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ボイストレーナーという職業

2018.5.24大奈皆さま、こんにちは。ただいまご紹介に与りました大奈と申します。今日は皆さまの大切な例会にお呼びいただき感謝しております。私のことを知ってくれてはる方、いらっしゃいますか。ありがとうございます、嬉しいですね。2002年に故郷に戻りましてもう16年目に入りました、本当に早いです。年齢も行きました~ハーイ、でも、ある時から一つ一つ年を取るごとに一つ一つ若返えろうというような気持ちで鞭打って頑張っております(笑)。私は歌手として2002年故郷から再び歩き始めたわけです。夢を持ち東京の方に約10数年ですね、頑張っておりました。20歳で東京に行ったわけですが、その時は今の時代とは違いまして、ネットもない、携帯もない。携帯を持っておられた方もいらっしゃったかもしれませんが大きな携帯やったと思います。そんな時代でした。まあ、辛うじてポケベルというものがあったいうことでございますが、その中で両親や兄弟、友達と離れ、故郷を離れ、大きな経験をさせていただきました。そこの話しはまた何かの機会にさせていただければ嬉しいです。私は経験と一緒に挫折というものですね、、、自分の中では挫折とは思っておりません、経験ですけども、人から見ると挫折という言葉を使われることが多いです。そして故郷に戻ってまいりました。諦めよう、もうすべてをやり直そうというつもりもあったんです。しかし、ある方のお言葉とかお声掛けなどで、私はまたゼロから1からこの故郷の宇治から歩いてみようと、2002年の1月に宇治橋のたもとのところに座りました。大きな宇治川の流れる音、そして右の方を見上げますと大きな山、木々が大きく揺れているのを見て、初めて逞しい自然を魂で感じました。再び歩き始めるんだという決心をしたのを本当に昨日の事のように思い出します。今日この故郷宇治この場で宇治の皆さまの前でお話しし、その時の気持ちに今なっております。歌手としてやっていくのに、昔は東京で有名なレコード会社や事務所で、有名な作詞家作曲家の先生に書いていただいてというのが主流でございました。時代とともに変わった部分もありまして、「自分で書いてみたらどうや」というようなお声もあり故郷に帰る前にCD を作りました。それを名刺代わりに宇治を歩き始めました。色んなところにお呼びいただき、色んな方々と出会わせていただいたご縁で今こうして自分があるわけです。そして、司会の仕事や講演の仕事というのも、歌の仕事だけではなく自然と入るようになりました。その中で10年ぐらい経ちました時にちょっと振り返ってみたんです、歌うことで人を元気にするということもそうなんですが、もっと具体的に自分ができる事はないかと3年ぐらい模索しました。その間になぜか府立医大の研究科や大学院にも模索をするのに行ったということもあるんですが。やはり振り返ってみると現在もそうですが私は声をとても使っている。ラジオもそうです。聞いていただいている方もいらっしゃる、ありがたいことです。ラジオは16年目に入りました。パーソナリティという自分の番組で話しているということ、これも声ですね。そして講演にしても司会にしても、本当に声を表に出すというか、声がなければ成立しない仕事をさせていただいている。そして2002年に宇治から再出発する時にも思いましたが、東京で20代を過ごしました、女性としてはとても大切な時期でございましたが、その20代に多くの経験をしたこと、そしてありがたいことに業界の一流の方々と接することができたということが私の他に多くないものであると、それを持って何ができるかということを考えました時に、ボイストレーナーという仕事をしてみよう。本当におこがましいんです、まだまだ未熟ではございますが、人に直接何かを教えるというか、指導ができるというようなことをしていきたいと思いました。皆さん、ボイストレーニングというのは、歌うための声出しとか、声優さんになりたいとか、アナウンサーになりたいとかいう方へのボイストレーニングというのがパッと浮かばれることが多いと思います、当然それにも繋がりますけども、私が行うボイストレーニングは、実際、皆さん普段お声を出されますよね、声をあまり出されない方、言葉少ない方もいらっしゃるかもしれませんけども、声を出してコミュニケーション、自分というものを人に理解をしてもらう中で生きております。そこを大事に、やはり一般の方に声を通じて何かを伝えたいというように思いました。私は武道をしております。剣道をしておりますけども、それも小さい時にやっていました。東京から帰ってきてからたまたまラジオで「小さい時に先生に泣きながら向かっていった、泣いて泣いて、こかされてもこかされても、立ち上がり真っすぐに先生に向かっていったあの時の気持ちを社会に出てからもなくしたくない。」いうような思いで過ごしていることをラジオで話しました。それを聞いてくださっていた一度しか会ったことのない社長さんからご連絡をいただきました。その社長さんも剣道を偶然されているということで、「共感した、頑張っているね」なんていうことで再会したことをきっかけに20数年ぶりに剣道を再開いたしました。その時一級やったのが、今は四段で今度五段を目指そうということで頑張って稽古しています。まぁおかげさまで華奢な体もがっちりとなってきましたけども(笑)ネ、お相撲さんとかはよく使わはります、心技体、私らは剣道をしてますので、気剣体と使います。これが一致した時に1本ということになるんです。私はボイストレーナーとして、剣の部分、技の部分が声というような気持ちでボイストレーニングをさせていただいています。生きるという人生でございますが「じんせい」でもいろいろございます。私は振り返ってみるとこの「人声」でございまして、これからもきっとそうだろうと思っています。生きる力は、声の力にも比例しているんじゃないかと感じています。皆さま、まだまだお元気ですが、体が弱ってしまうと食べられなくなる。食べられなくなると動けなくなる。そして次は声が弱くなってくる。というのを本当に感じております。一般的に声の大きい方とか、よくお喋りになる方というのはやっぱりお元気です。年齢と共にどうしようもない、やはり病気を抱えたりとか、そういうことでも弱ってくるとかございます。しかし、そういうことがあっても声に力のある間は病気を持っておられても「元気やな~、元気ですね」と見られる、言われはると思います。で、声があるのと同時に耳がありまして、その声を受け止める聞く耳というものがありますが、耳は最後まで残ると言われています。本当に息を引き取った瞬間でも声をかけると反応する。まさに本当にそうやなというのを亡き父で体験しております。一度しかない人生の中で、声は自分の体から出る音なんですね。私には私のこの声があります。皆さんそれぞれのオリジナルな声質というのがありまして、それはどこから出るのかというと口だけで出るのではなくて、やはり生きるのに大事な三つの中、なんやと思います。これを1個でもかけたら無理というか、死んじゃうことですね。まず一つは、やはり水、水を飲まないといけない。水分が要ります。そして栄養、栄養要りますよね。そして呼吸です。睡眠というのもございますけども。声というのは呼吸をしないと出ないわけです。息に乗っかって声が出る。なので、特にマイクを使う時とかは別に大きな声で「アアッ」と言わなくてもいいわけです。ささやくような声でも通るわけですね。ひらってくれて。それはやはり息を多く使っているかどうかみたいな、息を吸って「ハアー」と吐く。皆さんちょっと手を15センチぐらい前に出して、そこではっと息をかけてもらっていいですか。「ハアー」って。そしてそのまま、「おはよう」と言ってください。おはようの「は」を息かけてもらって、お「は」ようと言った時に「は」で息がかかってましたか。まさに腹式呼吸とよく言われますけども私も舞台をやった時に言われたんです。「腹から声出せ~」と、お腹に口もあらへんのにどこから出すんやと全然分からない。息を吸ってお腹を膨らまして、ということですね。息を吐いていったらお腹も凹む。へっこんでいくというような形で歌うというのが当時よく分からなかったです。皆さん生まれてきました。お腹から。その時に「オギャ~」って、大きな声を出されたと思います。だから現実に今こうしていらっしゃる。「オギャ~」というあの声は腹式呼吸なんです。で、生まれて、色んな環境からストレスもかかったりして、どうしてもお腹から声が出なくなってきた。皆さんお幾つぐらいでしょうか。平均年齢を先程伺いしましたが、平均が61歳ということでとても皆さんお若く見えるんですけども、その60年間の癖がありますよね。喋り癖や声の出し方の癖がありますね。それをいきなり1日でコロっとは変わらないと思いますけれど、意識する中で変わっていく。私自身も言われて言われて意識して、そしてまたラジオで人の姿が見えない中で話す。声だけで分かってもらわないととなると自然に滑舌を気にして話すようになったことで、大分変わったと思うんです。そして、私は武道をやっている。スポーツをやっていますが、そのスポーツをやる中でもやはり大きな声を出すということが大事なことなんです。色んな理由があります。怪我をさせない為とか、コンタクトを上手くとる為とか理由は色々あります。先程「孫がお世話になってます」と、お声掛けていただきました。私がいる道場に来てくれている可愛らしい小学校3年生の男の子のおじいちゃんということを今知ったんです。やはり道場で大きな声を出すようにと一生懸命指導しています。気持ちや気合い心と声というのはやはり繋がっていると思います。例えば、ここは強調したいと思ったら声も強くなる。声は人間の体から出ることでございます、約200種類ぐらいの骨があり、それを囲んでいる約400種類ぐらいの筋肉がございますね。やはり筋肉が硬まってたりとか、そうなってくるとやはり声も出しにくくなります。当然体の筋肉が硬まってたり痛んでるのにいきなり何かをしようとすると折れたり切れたり、いろんな支障が出てきます。喉もそうですね、喉の周りの筋肉、ここも大事なんです。特に歌を歌うことが好きな人、高い声を出す時なんか本当に首の筋肉をよく使うんです。特に女性だったら首すじにシワが出てきたら美容でも気になるところでございます。こういうところの筋肉を鍛えるのに一つは寝て首だけ起こし、足のつま先を見る。これは寝ながらでもできます。あと「イイイー」と出す時、きつく「イイイー」とやったら顎の下のほうの筋肉に力が入ります。おでこに手をやって、手をぐっと押すのと反対に逆におでこを前に押すときに首まわりに力が入るので、お互いに抑えあうことで首筋の筋肉を若返らせることができます。    会長さんに先程お話しを聞いたんですけども、今でもいい声をされていると思うんすけど、「首の怪我したことで声を出すのがなかなかしんどくなりました」と。やはり喉から声を出そうと思うと本当に大変だと思います。しかし、お腹から声を出す、腹式呼吸を使い息を「ハーッ」と、息に乗せて声を「ハーッ」と出していく。するとすごく軽くて透き通るいい声になりますし、喉が楽なるのでそういうことを意識して声を出していただきたい。特にマイクを使うと分かります。私宣伝みたいになりますけども、ボイストレーニングを色々なところでさせていただきますが、現在定期的には、大久保のところで月に1回、平均年齢60代の方です、ほとんど健康のためにさせていただいているんです。「誤嚥性肺炎とかが起こらないように」とか、「肺活量が少ないとお医者さんに言われたから」という方もいらっしゃいます。それとまた別に、京都駅の八条口出たところに綺麗な建物が昨年出来ました。イオンと新都ホテルの横です。ワコールスタディホール京都さんです。ご縁がありまして、去年の秋から講師させていただいてます。今回も今回もとご依頼いただき有り難く続けさせていただいてますが、そこでは椅子に座って声を出すだけじゃなく、体全体を使い大きな声を出しましょうということで、棒を使ったりボールを使ったりもして行わせていただいております。やはり体の方、これはスポーツにおいても何においてもそうだと思いますけど幹が大事ですね。ゴルフをされている方もそう感じられると思います。この幹の部分、体幹部分を鍛えることによって声の芯がより出てくると思います。元気な声は元気な体から、鍛えていきましょうねということでやらさせていただいております。そうしたらですね、やりはじめに出された声と1時間半ぐらいレッスンした最後に出された声とはもうやっぱり全然違っています。一つは肩に力が抜けて変なところに力が入っていない。皆さん声を出されているのを普通に当たり前のように出されていると思うんですが、声とか呼吸というのはやはり心の問題とかにも繋がっています。心臓とかは自分で動かせません、コントロールできない部分でございますが、呼吸はコントロールできますから、例えば緊張していると息が浅くなったりして、極端に言えば声が震えたり手が震えてきたりします。大きくゆっくりと呼吸を使ったりすることによって声も安定しますし、届きやすくなる。震えないということがあり、気持ちも落ち着きます。実際、私もステージに立って、いつもそうです、今日もそうですよ、皆様の前でお話しするの照れくさかったり、そういうこともあるんです。またその緊張感というのもとても大切なことです。歌う前なんかは特にそうなんです。歌うときは話すよりも息を3倍は使うので、沢山吸わなくてはならない。沢山吸うのが余っていると吸えない吐けないということになるので、出番前は舞台袖で待機している時にストレッチしてお腹から声を出すように、肩の力を抜くよう意識を下に持っていくようにということをするんです。呼吸を整えるということは物凄く声に繋がっているなと感じています。ボイストレーニングをさせていただくことによって何が一番の目的かというと、当然いい声を出してもらう、自分が満足いくような大きさの声で、例えば歌がうまくなりたいんやったら前よりも上手くなったよとか、それもそうなんですけども人生ですね、大奈のボイストレーニングをしたことによって何か日々が変わった、まあ、ストレス発散でもいいんですけども、笑顔が多くなった、前向きに明るくなった、元気を出してもらうような形のボイストレーニングをしていきたいと考えております。他にないオリジナリティーな形で楽しく学んでもらえ直ぐにでも実践していってもらえるということを目的とさせていただいております。最後にはいつも大声で笑っていただきます。笑いは免疫力を上げるとも言われていますし、本当に心も豊かにしてくれます。私は、笑顔がモットーで歩いて参りましたが、本当に笑顔で救われることも沢山ございました。自分自身も笑顔でいることで乗り越えられたことも沢山ございます。笑顔というのは本当に無償です、お金もかからないし、元手もいらない。相手と笑顔でニコッとし合うと気持ちがいいですよね。そして笑顔でいることはそれだけじゃないんです。声にも繋がってまして、当然姿勢も大事ですよ真っすぐに。そしてやはり口角をあげるということがいい声に繋がっていく、口角を上げないで話すと「皆さんこんにちは、おはようございます、よろしくお願いします。」という暗い声になります。それをちょっと口角を上げる事によって「皆さんこんにちは、おはようございます、よろしくお願いします。」という明るい声に変わりますし、見た目の印象も変わります。これは直ぐにでもできることです。顔の筋肉も段々落ちてくるんです。今日は時間がないのでちょっとしていただけないんですが、ボイストレーニングをしていただくと皆さん、「頬のところ何か痛い疲れる」と言われます。それだけ使ってないということです。口はここだけじゃない。鼻腔も使って声を出しているので、「こんだけが口や。もうほんまに顔全体が口やと思って声を出して~」とトレーニングの時は言うんです。これからも本当に声を大切に、当然、体も大切に、、、時間がなくなってきました。最近、お歌で皆さんに聴いていただける夏祭りで7月29日の日曜日は左京の方ですけども、みやこめっせで「左京区民まつり」の歌ステージ、総合司会させていただきます。8月2日の木曜日は京都グランヴィアホテルで「京のゆかたまつり」、こちらも司会と歌のステージをさせていただきます。8月4日は城陽の友が丘で40周年の夏祭りということで「友が丘夏祭り」に出演させていただきます。またお時間があればお越しいただきたいです。そして私はやはり曲を作るということがはじめにございます、ずっと思ってきました故郷に対しての曲をこの16年書きたいなと思いながら書けていません。今年遅くとも来年の春ぐらいまでには、思い出じゃなくて、まだまだ先に進んでいく未来に向かう故郷の曲を作りたいということを目標にしております。これからもやはり地元の故郷の宇治の皆さんには本当に応援をしていただきたいなと思いますし、ずっとこうやって元気にお会いしたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。本日はありがとうございました(*^_^*)

「宇治・久御山の安全で安心なまちづくりに向けて」

2018.4、12宇治警察署 生活安全課長  塚原 稔ただいまご紹介に預かりました宇治警察署生活安全課長の塚原と申します。本日は宇治・久御山安全安心まちづくりについてお話をさせていただきたいと思います。まず始めにせっかくの機会ですので私の自己紹介をさせていただきます。私は宇治署生活安全課長として昨年の4月に着任し、今春で1年目になります。住まいは京都市左京区で、1時間ぐらいかけて毎日通っております。宇治と言いますとやはりお茶ということなんですが、実は私の趣味は茶道で約25年ぐらいやっています。茶道と言いましてもいろいろと流派がございますが私の場合は裏千家で左京区真如堂のほうで教えていただいております。どの程度までできるのかというと全然まだまだ下手くそでございまして、ちょっと茶道をされている方ならご存じと思いますが四ヶ伝あたりまでお免状をいただいています。茶道を通じて豊富な経験をさせていただいており、茶道のお茶どころである宇治に勤務させていただいて本当に嬉しい限りでございます。自然と歴史文化が香るこの地域で、どのように宇治・久御山が安全安心なでまちづくりとして行くのか、これまでの取り組んで来た1年間の軌跡をご紹介したいと思います。宇治・久御山安全安心まちづくり協定というのがございます。これは宇治警察署、そして宇治市、久御山町が宇治市民、久御山町民の安全安心を確保するために安心・安全に向けた協定を平成28年に結びました。これまで警察と行政、市役所と連携はしているんですがそれぞれの持っている理想図をしっかりと出し合って安心安全を実現するにはもっとお互いがタッグを組んでやるべきではないかというところで平成28年8月10日宇治警察署長そして山本市長、信貴町長と協定を締結させていただきました。そして宇治市長、久御山町長、宇治警察署長による宇治久御山安心安全まちづくり推進連絡協議会を設置し、トップが顔を合わせて協議ができる場を持ったということなんです。役所といいますのは皆さんもご存知の通り、下からいろんな意見を上げて最終市長とか、トップに判断を仰いで.そしてまた下に落ちてくる。しかし、その協議会によってトップが関わってこうましょう決めていただければスムーズに意思決定ができるというのが最大のメリットです。協定を具体的に進めていくためにはそれぞれの役割分担を明らかにしましょうということで昨年運動プログラムを作りました。こうしたプログラムに基づいて安心安全を進めて行こうというのが内容です。そして何が大きな柱としてあるのか、どこが、誰が関わってくるのかというのを示したものがこのプログラムになります。そのメニューは犯罪予防、交通安全、国際化への対応、災害への対策、高齢者への対応、そして子供への対応です。六つの大きな柱を持って関係機関、地元の皆さんと力を合わせて安心安全な街を作って行こう。これが基本的なコンセプトです。宇治市版と久御山町版があります。それではどんなことを具体的にやっていくか、防犯に関する犯罪予防は皆さんに対して情報を発信したり、皆さんと一緒にパトロールしたり、防犯灯、防犯カメラを設置したり、子供・女性・高齢者を犯罪から守る様々な施策をやっていくということです。高齢者の方の防犯教室もそうですし、子供を見守る活動などがあります。交通安全も非常に大切です。毎年お亡くなりになられる悲しい事故が発生しています。そのために一人一人の交通安全意識の向上、そして駐車車両とか、放置車両の排除.そして道路環境整備、こういったものをやって行こうということで、取り決めさせていただきました。災害への対策では防災やテロの訓練に防災会議、防災パトロールに通じたハザードマップの点検.そして防災情報の提供です。国際化への対応、多くの訪日の外国人もおられます。今年は民泊の法制化がされたということで多くの外国人をお迎えしています。やはり、しっかりとした行政サービスをするには英語の表示が必要だということで警察官も英語の勉強をしています。遺失とか拾得物に英語で対応して外国へのサービスを向上させています。高齢者の対応については、これも本当に行政の力が大きいところなんです。認知高齢者の対応、警察であれば、徘徊されている高齢者の方を保護をしたり、家族の方へ引き渡したりとか、そういった対応もしています。犯罪に合わないよう、特殊詐欺被害防止対策とか、高齢者が犯罪に会わないように様々な対策をやっているところです。そして子供への対応に関すること、これはやはり行政や教育で頑張っていただいているところなんですけれど、子供たちの安心安全に向け、通学児童の見守り活動をはじめ子供たちが犯罪に走らないように少年の健全育成に向けた取り組みや非行防止教室など、取り組みを行い、宇治の子供たちが安心して大人になっていただく。こんな街づくりを目指しているところです。ここで、行政、警察、業者と連携した学校ということで昨年1年間具体的な活動をしてきた内容について皆様にご紹介します。平成29年5月、小学校の通学路警戒です。昨年5月、ある小学校に子供がねらわれているというメールが来まして、校長先生からすぐに宇治警察署に連絡がありました。「課長こんなん来ました、どうしましょう」と相談を受けました。それは大変だ、まず子供たちの安全が第一ということで登下校を警戒しましょうということで活動して参りました。警察官、学校が集まって、地図を広げてどこが通学路なんだ、子供たちがどこを通っているのか、皆さんが確認して、そしてその地域をパトカー、そして地域の方と一緒に警戒していただきました。行政のほうは青色防犯パトロール車に出動していただき、子どもたちの登下校時、回っていただきました。おかげさまでこの脅迫のようなメールは子供たちには全く危害はなく、無事終息したというのがこの取り組みの結果でした。続きまして、これは久御山イオンの協力で4月20日、防犯啓発活動を行いました。この活動のテーマは「鍵かけ」です。毎年ゴールデンウイークの間に皆さんお出かけになった後によく空き巣が入るんです。その日を迎えるに当たって皆さん鍵かけしましょうという PR をさせていただきました。防犯ボランティア、防犯推進委員の皆様にも協力いただいて、警察官、そしてマスコットたちも登場して買い物客の方に PR させていただきました。6月には縣まつりということで宇治久御山平安レディースという女性の防犯ボランティアの方に一緒にパトロールを取り組んでいただきました。屋台が沢山立ち並ぶところでスリとか、置引とか犯罪も発生しますので.そういったことがないように防犯ボランティア、女性の方たちに見守っていただいて安全で安心なお祭りを実現していただきました。7月、社会を明るくする運動は宇治市、久御山町でそれぞれ啓発活動を行いました。当初、宇治市の山本市長も来ていただき、当時の警察署長、信貴町長も参加していただき、皆さんで社会を明るくする運動の啓発をさせていただいたところです。7月19日、交通事故防止府民運動というのがございます。初日には宇治茶レディーの方々もご協力いただいてスタート式を行い、皆さんで交通事故のない安心安全な街を目指すことを誓い合った活動でした。次の「オールミックス・スイングホップ大作戦」という活動ですが、オールミックスというネーミングは、実はディスクジョッキーの言葉です。DJ がいろんな音楽を採り入れて一つの楽曲を作るのを オールミックスと言うらしのです。そういったネーミングに沿って、みんなの力を結集させ、特殊詐欺を防ごうということで特殊詐欺対策の啓発活動を京都銀行宇治支店で行いました。このスイングホップといいますのはモビールのようなステッカーで、よくスーパーの特売なんかで、使われるユラユラと動くようなステッカーです。このステッカーに、特殊詐欺にだまされないでというメッセージを書いてATMに取り付けATM から送金しないでくださいと呼びかける活動をさせていただきました。宇治・久御山安心安全まちづくり協定を結んだことにより、行政、警察、住民の皆様が力を合わせて安心安全なまちづくりを推進して参りましょうということで昨年一年間活動してきた内容でございます。更に、このプログラムを作った大きな成果を一つ紹介したいと思います。実は京都市で行われている街頭防犯カメラの補助事業です。地域住民の方が行政から補助金をもらって、公園や道路に防犯カメラをつけていただいています。設置したことによって本当に子供たちが安心して遊べる公園になったとか、ここはちょっと物騒なので防犯カメラをつけたらものすごく安心して通れるようになるよという形で地域の方が声を上げ、行政の補助を受け、地域住民の力で防犯カメラをつけていただいているのが京都市のスタイルでございます。実は私も参りました京都市が防犯カメラの補助事業をやっていることを昨年、宇治のほうにお話をして参りました。そして、平成30年度から120万の予算を宇治市の方で防犯カメラの補助事業を実現していただきました。これも協定による大きな成果なのかなと考えております。こういった形で行政が持ってる力とそして警察が持っている力、そして事業者の皆さんが持っている力、それぞれ地域の皆さんの力、こういったもの結集して安心安全なまちづくりに向けて取り組んでいく。そうするとより素晴らしい街になっていくんではないかと考えています。犯罪をなくすのは警察の仕事には間違いはないんですけれど、それだけではなかなか今の時代では実現しない。それぞれの持ち味を生かしながら、手をたずさえて同じ目的に向かって進むことでより安心安全な街ができるということでございます。皆さんもここで安心安全を支えにしていただけることもありましたらぜひこのプログラムにご参加いただければありがたいと思っております。防犯チラシ配りに一緒に参加するとか、チラシにちょっとオーナーの一言を入れていただくとか、何かコラボレーションできることがありましたら皆さんのお力をぜひお借りしたいと考えております。以上をもって宇治・久御山最新安全まちづくり協定についてのお話を終わらせていただきます。最後に皆さんと一緒に特殊詐欺被害防止の替え歌を歌いたいながらお話しを終わりたいと思います。京都府警 特殊詐欺被害防止替え歌を一緒に歌いましょう。愛の水中花が原曲です。1) ニセ息子のサギ オレオレ風邪ひいた 電話番号かわった 会社ノカネ使った 女性妊娠させた お願い母さん 代わりの者行かすから これがサギのやりかたよこれもサギ あれもサギ 多分サギ きっとサギ…。日本音楽著作権協会A-170407    

建築士という職業

2018.5.10橋本一級建築デザイン事務所主宰橋本光生大勢の前で話すということはあまり慣れてないものですから多少いろいろとトチリがあるかもしれませんが、今ご紹介に預かりました藤森さんとは同級生でいつも仲良くさせていただいております。もともと私の方は設計事務所をやっていたわけではなく、ハウスメーカーのほうに長年、27年ほど勤めておりました。その中でいろんな建物の話であるとか、ハウスメーカーといっても建設関連もやっとりました。営業もやったり、工事もやったり、当然設計もやったり品質管理を行ったりということをしておりました。その中で50才を前に、43歳ぐらいの時にそろそろ、自分の第3の人生をやりたいなということがあって、一念発起をして独立を致しました。おかげさまで人の繋がりというか、人の交流おかげで今に至っております。本日は藤森さんから建築に関して話してくれということだったので、今日は建築士という職業についてどういうものかを話させていただきます。先ずは建築士っていろいろな事が言われると思います。建築士というのは基本的に建物関連と限定していただいたほうがいいと思いますが建物の設計とか監理が主です、あと、建物調査というのが抜けている方が多いですね。それら等を、その人の名前、例えば橋本なら橋本、藤森なら藤森という名前で建築士免許の名に置いて行う業務や行為の規模に関連して必要な国家資格でございます。内容としては建築士は独占職業になっておりまして、建築士でないとできない仕事というのは多々あります。建築士の仕事は、過去に置いて大きな問題になりますので、しっかりとした免許制度になっているということです。建築士の免許はいろいろございまして、中でも行える建物の大きさ、例えば高さ、階数、面積によっていろいろあります。それによって免許の種類が異なってきます。一般的にあまり聞かれたことはないと思いますが先ずは木造建築士、こちらは国家資格の中で都道府県知事の許可で基本的には木造建築物と決まっています。ですので最近ハウスメーカーさんの2階建てで、鉄骨構造の○○ホームさんとか○○ハウスさんとかいうのは、木造建築士免許では設計や監理できない様になっております。基本的に木造ということになります。では、この木造建築士はなぜ有るのか。そんなに歴史は古く無いんです。なぜ出来たかと言うと、例えば宇治とかに有ります様に、古い伝統建築の大工さんたちが、設計をしたり、管理をする時に誰か建築士さんにお願いをしないといけないということが必要だったんです。然しながら、伝統建築とかは建築士として経験が必要なんですが経験が無いことが有った場合に、現場の方との意志疎通が出来き難い、本当はこの様に納めなければ成らないんだけども理解出来ないとか言う事が有ったので、木造建築士制度というのを導入した形になります。一部地域によりますと神主さん依頼の神社仏閣をやる棟梁(宮大工様)は民間の建物をやると手が汚れるのでやらないという方もたまにはおられるようでございます。そういう方は是非に必要だとの事で、取得されております。現在、木造建築士は非常に広まって来まして、学生さんが二級建築士の前に取ろうということも増えてきているのが現状でございます。現在では木造建築士はかなり多い様です。次に昔からあります二級建築士、同じように都道府県知事の免許になっておりまして、木造だけではなくて小規模な鉄骨や鉄筋コンクリートとか、高さが13m以内の建物とか、軒高9m以内が設計できます。延べ面積は木造は300㎡までと決まっておりますので、だいたい90坪ぐらいですね、100坪はちょっと無理なんですけども、だいたいそれぐらいのものを設計出来ると言う物に成って居ります。最後に一級建築士というのがありまして、国土交通省、国土交通大臣に免許を貰うという形になりまして、私たちは一級建築士は東京法務局に登記をされています。設計できる大きさは特に指定はありませんよと言うものになります。    その他に耐震偽装問題がありました。あれが出たことで一級建築士といってもだめじゃないか!と言う話が沢山出て来ました。更に、大規模建築で行きますと建築設計、構造設計だけではなくて設備設計というのが非常に重要になります。配管のダクト配管だとか、各種配管とか将来に改修に必要になってきます。そこで構造設計の為の構造一級建築士というものが必要でございますし、それとあわせて説部設計の為の設備設計一級建築士というものが創設されております。これはそれぞれ一級建築士を取得してから専門職に就いてかつ、実務経験を積み専門の試験を受けて取得します。まあ、建築士とは何?と言う事はこれだけ免許が多岐に渡り有りますよという事になります。じゃあ建築士の職責は何かと言うとこれはちょっと若干恥ずかしいですが、こういうことを法文に書かれているというのは建築士ぐらいなんでしょうけれど、職責として、建築士は常に品位を保持して業務に関する法令とか、業務に精通して建築の質を向上する様にと言う事を、建築士法という法律の中に記載されておりますので、私共は日々勉強しなければいけないとは言われております。然しながら中々難しいところがありますし見ての通り、そんなに品位があるとも私達あまり思っておりませんので、頑張っていきたいなと思っています。建築士制度の中のちょっと「よもやま話」なんですけども、いつできたかというと結構皆さんご存知ない方が多い様です。田中角栄が議員立法として国会に提出して昭和25年建築士法という制度が制定されました。法律に詳しいとか国会に詳しい方ですとよく言われます。なんで議員立法なんですか?。国の資格制度、普通は政府が国会に提出するべきでしょうという話がよくあります。これは当時の建設省が提出すべきなんでしょうけど、当時は昭和25年ですから戦後5年、 GHQ の占領下にあり法案成立にはGHQの承認が必要で、政府からすでに住宅金融公庫法案、今は住宅支援機構に変わっています。あとは建築基準法案、こちらを出しておりました。更に合わせて建築士法案を出そうとすると中々通らないんじゃないかということで、議員立法で建築士制度というのができております。では、一級建築士の第1号は誰がなったか?ということはご存知の方おいでですか??。(シーン)。結構、巷では田中角栄さんが建築士第1号になったんだという話を聞かれることがあるかもしれません。実は一号ではないんです。通常は試験を受けてなるんですけれど、議員立法を出された田中角栄さん、実は1号ではなくて、「(公社)日本建築士会連合会」が発行する「建築士」に依りますと、議員立法で制度を作りました功労者ですから建築士をあげてもいいではないかという話があったのですが.実際は登録する事を忘れていたんですね、実際1号というのは正しかったみたいです。正しかったのですが本人が忙しすぎて登録するのをコロッと忘れてしまって実際登録したのは16989号と言うことで、かなり後の方ではあるということになっております。まあ実際は1号じゃないよということと議員立法の功労者ですので試験を受けずに免許は持ってますということです。ちなみに合格率はどれぐらいあるかということですがだいたい一級建築士、建築試験は二つあります。学科試験と製図実務試験があります。それぞれ種類によって試験時間が違います。一級の合格率がだいたい全体受験者の10.8%、2級が24.3%、木造建築が40.1%が平成29年度のものです。次に建築士の仕事は何をするんですか。仕事はよく言われるのは町のお医者さんです。町のお医者さんって何ですかというとお医者さんですと内科外科その他の方いろいろおられます。建築も全く同じでしていろいろなものを見ていかないといけないということになります。街のお医者さんということで行くとほぼほぼ多いのはやはり住宅、皆さんが日常使っておられる家、住んでおられるお家なんかのメンテナンスとか、古くなったお家の改修、それとか耐震診断です。地震が起きるたびに耐震診断をしてくださいという依頼は増えて来ます。地震が落ち着つくと診断はだんだんと減ってくるわけです。また地震が起きるとダーッと増えてくる。あとは現況調査というのがあります。空き家ですね。皆様のおうちの周りにも空き家が最近増えてきていると思いませんか。人が住んでいない家とかが。そちらの状態をどういう状況かと見るようにしております。そのようなものの現状を見てまず把握する。そして、こうしたら良いよと提案する。その提案にそれぞれのライフスタイルとか費用という非常に重要な問題があります。それを考えてご提案を行い、建物が痛んで来ない様に配慮するのがお医者さんとしての仕事だと思います。建物に関しては大抵のことは知っております。先月、4月1日から既存住宅を売買するときに今までは宅地建物取引業者さんの方で建物売買していたのですが、その際に今回からはその中の建築士の免許の範囲(一級、2級、木造)内に置いて建物を現状調査してその建物の劣化問題があるのか、ないのか調査したものを売買の時の重要事項を添付する制度が制定されております(任意です)。これによって建物売買したときにはこの家って大丈夫なのか?の問題を少しでも防ごうということで国の政策で法律が決定され、今年の4月1日から実際に実施されております。私の方も4月26日に一件ありまして、状況調査をして来ました。消費者様は既存住宅を流通に関して安心だと非常に喜んでおられました。また既存住宅という名前がよく出てきます。皆さん中古住宅って聞かれると思います。中古車と同じように。でも中古というのは最近増えてきている名前ですのでちょっと呼び方を変えようということで中古とは言わずに今後は既存住宅という名前になってきております。その他に、新築の時や改修計画の時の予算配分、どうしたら実現できるのか?、建物の形とか、耐震性ですね。計算しながら予算内に収めるアイディアを考えて居ります。皆さんよく新築を作っている建築士が多いと思っておられると思われますが実は建築士の大部分は新築住宅とか、新築の建物はあまり設計したりしておりません。している方というのは本当に限られています。大多数はリフォームとか、改修、その他の調査をやっている人が多いです。他に構造計算専門の方も行います。建築士の仕事の中で重要な部分に工事監理というのがあります。工事監理と工事管理。私ども最初の監理の方を下に皿が書いてありますのでさら(皿)かんといいます。もう一つの方はたけ(竹)かんとか、くだかんとかいます。こちらは実は法律上非常に重要なものになっております。さらかんというのは建築士の独占業務となっております。では何が違うかと言いますとさらかんというのは工事監理、現場を見て問題があるかどうかということを設計図書と照合するということを確認するというものです。こちらのほうをチェックして建築主、(注文主ともいいます。もしくはクライアントともいます)に対して正しく仕事をしているかをチェックして報告するのが建築士のさらかんの仕事の内容です。こちらは法律的にも決められている関係上、きっちりとやらなければ当然、罰則規定もあります。次に、くだかんとは何かというと要するに建築士の免許を持ってない方です。会社に入って1年とか、2年目とかで免許を持ってない方とか、現場を管理する、お金、支払い。施工業者さんの番頭さんの感じです。現場の品質管理がさらかん。たけかんの方はそれをサポートする、工程管理や安全管理、原価管理を行う方をたけかんということになります。ただ、この違いたけかんの方は施工業者さんの番頭さん、責任者となっておりますので、現場では、お金の管理が非常に必要なんです。工程管理とか、そちらのほうがたけかんの仕事となっております。どちらかというとさらかんは建築主様側にの仕事をやっているという事になります。じゃあ、お客様側に立っているのがさらかんの監理者で施工業者さんがたけかんの管理者です。一例で、お客さんから設計者なら橋本に設計してください。工事は藤森さんにお願いしますということでお客さんが連れてきた施工業者様。では現場監理のほうは橋本君見てくださいね。了解ですということで現場監理するわけです。で、問題があったら当然橋本さんは藤森さんに指摘、是正勧告してくれるんですよねと?言う話を聞きます。これはよく問題になる話なんです。いや、一般の消費者からみると当たり前の話ですし、当然私も万が一間違っていたら藤森さんお願いしますねと言う話をするわけです。処が、藤森さんがいやいや何言ってるんだ、橋本くんが言ったって、そんなん俺は違う。これが良い、ということも有ります。この場合、私にその是正指示権限があるかというと実は権限がないんです。これはなぜないか?。法律上でお客様、要は施主様、もしくは建築主様と私とは設計監理契約というのを行うわけです。業者さんと私とは別に契約関係がないわけです。業者様とお客さんは直接に請負契約関係になっております。その場合はどういうことになるかというと建築士と施工業者は直接の契約関係がない為、指摘に従わない場合、私は建築主に施工業者さん、指摘に従っていただけませんと建築主に報告し、建築主から施工業者さんに言っていただくという流れになります。これは実際の法律の流れですし、それを越権するとやはり非常に大きなトラブルになりますので、こういうふうな仕事になっているということを覚えておいてください。結構この辺りで建築士はなぜやってくれないんだとか、そこまでやってくれると思っているということは結構多いです。これに関する問い合わせが結構あります。次に実際によく聞く話、よくチラシとかに設計士があなたの満足する家を設計しますとあります。建築士と何が違うんですか?と問い合わせが来るわけです。設計士が設計するわけですから建築士と何が違うかって聞かない人も多いですけどもまあ、何が違うかっというと、ハウスメーカーとか、デザイナーズハウスにいる設計士というのは建築士という免許を持ってない方がいます。で、建築士というのは士ですから士制度、国家資格ですので設計者とか設計士とかというのは特に資格がありませんし、法律もありません。ですので簡単な講習やこのようにプランを変えたらいいよとかを教えられて私は設計士ですという人は多いんです。ハウスメーカーではすごく多いんです。最近コンプライアンスが入ってきましたので少し減ってきましたけども、それでもやはり1年ぐらい実務をやっていて建築士の勉強をしている人が設計士ですと名刺に書いて設計をやっている人が多い様です。これが悪いというわけではないと思いますが問題があります。知り合の方などで住宅の設計をお願いする時にするのに、設計士としか名刺に記載が無かったら一度「建築士免許は?」と聞いてもらった良いかと思います。実は設計士だけの方の大多数は若い方が多いので子育ての経験がないとか、家事の経験が少ない方もいますので、やはり水廻りの設計とか、収納力や仕舞い方提案が不足する事も有ります。経験が付いてきますと、自宅にお邪魔した時にその家のリビングまで通る間に部屋をさり気無く見ることによって、この家は荷物が多くて物が出ているのか、ちょっと収納の不足や仕方が苦手で荷物が出ているのかの判断するくせが結構つくんです。で、それの経験がない方はわからないわけです。そうすると出来上がってよくモノがあふれて、収納が不足しているから家が汚いなどと言う問題が出てきたりとか、子供さんと一緒に子育て経験がない方だというのは結構子供さんに危ない家というのができたり「デザイン優先の為」して、だいたい完成してまたこれも問題になってくる場合もあるんです。そういうことがありますのでちょっとそこら辺は注意されたほうがいい。之もよくある話ですがメーカーでプランが決定しました。設計士とご家族で夢の家図面ができました。図面ができましたと言った後に、じゃこれを建築士さんにお願いして確認してもらえますね!といきなり言われることが多いようです。特にローコスト住宅と言われている会社はよく聞きます。これはどういうことかというと皆さんと夜も遅くまで家族で会議して決めたもの。こちらの思いでやっと決めた家なのに。設計士に構造的に安心かどうか聞いてみますと言われた後に、いゃあ、すみません。ここは壁が必要なんですよとか、いや、ここはちょっと窓を減らさないと耐震性が足りないんですよ。地震に弱くなるんですよと言われることがあります。やっとの思いでまとめ上げたのに、それはちょっと問題点だろうということでトラブルが起きてくるということがあります。建築士の免許を持っていたら防げた問題ですね。これから建築士というのはどんどん仕事が増えて来るであろうと思います。先程の既存住宅の現況調査、こちらの方がこれから増えてくるということで私の所属している建築士会であるとか、宅建業会様と合同でいろいろ勉強をやろうとしております。最後に成りますが、昭和56年5月31日以前に着工している家、こちらのほうに関しましては耐震診断が今年もあります。改修金額は昨年にプラスして宇治市、城陽市にお住まいの方は90万円まで出ましたがプラス10万円で100万円の改修費用が出る予定ですので、ぜひぜひ市役所に申し込みに行ってください。一般市民の方は3000円で調査もしてくれるし、改修計画も立ててくれると思います。またリフォーム提案できることもありますし、いろいろと相談していただければ良いかなと思います。建築士としてはこのような仕事でまた何か機会がありましたら実際の現場に行ってこんな問題があったとか、あんな問題があった、いろんな事がありますのでまた呼んでいただければと思います。以上です。ありがとうございました。

宇治川ドラゴンボート

2018.4.26サンケイスポーツ営業局・日本ドラゴンボート協会事務局長    谷達也メインの方はうちの副理事長の菖蒲の方からお話させていただきます。私は今から7年前に地元のある団体の方からこの宇治でドラゴンボートができないかとお話を聞きまして、できるかな?ドラゴンボートは実は龍の舟ですね。ですからドラゴンボートなんですけどもスポーツの要素と龍という文化的要素と二つ持っています。ボートとかカヌーというのは失礼ながら伝統はありますけれども競技的要素が中心ですね。ドラゴンボートはなんじゃろなっというのがあると思います。今申し上げたようにスポーツ的要素と龍という文化的要素が。7年前こちらの宇治川のほうに見させていただいたら、ちょうどいい宇治川の横にいいコースがあって、そこを使用しようじゃないかということでうまくいったわけです。あと、まあ、これもたまたまなんですけども、ご存知のように山の方には龍を祀る神社があり、そして平等院にも龍が、やはり鳳凰がおられるということですね。この辺、ドラゴンボートというのは紀元前3世紀のお話ですけども、そのあたりのスポーツと文化の両面にわたってこのドラゴンボートが営々とアジアを中心に世界に普及してきたということを菖蒲のほうから本日はスピーチさせていいただきますのでどうぞよろしくお願いします。「ドラゴンボート競技の社会的意義とアジア・国際ドラゴンボート連盟の現状」日本ドラゴンボート協会副理事長・アジアドラゴンボート連盟常任理事菖蒲 誠皆様こんにちは。本日は宇治鳳凰ロータリークラブさんへお招き頂きまして誠に有難うございます。先程、安井さんの方からご紹介いただきましたが、私の専門は国際関係学、その中で「アメリカと日本のリーダーシップの取り方の違い」について研究しています。今日は日本ドラゴンボート協会の立場から、ドラゴンボートとスポーツの重要性に関することを含めてお話をさせていただきたいと思います。2019年にラクビーのW杯、20年は東京五輪、そしてパラリンピックですね。更に、21年にはワールドマスターズゲームが関西で行われます。このような国際大会が相次ぎますので、2019年からの3年は「ゴールデンスポーツイヤ-ズ」というふうに言われております。スポーツによる地域や社会の活性化が注目されている中で本日は「ニュースポーツ」、ドラゴンは先程、谷のほうが申し上げましたがお祭り行事としての歴史はありますけども、スポーツとして世に誕生したのはわずか30年ほど前なんですね。ですから「ニュースポーツ」としてのドラゴンボートに関する四方山話を簡単にさせていただきます。まず、皆様のお手元にレジメを用意しましたが、起源についてです。龍舟競技、渡船、というような言い方をしていますけども、有史以前に中国華南の水郷地帯にあった古越族(こえつぞく)が始めたと言われております。この地方では舟は唯一の交通手段で、初夏になると彼らは船を漕いで近くの親類や友人を訪問したり、日常の生活に使ったわけですね。東南アジア、中国の南の方というのは農村地帯ですから、舟競漕は東南アジアでは秋の収穫期を前に洪水が早く終わることを祈願する行事でもありました。またドラゴンボートの起源というのは諸説ありますが、最も有力なのが紀元前278年に遡る「屈原説」です。中国の春秋戦国時代、秦の始皇帝によって滅ぼされた楚の国の政治家であり詩人でもあった屈原は、政策をめぐり国内の政治的な策略により国を追われます。湖南省に洞庭湖という大きな湖がありますが、そこへ流れ込む汨羅(べきら)という川の淵に石を抱いて抗議の入水自殺をしたわけです。これを知った近くの漁民たちは屈原が淵に潜む龍や魚に襲われないように竹筒に蒸した米を詰めて水中に投げ込んで、ドラや太鼓を叩いて洞庭湖を探し回ったということです。以来、屈原が入水した旧暦の5月5日の端午節にその霊を祀る小舟のレースが各地で行われるようになりました。これがドラゴンボート競技の始まりだと言われています。中国では現在も端午の節句の慣わしとして「ちまき」を食べたり、匂い袋を身につけたりするほか屈原を助けるために船を出した故事にちなみ、龍舟競争が盛大に行われます。日本でも5月5日は端午の節句であり、日本の「ちまき」の起源もこの伝説に由来すると言われています。屈原が亡くなったのが5月5日ですからこれが端午の節句。中国では今でもほとんど全土で旧暦の5月5日には大きな舟漕ぎ競争大会がいくつもいくつも催されます。ところで、それでは我が国の舟競争はどうだったかということですが、文献の上では10世紀頃に始まったのではないかと言われております。中国では河川や水路で行われる農耕儀礼の行事であったのに対して、日本での競争は雨や水に関する雨乞いや龍神の信仰など、神事の一環として時代を超えて様々な形で行われてきました。今でも様々な形をとって各地で行われております。また、豊穣を祈る農耕儀礼や各地の生業の繁栄を願う儀式に加えて、海に囲まれた日本では大漁祈願や航海安全を祈願する漁業儀礼として海上で行われることが多く見られました。特に沖縄など鹿児島から以南の方ではサバニ漁(沖縄・糸満の海人たちが、かつて漁をするために使っていた舟「 サバニ」による漁)など、かなり神事に特化したような行事が昔から行われております。2000年に海の博物館(三重県にある財団法人)の依頼で山口県・梅光女学院の安富教授が行った全国の舟競争の分布調査によると、南は兵庫県相生や長崎のペーロン大会、それに島根県の三保ケ関、天草、熊本、鹿児島、沖縄のハーレー大会など広い範囲で舟漕ぎ競争が実施されています。それらのほとんどが現在では7月から9月の夏祭り、ふるさと祭りなどの名称で開催されておりまして、かつての行事の復活というよりも新たな地域おこし、村おこしといった性格が強いようです。しかし、沖縄のほうでは昔ながらの神事という意味合いの強いレースが現在も行われているようです。ちなみにその安富教授の調査では現存している大会は日本全国で261件というふうになっています。これは凡その数字ですが、全体としては500件近い様々なレースが日本中で行われておりましたし、また現在も行われていると思います。次に、これらの伝統あるお祭り行事であった舟漕ぎ競争が世界的にどのようにして伝播していったかということです。中国が起源といわれる龍舟競争は、華僑の人達がアジア中、世界中に移住していったことに伴ってマレー半島、シンガポール、スマトラというような地方にも伝わっていきました。一方、中国系のいわゆる龍の頭を持った龍舟の競技とは別に、カンボジア、ラオス、ベトナム、インドネシア、ミャンマーなど東南アジアには古くから水の神の使いとして崇められている蛇(ナーガ)を祭る舟競争があります。例えばカンボジアではナーガを祭った「水祭り舟競争」(アンコールワットの入口には蛇の欄干があります)があります。また、タイでは、タイの王族がスポンサーになって白鳥の頭をボートの先につけた「スワンボート大会」という大きな大会が毎年開催されます。このように現在でも様々な構造の舟で古式豊かに競技が行われています。では、これらの伝統的な行事が舟競争からニュースポーツとしてどのように世界に発展していったかということについて触れてみます。今までお話しましたのは伝統的なお祭り行事でしたが、これが国際的なスポーツとして発展していくわけです。これらの伝統的な舟漕ぎ競争は1976年に香港で開催された「香港国際龍舟祭」をきっかけとして、「ドラゴンボート」と名称を統一して国際的なスポーツとしてスタートしました。競技ルール、ボート、パドルなどのスペックを世界統一基準にして、スポーツ競技化されたドラゴンボート競技は急速に世界中に広がっていきました。その後、「世界ドラゴンボート連盟」、それから大陸別に「アジアドラゴンボート連盟」、「ヨーロッパドラゴンボート連盟」、「アメリカドラゴンボート連盟」というように大陸ごとの連盟が組織され、「世界選手権大会」や大陸別の「選手権大会」などの大きな大会が催されるようになりました。現在世界ドラゴンボート連盟に加盟している国、地域はおよそ100ヶ国あります。わずか20数年の間にオリンピック競技を目指すまでに発展し、すでにアジアではアジア競技大会、アジアビーチゲームズ、それに東アジア大会、東南アジア大会など、「アジアオリンピック評議会(Olympic Council of Asia)」が主催する大会では正式種目となっています。IOC(国際オリンピック委員会)への加盟基準を満たすところまできていますので、IOCからの承認もそう遠くない将来だと期待しているところです。日本においては1988年、ちょうど今から30年前になりますが、大阪で日本龍舟選手権大会が開催され、日本におけるドラゴンボート競技がスタートしました。そして1992年7月、「日本ドラゴンボート協会」が設立され、2002年7月には兵庫県相生市で「第5回アジアドラゴンボート選手権大会」を主催しました。アジアのそれぞれの国の代表チームが集う大きな大会です。現在は一般社団法人に認定され、当協会が主催、主管する大会だけでも日本ドラゴンボート選手権大会(7月・大阪)、世界遺産・平等院鳳凰堂に隣接した宇治源平ドラゴンボート大会(2018年は9月開催)、東京・お台場を舞台にした東京大会(5月)、大阪の浜寺公園に隣接した水路で開催される堺泉北ドラゴンボート大会(6月)等があります。加えて、関西空港(KIX)の第1滑走路と第2滑走路の間の水路で開催されるKIXインターナショナルドラゴンボート大会(2018年は9月)もあります。世界中の空港の中でドラゴンボート大会が開催出来るというのはここだけですから、海外のチームに人気のある大会となっています。また、滋賀県の大津の競艇場を借り切って開催している大会もあります(2018年は10月)。このように、当協会ではいずれも特色ある大会を主催、主管していて、ドラゴンボート競技人口も増加傾向にあります。ちなみに現在日本ドラゴンボート協会で把握しているドラゴンボート、或いはペーロン等の大会競技人口は2017年10月現在で41の大会、1372チーム、選手が約2万人となっています。先程も言いましたように日本全国で261、或いは300近いお祭り行事ですね、そういう大会がいっぱい催されていますが、そのような大会から熊本県や鹿児島県、島根県のように日本ドラゴンボート協会の関係するような大会に参加するチーム増えてきていることはとてもありがたいことです。次に、スポーツの持つ重要性と言いますか、スポーツがどのように我々の生活に貢献しているかということについてお話します。今年、韓国の平昌で行われた冬季のオリンピックではスピードスケートとか、フィギュアスケート、ジャンプ、ノルディックなど日本選手の活躍が注目されました。皆さんの記憶にも新しいことだと思います。また水泳、柔道、卓球など日本の若い選手の活躍がとても注目を集めています。アメリカの大リーグに移籍した大谷翔平選手の活躍は毎日、毎日テレビから目が離せません。昨日はちょっと勝ち越しがなかったようですが、すごいピッチングをしましたね。テニスの錦織選手もそうです。女子の大坂選手もすごいですね。日本選手の活躍は我々に勇気と元気を与えてくれます。キャノンの会長兼CEOの御手洗富士夫氏は、スポーツの重要性について三つあるとして次のように述べています。引用しましたのでちょっと読ませていただきます。1) まず、人間力の向上。スポーツは総合的な人間力の土台を作り上げるものです。スポーツを通じて培われた体力、戦力、チームワーク、フェアプレー精神などは企業の経営や先端研究、人材育成にも必要不可欠な要素です。21世紀のグローバルな経済社会は真剣勝負且つ荒波の連続です。そうした中でしたたかに生き残るにはスポーツを通じて培った力が生きてくるはずです。大学生が企業に就職するときにやはりスポーツ選手というのは人気があるようですね。2) ダイバーシティ(diversity)、多様性と日本語では訳されています。ダイバーシティの促進です。ダイバーシティは近年、企業の経営でも重要性が増しています。スポーツは性別、年齢、国籍、人種にかかわらず、多様な人材で組織を構築しています。民族対立や社会的分断の動きが世界中でも顕著になる中、普遍的価値を象徴する存在だと思っています。3) 経済の活性化にも貢献できるという点です。スポーツはあらゆる面で経済に大きな波及効果をもたらす一大産業です。野球やアメリカンフットボールなどは地域に根差したチームが多く、地域経済の活性化にも大きな役割を果たしています。現在のスポーツは社会的コミュニケーションの媒体として非常に高い大会価値を持っています。スポーツに高度なテクノロジーや膨大な資本が投下されるのはスポーツが持っている価値の高さと相関しているが、それはスポーツや現在の社会を貫く本質的な力を表す要素として構成されているからだと思います。私も国際関係論を研究している中で、やはり御手洗氏が指摘されるこれらの三点は、経済の活性化にとって重要な要素だと思っています。ではドラゴンボートという競技がどのようにこのスポーツの重要性に関わってくるのか、ちょっと当てはめて考えてみました。一つはドラゴンボートというのは個人競技ではなくて、1チームが22名(スモールボートの場合には12名)で構成する団体スポーツです。そのためにメンバー全員が心と力、そして技を揃えないと勝利に結びつきません。このことから体力、戦力、チームワークの重要さを学ぶことができる。これがドラゴンボート競技の重要なポイントの一つかなと思っています。二つ目が、水上競技ですから安全に十分な配慮が必要であるために安全教育の絶好の材料となるのではないかと考えます。三つ目は国際大会への出場、或いは海外から日本の大会に多くのチームがやってきます。このような機会を生かして世界の若者と日本の選手が交流を図る機会が多く、国際的な視野を学ぶことができるということが挙げられます。このような視点からドラゴンボート競技が青少年教育の良き教育ツールであることは間違いなく、いずれも御手洗氏が列挙している人間力の向上とか、ダイバーシティの促進という重要性にすっぽり当てはまるんじゃないかと自画自賛しています。さらにもう一つ付け加えるとすると世界選手権大会、或いはアジア選手権大会等の大きな国際大会では世界中から多くの選手、応援団が集まります。イタリアのラベナ(Ravenna)、オーストラリアのアデレード(Adelaide)で開催された大会では5000人を超える人数でした。このように多くの人が集まるので交通、ホテル、それから観光などへの経済効果も大いに期待できます。多くの国や地域が国、地方政府、それから民間企業と組んで世界大会などの誘致に争って名乗りを上げるというのもそういう経済効果が大きいからでしょう。経済の活性化を促す大きな要因でもあると言えます。2021年に関西で開催されるワールドマスターズゲームではドラゴンボート競技も正式種目の一つとなっております。滋賀県の大津の競艇場でドラゴンボート競技が行われることが決定しております。我々もドラゴンボートマスターズゲーム協会といろいろ打ち合わせを行っている最中でもあります。また今年の8月、インドネシアで開催されるアジア競技大会(Asian Games)ではトラディショナルボートレース(Traditional Boat Race)という名称での開催が決定していて、日本からもJOC を通してチームが参加することになっています。このようにドラゴンボート競技はニュースポーツとして世界中に普及してきました。多くの魅力と可能性を秘めたスポーツであると自負しております。最後になりますが平等院鳳凰堂という世界遺産、或いは宇治茶という国際的なブランドを特産品に持つ宇治のこの街においても、ドラゴンボート競技を宇治市のもう一つのブランドとして、さらなる宇治市の活性化に活用して頂ければ有難いと思います。そのためには日本ドラゴンボート協会としても応援したいと思っています。本日はご清聴頂き、有難うございました。

外国人が語る“うるし”

漆芸作家沈 明姫紹介いただきました沈 明姫(シンミョンヒ)といいます。私の漢字の名前をご覧になられた方が<ちんめいき>と呼んでらっしゃいましたが、韓国ではシンミョンヒといいます。日本に来て今年でもう21年目となります。韓国で大学を出てから来日し、21年目で、まだ韓国の方が長いです。私の歳って微妙な感じで、今日ここへ来る前までも年取ったなと思ったりしましたけれども、ここに来てみますと私よりもはるかに先輩方がたくさんいらっしゃるんで、今日はちょっと失敗をしても、皆さん心を広くお許しください。今日の演題を“外国人が語るうるし”としました。漆を専攻しているんですが漆というと日本ですね。英語でうるしのことをなんというか、皆さんご存知ですか。小文字で“japan”と言うんです。それぐらい日本は、漆の代表的な国であるということなんです。これは私が日本に留学に来た理由でもあります。最初私が漆を専攻した理由は、韓国の大学に入ったら、日本で漆を学んでこられた先生がいらっしゃいました。その先生の漆の作品を見て “なんて最先端なんだ”と思ったんです。日本だと漆文化は生活の周辺に結構ありますが、韓国ではそうではないんです。初めて先生の漆作品を見た時に、今まで接したことのないすごく新しい世界だったので、何も考えずに “これやってみよう、新しいし”と思いました。しかしその世界に入ってみたら、何のなんの、新しいどころか勉強しても、しても、キリがないぐらいの古い世界だったので漆を始めて26年目になるんですけど、いまだにわからないことがいっぱいです。まず漆と言いますとお椀、今日の食器の中にもあったんですけど、木器の上に塗りをする塗料としての漆だと皆さんはご存知のことと思います。大体、日本の大学もそうなんですけれど、韓国の大学でもいくつかの学校に漆の専攻があります。大学でやっている漆の大半は、立体造形なんです。立体を作るということは、大変なことなんです。液体はまず、形を持たないものなので、それでもって形を作るためには、何か芯材となるものが必要となります。私は、多分日本に古くから根づいている漆文化について、あまり分からないし、固定概念がない外国人だから、人とは違った見方や発想が出来たと思います。まず、漆ってとにかく時間がかかるもので、この時間がかかっていること自体がイライラしてどうしようもなかったです。これが研究のスタートだったんです。こんなに時間がかかっているんじゃ漆文化って衰退する一方で、もうすでにあまり皆さんも生活の中で漆って使わなくなったと思います。漆は作る手間と時間がかかるので、当然高価なものです。しかし、他の工芸領域に比べると造形が単調で、現代人の美意識に応えることはむずかしいところがあります。このままじゃいけない、従来の作り方を否定するわけではないんですが、このまま作り続けることも納得がいかなかったです。京都芸大の博士課程において、日本では現在使われてない技法を開発してしまったのですが、といいますのは、私にとって大きな幸運となったある古典との出会いがあってのことです。準備した資料をもう少しわかりやすく説明します。その技法は全くゼロから、編み出したわけではありません。実は奈良時代には存在していた技法だったんですが、現代に来ることによって途絶えてしまった、もったいない技法だったんです。それがなぜ途絶えてしまったかというと、その内容についてはまだ解明されていませんが、私が予測するのに、今でこそ手づくりという言葉はすごく価値あるようになっていますが、昔は手づくりが当たり前で、機械作りが画期的だったと思うんですね。木をろくろでくり抜くという方法が最初登場した時は、その新しい文明に関心が集まり、手でコツコツ作っていた方法が一気になくなってしまい、私が今、使っている技法も一緒になくなったんじゃないかと思うんです。その技法は、‘巻く’という字と胎児の‘胎’という字を使って「巻胎(けんたい) 技法 」 と言います。なぜか漆の骨組みとなるものを‘胎’と言いますが、例えば、木を芯材に使う場合は木胎(もくたい)、陶器の上にも塗るんですが、これを陶胎(とうたい)、竹籠を編んだ上に塗りを入れると籃胎(らんたい)、紙の上だと紙胎(したい)と言います。巻胎(けんたい)は、木を薄くスライスして、 さらに細くて長いテープ状にして、くるくる巻いて器を作ります。昔だと多分裂いていたと思います。実は昨年の NHK の“日曜美術館”という番組にちょっとだけ出演して巻胎技法について説明をしました。巻胎技法をわかりやすく説明しますと、木というのは乾燥や湿気によって変形します。特に器のように薄くくり抜くと狂いが起こりやすいです。一つの塊の木からくりぬくとどこか1箇所が変形すると全体に響くので、湿気などに影響され、変形によるゆがみやひび割れが出来ます。ですので、長い期間保持するのは難しいです。木地の上に塗りをどんなに頑丈にしても100年、1000年が経つと狂いが起こってしまって、例えば漆の表面に貝殻や金属を貼って装飾をし、後に芯材が狂うと、表面の装飾は剥がれ落ちてしまうんです。しかし、正倉院には1300年前の漆器の表面装飾が、そのまま綺麗に保っている漆胡瓶(しっこへい)という水差しがあります。塗りは不透明なので一番外側を塗ってしまうと中がどうなっているかわからないんですね。 漆胡瓶(しっこへい)のなぞをとくため、Ⅹ線を通して中の構造を調べて見ました。調査の前は、竹なんかで編まれているんじゃないかなと推測されていましたが、Ⅹ線に写っていたのは何重もの横筋でした。なんとこれは 薄いテープ状の木が巻かれていたのです。私は漆胡瓶の研究にはかかっていませんが、もう1点、漆冠笥(うるしかんすう)という1300年前の聖武天皇の冠を入れていたとされる箱があるんですが、その復元模造と並行して巻胎技法の構造解明や研究をしたことによって、今の仕事にたどり着いたわけなんです。今私が用いている技法の特徴を言いますと、とにかく狂いが来ないです。1300年経った今でも狂わないまま綺麗に保存されている漆胡瓶がこのことを証明します。そしてろくろ引きだと左右対称の円形状の形にしか削れないのですが、巻いて作ると造形的には非常に面白く、しかも早くできるんです。私にとっては早くというのはすごく魅力的なことだったんです。日本の方はすごく真面目で時間がかかることを恐れないですよね。それは尊敬すべきところでもありますし、学ぼうとしてもなかなか思うように行かないのです。特に韓国人の多くは、はやくやってしまおうとする習性があります。しかし日本の方は仕事の終わりを求めていないように感じることがあります。そしてその仕事は代々受け継がれていくのでしょう。工芸領域にいる私にとって、非常に尊敬すべきところだと思っています。私の作品をご覧ください。現代の美術領域において表現活動に携わっている人々の多くは自己の哲学的美学的内面の作品観に偏りすぎているように思います。既に存在する技法・手法を用いながらですね。。。。美術は、元来、手によるものであり、だからこそ表現に直結する、技法の工夫や新しい素材の研究、そして改善すべき仕事に真剣に向き合うことは、とても大切だと思います。工芸は人間の生活に最も密着し、生活を豊かにできるアートであることを現社会が再認識することを望んでいます。高度に機械文明化された現代において、日々提示される新素材や技法の中で、ともすれば見落としてしまいがちな古典の技法から新たな造形世界を発見できたことは、伝統の手仕事技術を単なる過去の遺物とすることなく、生まれ変わった漆作品を遺すことで、手仕事の命を次の世代へつなぐという大きな目標に出会えたと思います。先人への畏敬の念を心に刻み、アジア固有の華やかな文化に携わっている者として私は今幸せを感じています。

会員卓話

2018年3月1日気仙沼から小金沢へ山下 茂最近よくテレビでおなじみの鉄道の旅番組をご覧になっておられますか。私は仕事を辞めるまで旅行にあまり興味がありませんでした。もし行くとしても車で行くのならまだしも、車で行くなど考えられませんでした。重たい荷物持って移動する、ましてや時刻表で切符の手配や時間通りに動くと考えられませんでした。そんな私に1年後に退職した後輩が鉄道友の会に参加しませんかと声をかけてきました。鉄道友の会とは宇治郵便局、伏見郵便局の職員で酒好きと鉄道好きの者でつくる同好会です。鉄道好きにもいろいろありまして、例えば乗るのが好きなら乗り鉄、飲むのが好きなら飲み鉄、写真を撮るのが趣味なら撮り鉄、女性なら鉄子、鉄道に関する音を録音するのが音鉄もしくは録り鉄、弁当が好きなら駅弁鉄といろんな楽しみ方があります。最初は何度も誘われましたが断っていました。ある日、一筆書きの旅に誘われました。一筆書きというのは乗った駅から降りる駅まで一筆で行くことです。例えば六地蔵から木幡までの切符を買い京都駅に行き、湖西線で近江塩津駅に行き、次に北陸線で前原駅へ、東海道線で草津駅に行きます。草津から拓植線で拓植に行き、関西線で木津駅に.そこから奈良線で木幡へ。これだけ乗っても運賃は六地蔵木幡間で済みます。この旅に参加して鉄道に興味を持ち、それからも和歌山回りや大阪回り等をやっていました。そのうちに、4泊5日の東北旅行に誘われ参加しました。この旅は青春18きっぷで普通電車か、快速電車で山形、秋田、青森、岩手、宮城の五県をめぐりました。六地蔵から関空に出て飛行機で仙台空港に行き、東北本線で福島へ、福島で止まり、次の日は奥羽本線で米沢へ、米沢では上杉神社と松岬神社を観光し、前坂線、奥羽本線を経由し、秋田へ。途中酒田で一時間ほど乗り換え時間がありましたが駅のベンチで缶ビールを飲んでいました。3日目は秋田から五能線リゾートしらかみ1号で五所川原へ、途中でマグロバーガーを食べ美味しかったこと最高でした。もちろんビールも。弘前では弘前城を見学に行きましたが工事中のため、天守閣が移動しており見えま2pせんでした。弘前駅から弘南線、花輪線を経由、盛岡で途中、岩手銀河鉄道を経由したため別料金が発生しました。盛岡では次の日、1人だけ朝6時過ぎの列車で田沢湖線、北上線を経由して北上で合流する豊田君と同室になり、夜中の3時4時5時、三回起こされ寝不足になりました。4日目は8時43分、盛岡を出発、東北線で平泉へ、中尊寺を初めて見学しました。本当に金色堂があり感激しました。ここでそばを食べたのですが全員時間間違え。次の列車に乗り遅れ一関駅で1時間以上何もすることもなく缶ビールを飲んでいました。一関から大船渡線で気仙沼へ、気仙沼からは東日本大震災の影響のため、バスで小金沢駅へ。バスは津波で流された線路の跡と国道を走り、駅に向かいます。小金沢で一泊した旅館は津波で1階が水につかったそうですで、すぐ下にある小金沢の駅はホームが半分流されありませんでした。5日目はまたバスで前谷地駅へ、このバスも前日と同じで元の線路と国道を走り約2時間かかり駅に着きました。途中、私は腹痛を起こし、偉い目にあいました。石巻線、仙石線を経由して仙台へ。途中、かの有名な日本三景の松原がチラッと見えました。帰りも仙台から飛行機で関空へ快速電車で7時半頃京都に帰り、反省会をして家に帰りました。この旅で完全に鉄道の旅にはまってしまいました。昨年も軽井沢熱海を巡る旅に行きました。飛行機や新幹線を使って効率よく名所をめぐったり、高級リゾートでのんびりする旅とは一味違った旅の楽しみを知ることができ、声をかけてくれた友達に感謝しています。私に新しい孫ができました。もうすぐ3歳になる孫が電車が好きですのでいつか孫と一緒に鉄道の旅を楽しみたいと思います。今日もこの卓話がなければ四国に二泊三日の旅に行っていたはずです。高速道路を逆走神田 豊道交法の改正で平成29年3月以降は75歳以上の運転者が免許更新時に認知機能検査が行われることになりました。「日本では2025年には、団塊の世代すべてが75歳以上となり、全人口の5人に1人を占めるようになる。65歳以上まで含めると3人に1人に近づくという。高速を逆走したり、居眠り、アクセルとブレーキの踏み間違いでコンビニに突っ込んだり、スーパーの屋上駐車場から外へはみ出たり、それらは高齢者だけではないはずと聞きましたがその煽りを食らって私も検査を受ける羽目になったんです。高齢の受験者にどうでしたかと聞いてもかーんたんというだけで自分がすんだら感心なしでした。ところが偶然、Netを検索したんです。おどろいたことに天下の警察が認検の問題内容を紹介しているんです。見つけましたね、これはかーんたんと思いました。楽勝です。64種類の絵を暗記する、時間はたっぷりある。 しかし、本間かいなと疑いの気持ちがあって、半信半疑でした。まあ、あくまでも例題であって、例えばこんなイメージを持ちなさいというのだろうと思っていました。本番の日がやってきました。受けてみるとその場で大変なことになりました。見覚えのある絵が出てくるのです。その絵は覚え込んだ半分以下の量なんです。これも楽勝。で、今、出てきた絵を覚えといてくださいねと言うんです。次に10時10分という時計の絵を描きなさい。西暦何年か、今日の日付を書きなさいというわけです。楽勝、〃。で、次に1桁の数字がずらっと並んだ表があって、これから言う数字を斜線で消しなさい。一つ探せ、二つ探せという。だんだん数字に集中せざるを得なくなります。で、最後の問題、最初に出た絵をみんな書いてください。数字を消したり、時計の絵を描くほうに集中していたためにどんな絵が出たのか全く忘れてしまっているんです。フェイント、時間差、ダマされた。ああ、これが認知症テストか。たくさん覚え込んだ絵と出題の絵がごっちゃになって往生しました。検査の結果は3段階あって49点以下(第一分類)は精密検査を受け、認知症と診断された場合は免許取り消し、又は停止。50点から76点(第2分類)までは講習時間が長くなるようです。76点以上はほんの少しの講習と実地だけでした。昨年の3月から12月統計によると172万人の受験者があり、 第一分類5万人  第2分類45万人  120万人がその恐れなしと新聞報道がありました。あと2回は挑戦するつもりです。それ以後にはペースメーカーみたいな、アンアルツメーカーなるものが開発され頭の中に埋め込む、サポカーより性能のいい部品が出てくると期待しています。

年男・年女放談

2018.2.1「心顛倒せず」船川会員年男放談ということで一番年配のようなのでトップで話することになりました。今までの来し方とこれからの行く末について少しお話しようかと思っています。生まれたのが1934年でして、昭和9年ですけれども、干支で言いますと7回目が終わることになります、84です。生まれたのは5月だったんです。私どもはお茶の製造をしておりまして、5月というとお茶の最中ですね、一番忙しい時で父親にとっては嬉しい、跡継ぎができたということで、しかも5月のお茶の時期にできたということで非常に喜んだんだろうと思います。傍から見れば迷惑ですわな、5月の一番忙しい時に生まれてきよってというようなものだろうかなと思ったりしております。小学校へ入ったのが昭和16年、12年に日中戦争が始まっておりまして3歳でしたけども、それから太平洋戦争がありましてほとんど子供の時分は戦争の時代でした。物もないし、食べ物もないし、何もない。非常に大変な時代だったと思います。小学校一年生の時はですね、ちょうど国民学校という学制改革がありました。これは国の方針で少国民も戦争の協力者ではないけども、精神的な教育もしていかなあかんということで国民学校になったんです。小倉村立小倉国民学校というところに行きました。それで4年半戦争がありまして、戦争が終わったのが5年生の8月15日、お盆の日ですね。この日は私にとって生涯で一番記憶に残る日です。何故かと言いますと終戦の日でもあったんですけども、ちょうど私の母が一番最後の5人目の子供を産んで1年を過ぎたら体調を崩しまして里の方へ養生に出かけておりました。家に母親がおらない状態でして、そんな中で一度親父と一緒に見舞いに行こかということになって8月15日のお昼前に家を出て近鉄電車に乗りまして、その当時は奈良電車ですけども、富野荘駅でおりまして、それからまっすぐ電車に沿って行きますとちょうど木津川の堤防に上がるんです。周りは8月15日ですから草がボーボーとして蒸し暑い日でしたけども、そこから歩いて母親の実家は、今は城陽市青谷というところで30分ぐらいの距離だったと思いますが2キロぐらい行きましたら、ちょうど12時から終戦の詔勅の放送があるということだったんですね。私は子供の時分ですからそんなこと知らずにまあ、親父と一緒に行って着いたらちょうど12時過ぎたところでした。リキさんとうちの親父は呼ばれていましたが“りきさん戦争終わったたで”と母親のお父さんが言っておられた。その時の気持ちというのが今も覚えておりますけども非常に子供心にやはり戦争というのは非常に頭の上に何かのしかかっているような、キリがいつもかかっているような状態でおりましたので、それを聞いたときの嬉しさというか、もうこれは生涯忘れないような気分がいたしました。たまたまそのやっぱし終戦の日でしたから普段やったら大概朝からB29が飛んでくるんですがその日は妙に何も来ないんですね。空は真っ青で綺麗な青空でそれも一つ頭の中に残っております。それと母親が病気で寝ていたということもあったとあってそれらの三つが重なって何か記憶にずっと残っている日になりました。ちょうど小学校5年の頃でした。そんなこともありまして戦争も終わり、中学の時も学制の改革があって633制の初めての年ですね。だから小学校1年の時も国民学校になったし、中学校の時も初年の1期生ということで、何かこう節目の年に学校に行きました。中学へ行くとき勉強も何もやっておりませんし、義務教育になったから自然にはいれるわけですから、考えてみれば小学校一年生に入って学校で空襲があったりしますと途中で学校から帰ってきたりというようなことがあったんです。9年間ほとんど勉強などした記憶がないぐらい勉強なんてしなくて済んでしまったようなに思います。高等学校の時もほとんど新制高校でしたから受験勉強もなくてスッスと入ってしまいました。で、どんどんと日が過ぎて行きまして、今はもうどういう生活をしているかと言いますとその日その日というような感じて生きております。だんだん年とりますとあまり欲もありませんし、その日その日が過ぎればいいなと思っています。死ぬのはもうちょっと先にしてもらいたいんですけども、うちは浄土宗なんですけども、死ぬときに心顛倒(てんどう)せず、心錯乱(しゃくらん)せず、心失念せずというのがあります。法然上人の日常勤行集というのがあって、それに載っているんですけどもそんなことを考えながら無事心失念せず錯乱せずで生きられたらいいな、なんて思っております。蓮如に明日には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なりというのがありますね。そのような言葉を聞きますと一日一日人間というのはいつ亡くなることになるかもからないので、できるだけ心静かにこれから何年間か過ぎていけたらいいなと思っております。長くなりましたけどもそういうことで終わらせていただきます。ありがとうございます。「12年間持った」吉田会員皆さんこんにちは。1回前の戌年にロータリーに入会しました。それでその次の正月に年男として、こうしてしゃべらなくてはならないというイメージがありました。小生はロータリー10年持ったらいいほうだろうと考えていました。ちょうど12年待ってしゃべれるようになりました。ありがとうございました。何もございませんが一回前の戌年のときは、まだ人生が長いから着実に頑張ろうと思いましたけども、これからは一つ一つ目標を決めて、例えば東京オリンピックを2回見たい、どこどこの国へ行きたいと一つ一つ目標を決めてがんばりたいと思います。商売もWin Winの関係でやっていきます。今後共よろしく御願いします。「アイボ」城島会員皆さんこんにちは。久しぶりに前の席に出させていただきました。えらい吉田さんが気を使っていただいて、いつも気を使われないのにこういう時だけ気を使わはります。ご紹介ありましたけども、この戌年のメンバーがクラブの中には多いということです。現在7名もいます。それと今までにこのクラブに在籍された方で矢野先生がそうです。ちょうど一回り上で船川さんと同い年だと思います。あと、木幡神社の木村宮司さんもそうです。それとまだおられまして、ちょうど今年還暦を迎えられますけども近畿グリンの北村君、彼も戌年です。それで全部足しますと10名になります。まあ、犬のことですので大変多産になっていますがまあそれはさておき、我が家にはダックスフンドが一匹おります。もう13年ぐらい経ちますかね。よく言うんですが外で飼っています。いやかわいそうにと皆さん言われます。私の考え方としましてはあの犬は元、猟犬やということで猟犬として改造されたということを聞いておりますので外で飼っております。13年経ちますと頭も白く、私も同じことですけども目もうとくなってきております。だんだん耳も聞こえにくくなっているようでねきまで行ってもまだ寝ております。で、ボーンと音をだすとびっくりするんです。そういう感じで犬が一匹おります。で、もう1匹に飼おうかな。今から飼って、さてどっちが長生きするやろうということでこれはちょっと考え物やなということで、えさのいらない犬が何とか飼えないものかと。と言いますのは皆さんもご存知と思いますけどもソニーから出ていますアイボというのがあります。あれをですね、ちょうど去年の11月の1日にワンワンワンの日にですね、社長がですね、発売するということで発表がありました。それを私もちょっと聞きましてインターネットを見ていたらなるほど出ていました。それで、応募したんです。インターネットのサイトの方から登録してやるんですけども、なかなかうまいこといきませんでした。しばらくしましたら10匹だけ0001から0011までナンバーのついたちょっと色の違うアイボを今度発売するということで募集しています。だいたい1匹が20万ぐらい。11匹しか発売しないということで一応応募になるんですけども金額はなんぼでもいいと最高で100何十万という金額が入っていましたけども30万からオーバーした分はソニーのほうが財団法人に寄付されて買ったものはその分は税金上の対策になるということであったんですけども、私もある程度出してきたんですけどもスカでした。なかなかうまいこといかないもので何とかそれを手に入れようと思って今苦心をしております。大阪の梅田の方でソニービルで実際にワンちゃんが三匹ほどいるということですので一度見に行ってこかなとそんなことで、何とかもう1匹、わんちゃんを増やそうかなと努力している最中でございます。失礼しました。「決心したこと」清水会員失礼いたします。放談ということを広辞苑で調べましたら思うことをはばからずに語ることというふうに書いてました。で、思うことをちょっと憚りながら語りたいと思います。私事なんですけども、昨年、下の子が女の子を出産しました。そのことを長女が喜んで、結構沢山お祝い送ってきたんです。その中に1冊の本が入っておりました。それは鮫島浩二という方の書かれた絵本なんですけども、この方は東京医大を卒業して、東京警察病院を経て現在は埼玉県でクリニックを経営しておられます。赤ちゃんがお母さんのお腹にいるときにどんなことを考えて、何を思って10ヶ月ほど過ごしているんだろうなとずっと考えておられた時に、ふと口をついて出てきた言葉をずっと書きとめて、それを絵本にされたんです。私があなたを選びましたという題がついております。もうその通り内容も非常に簡単で、お母さんお父さん私がお父さんお母さんを選んだんですよというふうな内容なんですけども、これを証明するようなことが今、東京でありまして、前世のこととか、そして神様からこういう啓示をいただいて伝達するように言われてきたよと言う事を話している女の子がいます。まだ小学生なんですけども、私はこういう理由でお父さんお母さんのところに来たんですよというような話をするんです。縁があってうちの下の子がまだ子供がいるかどうかわからないときに会う機会がありましてお腹に赤ちゃんが来てますよ。女の子みたいですよと言ってもらったんですね。で、実はちょっとその前に流産したことがあって非常に落ち込んでいた時に、女の子が来てますって前にきた子がまた来てますと言われたというんですね。何か家族全員みんなそれであーもう一度来てくれたということで非常に待ち望んで生まれたので上の子も喜んだんだと思うんです。そういうことを自分の人生に照らして考えてみますと私は自分の父、ものすごく厳格で頑固な父だったんですけども、その父とちょっと気ままな母を私は選んだのかなと疑問は残りますが、とにかくこういう状況に今あって、で、こんな環境の中で今こうしてロータリーに入れてもらって話しているということは私が選んだ宿命だったんだろうなというふうなことを思うんです。選んだということは宿命ですけども、そのあとの人生というのは自分の努力と言いますか、いろんなふうに描いていけると思うんです。で、私、今までこんな回り年が来て話をする、いやあ~結構長いこと生きてきたんですけども、そんなに努力をしたという記憶がなくて、申しわけなかったなと最近、特に思いました。で、これから私はどんな絵を描いていくのかということは私の運命を切り開いていく私の意志と努力にかかっていると思いますので厳格な父をうならせ、そしてわがままでちょっと気ままだった母を喜ばせるようなことをこれからやっていきたいなと思って、今年のお正月は非常に深く決心したんです。これだけの話なんですけども終わります。ありがとうございました。「在宅で看取ろう」大石会員失礼いたします。戌年ということで私は年回り6回目です。最初、生まれたのは私とは関係なしに戌年に生まれているという事です。12年目の1回目は私が腎臓と紫斑病によってほとんど生きるか死ぬかわからないような状態で迎えています。2回目の時は受験で苦労していたときでした。そして3回目の時は親父が亡くなった昭和57年です、その時は京都に帰って後を継いだ年で長男が生まれた年でもあります。その後4回目、5回目は医師会の理事や副会長などで大変仕事が忙しかった時です。そして今回6回目ですけども72歳になりまして、今年は何か良い出来事が待っているかなと思っているのですけどもこればかりは何とも言えません。私は昭和57年に京都に帰ってきて患者さんの最期を在宅で看取ろうと思い、往診を第一に診療を始めていました。しかしこの前あるアンケートで、本人の希望は、50%以上は自分の家で最期をむかえたいという人々がおられますが、実際結局は病院で亡くなっている方が70%以上あると言われています。というのは自分の想う意思とは関係なく亡くなる方が多いと言うことです。これは何故かと言いますと今現在の家族構成など色んな問題が多分にあると思いますが、自分の意思(考え)を明確に伝える事が出来ていないことですね。どこで、誰と、どんなふうに過ごしたいか、また、人生の最期をどのような医療を受けたいか、受けたくないかを家族と考え、話し合うことが大切です。今、医師会で事前にそういう自分の想いをどのようにしてほしいかという書類等があります。これが自分の思い、私の思い事前指示書というものがあります。これを家族等と相談していただいて実際に自分が最後になったときにどのように対応して頂けるかを決めて頂く方が良いかと思います。我々、医者は在宅で看取ろうという気持ちは十分にあります。これから先25年というのはますます高齢化になってしまいますから入院する場所も少なくなってくると思いますので、なるべく家で看取りたいという方があると思いますが、家庭環境はこの頃大家族でありませんから夫婦とか、独居の方が多くなって来ると考えます。どのような家庭環境の中でどのように対応されるかが今後の在宅介護の問題になって来ると思います。私自身もそろそろ考えておかなくてはいけないなと思いながらいつどういうふうにしてくれるかというのは子供の想いにもよると思います。実際に嫁さんと子供達が自分の想いを理解してもらえる様に話し合う事だと思います。ここ最近在宅で亡くなっていくおばあちゃんなんかを見ていますと家族に看取られ安らかに静かに亡くなる、そういう寝顔は一番いいですね、実際。わずかに涙を流しながら亡くなっていくという状態の顔は一番よろしいです。自分の家族を看取る場合にはそういう安らかな顔を見て送ってあげるというのが一番やと思います。会員の皆様は若いですが、ご両親やおじいちゃん、おばあちゃんがおられると思います。家族で一度は考え話し合う機会を作って頂きたいです。何かお尋ねがあれば相談して下さい。以上簡単ですけれど終わらせて頂きます。「この会をもっと大事にして」中島 会員取を仰せつかりましたが今の清水さんのお話を取にしたほうがしんみりと余韻を残して終われるんじゃないかと思いますがまあ一応お役目ですのでお話させていただきます。吉田さんもおっしゃっていましたけども、私も結構、かれこれ長くこのクラブにいますが今回、年男放談が初めてなんですね。というのは私が入会したのが3月なんですね。それもその12年前の3月ということでちょうど1月の誕生日が来た後だったということで今回が初めてだということになります。その時にこのクラブに導いてくださったのが橋内くんのお父さん。それから亡くなられましたけども木村登志雄さん。それから臼井さんのおじさんですね。それから宮原さんとかがいらっしゃったんですが皆さん、入会しろ、入会しろと言っていたわりには皆さん無責任に辞めていく。それは余りにもかたすかしやないかとそんなふうに感じなくもないんですがちょうど井沢京子さん、国会議員でいらっしゃったんですが井沢さんと一緒に入会式をやったのを覚えています。まだ醍醐プラザで例会やっていた頃ですね。で、入会した頃はですね、今はわりと私はロータリーを一生懸命やっているように見えますけども、不真面目であまり例会に出て来るのも結構苦痛だったんです。ただ、そうは言っても、そこからいくつかロータリーを一生懸命やろうという、そういうきっかけになるようなことがいくつかあったんですね。それはロータリーの友とか、月信とかをロータリーモーメントと呼んでおられますけども、そのロータリーモーメントになったようなことが思い起こすといくつかあります。その一発目が入った年のクリスマス例会で司会をやれという話になって、まあ、あれをやってからちょっと積極的にこのクラブに溶け込んできたのかナーと、そのあと太田壱将さんが会長をされた時に理事をやりなさいということで結構入会して間もなくだったんですけどもそういうことも経験さしてもらい、それから宮原年度に幹事をさせてもらって、そのあと地区にも出させてもらって、そして今があるということです。で.こうやって毎週、集まって、毎週ですよ.こうやってご飯を食べていろいろお話をするということはこんなんないですよね、こんな集まりって。だいたい数ヶ月にいっぺんとか、そのようなことだったらあるんですけども、だから非常にありがたいし、それによっていっぱい宇治の中でお友達もできたし、お話し相手も出来たし、いい会に入れてもらったなと言うことでこの会をもっと大事にして、これからの人生、あと何年生きられるかわかりませんけども充実させていきたいなと思います。亡くなられた方、橋内さん、木村さんにご冥福をお祈りして私のお話とさせていただきます。どうもありがとうございました。

介護施設経営の困難をやりがいに変えて

社会福祉法人マイクロ福祉会 理事長マイクロ株式会社 取締役会長伊藤 弘子皆様こんにちは。ご紹介をいただきました伊藤弘子でございます。高橋権也先生からのお話をいただき、本日、お話をさせていただきます事をとても光栄に思っています。ありがとうございます。タイトルを「介護施設経営の困難をやりがいに変えて」というタイトルにさせていただきました。高橋先生からは伊藤さん、介護施設経営の苦労話をしてというふうにおっしゃったんですが、私は経営をして苦労と思ったことはございませんので、「先生、困難をやりがいに、でよろしいですか?」ということでこういうタイトルにさせていただきました。<はじめに>私は、経営者として今年で46年目になりますが、その46年の流れをまず簡単にご説明をさせていただきます。起業は1973年に有限会社伊藤製作所として松下電子部品、今はパナソニックとなっていますが、松下電子部品のお仕事をスタートいたしました。その後、有限会社から株式会社に、そしてマイクロテスト株式会社とし、現在マイクロ株式会社に社名変更し、現在に至っております。その間、ずっと無借金経営だったんです。お正月に10年ビジョンを語る会というのがございました。その時に私は何をしようかなと思ったとき、「本社ビル建設」ということを目標に掲げました。そして、目標として10年ビジョンがおかげさまで3年半でその夢を実現することができました。順調にお仕事は推移して参りましたけども、転換期が参りまして、2001年にパナソニックさんの海外進出という時代です。中国に海外進出をされ、私どもの仕事は、「平成13年9月31日をもって取引を停止」という紙1枚で取引停止になりました。「うちの仕事を持っていく中国ってどんなところやねん!」と思い、中国に行って現状を見て参りました。すごかったんです!! 私共は、マンパワーの仕事をしているんですが中国の人口たるやすごい!!「ああ、これは私どもでは勝てない!」と腹をくくることができました。2年前に本社ビル建設をいたしまして、初めて銀行から融資を受け、月々100万円の返済、社員を20名雇用中、仕事はゼロ。本当に地獄、修羅場を味わいました。で、松下さんが「伊藤さん、中国に工場を作るし、一緒に中国へ行って、マイクロで検査の仕事をやってください」と言われました。でも、私はその時、子供が高校と大学に行って、子育て中なので、「いや、それはできません」とお断りをしました。そしたら松下さんが「え!!」とびっくりされました。仕事はゼロになり、私は途方に暮れながらも、何とか仕事を探そうと、毎日営業に明け暮れました。<介護事業へ進出>2003年、平成15年から転換期で介護の異業種進出をいたしました。私は中小企業家同友会に所属し、そこの経営委員会で経営理念成文化作成を担当し、その啓蒙活動をしていました。東京からいらっしゃったコンサルの先生が、「伊藤さん、マンパワーの仕事は衰退産業ですよ」と言われ、そうやなとマンパワーの仕事は中国に勝てへんと強く思いました。その時コンサルがおっしゃったのはこれからの成長産業は三つ、環境、教育、福祉。という事でした。そして、大阪で建設業をしている弟が「株式会社でも、介護事業ができるようになったんやで!今、介護施設を三つ作ってる」と言われて、成長産業の福祉かと思い、藁にもすがる思いで、その施設を見学に行きました。専務を連れて7月29日の、猛暑で気温40度という中です。それを見たときに私がこれからする仕事は「これや!!」、30年間経営でお世話になった皆様、世の中にお返しする仕事は「これしかない!!」と心で叫んだ瞬間でした。でも、介護事業とはお金があっても、人がいても、土地があっても、もろもろ条件が揃っても指定事業なので、国から指定認可をいただかなければなりません。まず宇治市に申請に行きました。「実績ないやん、伊藤さんあんたが作ったん見せてもろてからや!」けんもほろろに断わられ、余計、私の気持ちに火がつきました。それから長岡京市、向日市、宇治田原町、京都市、城陽市等にも行きました。そして城陽市で初めて受けていただいて、公募に参戦して落札し、2003年に一番最初の「グループホームまごころ城陽」をオープンすることができました。その時に医療連携として高橋権也先生にお世話になったわけです。それから7年間一心不乱に施設7ヶ所、サービス別の事業所といたしましては12事業所を開所させていただきました。でも、グループホームは、認知症の方々が共同で生活をお過ごしになる場であって、人生の終末期を過ごすところではありません。ある時社員が「社長、特養を作ってください」またご家族様からも「マイクロさんで最後までお世話になりたいので、ぜひ特養を作って下さい」と強くご要望をいただき、決心いたしました。しかし、特養はですね、1000坪いるんです。100人収容、100室作りますので、土地がなかなかありません。その前に特別養護老人ホームは社会福祉法人格を取らなければいけません。<社会福祉法人設立>2011年に「社会福祉法人マイクロ福祉会」を設立しました。この設立をするに当たりまして、京都府の介護福祉事業指定担当者の方から言われたことがあります。「伊藤社長、実は株式会社が社会福祉法人格を取得するというのは、京都府ではほとんど例がないんです。恐らく日本でも少ないと思います。しかしながら、設立認定審査委員の皆様方から、マイクロさんは何かやってくれそうだ!株式会社が参入することで新しい風を吹き込んで欲しい、風穴を開けてくださいと伝えて下さいと言われましたよ。」と仰っていただきました。「ああ、そうなんや、有りがたい!! 頑張ろう!!」と強く思い気を引き締めました。そして1,000坪の土地を手に入れ、諸条件を整えて公募に参戦しました。電話帳のような分厚い申請書類を作成し、何ヶ月も京都府庁まで通い、60名余りの介護職員を雇用し、融資決済に奔走し、理念や20年分の事業計画をクリアし、やっとの思いで公募で落札したわけです。竣工式には京都府知事や宇治市長にもお越しをいただき、激励していただきました。<今後の課題>今後の課題でございますが介護人材の確保は重要です。本当に介護人材は不足しています。これからもっともっと超高齢化社会が訪れます。認知症の方が増えます。独居が増えます。そういう中において、私たちはどう介護事業を展開していくかということです。困難な介護人材不足のなか、これからの2025年、団塊の世代の方がいよいよ介護が必要とされる時代が必ずやって参ります。その時は国がいつも言っているように38万人の介護スタッフが不足します。じゃあ、それに対応するべき私たちはどうしたらいいのか。私共は、外国人実習生を受け入れるべく、介護サービスの組合を設立して、外国人実習生を受け入れしようと今年1月10日からベトナムへ視察に行って参りました。しかし外国人受入れに関しては、今後の課題です。そして、今後の高齢者ですが全国で現在250万人ですが2025年、その団塊の世代の方が使われるようになったら320万人と推定されています。高齢者の世帯の7割が一人暮らしと高齢者の夫婦で占められます。中でも一人暮らしの世帯は37%、680万世帯になると言われています。その中で国はどんな政策を打っているかと言いますと新オレンジプランを制定し、安倍首相はそれを認知症対策として打ち出されました。又宇治市は認知症フォーラムで「認知症の人にやさしいまちづくり宣言」をされました。世界が日本の高齢化対策に注目しています。今、日本の60歳代の女性の方の60%が96歳まで生きる時代が来ると言われています。私は特別養護老人ホームを作るときに京都府との事前協議の中で、日本はもちろんのこと世界から見学に来ていただくような特養を作りますと公言して参りました。つまり私たちがこれから使う特養はですね、スマホも使います。パソコンも使います。そういう文化的要素を兼ね備えたところ、そういうところを作りますということで設立してきました。一昨年タイからの使節団見学者40名、通訳5名、関係者10名、計55名の方がバスで当施設をご訪問いただきました。また、韓国からの視察もありました。韓国はこれから介護保険をスタートするということで、国のその担当の方々、病院関係、又大学生のこれから伸びようとしている人などが来られましたがその大学生の中から、視察団の中で初めての質問が「高齢者を相手に黒字の経営ができますか?」という質問だったんです。「介護保険の仕組みどうなっているんですか?介護スタッフは介護技術をどう身につけるんですか?という質問等を私たちは想定していました。初めから意外な質問を受けて「ああ、他国の高齢者事情にも黒字でなければとそんなところに関心があるんだな」と思いました。私は、黒字経営は全ての経営の基本だと思っています。黒字経営だからこそワンランク上のサービスも可能だと思います。スウェーデンからも見学に来ていただきました。福祉と言えばスウェーデン、先進国です。私共は、驚きと感動の中でお迎えしました。<総括>私たちは、今後どの様にして介護事業を進めていくかと考える中で介護スタッフが魅力的な存在になること。そしてクオリティの高い人材を育てることが重要と思っています。また、多様な人材を受け入れていかなければ日本人だけではスタッフの数が間に合いません。と言いますのは法令に於いて人員配置基準が決まっているんです。この施設にこの規模ではスタッフは何人配置をしなければならないとか、その他細かく決まっています。人が足りない。それでも益々高齢化に向かう中でご利用者様に寄り添ったケアをするにはどうしたらいいか、今後も続く課題です。<地域密着>グループホーム・デイサービス・小規模多機能ホームは、地域密着型介護サービスとされ、周辺地域の方が利用される施設です。特養は広域型の介護サービスと位置づけられ、受入れ範囲が広がります。どちらのサービスも地域の福祉施設として多くの方に知っていただく事が重要で、いざ介護で困った時に「あっ、マイクロさんに相談してみよう」と利用して下さるよう、地域に愛される施設づくりを目指しています。<行政に対して>コンプライアンスの遵守、法律に基づいた規定があるのでこれに沿った介護を行います。決められた事に沿ったものをケアプランとしてチームケアをする。創意工夫をし、安心・安全を基本にお客様にご満足のいく寄り添ったケアを実践して参ります。それから施設は宇治市がその年度で事業計画を立て、現状の必要数を見合わせながら決めていかれます。それに対して各々の事業所が各々の対応をして参ります。<銀行に対して>私たちの仕事は、施設を作りご利用いただくわけなので、銀行さんの応援なくしては、仕事はできません。介護事業進出で最初の「グループホームまごころ城陽」建設のときに、銀行さんに対し本当にありがたい、一生忘れられないことがありました。と申しますのは、城陽市でのグループホーム公募にあたり、銀行からの融資が必要でした。城陽市役所さんは、事業資金計画書を見るなり、「この資金計画で絶対に融資を受けられますね?」「では、銀行さんに、必ず融資をしますという確約書を貰ってきてください」と仰いました。すぐに銀行さんにお願いしましたところ、銀行側は「そんなものを出したことはないんです。上にあげましたけどもそれは出来ません」と言われました。私は、支店長さんに「確約書がなければ、もうきっと公募でも落札出来ないと思うんです。ここが一番大事なところなんです。」と粘り強くお願いいたしました。すると「わかりました。伊藤社長、僕が行って説明します。」と言っていただいたんです。早速、同行して下さり、「このマイクロさんはずっと継続的にご利用いただいてます。きっちりとした経営をされているし、今まで間違えも1回もないし、これからも発展的に事業をされるというふうに当行は思っています。従ってこの融資は絶対間違いありません。」と言っていただきました。その結果、城陽市でのグループホーム第一号が落成しました。この支店長さんのお陰で、介護への進出ができ心より感謝し、一生忘れる事のない出来事です。<社内に対して>経営理念に基づいた経営です。経営理念・限りなき挑戦を行い地域貢献度の高い企業を目指す。・私たちは仕事を通して夢と希望と幸せを追求します。この「経営理念」に基づいて、毎年今年の戦略、事業計画を立てます。先程、ご覧いただいた事業所、18事業所は全部それぞれで事業計画を立てそれをPDCAでまわして実現に持って行きます。高い目標を掲げるをモットーにそれぞれの事業所が掲げるんです。会社から指示する事は一切ありません。介護はチームケアですのでその事業所が心一つになってケアをしていかなければお喜びいただけるようなケアは絶対できません。「チーム全体が心一つ」を大事に思っております。<事業継承>昨年5月15日に息子に事業継承いたしました。事業継承する前に3年位、彼の行動、言動等細かく観察していきました。私は息子に帝王学をということで教育したことはありません。私が出向く所、行政、銀行、会社さん、いろんなところに必ず専務を同行して私のやっていることを見て学ぶと言うことをさせました。そしていよいよ事業継承をいたしましたが売上も下がることなく今、順調に推移しております。<お客様に対して>我が社のお客様の定義は、「ご利用者様とそのご家族様をお客様とする」と位置付けております。お客様に対しては、国のオレンジプランによって寄り添ったケア、笑顔溢れるケア、常にお客様に向いた仕事をするようにし、また安心・安全を基本にチームケアを心がけています。<最後に>介護保険の仕事は全国で収入は決まっているので同じです。しかしその中でもビジネスチャンスはあると思っています。いろんなところに気配り、目配りをし、理念に基づき、社員とともに感謝の気持ちを大切に心一つで頑張っています。お客様の満足度を一番と考えております。お客様の満足以外にこの仕事は成り立たないと思っています。ところで、私は今までいろんな人に出会い、助けられてきました。製造業からの介護事業です。全然関係ない異業種の仕事です。今まで物づくりばかりを向いていた私が、今度は介護に向いていくわけです。介護進出にあたり、北海道から九州鹿児島まで研修があるたびに大きな施設を、いろんなところを見て回り勉強をしました。でもその中でいろんな人にめぐり合い困った時にはいろんな人にサポートしてもらいました。例えば先程申し上げました銀行の支店長さん、そして特養を作るときに1,000坪の土地を用意しなくてはならない。どうすんねんというときにたまたまお知り合いの社長さんが向こうから歩いて来られて、「社長、1,000坪の土地がいるんですよ。何処かありませんか?お願いします。」から始まってお話がまとまった経緯がございます。困った時に、サポートしていただきながら今の自分があります。その中でもとても大事なことの一つが家族の絆だと思っております。主人、子供たち二人、その婿とか嫁とか、家族が私の仕事を応援してくれています。そういう固い絆の中でこの事業経営ができると言うことは私にとって本当にありがたいことと心から感謝をしております。介護経営の私のコンセプトは「自分の親を入れたい施設を作る」です。ハード面もソフト面もそうです。又その中でとても大事なことは黒字経営を継続的に行っていくということです。お客様に対し、黒字経営の中でクオリティの高いサービスをご提供する、それを目標に掲げ今後も社員全員で事業運営をしていきます。介護への異業種進出をし、10年で施設9ヶ所、事業所15ヶ所、社員320名、お客様延べ580名になりました。この結果を成し得た事は、全て皆様のおかげです。感謝の気持ちでいっぱいです。今後、益々精進して参りたいと思っています。これが「私の介護施設経営の困難をやりがいに変えて」です。ご清聴ありがとうございました。

「小中一貫校 宇治黄檗学園の教育概要」

2018.2.22宇治黄檗学園 宇治市立宇治小学校・黄檗中学校校長 石田光春皆さん、改めましてこんにちは。本日はお招きをいただきまして誠にありがとうございます。昨年、金丸さんからお電話をいただきました。金丸さんから電話がある時はだいたい宴会のお誘いなので安心していましたら、宇治鳳凰ロータリークラブの例会で何かしゃべってほしいと言う話をいただきました。一応、本市の教育委員さんなので立場上断れないですし、まだまだ先の話やと思って安易に即承諾してしまいました。これほど早く時間が過ぎるとは思わなかったですし、こんな立派な会やとも思いませんでしたので少々後悔をしているところです。しかし、せっかくこのような機会をいただきましたので、本校のコマーシャルを是非させていただきたいなと思っております。ご質問、ご意見につきましては金丸教育委員がすべて引き受けていただくことになりますので私は報告の後、とっとと学校に帰らせていただきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。まず、府道・西から見た本校の校舎でございます。左側が宇治病院、右側に歩道橋があります。これが正門で、車で来られた場合、地下の駐車場に入っていただくということになっております。10数台の業務用・来客用駐車スペースがあります。小学校の敷地に中学校を作りましたので、空間をできるだけ利用するために地下を掘っています。ここから入っていただいたら、小学校の体育館があったり、あと給食調理室や茶室があったり、また、ちょっとしたトレーニングや体育ができるようなスペースも設けております。宇治病院側が1~4年生の棟で、これが体育館です。第1体育館と私達は呼んでいます。府下の中学校の中では一番大きな広さを誇る体育館です。3階建てぐらいの高さがあって屋上にテニスコートも設置しています。小中一貫校宇治黄檗学園という名前は実は愛称でございます。宇治市立宇治小学校の敷地に宇治市立黄檗中学校を新設し、施設一体型の校舎を作ったということでございます。宇治小学校は本市においては一番古い小学校でございます。学制発布の年、明治5年の6月15日の発布前に、授業を始めていて、地域の方はそれをすごく誇りに思っていらっしゃいます。菟道小学校は半年ほど遅れて開校されています。翌年の2月でしたね。菟道小学校の卒業生の皆さんは、そこが一番悔しい思いをされているというふうにも聞いています。黄檗中学校は平成24年の4月1日に開校しました。先程申しましたように空間を有効利用していますので、東側ののり面に合わせて、このように曲面校舎になっています。この3階に5、6、7年生を配置しています。本校では連続性という意味で、中学生は、1、2、3年生と呼ばずに、7、8、9年生年生と呼んでおります。この2階に8、9年生、一階が職員室等、特別教室を含む管理棟になっております。この校舎の屋上に小学校のプールがあります。本当はもっと高い校舎が建てばよかったのですが、ここは歴史風致地区で4階建て以上の建物を作ることはできなかったので、地下1階、地上3階の建物になっています。このようにデザイン性に富む校舎を作っていただいたことが小中一貫教育を進めるという点での大きな1つ目の特色ではないかと思っています。一貫教育の要は小学校と中学校をスムーズに繋ぐこと。つまり5、6年生と7年生の接続が要です。そのために同じフロアーで小・中学生が勉強しているということが2番目の特色になろうかと思っています。 普通なら、小学校の卒業式では、みんな感激して、「元気でさようなら、また会おうな」とお別れしていくんですけれど、本校は、次の年からまた同じフロアーで、制服を着て教室が隣に変わるだけで、別れるという感じは全くないですね。もちろん、転校や国・府立、私学に進学する児童も数名はいますが、ほとんどが黄檗中学校に進学するということは、一貫校への信頼を置いていただいている結果かなと思っております。これは本校の校訓でございます。学園歌にも出てくる言葉、「高く、すずしく、たくましく」です。次は、本校の基本コンセプトです。絆で育む9年間の学びということで、絆は3つありまして、児童と生徒、児童生徒と教職員、そして学校と家庭地域です。これらの3つの絆で育むことを、新しい学校のコンセプトにさせていただいたということです。次が、3つ目の特色です。本校が教育活動を進める上で最も大きな特色としていることです。小学校と中学校が同じ敷地内で生活するわけですが、小学校と中学校がそのままいるだけでは施設一体型の意味がありません。そのために、本来の6・3制だけではなくて、9年間を4・3・2という3つのステージに分けて教育活動を進めているということです。前期と呼んでいます小学校の1年生から4年生は、今まで通りの小学校の学級担任の良さを活かす丁寧な指導をします。次の中期、5~7年生は、ここが本校のまさに一貫教育の根幹になる部分なんですけれども、小学校から中学校へなだらかなスロープを作るということで、5・6年ではもちろん学級担任制ですが、この中で一部教科担当制ということで教科によって先生が変わるというカリキュラムを組んで、中学校に行ったときの教科担当制に慣らしておくということをしております。また、5~7年生が交流するような活動も取り入れております。8・9年生は希望進路をしっかり実現することをねらいにしています。2階のフロアーに行きますと、やはり中学校やなあという落ち着いた雰囲気がいたします。今までの6・3制と、この3つのステージをマッチングさせながら教育活動を進めているというわけです。その教育活動を支える4つの柱が、1つは小中学校が一体化した学校運営です。せっかく小学校と中学校の教職員が一緒にいるわけですから、できる限り一緒に会議をします。なので職員会議は80数名でします。小学校の行事提案も中学校の先生が聞いていますし、中学校の提案も小学校の先生が聞いています。お互いどういうことをしているかということを、きちっとそこで情報共有するということです。小学校は小学校だけでやった方が、中学校は中学校だけで小回りの利くように運営や会議をした方が効率的です。しかし、必ず一緒にやっている。これが小中学校が一体化した運営をしていく、大切な校是でもあります。これが4つ目の大きな特色になるのではないかと思います。2つ目が9年間の系統的な学習指導です。小学校でどんな勉強をした子どもが中学校に上がってくるのか、中学校ではどんな勉強をするから小学校でどんなことを気をつけないといけないのかということを常に小中の教員が交流し合い、学び合う。普通、小学校の教員が中学校の授業を見に行くなんて、日程調整だけで大変なことなんですけれども、本校では普通に空き時間さえあったら、いつでも互いの授業を見に行ったり、聞き合ったりすることができます。中学校は教科担当なので、その教科の専門家です。小学校の教員はオールラウンドなので、より深い専門のお話をいつも職員室で聞くことができるわけです。理科の苦手な小学校教員は、中学校の理科の先生にいつでも簡単にノウハウを聞くことができ、このような系統的な学習指導が進めやすいという利点があるということです。3つ目が継続性のある生徒指導。この生徒指導の中での児童生徒の情報交流がすごく大事で、異学年交流については後ほどお話をしたいと思います。4つ目が家庭地域社会と進める学校づくりです。本校は伝統校だけに、地域が学校をしっかり支え盛り上げて行こうというふうにしていただいています。地域や保護者としっかり関係を作って学校を作っていくということです。これらが本校の小中一貫教育を支える大きな4つの柱となっています。 児童生徒数です。平成29年度は小学生745名、これは市内の小学校では4番目ぐらいですが、立派な大規模校です。中学生は380名在籍しております。本市には中学校が10校ありますが、後から数えた方が早いかなと言う数です。だいたい3~4クラスです。合わせまして、現在1125名が在籍し、教員数は85名。校長は私が小中ともに兼務しておりますので、副校長が本校には1人、小学校の教頭、中学校の教頭という管理職の配置になっています。2校分の校長を兼務していますけれど給料は1校分です。これはよく聞かれる質問です。ぜひ2校分にしていただきたいと思っています。(冗談ですが。)先ほど申し上げた9年間の継続的な、連続性のある生徒指導を進めるということで異学年の交流をする機会を意図的に作っております。一貫校と言えども準備に時間を要します。          まずは、中期5・6・7年生の「絆科」という合同学習です。総合的な学習の時間を使って、このような学習をしております。開校当時は3学年を10人ぐらいの小グループに分けて、テーマを決めて、7年生がリードして調べ学習をして、まとめて発表するという形をとりながら2~3年続けましたが、残念ながら教員免許の関係で難しくなりました。やはり小中両方の免許を持っていないと、小中学生混合グループは指導できないということです。現在は、それぞれの学年で調べたものを発表し合うという形に変えました。7年生がリーダーシップをとって、5・6年生は自分もあんなふうになるんだと中学生の姿を自分に重ねて見る。7年生は小学生の憧れの存在でなくてはならない。普通は中学校に進学したら、上級生の8・9年生しかいなくて一番下の下級生ですが、本校では、リーダーシップをとって頑張れる学習があるということで、自尊感情を醸成することにも役立っています。 次は6・7年生交流です。これは黄檗ミーティングという名前で呼んでいます。6年生が中学校の入学を目前にする3学期に、7年生が6年生に中学校の生活について全体でオリエンテーションします。その後、小グループを作って、6年生の不安や心配ごと、例えば定期テストの勉強とか、部活動のことについて、質問して答えてもらうという取組です。同じような不安をもっていた7年生が、やがて後輩になる6年生に対して、中学の先輩怖ないしな、部活も大変やけど心配ないぞ、勉強は難しくなるけどれども英語も面白いぞとか、そういうことを答えて安心させ、中学校進学への不安を無くすための交流になっています。1、9年の交流です。黄檗Walkerと呼んでいきます。9年生が1年生と手を繋いで、校内を案内します。普通なら、6年生がするんですが、さすがに8歳違いというのはすごいですね。お姉ちゃん、お兄ちゃんを超えているような感じがします。1年生にとったら、ものすごく大きくて怖いかもと思っていたお兄ちゃん、お姉ちゃんがすごく優しいし、9年生にとったら1年生がかわいくて仕方ないのです。手を握った時に感じる1年生の手のぬくもりや小ささから、自然と優しさや守ってやらねばという感情を醸成することができます。開校準備の頃に、中学校3年生と小学校1年生が一緒に居て、ぶつかったら大怪我をしませんか?という心配をされる保護者が大勢いらっしゃいました。安全面の心配は一番多く、もっともなことですが、こういう取組によって、小さな小学生には気をつけてあげなアカンという気持ち、譲り合うという気持ちが育ち、お陰様で開校以来、小中学生が衝突して大怪我をするような事案は発生していません。それから赤ちゃんと9年生の交流。これは、市内の他の中学校でも実施しています。小さな命を抱いたり、あやしたりすることで命の大切さを学ぶことにも役立っているというところでございます。           お礼に学級毎に文化祭で発表した歌をプレゼントし、赤ちゃんの保護者から、好評をいただいています。開校して6年目がそろそろ終わるわけですが、この間の成果としましては、1つは中学生が小学生にとって身近な憧れの存在になっているということであります。普通なら、小学生が道で見る中学生というのは、ちょっとだらしなかったり、怖くて避けたいなというようなことがあると思うのですが、一緒に生活していますと一生懸命頑張っている中学生の姿を日常的に目にすることができます。例えば、朝練習をしている野球部のそばを小学生が登校してきます。ネット越しに見える中学生は、礼儀正しく一生懸命頑張っている、あー格好いいなぁ、僕も中学校へ行ったらあんなふうになるんやな、部活したいなあと、そういう憧れになっているのです。逆に中学生はいつも小学生の視線を浴びますので、目標にならなあかんなという気持ちが育ちます。この相乗効果によって本校の子ども達は大変落ち着いて、前向きに学校生活が送れているということが、一貫校になって一番よかったなと思っているところです。2つ目は、9年間の仲間意識です。幼稚園や保育園から一緒の子は10何年間も、ずっと一緒に育ちますので、9年生になっても、○○ちゃんとニックネームで呼び合って仲がいいです。それだけではなく、伝統を受け継ぐ校風ということでは挨拶もきちっとしますし、全校が集まるような集会においても、無言できちんと運営ができます。よく褒めていただくのは制服のスカートの丈です。本校の女子は誰も短くしません。制服をきちっと着こなす、それが校風というか、伝統になっております。仲間意識によって、良き校風が受け継がれていると思っております。3つ目は文武両道ということで、部活もすごく頑張ることです。400名を切るような規模の学校ですが、府下大会、近畿大会、陸上競技個人や卓球団体では全国大会にも出場していますし、吹奏楽部の関西大会で金賞を受賞するというレベルであることも、大きな成果の1つでございます。(中略・今時の子ども「テレビよりインターネット」「隠語」「コミュニケーション能力の欠如」について)本校は小中で文科省指定の英語の先行研究を3年間取り組み、昨年12月に研究報告会を開催しました。平成32年度から小学校で、翌年から中学校で実施される新学習指導要領が目指す英語授業とはどういうものか、授業のビデオを観ていただきたいと思います。(ビデオ視聴)いかがでしたでしょうか?このように、小学生でも英語を使って恥ずかしいがらずにコミュニケーションします。時には手振り身振りで。私達が子どもの頃には考えられなかったのですが、今はネーティブの先生にも普通に積極的に話しかけます。本校で大切にしてきたことは子ども同士の英語でのやりとりをする場面を増やすことでした。その活動を通して、聞き手や周りがしっかり聞いてくれないと、また聞き取ろうとする努力をしないと、恥ずかしがらずに安心してコミュニケーションができないということを学びました。 英語はツールですから相手に聞こうとする姿勢がなかったら、コミュニケーションは成り立ちません。これこそが、コミュニケーション能力向上の基礎になるのではないかと思っています。中学校では先生がずっと原則英語で授業を進めています。3年後にはどこの中学校でもこのような授業が普通になっていくのではないかと思っています。東宇治高校との協働研究でしたので、報告会の当日に高校の授業も本校で公開してもらいました。ALT と高校生が英語で会話しながら時々笑いが起こります。何で笑っているのか、私にはさっぱりわからない状態でした。小中一貫校の成果と利点を生かし、これからも小中学校の先進的な研究が進められるよう精進して参りたいと存じます。今後も、宇治黄檗園をよろしくお願いいたします。ご清聴ありがとうございました。

職業奉仕はロータリーの根幹か?

2018.1.25 地区職業奉仕委員長中島健皆さんこんにちは、1月は職業奉仕月間ということで吉田委員長の方から職業奉仕について話をせよということで卓話をお引き受けすることになりました。今日お話する内容というのはいわゆる職業奉仕として皆さんが期待されるような、多分内容ではありません。まずタイトルが職業奉仕はロータリーの根幹か?というこれは職業奉仕を馬鹿にしたようなタイトルで、自分としても非常にこれは自虐的なタイトルだと考えています。1年前、ロータリーの友1月号に関東のほうのパストガバナー、本田博己さんという方がこのタイトルで投稿されています。最初、それを見たとき、私はこれ何ということを言うんやろ、この人はと思ったんです。最近のRI のあり方とかを見ていますとどうもちょっと職業奉仕という言葉の意味をきちんと整理しないと非常に混乱するというふうに思い始めまして、そういうふうに考えていきますとこの本田さんの考え方というのが非常にすっきり来る。地区の職業奉仕委員長としまして昨年7月にクラブの職業奉仕委員長さんを集めまして研修会をやったり、或いは8月9月10月、京都福井奈良滋賀で新会員さんを対象に職業奉仕の話をさせてもらったんです。その時に私が申し上げていたことと今日の内容は若干ずれます。これはどういうことが転向なのか、じゃなくて、これは所謂変節ですね、そういうふうに整理できるかと思います。まず最近ロータリーのベテランの会員、日本のロータリーですね、シニアーリーダーがつぶやかれていることですね、RI と日本のロータリーとの意識のギャップを示す例として、 RI は人道的奉仕に傾く傾きすぎている。それから会員増強は人頭分担金を取るためだ。或いは2016年4月の規定審議会の決定による柔軟性の導入はロータリーの原則を崩すのではないか。そしてまた、RI は職業奉仕を忘れている。こういうつぶやきの声が聞こえてくるんですね。これに関する答えはちょっと私の方から申し上げられない。今日は職業奉仕の話なので職業奉仕に限定して話をします。今から五つほど質問を挙げています。このいい分にイエスだという方は挙手をお願いします。1・職業奉仕はむつかしい2・職業奉仕がロータリーの根幹だ。3・ロータリーはアイサーブである。4・シェルドンの「最もよく奉仕する者、最も多く報われる」は職業奉仕を表す言葉である。5・ロータリはボランティア団体ではない。ありがとうございます。実はこの答えは、答えというのか、最近の RI といういうのを考えますとこれはみんなNOになるんですね。私もこれは多分 NOだろうと、いろいろ勉強するとそういうふうに傾いていきました。ロータリーはボランティア団体かということで、ちょっと最近のロータリーのテーマをみますとまず2017-2018年度、今年です。ロータリーに変化をもたらす。昨年、人類に奉仕するロータリー。それからその前、世界へのプレゼントになろう。それから2年ほど飛びますとロータリーを実践し、みんなに豊かな人生を。もうまるでロータリーが世界を変える人道的奉仕を行う慈善団体だと言っているのと同じなんです。地区のほうは2018-2019年度が間もなく動き始めようとしています。ちょっと1月の中旬に国際協議会がありましてガバナーエレクトがみんなサンディエゴーに集まりましてRI 会長から今年度はこういう形で行くよと言う話、いろんなセミナーを受けてガバナーになる勉強をして帰ってこられます。そこで新しい2018~19年度の RI 会長のテーマというのが出ました。ご存知ですか。Be Inspiration.インスピレーションになろうという、ちょっとわからん日本語訳がインスピレーションになろうと言ってますので、そういうテーマだそうです、来年。大川さん頑張ってください。それを受けて今週末、1月27日に第1回の地区研修セミナーがあります。ガバナー補佐とか、地区委員長とかが集められてガバナーの来年度の方針を聞きます。そして、そこから1ヶ月後、2月の終わりに今度は第1回の地区合同委員会がありまして全地区の委員会が一堂に会議をやって、その後、各地区の委員長が今年度の方針を発表します。その後、大川さんが3月中旬にペッツ、会長エレクト研修セミナーに行かれます。それから、クラブの理事さんとかは4月中旬、来季の地区研修セミナー地区協議会が国際会議場で行われます。そこで地区の方針がすべて徹底される、そういう流れになります。Be Inspirationというテーマを受けて中川ガバナーエレクトが今度どのように話しされるか、楽しみなんです。ロータリーはボランティア団体かと言うお話で、これはビチャイラタクル元 RI 会長、この方はわりと心情的に日本のロータリーであったり、或いは日本の思想、奉仕を大事にするとか、そういうところに心情的に非常に近いのですが日本のシニアのリーダーを中心にラタクルさんを尊敬されている方が沢山おられます。そのラタクルさんが言っています。ロータリーは全員が報酬なしによりよい人間社会の実現のために働く奉仕団体のボランティアであるということなんです。そういうことでロータリーがボランティアになっているということです。ここからが本題に入ります。ロータリーのモットーと言いまして、第2モットーが「最もよく奉仕する者、最も広く報いられる」第1モットーが「超我の奉仕」Service Above Selfですね。第2モットーは職業奉仕、Vocational Serviceを表している。第1モットーと奉仕の理念The Ideal of service というのが人道的奉仕であったり社会奉仕を表す。知っているという方が圧倒的に多いんです。果たしてそうなのかということです。初期のロータリアンは二つのモットーを奉仕の理念の意味を示す同義の言葉として理解し、二つのモットーを一体のものとして見ていた。シェルドンが1921年、エジンバラ大会で発表したスピーチの原稿、ロータリーの哲学ではモットーを一つのモットーとしてService Above Self  He Profits Most Who Sevice Bestと一体化した形で示していまして、ロータリーのサービス哲学の真髄をこの一つのモットーの中のService Self profit という三つの概念の本質とそれらの関係を説明することによって浮き彫りにしようとしたというのがあります。それから、その2年後、決議23―34、奉仕理念の定義です。このロータリーのいろんな文章がある中で唯一公式に奉仕理念、奉仕の理想ですね、これを定義しているのが23―34なんですね。ロータリーは基本的には一つの人生哲学であり、それは利己的な欲求と義務及びこれに伴う他人のために奉仕したいという感情との間に常に存在する矛盾を和らげようとするものである。この哲学は超我の奉仕の哲学であり、これは最もよく奉仕そのもの、最も多く報いられるという実践的な倫理原則に基づくものである。で、結局、そのロータリーの奉仕理念というのは利己と利他の調和の哲学であるということになるわけです。もうちょっとわかりやすく言うと2つのモットーを1つの主張として捉えるとその真意というのはサービスを自己の利益や都合を優先させよう。それから利益はサービスの結果である。相手の為に最善のサービスをすれば結果として最大の金銭的な利益と大きな精神的な満足が得られる。功利主義的な思想じゃなくて他者のために尽くすことが自らの幸せである。奉仕の理念の究極というのは利己と利他の矛盾なんかではない。利己と利他が完全に一致する。他人のために一生懸命やればそれは回りまわって自分の幸せにつながりますよというのがロータリーの奉仕の理念なんですね。だからこの奉仕の理念、“The Aideal of Service”というのは超我の奉仕と最も最もよく奉仕する者、最も多く報いられる。この両方が一つになってロータリーの奉仕の理念、奉仕の理想ですね、これを示しているという、そういうお話なんですね。だから、その第2モットーは職業奉仕をあらわす、そういうモットーではないということなんです.サービスとプロフィットの関係これはシェルドンの1921年のスピーチで出てきたことなんですがサービスが原因で結果が profit 、利益だ。で、そのサービスは正しい質、これは商品の品質であったり、値段であったりとかいうことですね。正しい量というのは豊富な品揃えであったり、豊富な商品量。それから行動様式というのは従業員の接客態度であったり、そういうのがサービスだということです。それが結果として利益、物質的な富というのはお金とか、或いはもの。それから仲間からの尊敬。そういうのを受けて自尊心。この辺が原因と結果の関係でシェルドンがいう“He Profits Most Who Serves Best”の意味なんですね。で、この時ですね、サービスをどういうふうに使っているかというとシェルドンは”Business Method” 正しい事業の方法としてこのサービスの意味を使っているんですね。それがシェルドンのお話なんですが1910年に全米ロータリークラブ連合会で初代ビジネスメソッド委員会の委員長に就任します。で、この時に初めてシェルドンはロータリーのところで“He Profits Most Who Serves Best”というこのフレーズを発表したんですね。このビジネスメソッド委員会というのが職業奉仕委員会1927年にできるんですがその前身であるというふうに言われています。今、そのサービスという意味、最初、シェルドンが使った時は正しい事業方法というそのぐらいの意味だったんですが今のロータリーにおいてはロータリーのすべての奉仕部門を通じてそのサービスをその最も広い意味でとらえ、使うようになっています。どういうことかというと人々の助けとなる社会に役立つ価値を提供すること。世の為、人のために尽くすことというのが現代におけるロータリーがいうサービスの意味なんですね。ということになります。で、じゃ、その職業奉仕、今、ここまで話をするのにシェルドンの紹介をした時もすべてその職業奉仕という言葉は使いませんでした。職業奉仕という言葉はいったい何時できたのかということです。それはベルギーオステント国際大会の目標設定計画というのが1927年に作られます。その時に初めて奉仕部門、Avenues of Serviceができるんですね。だからそれまでのロータリーというのはですね、もちろん社会奉仕とか、いろいろやっていたんですけども、初期のロータリーでは活動は例会に集まって、例会で皆さんと食事をして、いろいろ話をすること。それから例会の外で何かすること。その二つ分類で済んでいたんです。ところがだんだんとその活動が多岐にわたって複雑化するにつれて各々の活動の調和を図る必要性が高くなった。ということで奉仕部門というのができた。それはどういうことかというとクラブの管理運営を奉仕活動の実践に対応させ分類整理するというのが目標設定計画の目的なんですがこのとき初めて四大奉仕「クラブ奉仕、職業奉仕、社会奉仕、国際奉仕」というのができるんですね。だから職業奉仕という言葉が生まれたのが1927年のオステンド国際大会なんです。で、それはどういうことかというとクラブ活動の枠組みのために職業奉仕という言葉ができたんですね。だからシェルドンが言っていた“He Profits Most Who Serves Best”というのは職業奉仕じゃやなくて”Business Method”なんですね。クラブの活動を四つの奉仕部門に分けてこれに沿ってそれぞれ委員会を構成する。これによってクラブの組織と奉仕活動に整合性を持たせることができ、運営が円滑になった。以降、奉仕活動の実践に対応したクラブ運営の枠組みとして定着したということです。だから、もともとクラブ管理運営のための枠組みが4大奉仕部門。その後、ロータリーの発展や活動の変化に伴って枠組み自体が変わっても何の不思議もない。実際2010年の規定審議会で青少年奉仕が加わり、現在では5大奉仕となっています。2004年10月 RI 理事会で CLP が決定された。私が入会する前の年なんです。そのCLP に基づく部門別委員会構成が推奨され始めた頃、4大奉仕があるのだからCLP は不要であるという声が日本では非常に多かったんです。が、考えてみるとこの4大奉仕というのは90年前の CLP なんですね。だから現在のロータリーの奉仕活動の多様性とか、そのようなものに応じて5大奉仕にした。だからそれが今の CLP だということですね。それで今、現在そのロータリーの5大奉仕部門の一つとして職業奉仕というのがあります。標準ロータリークラブ定款第5条ですね、ここに奉仕の第一部門であるクラブ奉仕は何々しなさい、行動しなさい。アクションということを行っています。それから第3部門である社会奉仕は取り組み“efforts”という言葉を使っています。それから4番目、国際奉仕はクラブの活動であったり、プロジェクトであったり、プログラムであったり。そういう言葉を使っています。5番目、青少年は活動、プロジェクト、プログラム。そういう言葉を使っていますがずっとですね、職業奉仕のところだけクラブで何かやれとか言うことはなかったんですね。それが2016年4月の規定審議会立法案16の10で奉仕の第2部門を改正する件というのが採択されまして、今、当クラブも採用している5大奉仕部門のところにこのマーカーで示している、そして自己の職業上の手腕を社会の問題やニーズに役立てるためにクラブが開発したプロジェクトに応えることが含まれる。要は自分の職業上の技能とか、そういうのを使って奉仕活動をやりなさいと言うことを職業奉仕のところで定義したわけですね。この改定によって5の部門すべてがクラブの活動の枠組みである。 RI が言う職業奉仕というのは所謂その活動のための理念とか、倫理とかじゃなくて活動のためクラブが何かするための枠組みなんですね。では世界のロータリーが考える職業奉仕というのはどんなのかというと奉仕プロジェクトの1小委員会としての職業奉仕ですね。職業奉仕入門という RI のテキストがあります。そこに書いてあること。行動しようとして職業に関連する親睦活動グループに参加したり、新たにグループを設立する。奉仕プロジェクトで職業スキルを生かす。地域社会でロータリアン以外の職業人とのネットワークを広げる。求職者を対象としたキャリア相談を行う。若者を対象とした進路指導を行う。これが、だからRIが言っている職業奉仕、クラブがやらないといけない職業奉仕の活動であるとこういうことを言っているんですね。あと、2013年版の手続き要覧の89ページに職業奉仕月間の定義が載っています。地区行事でのボランティアの表彰。ロータリー親睦活動への参加の推進。職業奉仕活動、またはプロジェクトの実施。未充填の職業分類に焦点を当てた会員増強の推進。ということで全然この皆さん、そして私も考えていた職業奉仕とはかなりかけ離れているんです。ですから世界のロータリーは自分の職業上のスキルを生かした奉仕活動は個人が行うものであれ、クラブが行うものであれ、すべて立派な職業奉仕だといってそれを活発に実践しているんですね。だから今年度の RI会長賞もこういうことに関して表彰するよと久しぶりにそのRI会長の言葉から職業奉仕というのが出てきたんですが内容はこういうことだったということなんですね。で、日本の職業奉仕論というのは職業倫理論、ただそれを軽視しているかというと決してそんなことはなくロータリーは今も昔も職業倫理を大事にして登場する集団である。1915年全職業人のためのロータリー倫理訓、道徳律です。それからロータリーの目的、職業上の高い倫理基準を保ち……というのがあります。それからロータリーの行動規範。個人として、または事業において高潔さと高い倫理基準を持って行動するというのが謳われております。次のことが今日一番言いたかったことです。職業奉仕ではなく奉仕の理念を語ろう、奉仕の理想を語ろう。職業奉仕という言葉で奉仕の理念の職業への適用や自身の職業観について語ることを一旦止めてみる。それからクラブ活動の枠組みである5大奉仕部門の第2部門である職業奉仕の活動に対してのみ職業奉仕という言葉を使う。そうすると割とRI が言っていることがすっきりとなじむんですね。何でそうなのかというと奉仕の理念が、これがロータリーの根幹だ。奉仕の理念“The Ideal of Service”という言葉でロータリーの理念について議論を深めていきましょう。なぜなら奉仕の理念の奨励、育成がロータリーの目的だからということになります。2017年6月のRI の理事会で衝撃的なことが決まっています。要は地区の委員会構成で職業奉仕委員会と青少年委員会を廃止する。廃止して、そして社会奉仕委員会にその機能を任せるという、そういう理事会決定があります。これが行われるのが2019年の7月。ですから佐竹さんがガバナーになられる年度になるんですがそういうことを推奨している訳であって、必ずしもそうしなければならないということはないんですがとにかく世界のロータリーというのはそのように今動こうとしている。2019年4月の規定審議会でいろんなことが決まります。その中にはひょっとしてあっと驚くようなことがいくつか出てくるんじゃないかと思われます。ただ大事なのはRI はどんどんそういう方向に行ってしまう。もうロータリは見捨てなあかんというような話ではなくて世界で第3番目のロータリーの人口が多い、ロータリアンの多い国ですので、要は自分らが発信して日本人が大事にしてきた職業倫理とか、そういったことを規定審議会に挙げて、それをもっと大事にせよ。もっとそういう方向に行こうよというふうなことを言わないといけない、そういう段階に来ているのかな。この1年感じました。以上です。どうもお粗末でした。

ランドスケープから庭園まで

2017.12.14 宇治市植物公園園長・造園家・農学博士曽和 治好どうも皆さん初めまして、宇治市植物公園の園長の曽和と申します。よろしくお願いいたします。今日は大分寒い中で、雨まじりの中で、寒いなと思って来させていただいたんですがこちらの会場に来させていただいたら、すごい暖かい雰囲気で、すごくお誕生日のお祝いであるとか、奥様の誕生日までお祝いされているということで非常にあったかい雰囲気の中でお話させていただくこと、大変光栄に思います。よろしくお願いいたします。私の名前は曽和治好と申します。現在、宇治市植物公園の園長をさしていただいておりまして、いろいろな活動をさしていただいております。先程紹介いただいた通り積水ハウスで働いておりまして造園ランドスケープの仕事をさしていただいていました。スカイビルがかなり一番その当時では大きな仕事になりまして、私自身が設計をしたわけではありませんが吉村元男さんという造園家とそれから原広司先生、京都駅を設計した先生で、建築家でそのチームの中で造園の担当をさせていただいて街の中に緑の空間を作り出す。そういう仕事もさせていただきました。現在は植物公園というところで園長をさせていただいておりまして、皆さんよくご存知だと思います、温室があって、タペストリーがあって、秋のゾーン、春のゾーン、駐車場、レストラン、そのような植物園をいかに面白い場所にして行くのかということで活動しています。フラワーブリッジであるとか、うちの一番メインの樹はシダレザクラ、春咲いている様子です。このように春は本当には華やかな様子でありまして、それから温室ですね、温室の中には熱帯植物がありまして、今ちょうどあったかい時期になっております。それからフラワタペストリー、日本最大の花と水のタペストリー、それからこれは碧生と真ん中のカスケールの空間ですけども、こういうふうな成形式の、ヨーロッパ風の庭園の。こちらにハウチワカエデなんですけども、これは春に撮った写真です。ちょうど今、紅葉をいたしましてまあ、新たな宇治市の紅葉の名称を作れたらいいなと思って今は頑張っております。今日はそういう中でまず庭園についてのお話をさせていただきます。それから庭園からランドスケープへと繋がっていく話を少しします。まず、庭園と言いますと先程お茶をいただきながらお話させていただきましたが我が国は西暦600年頃、650年とか670年ぐらいの飛鳥時代に庭園ができておりまして、これは説明会の時に樫原考古学研究所が作った、その当時の飛鳥京跡苑池と言う庭なんです。飛鳥時代にもすでに池が合って、それから蓮の花を植えて中に島があったり、それから噴水まで作っていたという例があります。これは別の人が描いた絵なんですけども、ここに酒舟石という石がありまして、そこから水が飛び出していたという例があります。そこらへんが日本庭園のルーツになるだろうと言われています。遺跡なんですが外交舞台というか、やはり昔から政治的な部分にはこういう庭がありまして、庭というのは外交の場所になっていくというふうなことがいわれています。平安時代、この辺一帯、平等院なんかもこの時代になってきます。寝殿造り庭園という豪華な庭が平安時代の雅の庭が作られました。池の中に中島があって橋があって、それを渡っていく。前にせんだい(前栽)そういうものがありまして、そういう雅やかな庭というのが平安時代に発展していきます。これは福井県にある紫式部公園、平安時代を再現しようとしたものです。こういう絵巻物みたいなものを表現している庭と考えていいんじゃないかと思います。この時代にはすでにハウツーメイキングカーデン、作庭期ですね、庭のハウツーものがこの時すでにできているということで、世界でもかなり早い時期にこうやって庭を作るのだと出ているんです。この中で10種類の滝の落とし方が出ていまして、もう、平安時代にすでに10種類の滝の落とし方に名前をつけて出たという、そういう意味では世界の日本が先進国であるといえるのではないか。さらに自然式庭園が鎌倉時代になりますと皆さんご存知の、外国人が一番喜ぶ庭の一つがこの金閣寺の庭だと思います。こういう別荘庭園ができたり、もう一つが禅宗の庭ということで竜安寺の石庭ですね。これは何に見えるか、いろいろ議論がありますが海があって、島があるというふうなものなのか、ある一つのバランス、美しさを象徴的に表したものであるとか、いろんな考え方があります。ある意味、哲学的なというか、宗教的なこういう庭ができていく。水戸黄門が贈ったと言われるような手水鉢もあったりして、これはどうも枯山水というのは水墨画のような、こういう世界感を表している。抽象絵画に近づいてくる豪華絢爛な庭がどんどん日本では一般化していく中で.こういうどんどん局地に行くと、そうするとだんだん省略が始まって、より本質的なものを求めていく中国の山水画のような水墨画みたいなものが色彩をまずなくしていって、それから質感をなくしていくとこう言う一つの世界観ができてくる。そういうものが多分、枯山水と言うものを作り出す、まあ、一つのきっかけになっているんじゃないかと思います。で、次に江戸時代になりますと代表的なところで江戸城の庭園ですけども大名庭園というものができてきます。大規模でそれから堀があり、池があり、そこをめぐっていくというふうな庭の形式ですね。例えばこれは金沢の兼六園、今、雪つりがされていますけども巨大な池がある。これが実は面白いのは高台の一番高いところにこんな大きな池を作ってあるというのは金沢の街の中で一番高いところにこういった大きな池を作って、何Kmもの先の川から水を引いて来ているというところにまあ、当時の大名の権力の大きさというのがわかってもらえるんじゃないかと思います。もちろん京都と言いますとこの桂離宮ですね、世界的にも有名な公家の庭なんですけど、池を作ってその周りをまわってという庭園構成になっています。これは例えば、雪舟の天橋立図のような、不思議な絵と言われていますが空から飛んで見下ろしているような視点になっているというのがまあ、この当時、飛行機で空を飛べへんのに何で見下ろしたような絵が描けたんだろうと不思議さがあります。大名庭園にもこういう大きな池を見下ろして、海なんかを見下ろして、そこの名勝をめぐっていく。そういう空間構成になっている。これは近江八景の瀬田夕映、広重の絵なんですけれど、こういうふうなものに大名庭園は繋がっているのではないかといわれています。それが次に、これはだいぶん近くなって来まして、明治時代になりますと自然風景式庭園という、一つ有名なので行きますと山形有朋の無鄰菴というものがありまして、ちょうど紅葉の時、東山の中にこういう流れがありますが、これは田舎の村の、実際どこにでもあるような風景を作って行こうというふな、空から見下ろした広い海の風景ではなく、本当に身近な風景を作ろうとしたということで、例えばこの西洋の風景画の影響.こういう身近な村の中にきれいに流れている小川みたいなもの、実寸大であらわそうとしているのではないか、まあ、写実的な風景への回帰というのが言えると思います。さらに昭和になりますと先程の有隣の庭には、友禅会館にあったものを岡山へ動かしたものなんです。このような西洋の抽象絵画みたいなもの、こういう絵画を日本庭園に結びつけて、それから現代的な日本庭園を作ったという、その時代時代の技術、そういうものがまあ、自然の表現であると言われているような庭に非常に今、影響を受けているのではないか。こういう庭をヨーロッパとか、中国とか、いろんな所へ行きますとアメリカでもそうなんですけれど、日本の庭はすごいと言われます。それはなぜかなと言いますと例えばヨーロッパですとイタリアというのがやはりルーツの国になります。ギリシャとかローマとかがあった国、ああいう国でもせいぜい庭園形式はルネッサンスぐらいからなんです。ですから、飛鳥時代からずっと庭園の系図がこうやって繋がって発展して、その時代時代に合わせて新しい形式の庭を生み出してきたという日本の世界の歴史の冷蔵庫といいますか、正倉院からずっと引き継がれていますけれど、それに対して私は中国庭園の研究家といろいろ共同研究する機会があります。向こうはやはり支配民族が変わると全部破壊しちゃうので中国は確かに素晴らしい庭園形式を持っていましたがそれが全部破壊されてしまっているということで、今、その古い庭がどうあるかというのを発掘しようとすると大変らしいです。そういう意味で日本が庭園文化が世界一だと言われるのはそういう継続性という1000年を超える継続できる民族である、その凄さが多分、今、アメリカやヨーロッパに世界全国の中で評価されているというのはそういう部分があるのではないかと思っています。こういう庭もですね、今みたいに庭園式的な、歴史的な見方というのが一つあります。私が今、着目していますのはそういう庭が何であんな綺麗なのかな、京都の庭は世界一きれいと言います。平等院の庭も今、本当に綺麗に手入れされています。フランスのベルサイユ宮殿に行ってもあんな綺麗じゃないんです、実際回ってみると。その綺麗な原因は何なんだろうと考えるときにやはり管理をしていく技術というか、庭というのは何百年も引き継がれていきます。その間に毎日掃除をしている人、剪定している人がいます。それはビジネス用語ではランニングとか、ランニングコストとか言われますけども、そういう意味で言うと庭園というのはランニングコストの集積代というふうに言える。そのランニングコストに今までどれだけエネルギーを積み重ねてきたのか、その庭の美しさになって表現されている。その表現するものの一つとしてこういう掃除の道具というのがあります。これは手ぼうきという道具なんです。私は大学時代にですね.この京都の庭を勉強して一番びっくりしたのはこの手ぼうきという道具だったんです。日本全国で普通の庭ぼうきはあるんですけども、こんな小さなほうきなんて見たことがなかったんです。長野の植木屋で私ずっと5歳ぐらいから造園に関わってきました。その辺のことは京都新聞、随想 「山城に植木屋の息子に生まれて」という記事があります。それ庭掃除は芸術」もありますので見てください。掃除が芸術的レベルまで高まっているというのが京都のこの地域の特徴ではないかと思っています。手ぼうきは京都の庭師の掃除道具で一番仕上げに使うほうきなんです。竹でできた小さなほうきで、これを最近使う人がだんだん若い人なんか減ってきました。皆さんご存知かと思いますが最近落ち葉を掃除するときにブーと言わせて掃除機の逆の、リーフブロワーと言いますがそれでばーっとお掃除している風景をよく見ると思います。あれが京都の庭でやると観光客が何が起こっているんだと驚かれます。わざわざ飛行機で飛んできて京都の綺麗な庭を見に来たのに何でこんな騒がしい音がするのかといいます。やはり、こういう道具は大切な道具だなと私思いまして、自分でこの竹箒の作り方を再現してみようということで竹の穂づくりからこのような一つ一つ竹の穂を束ねてほうきをつくるという活動を始めました。ちょうど久世橋の南側のところにそういうほうきを作る業者さんがいたはりまして、昔は14件ぐらい竹箒業者さんがいらっしゃったらしいです。もしかしたら、今日、ここにいらっしゃる方の中でそういう竹ぼうき屋さんをご存知の方もいらっしゃるかもしれません。今はもう2件ぐらいに減ってしまってもう80何歳になって、もう、あと何年京都産のものがつくれるかという状況らしいです。そういうものがある意味、絶滅器具種になりつつあるんです。ですからこういうものを我々の世代の人間が引き継いで行くことを考えないといけないだろうということで、My手ぼうきを作ろうということで、自分らでつくれるんじゃないかというふうな活動を始めまして、手ぼうきの作り方、教材を作っていろんな人に訴えかける活動をしています。このように若い人に手ぼうきを作って掃除をして、体験してもらうということもやっています。手ぼうきの音とか、ハサミの音なんですけれど、先程のブーという音が本当に京都の音に似合うか、それとも、竹でシャシャシャと掃いている音が似合うかというとやはり竹の音が似合う。庭というのは実は見る目だけじゃなくて、そういうこと、そこに聞こえてくる風の音であるとか、庭師が掃除していることとか、ハサミでカチンカチンとやっている事とか、そういうところまで楽しむような感性に、日本人の感性というのは高いところまで行ってたんじゃないかなと私は考えております。こういうことを無鄰菴の庭園で手ぼうきづくりのワークショップを展開したり、いろんな、まあ、日本全国を飛び回り、若い人、小学生からいろんな人に「手ぼうきって面白いよ」という作る活動をずっと展開しております。あと、造形大学の授業でも造園の仕事に就く人は多いので手ぼうきを必ず全員作るようになりましょうということで竹を使ってみんなで手ぼうきを作るという授業を展開しています。で、先程の新聞で庭掃除は芸術というのを書いておりますのでこれでまた私の意見を読んでいただいたらと思います。京都の庭師は掃除ができてこそと言います。川崎幸次郎さんという松下真々庵の手いれをずっとやっておられる造園会社の宣託されるものは、庭師は掃除ができてこそ京都の庭師になれるんやとおっしゃってまして、そういう掃除は技術かというのを和というふうに考えるんですけども、やはりこれは技術レベルまで行っているのと違うかというのが私の持論であります。そのような掃除まで素晴らしいレベルにある庭園というものがヨーロッパではそういう日本の庭園文化ってすごいなというところに今評価が高まっています。なんでこんな掃除が芸術やてことを、今までの造園学会というのがありまして、大正時代からずっと続いていますが、誰もそういうことを今まで指摘がないのです。長い学会の歴史の中でも。なぜかというと多分私が思いますには学者の先生方が実は実際掃除したことないんちゃうんかなと、みなさんホワイトカラーの方が多くて、だから掃除を研究しようという人が出なかったんじゃないかなということがありまして、そういう意味で私は植木屋の息子として造園に関わっておりますのでやはり植木屋の視点で見ると、現場の視点で見ていくと、その素晴らしさというのが見えてくる側面もあるんじゃないかと思っています。こういう活動度を京都で財務省というところから京都新聞社賞というのをいただいたり、まあ、数々の7年間の連続受賞というのをさしていただいて、そういう活動で庭をテーマにしたもので受賞というのも沢山さしていただきました。こういうものをベースに竹のほうきを作っているだけではだめだろうということで実は、なぜ竹というのは大事な素材だと言いますと山であるとか、環境であるとかというところに実は繋がっているんです。現在のプラスチック製品などどんどん使われるようになって竹製品、例えば竹ぼうきとか、竹のザルであるとか、竹のいろんな生活の用具があったと思います。それがどんどん使われなくなって来ている。それで竹林が荒れて山が荒れる。山が荒れると鹿が出てきて、イノシシが出てきてえらいことなってますというのが日本の今の山の自然環境の問題点であると思うんですけども、まあそういうところにちょっと竹を使ってですね、竹林も綺麗にしていくという、まあ、要するに植木屋が自然素材を使って掃除して綺麗にしていくと山も綺麗になっていく。そういう自分たちの仕事の仕方をちょっと変えるだけで実は自然というものに繋がっているということで天橋立で有名な宮津市と一緒に協力しまして竹の学校というのをやったんですね。これは外国人の方も来ていただいてワークショップをやりまして、これが放置竹林と言われているものなんですけども、竹林が荒れまくっているわけです。宇治市の中にもたぶん竹林をみんなきら切らなくなって倒れて荒れてる竹林があると思います。これを見て、これは何とかしなくてはいけないねというようなことで、研究者とアーチストとデザイナーとかが集まってその竹を考えようという国際ワークショップを造園的な視点からやって行こうということでインターナショナルワークショップバンブーアートというアイバード(IBART)と名付けた活動なんかをやっております。イタリア人に来てもらって、西京区の洛西にある竹の料理店で、竹を割ったところに豆腐を入れて、食べれるという料理屋さんなんですけども、そういうところの味覚とか、そういうものを体験しながら竹の現状を見て、それからみんなでいろいろ現状をどう考えるのか、ディスカッションしながら竹をテーマにこういう作品を作っていく。アフリカ人も来ていたんですけども、アフリカにはアフリカの丈があるんですけども、まあ、そういうようなことで日本の庭師さんとアフリカ人イタリア人が一緒になって作品を作るというような事をやっております。竹で椅子を作って日本の現在を竹の椅子に座って見つめてみよと言う作品ができたり、もちろん、これは若い庭師なんですけども、竹を使って手ぼうきを秘一緒に作ろうというような活動をやったり、で、そういう成果を地元の宮津の方たちに来ていただいて、研究発表として京大の学生さんなんかが来てもらって発表したり、地元に行ってデモンストレーションしたり、それから地元の小学生に竹でほうきを作ってみようという活動をしたり、さらに天橋立を自分らで作った手ぼうきで掃除してみようというような活動に繋げていって、天橋立は日本三景と言われてまして、日本の三つの一番きれいな景色の一つやと言われてます。そういうところを我々が掃除をするということで綺麗にできないかということで小学生と一緒に集まって掃除大会をやって、みんなで天橋立を綺麗にしていく。しかも宮津で採れた竹を使って掃除して行こうというような、そんな活動をさしていただいております。竹の国際化とワークショップの活動をずっとこの植物園園長になる前の活動として造形大学の教員としてやってきた活動なんです。このときに集まってくれたいろんなアーティストであるとか、研究者であるとか、そういうメンバーが集まってくれたり、京都市内でやったワークショップでみんなで一緒に竹箒を作ってその時の記念写真なんですけども面白いのが竹ぼうきを作ると出来上がったらみんな試しに使いたくなるんです。お掃除をしたくなるんですね。小学生も作ったらこれで掃除してみようと掃除してくれるんですね。家に帰って玄関を掃いたり、ベランダを掃いてお母さんの掃除を手伝ってみてはと話したり、小さい竹の枝が余ってしまってその小さな竹で作って.それで何をするのと聞いたら消しゴムの掃除に使うねんと言ってミニ竹箒を作ってくれたり、そういうことでこういう竹を使って掃除をするというのは単純な肉体労働的なことで考えるのではなくて実は技術的なものであったり、遊びであったり、生活のシーンの一つを一つ変えたり、環境を解決する一つのものとして植木屋の技という道具が実は環境づくりに繋がっているのではないかというような活動をやっています。こういう活動をしている中で、私は植物園の園長としてさせていただいておりまして、今一番考えないといけないキーワードは一つは新しい公共、公共というのは明治時代から始まってきまして、この公というのはもしかしたらお公家さんというのも公かなと言う研究者もいたんですけども、まあ、御かみが何かやってくれるのが公共というふうにずっと受けとめられていた側面があると思います。それが実は今の新しい公共というのは自治体だけが公共じゃなくて、例えば NPO であったり、市民であったり、企業の方であったり、いろんな人がいわゆるステークホルダーと言われているような方々が集まって一つの目標に向かって活動していくのが新しい公共であるというふない言い方がされています。そういうことでは例えば梅小路公園に水族館ができたり、鉄道博物館ができたりとかいうふうな、そういう新しい公共事業が京都だと、京都市の博物館がロームの美術館に変わったとか、企業と公共が協力し合いながら作っていく公共なんかもできています。で、もう一つ、これは企業活動をされている方なんかは CSR から CSV 言う話でいろんな議論を日常的にされていると思います。企業の側からの考えとしては CSV ということで、その企業の新しい商品とか、利益を追求していく活動が実はその地域の活動、一緒に地域の新しいまちづくりを一緒になって企業の活動を回転して行こう、地域と企業活動が実は一体化して、どちらも win-win の関係に育てて行こうというのが CSV という概念です。こういう全然別々の方向なんですけども、実はものすごく似た話じゃないかと私は感じております。要はその公共も企業も一緒になって地域と言うものと一緒になって何らかの目標を一つにしながら地域を活性化して行こうと考えるのはこの二つのキーワードじゃないかなと思っています。そしてそういう中に私がやってきました地域の、例えば竹林をどうしようという話であったり、この地域の美しさ、ランドスケープ、風景というものを美しくしていくことで観光地としての魅力を増して、それは竹ぼうきで掃除するということと多分その美しい風景を作るという所に繋がっていると思います。こういうものを共有しながら、例えば植物公園も地域の皆さんと一緒になって何とか一つの目標を公共の施設として持ちながら、未来に向かって進んでいく。そういうことを大きなキーワードとしてこれから活動させていただきたいと思っております。ぜひ今回ご参加いただいているみなさん方にもこういう地域づくりといいますか、ぜひ我々の植物公園の活動なんかにもご助言いただき、ぜひ様々な面で助けていただいたらと思います。これを機会にぜひ皆さんよろしくお願いいたします。今日はありがとうございました。

会員卓話 臼井龍介 石津祥治

2017、12.7「母の背中」臼井龍介皆さんこんにちは。今日は時間をいただきましてありがとうございます。まず始めに昨日、ええとこ連れてってもらいまして、どうしても今日のスピーチがあるので早く帰らせてくれとお願いしていましたが最後までかまっていました。で、考えることなく卓話に臨まないといけないのかということで、今日は大変不安です。2ヶ月ほど前に藤森プログラム委員長より12月の最初に話をしてくれと言われた時に予備で書いたものがあるのでそれを読ませていただきます。プログラム委員長はきっちり、かっちりした人でいろいろメンバースピーチの構成マニュアルというのがありまして、一応それに沿ってお話させていただきたいと思います。まず、私的な面ということでこの職に就いたきっかけはなんですか。私は小さい頃から親の職業は何をしていたかというのは実のところあまり知りませんでした。今考えると小中高校になっても多分知らなかったんじゃないかなと思います。そうですけども、何かおかしいんですけども、親の会社に行くのかなというのは何となくぼんやりですけれど、まあ考えていたように思います。それで、私、学校の方はよくさぼる方で、大学の就職ゼミで進路相談がありました。案内プリントが家に来てました。まん悪く、親に見つけられ「わし行く」と言われました。学校行事なんて一回も来た事がないと思います。小学校の運動会からずっと来たことがないのに何を思ったのか、これはわしが行かねばと言われ、やばいと思いました。大学はほとんど行ってませんでしたので絶対怒られるわ、それでも仕方がないから一緒に行きました。そしたらゼミの先生と親子が座って僕の成績収得単位を見て、こんな単位を取ってない人は初めて見ましたと言われてドキドキ。これ卒業できるかな、みたいな話をずっとしていたのを覚えています。それでその時にこの人はもうちょっと最後まで授業に出ないといけませんね。ちょっと就職活動はできませんね。その先生が私の助手をやれと言う話をされていました。うちのお父さんが「いや、先生に迷惑かけられない」とそんな話をしていたので、もしかして、僕、もてるのかなと思って、ちょっと勘違いしていたことがあります。まあ、そういういきさつはありましたけども、まあ、当然帰ったらお父さん激怒したはりました。お母さんはビビッて、ちゃんと卒業できるのやろうとか言って泣きそうでした。が、これはちゃんと継続的にされているものだからちゃんと卒業できますということで何とか無事に卒業させていただきました。 日常の業務、日々の仕事と生活ですが私の日常の業務というのは朝7時ぐらいには会社に行きます。また、誰も来ていないので、その時に自分のやらないといけない仕事(これは電話がかかってくるとちょっと仕事が進まないので)朝早いうちに片付けます。社員の人が来る頃は社員を捕まえて文句を言うてるだけなんで結構会社はでは嫌われています。わりと寄り合いとか、何とかの会に出ないといけないので週に2、3回あって、懇親会もあるのでだいたいそれに出て、帰宅するとうちの娘には酒臭いと怒られてます。 この職業でよかったこと。前回、私の職業でお話しておりましたけどもうちの実家は中京の二条で旅館をしておりましてお母さん、おばあちゃんが旅館の仕事をしてはったんです。そのため僕をわりかしほったらかしで、1人でいてました。で、なかなか寂しいもんで、お母さん、おばあさんのそばにへばりついて旅館の邪魔をしているのか、手伝っているのかわからない。よく張り付いていました。お客さんの方からは、昔はよう、お菓子屋さんとか、おもちゃ屋さんとか、まあいろんな方が出張なんでしょうか、来られてたんで僕はよう女の子に間違えられて、かわいいな、なんてお人形をいただいたり、お菓子をいただいたりしていました。そのお人形をわりと一緒に寝ていました。今でもいとこからお人形にも名前がついていたらしくてぽっぽちゃんと言いますが、ポッポちゃん元気かと今でも冷やかされます。そんな中でお客さんがうちの母とかおばあさんの方にまた来月来ますしとか言ってくれたりします。それは母、おばあちゃんがお客さんに行き届いたおもてなしをしている。子供心にそういった母の背中を無意識に見ながら育ってきました。気づかいのご愁眉というか、褒められる、喜ばれるというようなことを傍にいてて、身についたような気がします。褒められたり喜ばれたりすると嬉しいものでもっと褒められるようなことをしたいなというのが根底にあって、仕事をしているのかなと思います。この職業でよかったというよりも働くことというか、何かすることによって人に褒められるとか、褒められるというのはとても嬉しいことだな。それを生きがいに仕事をしています。だからどの仕事がどうということでは僕の中ではありませんし、まあ、今の仕事をやっていましてお客さんに怒られることは当然あります。でも一度失敗したことは同じような轍は踏まないように日々頑張っているつもりです。この仕事で嫌だったことは見当たりません。今後の目標や夢は今51歳です。あと何年働くかわかりませんが60までというとあと10年ぐらいあります。今やっている仕事の形を3年そこそこでもうちょっと整えて、10年後ぐらいにまでには自分の目標としているところに到達したいなと思っています。それに合わせて社員のかたも20歳から60歳まで勤めていただけるとしたら、40年あるわけで、私は少なくとも10年はいますので、その間に今20歳代の社員を2、3人育てて次の世代にバトンタッチできたらと思っています。この業界は、今は自動運転が世界的に動き出して来ています。路線バスや貨物運送、高速での利用方法など様々これから変化していくと思います。その中で交通行政、死者数の減少、環境汚染の問題、整備不良の問題を預かっています。そういう部門の社会的責任を果たすように頑張らなくてはと思っていますし、その辺のところを考えながら、気づかいながら人のためになるような提案をして行こうと思っております。ありがとうございました。「私のスタイル」石津 祥治皆さんこんにちは。皆さんの貴重な時間をいただきましてありがとうございます。私、この鳳凰ロータリーに入らしてもらった時には不動産管理という職種でした。確かに不動産管理はしているんですけども私は宅建の免許もなく、ただ自社の管理をしているだけです。なんか気の悪い感じがいたしまして、会長に変えられるか?日頃やっている農業にできますか?出来るでという話ですので、では農業に変えてください。で、私日頃やっている農業という職種で札に書いております。農業は何をしているかというとまあ、確かにろくな仕事もあまりできてないんです、実は。蒔くだけは蒔くんです。トラクターで畝を立てて種を買うて蒔くだけは蒔くんですけども、そのあとがちょっと問題なんですね。ありがたいことに私の奥さんと2人で農業をしとるんですけども、2人にしては多いんですよ。できないんです、多すぎて。それで何とか今年も雨が多い中、何とか早い目に蒔いた場所がありまして、大根と今大きなっているのはネギと、で、そろそろ早くしないとあかんなというのが水菜ですね。それが今大きくなっています。あと花菜がちょっとあります。これを2人でやるというのはなかなか苦痛でございまして、全量を裁くということは今までしたことないです。こっちにちょろちょろ、あっちにちょろちょろとやって、結局、半分以上3分の1ぐらいしかできてない状態でなんです。そんなんでいいのかという感じなんですけども、私のスタイルはこういう感じなんです。で、機械代とかに農業は高くつくんで、やはり機械がないと今の農業はできません。ですから3分の1しか収穫をしていないところで、その機械を農機具屋さんに勧められたりとか、またオークションで買うんですけども、それを買うたりするとまたその間に取りに行かなあかんとか、オークション したらやりとりをやらないかんとか、その間仕事ができません。私は仕事よりもそういうやりとりが好きなんです。毎日楽しんでやらしてもろてるわけでございます。で、農業をもっとしっかりせいうことなんですけども、私、実は資料としてお配りさしていただきました大阪ブルーリボンの会というこのリーフレットなんですけども、私、これに入っておりまして、そこで理事をさしていただいております。私はまだここに入らしてもらって4.5年ぐらいですかね、まだ歴史は全然ないんですがお前ちょっと理事してくれへんかっみたいなことを頼まれました。私実はご存知のように断ることができないという性格なんです。はい!わかりましたいうようなことで、で、こういう運動をやっているんです。今日はこの鳳凰ロータリーで卓話さしてもらうのにええのかなと思いながらも、これは政治的な問題ではないと私らの大阪 ブルーリボンでは唱えておりますので、まあ、問題ないかなと。実は今年のワイン例会をサボらせていただきまして私は11月の15日から新潟の方に行っていました。それはなんでかというと横田めぐみさん、中学一年生のときに拉致された。皆さんご存知だと思います。それで、それが11月の15日なんです。その日に向こうで救う会みたいなものがありまして、そこが大きく大会をするということで、また横田めぐみさんが拉致されて40年になります。このリーフレットを見ていただきますとめぐみさんの 写真ですね。これはものすごく暗い感じのめぐみさんが写っていますけども、実はこの時は中学校一年生の4月の入学式やったんです。なぜこんな暗い顔をしているかと言いますと風疹にかかられたんです。お父さんが結構写真が好きで、横田滋さんが、それでずっと子供の頃からお撮りになられていて、で入学式に出席できないということで、風疹の病上がりで、いやいやいやいやと言うてるのに無理やりお父さんが連れ出して校門の前で、桜の前で撮したということです。ネクタイもバッチもすべて新品の状態のときの写真です。その4月に入学されて、そして11月の15日の夜の6時~6時半のその間に北朝鮮に連れ去られた、拉致されたということです。その現場を見に行こうということで40年前の現場を見に行ったんです。まあ普通の住宅街でありまして、で、中学校から自宅まではだいたい500m ぐらいでしょうか。そこからまだ奥の方に海岸があるんです。その海岸から連れ去られたということになっています。可愛らしい可愛らしくて、写真は暗い感じのイメージがあるんですけど、実際は違うんです。書道がすごく上手いんです。お母さんの早紀江さんはもともと書道の先生でこういう拉致の問題がなかったら私は書道の先生をしていただろうということをおっしゃっていました。賢い、できた、ハキハキとしたお子さんみたいだったんです。私はその11月15日の時に新潟へ行かしてもらって、その大会の時にめぐみさんの同級生と会いました。もう53才です。同級生の仲間で拉致問題の話し合いをやっているそうです。その話し合いで意見が分かれるそうです。実際は新潟に来られたのは小学校6年の2学期なんです。結局、新潟には1年ぐらいしかおられなかったんですがこの同級生はもっと長くいてたような感覚があるということを言っていました。5年生の時に引っ越しされて来たのではないかとおっしゃっていましたけどもね。でも実際は違うんですね。ですからそれほどにものすごくフレンドリーな賢いめぐみさんだったということです。15日、学校からの帰り道、6時といえば真っ暗です。バス通りでは車が走っていますが大きな道からちょっと横へ入るともう全く人がいない。そこで多分さらわれたのではないかという現場に行ってきました。15年前に小泉内閣の時に5名の拉致被害者が北朝鮮から戻ってこられました。その中に志村さん、蓮池さん、一番後ろに1人でお帰りになられた曽我ひとみさん。この人とは前回の時にお話を聞かせていただきました。めぐみさんより1年後、曽我さん、地村さん、他の4人の方は1978年の1年後にさらわれています。 ひとみさんは無口な方です。向こうでは24年間、日本語をしゃべるなと教育されていました。で、ひとみさん曰く、24年間あまり日本語をしゃべるな、必要な時はいいけれど、話はしてもいいけれどということでほとんど日本語でしゃべれなかったんですね。でも日本語を聴くこともできて、読むこともできて、書くこともできるんですがやはり24年間というのは長い年月でありまして、しゃべることができなかったということでした。で、記者会見のときに何か言ってくれということでしたが日本語をしゃべれない、話せないということです。今、もし横田めぐみさんが40年目、40年過ぎて日本へお帰りになったらおそらく日本語は多分忘れたはるのと違うかなと思います。ぶつ切りの話ばかりで申しわけなかったですけれど時間となりました。ありがとうございました。