はないわけですね。世界に類を見ない珍しい税率構造を今から実施しようとしているということでございます。先ほど、単一税率から複数税率へと移行する日本の改正は、世界の研究者にとってミステリーであるといったことは、こういった数字からも読み取れるだろうと思います。新聞が軽減税率の対象新聞が軽減税率の対象となったことについて、疑問をお持ちの方も多いのではないかと思います。新聞報道の中では自分のことですから言いませんけれども、新聞以外のメディアでは、なぜ新聞が軽減税率なのだ、自分たちの税金が安くなるから軽減税率導入に批判的な記事を書かなかったのか、といったアンチテーゼが見られます。たとえば、お好きかどうかはわかりませんが、池上彰さんという、もと新聞記者で今テレビに出ているおじさんがいらっしゃいますが、彼はウエブ上で、新聞は、軽減税率をもらって、税金をまけてもらって、ジャーナリズムの魂を売った、そんな批判がある、とコメントしていらっしゃいます。色々なご意見があるとは思いますが、税理士会としては、軽減税率についてこういった評価でございます。ありがとうございました。

市民による奈良の伝統行事の創造

2016.9.1 市民による奈良の伝統行事の創造株式会社読売奈良ライフ代表取締役社長 朝廣佳子皆さんこんにちは。本日はこの宇治鳳凰ロータリークラブ例会にお招きをいただきましてありがとうございます。井上プログラム委員長から過分なご紹介をいただいて、ハードルを上げていただきまして恐縮でございます。本当に井上さんには地区で大変お世話になっておりまして、お願いされたからには何があっても駆けつけようと思って、今日来させていただきました。本日頑張ってお話させていただきます。よろしくお願いいたします。奈良の行事についてお話をさせていただきます。タイトルが「市民による奈良の伝統行事の創造」という非常に堅苦しい名前を付けましたけれども、平たく言えばですね、「京都に負けないように頑張る奈良」というような内容でございます。私は奈良が京都に劣っているとは思っていません。やはり、それぞれの魅力というのは土地、土地によってあると思っております。ただ、京都が素晴らしいのは、宣伝力と、団結力ではないかと。経済界とか寺社などが一丸になって京都のPRをされているというのはいつもうらやましいな、素晴らしいなと思っております。京都に負けないように、奈良市民が頑張って新しいお祭りを立ち上げましたので、そのご紹介をさせていただきます。普段、私は奈良の地域情報誌を作っております。また、ホームページの制作とかキャラクターデザインとか、そういった制作の会社でございます。その傍らで青年会議所の理事長をさせていただいた時に燈花会を立ち上げました。「なら燈花会」というのは、このカップに水を3センチぐらい入れましてろうそくを浮かべます。これが並んでいるという非常に単純なお祭りでございます。「燈花」というのは灯りの火じゃなくて、灯りの花と書きます。この「燈花」の意味はろうそくの心が燃え尽きた後に花びらのようになると縁起がいいという説がありまして、「会(え)」というのは修正会(しゅしょうえ)とか、修二会(しゅにえ)とか、宗教でよく使われますが、人が沢山、集まるという意味です。沢山の人に集まっていただいて、その皆さんが幸せになりますようにという意味で燈花会と言う名前をつけました。どんなお祭りかと言いますと毎年、夏の8月5日から14日までの10日間、奈良公園一帯に毎晩ろうそくを2万個を燈す灯りのお祭りです。 NPO 法人なら燈花会の会が運営しておりまして、10日間お手伝いいただく当日サポーターは、延べ約3300人です。ボランティアは幼児から高齢者までいろんな方が一緒にやるという内容でございます。来訪者数は始まった当初は一日雨が降って9日間で17万5000人、カウンターで数えた数字です。ロウソクの数も最初6000個からスタートしまして今、2万個になっています。観光客の数も今は90万.今年91万1000人の方にお越しをいただきました。実際にどんな風景なのか、お手元に燈花会の今年のチラシも配布をさせていただいています。奈良公園がいくつかの会場に分かれています。まず、浮雲園地。名前どおり、浮雲のようにデザインをしております。これは決して合成写真ではなく、一番最初に燈花会を立ち上げるときに試験点灯で並べて撮影した写真です。クレーンで上から撮りました。最初、お金がなかったんですけども広報だけはお金をかけようということで撮ったものです。このカップが4000個並んでいます。次は浅茅が原と言いまして、竹灯りのエリアとなっております。3番目は鷺池と浮見堂です。4番目が猿沢池、名前は聞いたことがあると思いますがこちら池の周りに並べております。今までの4会場が最初の3年間の会場だったんですが、人が30万人ぐらいになり、滞留して危ないなということで会場を増やしました。奈良国立博物館、そして春日野園地という大仏殿の鴟尾(しび)が見える会場です。、また、興福寺、東大寺、春日大社の3社寺です。東大寺は8月13、14日のみ、春日大社は8月14日のみ照らしております。ところで、なぜ燈花会ができたかと言いますと、奈良にはその燈花会が始まる10年前、1998年の頃に奈良まつりというお祭りが行われておりまして、それは私が入っている青年会議所とか、商工会議所青年部などが中心になってやるお祭りだったんですが市民ステージ、市民の模擬店、それだけでは人が呼べないのでタレントさん、芸能人、歌手を呼ぶというようなお祭りで、市民の方には喜んでいただいたんですけども、「奈良らしくない」。で、何とか奈良らしいお祭りができないかということで生まれてきたのがこの燈花会です。で、その燈花会を始めたわけですけども、始めてすぐこの三社寺からは反対されました。そもそもなぜ8月の最初に燈花会を持ってきたかと言いますと、東大寺と春日大社では8月14日~15日に火のが伝統行事をしております。春日大社の万燈籠、東大寺万燈供養会.そして8月15日には奈良にも大文字、送り火があります、自慢はちょっと京都より大が大きいということです。これらの伝統行事に合わせて何とか新しい奈良のお祭りがつくれないか。市民まつりではない本当に奈良の良さを観光客の方に伝えられるお祭りがつくれないかということでこの8月の14日、15日、そこに合わせて、前10日間からの開催で始めたわけなんです。ところが燈花会が始まると万燈籠と燈花会を間違える方が結構多くて、燈花会を見て、万燈籠も大きくなったなと言って帰っていく。歴史ある万燈籠と一緒にされることに、春日大社さんが激怒されました。で、こんな祭りはすぐやめろ、大体、火を冒とくしている。神様にささげる火と言うのは精進潔斎をして、ささげる。本当に神聖な火なのに、我々庶民がつける火と一緒にするなということですぐやめろと言われました。1年目ですぐ辞めなさい。あんたは伝統行事を潰す気かと叱られました。でも1年目やってみて17万5000人もの方に来ていただいた。実際やってみて本当にやっている我々が心温かくなる美しい祭りで、もっともっと多くの方に来ていただきたいという素晴らしい光景です。これを何とか続けたい。2年目もやりました。もちろん、すごい怒られるんですけども、何とかやらせてくださいということで、春日大社さんに行くその参道。それから東大寺の大仏殿に行く参道にずっとカップを並べていました。そうすると人って灯りに誘導されていくんですね。行ったら大仏殿は閉まっている。春日大社も閉まっている。で、がっかりして帰られるんです。それを見ていた東大寺さんが「うちも8月の13、14で15日は万灯ろうがあるので13、14の2日間燈花会に合わせて大仏殿の夜間拝観をやりましょう」と言ってくださったんです。それに合わせて興福寺さん、春日大社さんも了承して会場にしてくれました。春日大社では若宮様が会場になったのですが、チャッカマンとろうそくをお祓いしていただいて、そのカップを並べて、お祓いしたチャッカマンで火をつけた。初めてそれで3会場が燈花会の会場になりましたそれ以降、ずっと会場なんですが今は、春日大社は参道に並べさせていただいています。。また、奈良公園の会場以外に、3年目から奈良町が会場に加わりました。昔の町家の風情が残る界隈です。この奈良町が自治会単位で燈花会をやっていただいています。奈良町に燈花会をしにきてくれと言われたのですが、とてもじゃないけど人がいないので、カップをお貸しするから自治会で並べてください、ってお願いをしました。そうしたら結構、高齢者の方が住んでいらっしゃるのですけれども、皆しゃぁないなとしぶしぶ出てきて並べるうちに、今まで家に引っ込んでいた人が表に出てきて、町が皆仲良くなったわ、大変だけれども楽しいと言っていただけました。中新屋町というところがあるのですけれども、自治会で一日だけ「中新屋バー」というバーを開くのです。知り合いのバーテンダーさんを5人くらい呼んできて、1杯500円で、燈花会のカクテルを売ったりとか、そういうことを中新屋町はされて賑わっております。燈花会を始めるときに、奈良らしい祭って何だろうと、皆で話をしました。よく奈良らしさ、京都らしさ、何とからしさを出そうと言いますけれども、じゃあその「らしさ」って何なのだろうか。9人で「祭を考える会」というのを作りまして、奈良らしい祭って何だ、ということを話しました。さっきの「なら祭り」も、先輩方が10年間頑張ってこられた祭で、それをやめてやるわけですから、本当に真剣に考えないといけない。奈良はだんじりとかがない、静かな祭が多いんです。「采女祭」という9月の中秋の名月あるお祭とか、大きいものでは春日若宮おん祭りとか、そういうのが伝統行事なのですが、静かなお祭で賑やかなお祭がない。世界遺産が多いですから花火も禁止で、打ち上げていい花火は若草山の山焼きのときだけなんですね。花火の火の粉が落ちても後は山を焼くだけなので、大丈夫なんです。でもどうしても花火をやりたいとか、皆からそういう意見が出ました。じゃ外の人が奈良に求めているものは何なんだろう、ということを、色々なデータから調べると、一番が「癒し」で、二番が「静けさ」。外の人が「癒し」「静けさ」を求めているのに、他で同じようにやっているだんじりを、いきなり歴史もないのに始めることに意味があるんだろうか。で、灯りを奈良公園に並べてはどうかという案を、当時の県の観光課長が持っていて、それを聞いたときに、絶対これは奈良に求めていることと合う、それもさっき言った火の伝統行事と合う。これを具現化させようということを言ったのですけれども、皆からは地味や。そんなろうそくを何千も並べるような辛気臭い祭、誰が来るんやと大反対でした。。その当時は、若者が奈良コンプレックスで奈良ナンバーの車にも乗りたくないとか(笑)、奈良でご飯を食べるとか奈良で買い物をするとダサいとか、そんなことで「奈良離れ」していました。こんな祭をしたら年寄りだらけになると、皆が否定する中、「どうしてもこれをやりたい」と私が言うと、「そんなにやりたいんやったら、お前が実行委員長でやれ」と言われて、当時青年会議所の理事長をしていたので、青年会議所中心に始めたのが第一回目です。やるんだったら基本をしっかり押さえよう、ということで、一日だけやるんじゃなくて、土日が2回入る10日間やろう。1ヶ所だけでなく、奈良公園4会場で、それもそれを誰が並べるんだということで、我々だけでは無理なので、市民の方々を募集しようとカップもガラスだったり、色々実験をしてみました。結局、10日間やるので毎日並べて、毎日片付ける。軽くて、火に強いもの。たまたまこういう素材で作っているものが、「祭を考える会」の中におりまして、こんなのがあるんだということで、何の変哲もないカップなのですが、わざわざ型を作って作ったものです。奈良公園って、火気厳禁なんです。じゃあ奈良公園にいったいどうやって火を並べるのか。それで、水を入れてろうそくを浮かべれば、ちょっと揺らせば消える。これで消防署のほうも、許可を取ることができます。当日10日間、今だったら2万個ですけれども当時6000個、運営方法ですが、まず当日サポーターを募集して、好きな日に登録をしていただきます。その日に来ていただくと、皆さん会場に分かれていただいて、カップを並べていきます。鹿が(笑)ひじょうに上手いこと「手伝って」くれる(笑)。ならいいんですけれど、カップの水を飲みに来るんです。なのでせっかく一生懸命に並べた会場で、ふと後ろを見ると全部倒れている。最初はまだサポーターが1会場につき数十人と少なかったので、また必死で並べました。片づけをしようとしたらダンボールも全部食べられて入れる箱がないとかですね(笑)。途中看板がわりに急いで紙に書いて貼っておくと、その看板も食べるとか。最初はわかっていてもつい忘れるんですね、鹿に食べられるということを。ちなみにろうそくも食べます。だからカップにろうそくを浮かべるのは、着火の直前に入れます。そして。ろうそくは最初石油系だったのですけれど、今は植物系に代えております。で、7時になったら着火をしております。夏休みなので、子供たちの参加も非常に多くて、非常に頑張ってくれます。そして9時45分になると消灯して、燃え残りのろうそくはリサイクルにまわします。こういうふうにすべてコンテナボックスに戻して、何もなかった状態にして1日が終わる。また次の日は次のサポーターが風景を作る、ということを10日間繰り返すわけです。すごい大変だなと思うでしょうけれども、実は片付けは皆早く帰りたいので結構早いです。あっという間に片付きます。そのほかにも、裏方の仕事は会員が販促とか経理とか広報ということをしております。全部終わったら、後日、皆でカップを洗います。煤を取って綺麗にしないと真っ黒なので、こういう仕事も会員でやっています。燈花会をやって学んだことまず、マイナス要素が実は宝物になるということです。我々は最初は奈良公園というのは負だ、マイナスだと思っていたんです。真っ暗で、何もない。京都みたいに整備されていて、夜でも美しくライトアップされていたら、もっと宿泊客も増えるのにな、と思ったのですが、実は真っ暗闇で静かだからこそ、この燈花会が成功した、というふうに思います。だから、灯りを見せるというよりも、暗闇を「魅せる」お祭だというふうに思っております。それから、景観はブランド化できるということ。何か面白いイベントを作るのではなくて、風景を造る、それ自体が燈花会のブランドになっている。なので後でとりかかった天平祭も、景観はブランド化できるということをコンセプトにして造っていったんです。そして、スケール感にこだわるということ。最初から1日1会場・4000個だけでスタートしていたら、なかなかここには到達しなかったと思います。途中、京都の花灯路さんが視察に来られました。花灯路さんは燈花会のあとに始まったのですが、見事に燈花会の10倍以上の人が来ています。JRとか近鉄が出すお金も、私たちのケタと0がひとつ違うくらい。羨ましいとは思うけれども、最初から4会場10日間やっていたから花灯路に埋もれることなくここまで来たのではとと思います。次に本物にこだわったから良かったかなと。本本物の火は、人々の心を癒します。そこにこだわっていることが大事なんだろうと思います。また、それだけ火をつけるボランティアの数では、花灯路には負けていません。それから、外からの視点に目を向ける。外の人が、奈良をどう思うか、何を望んでいるのかっていうことが大事。そして、ストーリーですね。単なるイベントではなく、「祈り」というコンセプトを持って、1年に1回、誰かのために祈る、そういう場にしましょうということをお伝えする。それから、長期的な視野に立つ。始めたときにすぐ、中長期委員会という組織を作って、5年後10年後にはどうするか、ということを一緒に話をしながら、単年度ですすめていきました。それから、観光客にも作り手になってもらう。観光旅行に来て当日サポーターに参加をする人たちが増えていることです。観光客が観光客を迎える、それがおもしろいと言って毎年宿を取ってサポーターをする人もいます。そして、ボランティアのおもてなしの大切さ。こんなにたくさんの火をつけているのは、私たちボランティアですと言うと、来られた方がそこにまた感動していただけて、やっている側も、自分たちが造った風景が、こんなにたくさんの方に喜んでいただいているという両方のホスピタリティを感じるお祭りだと思います。最後に、行政の役割は黒子であること燈花会でよかったのは、行政が前に出ず、後ろでバックアップをしていただいたことです。表舞台を市民が造っていったというところが、長く続いて大きくなっていった要因ではないかなと思っております。最後に天平祭について一言ご紹介を。平城遷都1300年祭を2010年に、世界遺産の平城宮跡で行いました。その後、大極殿の前でこういった本格的な天平行列をしております。これは奈良だからこそできる、奈良だからこそ残さないといけないお祭だと思って、これもすべて市民が運営しております。衣装もボランティアたちが、正倉院の文書とかを参考にしたり、先生方のご意見を聞きながら、造っております。京都も宇治もいいですけれども、奈良にも素晴らしいところがたくさんありますので、ぜひ奈良にも足をお運びいただきたいと思います。きっと、おもてなし度満点の市民が皆様をお迎えいたします。今日はどうもありがとうございました。