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故 山形隆夫会員を偲んで

2019.1.31 会員 辻幸男 山形さんは大正13年山口県の徳山市、今の周南市にお生まれになりましてその後成人され、戦争にいかれました。行かれた先は満州で通信兵として従事され、終戦を迎えられました。ソ連のシベリア収容所に捕虜として、3年間地獄の苦しみを体験されその悲惨さは何度も皆様卓話でお話を聞きよくご存じだと思います。そして復員引揚者として帰ってこられたのでございますが、田舎ではシベリア帰りということでなかなか勤め先がありません。それはなぜかと申しますと収容所で捕虜たちに社会主義の思想教育が一部されておりましたので、大変差別・偏見がございまして田舎ではそんな人間は雇えないということで仕事が全く見つからない状況でした。しかたなしに京都に親戚を頼ってやって来られました。そのご親戚は当時、現職の国会議員でありまして、その方が身元保証人になられ、そして無事就職先が見つかりました。その会社は燃料の会社でございまして、今でこそ、石炭を販売している会社はございませんが、当時の石炭や石油、重油を売る会社に就職をされまして大変有能な営業マンで、街をずーっと歩いて煙突が見えたら煙突のあるところは全部飛び込みで、片っ端から石炭を売り込んでいく、やり手の営業マンで大変会社に貢献されました。そしてその会社の幹部にまで登り詰められました。しかし、山形さんは自分で商売がしたいという夢をお持ちだったので、なかなか会社のほうも有能な社員でございますので、なかなか辞めさせてもらえませんでしたがどうしても独立したいということで、普通は会社をかわるとその経験と人脈を生かして同じ商売か、同業他社に勤めたりとか、同じ商売をする人が多いのですが山形さんは義理と礼儀の人ですから、全く畑違いの水処理の会社を起こされました。初めはメーカーからは全く信用されず仕入れをお願いしても難しく、現金と引き換えでないと売ってもらえない。信用がございませんでしたので大変苦労されましたが、持ち前のガッツと人柄でどんどん売り上げを伸ばしてお得意先からもメーカーからも信用されて、地区の総代理店として成功されました。ロータリーには平成4年に68歳の時に入会されまして80歳で会長をされました。私は平成9年に入会しまして6年後に幹事をさせていただきました。同じ干支のねずみ年で二回り下の、24歳下の親子、まるで親子のコンビで一年間頑張らしていただきました。 大変気配りの人で絶対、人の悪口を言わないまた、人の誤った行いや言動を許す心の広い方でございました。私とえらい違いでございます。わたしはいつまでも根に持つほうでございます。常に大きな声で「ワッハッハー」と何事も笑い飛ばしておられました。健康で元気でお歳は申し分のないお歳でございましたけども、絶対100歳まで、いや、100歳以上生きられると思っていましたがあっけなくお亡くなりになりました。長患いもせず誰にも迷惑をかけない山形さんらしい潔い亡くなられた方だったと思います。ただ、残念なのは一年三ヶ月前で、亡くなられる九ヶ月前、運転免許証を返納されましてからちょっと元気がなかったのでございます。高齢者の免許返納は時代の流れで、事故防止のため、私も賛成ですが山形さんに関しては行動範囲が狭くなりまして好きなゴルフも自分の足で行けず送り迎えをしてもらわないと行けなくなりほぼ、ゴルフは引退に近い状況で大変寂しそうにしておられました。「山形さん、電車で行かはったらわゴルフへ」といったら、「ゴルフ場みたいなん、みんなあ山んなかで駅前にあらへん」と言うておられました。それともう一つ残念なのは、全く些細なことでございますけども山形さんは例会の日に亡くなっておられます。其の一週間前に最後の例会になりましたが、私は毎回送り迎えをしていましてその日、11時半ごろ迎えに行く予定がいつも山形さんは伊勢田神社の辺に10分まえから待っておられまして、その日に限って私は30分ほど遅れました。何か心残りと申しますか、ストレスをあたえたのが私が遅れたためかなと思っております。とにかく最後の最後までロータリアンとして、みんなの模範として生きて来られました。心からご冥福をお祈り申し上げまして私のご挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。越智よし子本日は、私よりももっと山形さんとたくさんの思い出をお持ちの方もいらっしゃる中で、私がこのようにお話しさせていただくなんて本当に恐縮なのですが、大変有り難い機会を頂いたと感謝しております。今日は、私と山形さんの思い出というよりも、私の山形さんに対する想いというものをお話しさせていただきたいと思います。 私が、宇治鳳凰ロータリークラブに入会させていただきましたのは、今から4年半ほど前になります。新入会員は、自動的に親睦委員となりますが、山形さんもちょうど同じ時期に親睦委員をされていまして、いつも例会が始まる前に受付カウンターであれやこれやと優しく話しかけてくださっていたことを思い出します。話の内容は本当に他愛無いものでしたので、これといったエピソードは特にはないのですけども、「会員の顔と名前を覚えるのは親睦で受付するのが一番早いんや」とか、「いまのは誰々さんや」とか、入会したてで緊張し戸惑っていた私をいつも助けてくださいました。私の山形さんに対する印象はこのような表現が適切かどうかわかりませんが、「本当にまるで生き仏のような方だな」というものでした。今でもニコニコと福々しい笑顔で、大きな声で、わっはっはっと楽しそうに笑っていらっしゃるご様子しか思い出されません。そして事あるごとに「毎日、本当に幸せなんや。有り難いわ。」といつも仰っていました。そんな山形さんですが、やはり戦争のお話、特にシベリア抑留の頃のお話をされているときは、いつも苦しそうなお顔でお話をされていました。私も父方母方に祖父がおりまして、特に母方の祖父などは戦争の際、銃で右腕を負傷して少し不自由なところがあったのですが、私が子供だったせいもあるかもしれませんが、祖父から戦争の話を聞いたことは一度もありませんでした。また、子供ながらに何となく聞いてはいけないことなのかなぁと思っていたようにも思います。でも、山形さんは、戦争の愚かさを、今の私達のような戦争を全く知らない世代にも伝えていかないと、という使命を持っていらっしゃったのだと思います。確か入会して間もなくの頃だったと思いますが、亀石楼さんで親睦委員会が行われまして、その時にたまたま山形さんと同じテーブルに座らせて頂きまして、話の流れでシベリア抑留のお話しを暗い感じでせつせつとお話しして下さいました。私も実際にシベリア抑留を体験された方のお話を聞いたことがなかったので、非常に大きなショックを受けたことを覚えています。それがきっかけということでもないのですが、戦争のことだけでなく、戦後の復興のこと、その後の高度成長、バブル等と激動の日本の中で、山形さんがどのようにして過ごされてきたのか、その時、どんな思いでおられたのか、辛いことも苦しいことも、今の私達の世代では考えられないほど大きな経験をされてきたと思います。そんな話を沢山、山形さんから聞かせていただきたいなという思いが募るようになりました。ただ例会ではそれほど込み入った話をさせていただく機会も時間もありませんので、いつもは天気やニュースや日々のたわいない話で終わってしまって、また、山形さんもお元気でいらっしゃったので、またいつか、何かの会で隣の席に座らせてもらって、ゆっくりお話できる機会があればいいなぁと悠長に考えておりました。ですので、例会の当日に、山形さんがお亡くなりになったと、突然の訃報を聞いたときは本当にショックで、どうしてこれまでいっぱいチャンスがあったのに、もっと山形さんとお話してこなかったのだろうと、本当にしばらくの間、後悔ばかりしていました。何でも先送りにしてしまいがちな自分の性格をこんなに悔やんだことはありませんでしたし、当たり前の毎日が、当たり前の様に過ぎていくことは、決して当たり前ではないのだと、毎日毎日を悔いがないように生きていかないといけないと痛感しました。亡くなってしまわれてからまだ日も浅いですし、ふとした瞬間に山形さんのことを思い出すことがありまして、お亡くなりになる前よりも、山形さんへの思いが募るようになったような気がします。私と山形さんは45歳ほど年が離れておりましたので、幸いにもと言って良いのかどうかわかりませんが、いわゆる道ならぬ恋に私が苦しむようになることはありませんでしたけども、山形さんがあと25歳ほど若かったら危なかったかもしれないなと、本当にそう思うことがありました。それぐらい山形さんは人間としても男性としても、とても魅力的で、素敵な方でした。例会の握手のとき、いつも大きくて柔らかい手で握手してくださるのが、本当に安心して心地よかったです。今すぐ会いに行きますとは、さすがにまだいえませんが、いつかは、またあちらの世界でお会いできる日がやってくると思います。順番通りに行けば、私が行く頃には、今ここにいらっしゃる会員の皆様も、ほぼほぼ揃っていらっしゃるのでは無いかと思いますので、いつかまたの遠い未来に、あちらの世界で山形さんと、そして皆さんと一緒に例会なんて出来たらいいなと思っております。そんな風に思ったら、この先歳を重ねていくのにも、また別の楽しみが出来たかなと思います。それまで、またあちらの世界で山形さんとお会いしたときに恥ずかしくないように、山形さんを人生のお手本として、清く正しく生きて参りたいと思います。少しお待たせするかもしれませんが、あちらの世界ではほんの一時だと思いますので、どうか待っていてください。いつかまた、お目にかかれますことを楽しみにしております。ありがとうございました。雨堤孝夫   皆さんこんにちは。辻さん、越智さん、だいたい私が思っているようなことを全部しゃべってくれましたので付け加えることもないんですが私と山形さんは高橋権也年度の同期の入会でございます。それで名前も字が違いますが孝夫で、隆夫で、ずっと親近感をいだきながら26年間おつき合いさせていただきました。また、山形さんとの例会以外での思い出となりますとやはりゴルフじゃないかなと思います。ゴルフがお好きで自分で車を運転して結構遠いゴルフ場まで出かけて行かれてました。それで私どもも山形さんのメンバーコースへよくご一緒させていただきました。非常に淡々とプレーをされる方でして、晩年はスコアーカードを待たずにコンペの場合は自分でスコアーを提出する必要がありますので書いておられることもありましたがまあ要はボールをクラブで打って11.5cm のカップにホールアウトする言うことが楽しみであり、別にスコアーというものは後で付いてくるものなので4で上がろうが8で上がろうが全く動じずに淡々とプレーされておりました。最近は乗用カートでコースの端っこの道路をカートが走っておりまして、それに乗って移動するんですが山形さんいわく、ボールのところからカートのところまで歩いて、それでみんなと半分か3分の1ぐらいしか飛んでいないので、すぐ降りてまたボールの所へ行くくらいだったらまっすぐボールの所へ行った方が実は近いんだ。それも一つの健康の秘訣やったのではないかと思います。ですから若い方々もだいたいワンラウンドしてカートに乗って歩いた場合、1万歩~1万3000歩ぐらいになるんです。それを山形さんはずっと歩かれます。多分1万6000~2万歩ぐらいは歩いておられるのではないかと思います。そういう意味でもゴルフの最大の目的はやはり運動すること、楽しむことで、スコアーとかそういうものを目くじらを立ててどうのこうのするのはまあ、邪道だというのを身をもって我々に教えてくださったように思います。晩年はもうちょっとハーフで上がるわと上がられて、それから2時間あまり、我々が上がってくるまでクラブハウスで待ってくださってて、でまぁ帰りはみんなでワーワー言いながら帰ってくるというふうな楽しいゴルフをご一緒させていただきました。もう車の免許を返納するのでゴルフもちょっと行けないわとおっしゃった時もみんなで迎えに行きますからぜひ行きましょうと言ったんですが。多分、今は、あちらの世界でゴルフを楽しんでいることだと思います。山形さんとの思い出というのはそういうところが多いんですがたまたま切地年度の年会会報に7月13日の週報コラムに書いていらっしゃいます。これを紹介します。山形隆夫「93歳になります」私が入会した当時は吉田末雄さん、南郷さんらご年配の人がおられました。私一人が残ってしまいました。もう来てもいいですよというお迎えが大体来る予定ですがちょっとまだ、足が遠のいています。其のうち、お迎えが出てきましたら喜んで向こうのほうへ行きたいと思います。家内も元気にしております。ここからは独り言夫婦の絆って何だろう。一人の男と一人の女がある時、どこかで出会う。お見合いでも、恋愛でも、やっぱり偶然なんだ。自分とは違う、もう一人の人間に興味を持って、この人と一緒になったら面白い人生が味わえるかしら・・・と勝手に創造し、契りを結んだ。楽しかったり、苦しかったり、嬉しかったり、時には喧嘩して、夫婦の絆が切れそうになったり、いろいろな事がありました。年季の入った芝生より若い芝生がいいと思ったり、いろいろな事がありましたが、この世におさらばするときに、今日は死ぬのにとってもいい日だ、なんていってみたい気がします。「迷惑かけたね」「もっと迷惑かけてもよかったのよ」なんて言ってもらえたら嬉しいけど、そんなにうまくいくはずはないな。こういうコラムを載せてらっしゃいます。年輪を重ねて人生を達観してこうあったらいいなという形ですね。今日死ぬんやけどもいい日だな。こういう感じで亡くなられたのではないかと思います。我々にとっては憧れる生き方ではないかなと思います。山形さんは随分苦労し、生死の境を何回も歩いてこられた方です。そういう意味ではやはり、そういう苦労とかに対してそれなりのご加護を与えたのではないかなと思います。山形さんがよくおしゃっていましたが生まれた時に産婆さんはこの子は育たないというので確か4月でしたね。生まれになったのは。戸籍上は8月になっている。戦後捕虜になられてシベリアではそれこそ生還した人の方がはるかに少ない状況で生還されました。それともう一つ、ロータリーでご一緒させていただいていた時に奥さんから電話がありまして、実はちょっと入院したので例会を休ませていただきますと連絡がありました。東北の方へ奥さんとのご旅行で、初日の旅館で風呂へ行こうと思ってスリッパを履こうとしたんです。うまく履けないんですね。なんでやろな。まあ、このあたりが我々と違うところです。山形さん、いろいろと冷静に考えられました。そういうと2週間前に階段で足を滑らして頭を打ったな、こらどうやろとというんですぐにその場から取って帰りまして、多分息子さんにだろうと思いますが京都駅に何時につくから病院へ行く段取りをしとくようにと言って病院へみずから行かれて、頭に出血があったのをすぐに除去して大事に至らなかったと私のお聞きしている範囲でも、これは非常に寿命のある方だなとすごく思っておりました。やはりこういう方は長生きして、それで周りに迷惑をかけることなく、本当にスーッとこの世界から去って行かれるんだな。これもやっぱり天がそういうふうに引き受けてくれているんだなと思います。我々の山形さんに対する思いというのはクラブの大きな自慢でございました。よそのクラブへ行ってやあ、うちのクラブには90過ぎてもまだゴルフをされてかくしゃくと毎週例会に来てくれる山形さんという会員がいるんです。それだけで他クラブ行った時に我がクラブの自慢ができる方でございました。我々に対して、またクラブに対しても、大きな足跡を残され、特に私ども心のお土産と言うんでしょうか、大きなものをいただきました。まあそういういろんな意味で大きな人物でございました。笑い声も声も大きかったです。人も人なりも一回り大きい方だったと思います。我々も近い将来行くことになると思いますけども、その時はまた大きな声で迎えていただきたいと思います。同期に入会したのはたった二人でした。その2人が長いこと、このクラブに在籍させていただきました。山形さんはおっしゃっていました。うちのクラブはいいな。よそへ行けばなかなかこういう雰囲気はないで。これが何よりだと思います。これからも我々いろんな事を引き継ぎまして、楽しくいい雰囲気で実りある活動を行っていきたい。残せるかどうかわかりませんけども、やはりその辺を目指して、現役でロータリーを去りたいな、人生を終えたいな。これは私の目標です。本当にいいお手本がいらっしゃいますんで日々これからも精進したいと思います。どうもありがとうございました。息子さんもぜひ、お父さんが長年通ってこられましたこのクラブへご入会をしていただきますようお願いしまして本日はどうもありがとうございました。安井幹事私は入会して12年になります。入ったときは一番若手でございまして、勿論山形さんは最年長でごさいました。すぐ気さくにしゃべっていただけますがこちらからもしゃべりにいかないとあかんなということ、いろいろ毎週考えていたんです。その際にTVを見ておりまして、山崎豊子の不毛地帯でしたが唐沢寿明が主役のドラマ。シベリアの話で商社の瀬島龍三がモデルだったようなドラマでした。ああ、これはいいわ。それで次の週に、山形さんにこの会話で盛り上がると思ておりました。で、こう切り出したんです。この度フジテレビで不毛地帯というシベリア抑留をされた方が商社でのし上がっていくようなドラマで瀬島龍三が熱演してます。見るのを楽しみにしてますわといったら、いつも優しい山形さんが血相を変えて、わしはあいつらきらいじゃーいうて、わあ、いらんこというたか。上官と部下との間で誤差別があったみたいでそういう思い出が蘇ったみたいで怒られたみたいな思い出がございました。

ケアンズRC訪問報告

友好クラブ委員長 所孝男昨年6月ケアンズロータリークラブの会長からお誘いがあり、クラブ部員に参加募集をかけたところ、私を含め7名(石津・清水・城島・田和・山下・吉田)が訪問するということで今年3月18日から23日まで行って参りました。19日夜ホテルで歓迎会が開催されいろんな料理をいただきました。記念にネクタイ、女性にも中身はわかりませんがプレゼントをもらいました。そこそこ、わかったような、わからないおしゃべりになるんですけどもポケトークが全然使えなくて何をしゃべっておられるのかわかりませんでした。後ほど清水会員に訪問の内容をお話していただきます。次の日、ケアンズの会長にパークを案内していただいて、一日有意義に過ごしました。当クラブのバナーを持って行くの忘れました。今、オーストラリアは雨季です。鉄道が不通になり、観光ができませんでした。雨で水着姿もなく、日光浴する人もなく、写真が撮れなくて。しかし、海岸での水着姿を写すのはご法度になっているようで怒られずにすみ、よかったです。エアーズロックもその日は誰かが晴男で2人が山頂登山に成功しました。皆さん元気に帰ってきました。あとは清水さん山下さんお願いします。友好クラブ推進委員会です。3月18日~23日の日程で、ケアンズロータリークラブを訪問しました。皆さん7人無事に帰国いたしました。ケアンズから皆さんにコアラの人形とビスケット.向こうでバースデーパーティーをしていただいて7人にネクタイとお土産用の袋をいただいてきました。それとキムタムというお菓子をほんの一つお土産がついています。

女子大学に勤務して48年

米田泰子 皆さんこんにちは、ただいまご紹介いただきました米田でございます。どうぞよろしくお願いいたします。城南高校の卒業者がこちらのクラブには5人ほどおられるということをお聞きいたしております。城南高校というのは宇治にございまして、私は京田辺に産まれまして、京田辺で育ちまして、京田辺にお墓もございまして、そこに入るつもりでございます。勤務先は京都の一番端の下鴨にございます現在の京都ノートルダム女子大学に勤務いたしておりました。今日のテーマなんですが、私は「大学教育に48年間携わって」と言う題名かと思っていました。大学教育はこの48年間どのように変わってきたかというあたりを今日皆さんにお話すればいいのかなと思っていました。事務所に問い合わせますと女子大学に勤務して48年という題名をいただいていますということだったので、こうなると大学教育ではなくて、女子大学というのはどんなものか、皆さんがお知りになりたいと思っておられるのかな。そちらの方を特にお話します。 女子大学というのはどんどんとなくなって参りました。ほとんどが男女共学ということで、すべてが小学校から全部男女共学ということで、女子だけ、或いは男子だけというのが京都でもなくなってきました。その中で京都のノートルダムは馬鹿なんでしょうけれど.まだいまだに女子大でやっています。どんどんと細ぼっているのではないかと思っています。私はもう20年ほど前に男女共学にしようと声をからして言ったんです。だめでした。そしてその時男女共学がだめなら大学を合併しよーとこれもまた声をからして言いました。まずカトリックの大学をなくしてはならないと言って、まず聖母と一緒になろう。そして東京の聖心でもいいし、上智でもいい。一緒になろうとやかましく言ったんです。ところが理事長から全部だめということで。聖母の場合も5、6回お見合いをしたんです。これもだめでした。結局、聖母はつぶれました。次に潰れるのはノートルダムです。そんなのは当たり前だと私は思っています。やはり時代に合ったものに改革していかなければ生き残れないというのは何でもそうだろうと思います。 48年前、私が女子大に入学したのは52年前です。この大学を選ぶ理由は何もなかったんです。勉強しなくてもいいところならばどこでもいいわと思って、そして入学試験が一番速かったので、一番に決まるからと思ってこの大学を受験しました。ところが私が考えているほど甘くはなかった。アメリカ人が何人もおられ、それが全員シスターで、すごい、入った途端から学校は二足制で、靴を履き替えます。この間、トランプさんにスリッパを履かすのにどういうスリッパを履かしたら良いかというのをみんな一生懸命考えたということを聞かれたことはありませんか。 相撲の土俵に上がるときにスリッパを履かなければならなかったのでスリッパを履いたことのない人にスリッパを履かすのはどうしようというのを一生懸命に考えたそうです。私はそんなことを聞いたら簡単や、アメリカ人が履くスリッパってこんなもんやと教えられたのですが。私らは全員履かされましたから、それで当日ニュースでみました、トランプさんの履いておられたスリッパを。普通のスリッパのように見えましたので、全然昔の経験は生かされてないなと思いました。私らの頃は足袋のようになってまして、こはぜはありません。靴のように履くんです。で、指は別にわかれていません。靴ようになっていて布でできているのです。校舎の床は大理石でできていたのでサーッと滑って走ってました。女子大生が廊下をサーッと滑っている。アメリカ人の神父さんは靴の上からそれを履いておられて、それで教室で授業をされていました。そんな時代でした。アメリカのすべての文化がそのままとりいれられて、そこで食生活も全部アメリカの食生活を経験して参りました。なんと豊かな、何と素晴らしい食生活だろうと思ってすごく豊かな4年間を送ったところでございます。 随分経ってから府立大学の先生とか、いろんな人から聞くんです。私が学生の頃、この女の園の周りを何回廻ったかと言われます。なんでと聞くんですが。なんでそんな大学の周りを廻るの。私には全くわからない。男性の先生が何回も廻ったと言われるんです。京大の卒業生や他からもそういうことを聞きました。だから、この女の園で何が行われているのか、そういう不思議な場所であったんだなと思ったりしておりました。 女性ばかりでしたので男性に頭を叩かれることもなく、悠々と4年間を過ごしたところです。アメリカから来たシスター方はもちろん全員女性ですので日本人の男性の先生は、もう小さくなっておられました。それで私たちも堂々と4年間を過ごすことができました。現在、女子大を社会でアピールしている方法の一つですが、女子大がなぜいいかというのがそこなんです。この男女共同参画社会を目標にしている現在、まだまだ女性の社会ではない。ところがその4年間に男性がいなくてリーダーシップを学べるという、そういうところは女子大で養われるというようなところを頭に出してアピールしていることもございます。 もう、そんな事を言っていてもしょうがない。私なんか、なんでしょうか、私は3人姉妹でした。城南高校までは男女共学で小学校から行きました。でも、女子大は女性ばっかり。男性に仕えるとか、そういう気持ちは全くなくて、男性にとっては嫌な女やな、とずっと思われてきたと思います。それでもそういうわけにも行かなくなって、男性に、とっても嫌な女と思われるわけにも行かなくて、どういうふうに生きていったらいいかというところを、そして学生にどのように教育していったらいいか、女性の教育をどうしていったらいいかというのを、いろいろと社会で頭を打ちながら勉強したところでございます。 それは何かと申しますと、例えば学生にはもうプライドを捨てなさいと言ってよく教育したことがございます。それはなぜかと言いますとアメリカ人の教育というのはとても厳しくて、本当にみんな何度泣いたかわからない。というような教育を受けて参りました。その教育に耐えられるためにはどうすればいいかということを私流に考えました。自分のプライドを捨てたらいい、これは簡単やと思いました。プライドを捨てたら何の矛盾も何も考えなくても、とてもうまくやって行ける。 私が就職しましたのがアメリカ人の助手として就職いたしました。3年間は我慢して、とよく誰かに言われましたけどけれど、その3年間は毎日涙涙でトイレに行っては泣いていました。その時に考えたんです。なぜ、この3年間涙を流しているのか、どうしたらいいのか、考えました。その時に私はこのアメリカ人がどうしても私が必要だと思ってくれるような私にならなければならない。この人にそう思わせようと思ったんです。だからそのアメリカ人にとって私は必要である。どうしても必要である。辞めてもらったら困ると思ってもらえるために毎日をやろう、仕事をしよう。このように思ったんです。それからはとても楽になりましたね。ずっとそのアメリカ人が定年になるまで一緒に夏休み、冬休みは私の家に連れて帰って一緒に生活する。 この話をあるときに、松下幸之助さんの秘書というか、仕事を一緒にしておられた江口さんという方がおられます。で、松下電器、パナソニックに勤めている人は松下幸之助を知ろうと思ったら江口さんの本を読めば一番よくわかる。私の息子の友達なんか,パナソニックに勤めている人が言ってましたけれど、江口さんがあるとき、私のところの大学の理事長になられました。短い期間で2年ぐらいでした。その時にいろんな話を聞きました。その中で、江口さんが松下幸之助さんにどのようにして仕えたかと言う話になって、そこで私と意気投合しました。だから江口さんも松下幸之助さんがどうしても江口さんがいないと困ると思うように私は仕事をしましたとおしゃっておられました。ということで松下幸之助さんの奥さんが先に亡くなられておられたので晩年はお一人で住んでおられたそうです。そうするといつ電話がかかってくるかわからない、24時間。そして夜も枕元に電話を置いて江口さんは寝ていたという話をしておられました。電話がかかってきて、今すぐ来て、食事を一緒にしたいと言われて家まで走る。そのような晩年を過ごされた話を聞きました。その時に江口さんは松下幸之助さんにとって私はどうしても必要な人間であると思ってもらうために、私は働きました。私と同じだということで、私の方法もまあ、間違ってはいなかったかなと思っています。 ロータリーの教えを見ていますと中核的価値観というのが今、言われておりますが、中核的価値観ってなんや、私はわからなかったもので、ネットで見ますと、中核的価値観というのは親睦、多様性、高潔性、リーダーシップをコアーにして、そこに価値観を見出し、そしてロータリーを運営していくことかなと思ったところです。それから四つのテストがございます。四つのテストの真実かどうか、公平かどうか、それから好意、友情を持ってしているかどうか、みんなにとってそれはいいことなのかという四つのテストがございます。これら全て、私には抵抗がなく、最初からすんなりと受け入れることができました。何故かと言いますとこれはすべてカトリック精神と全く良く似ております。アメリカでロータリーが設立されたというのはアメリカ人のカトリック精神のもとに作られているというふうに私は勝手に思っています。皆さんは別にそう思われなくていいです。私が勝手に思っています。そのカトリックの教えを受けた私にとっては生活の基盤としてこの言葉を容易に受け入れることができるといつも思っているところです。特別に勉強しなくてもいい。特別に修行しなくてもいい。そのものずばりだと勝手に思っています。 例えばアメリカ人の厳しい教育に耐えていくためにプライド、私はまずプライドをなくしました。自分のプライドをなくすことがとても大切ではないかと思って。で、日本人の学生にもその厳しさを受け入れるためにはどうしたらいいか、それはなぜなのかということを日本的に日本の文化に合わせて、そして教えていったときに、「もう、あんたそんなプライドやめとき」「プライドなくし」と私がいいますと学生たちはそれをなくしてくれて。例えば私は食物をやっておりますので調理実習室のお掃除はとても大切にしております。自習室のお掃除をさせるのにみんな床も全部手で拭かせます。学生は家でもしたことのないことを、すんなりするわけがありません。でも、それをしてもらうためにいろいろと教えます。そうすると「先生、ここできた。次どこをすればいい」と言って聞いてくれます。もう時間だから結構です。もうやめますと言いますが「次どこ」と聞いてくれるんです。「お掃除ってすごく楽しいやろ」って教えると、「うんものすごく楽しい」と言ってくれます。 プライドをなくすということは相手を尊敬することができる。人を尊敬することができる。相手を大切に思うことができる。これはカトリック精神の、カトリックというのは何か、キリスト教とは何かといいますと「愛」の一言で説明するのです。哲学者のソクラテスは世界は真、善、美で全て説明できると説きました。キリスト教は愛ですすべてが説明できるというものであります。相手を大切に思う、相手を尊敬する、そうできるには自分のいらないプライドをなくさねばならない。でもプライドのすべてをなくすのではなくて、大切なプライドをもちろん持たなくてはならなりませんが、そのプライドをなくすことによって自分自身が強くなれます。強くなって他から見ると美しく見えると思うのです、自分自身が。嫌な、変なこと、他人に迷惑をかけるようなこと、或いは利益をむさぼること、すべてから解放される、自分のプライドをなくすと。というふうに私はずっと思ってきたところです。こういうことが女の園で養われていったことではないかと思います。 私も専門的に今、大川会長の方からお話があったんですけども、食べ物に関してお仕事をやっておられるということで現在の食べ物を小学生にだしの取り方を教えて、そして本物の日本料理というものを伝えていきたいというのが、今ずっと京都の芽生え会とか、京都の料理屋さんの旦那衆が集まってやっておられる活動なんですね。この時代だからということでございました。今の時代というのは食べ物がほとんどすべて外に出てしまった。家庭の中ではなくって外に出てしまったからだということになりますか。まず最初に家庭から外に出たのは建築です。家庭科では衣食住と表現するんですが。最初に外に出たのは住です。皆、自分で家を作っていたのが大工さんが作るようになり、それから次に外に出たのが衣です。服ですけどもこれは家で全て作っていたんですが、それが全部外に出てしまった。家で作っている人はもちろんありますけどもでも全部外に出てしまった。食も出て欲しいとずっと私は思ってきました。何故かと言いますと私は男性の先生と同じように大学で仕事をして、帰りに買い物をして、家に帰ったら洋服一枚脱いではガスをつけ、また一枚脱いでは、お鍋をかけて、服を脱ぎながら料理を始めて、そしてガス口が三つで 足らない場合は電子レンジを使って、オーブンを使ってとか、それを頭の中で考えておいてパーっと一気に料理をするわけですね。家族がお腹を空かして待っていますから。それが大変でいつもこの食の分野も外に出るといいな、外に出て欲しいな、家でしなくてもいいのにな、と随分と思ってきたところです。で、この10年ほどで、ほとんど外に出てしまって、ずっと見てますと朝も自動車がコンビニに止まって、コンビニの袋を持って飲み物とお弁当を入手した人が車に乗り込んで、出勤される。この様子をずっと見て参りました。現在朝食を家で取る人は少なく、お昼はもちろん外です。夜だけということなんですけども、その夜も外食をしようとか言って、今日はどっかへ出かけようとか、家族で出かけようとかになって、ほとんど外に出てしまいました。もちろんそうでない方も多くおられますが、このことが無理なく、可能になってまいりました。これでいいのかどうかというのは、ものすごい問題があります。だからもう一度食の分野を家庭に戻せといってもきっと戻らないと思います。どうしてかと言いますと女性が仕事を持っている限り、これは大変なことなんです。だから男性と毎日交代で食事の準備をするとか、そういうふうになればまた家の中で、家で調理をするということもできるかと思うんです。そういうことは今のところ、全く考えられないような状態ではないでしょうか。男の人は絶対「私はお料理なんかできひん」という。「できひんねんと違う。しんとしょうがないやろ」というんですが、「できひんと言ったら終わるんやったらそれはええな」と言っています。そういう時代です、今のところ。ということで外に出てしまうということは仕方がないのではないでしょうか。 ここで私が大学でやってきたことが何かというところなんですけども、ずっとアメリカ人の助手から、講師、助教授の間、全てアメリカ人のために働き、アメリカ人が夏休みでアメリカに帰っている間に研究をし論文を書いて全てファーストネームはアメリカ人の名前で発表をしていました。やっぱり自分の先生ですから自分で研究したものでも仕方がないと思っておりましたから。でも、だんだんとそのような時代ではなくなりました。現在は論文の価値を高めるために最後に教授の名前を使う時代、それからその研究に直接かかわっていなければ名前が列挙できない時代に代わってきました。あるときから私も独立をすることの決心をしました。このノートルダムの中にいては仕方がない、外に出なければならないと思って、いろんなことに挑戦してみました。その前にやはり外国に行って勉強をと思い、パリに夏期の講習に赤ん坊を家に残して出かけました。1フランが65円もした時代でした。コルドンブルーという料理学校で夏休み中勉強に行くということを何回か繰り返しました。また、中国の北京で中華料理の勉強をすることも繰り返しました。アメリカでも夏休み中、アメリカ人の食生活をいろいろ調査研究したこともありました。そういうところから外国のものと日本のものを比較するという方法を学んだわけです。比較によってさらに日本のものがどういうものであるか。日本人の食べ物の真理は何か。それはどうするべきか。どうしていけばいいか。というのがわかるわけなんですね、他と比較することによって。で、そういう事をやっておりました。 平成の始め頃5、6年間、京都新聞と一緒に「京都のおばんざい」という、大村しげさんが使われた言葉だといわれているのですが、これを京都人の中で広め、京のおばんざいとはどのようなものかを京都人のコンセンサスをえることによって確立させる仕事を行いました。 それが終わって次に何をしたかと申しますと。「外国に学生を連れて行ったらみんなブランド製品、ブランドのかばんばかりを追っかけまわしているのと違うか」とみんなに言われまして、そんなことを言わないで日本でも外国人に追っかけまわされるブランド製品を作っていかんとあかんやろ。それがないから外国へ行ってみんな買いあさるんや。日本にあればそんなことみんなしません。だから日本でそういうもの作ってください、ということをよくいってきました。やっとできて、最近わかりませんけども船の帆で作ったかばん、早く悪くなったらいいのにな。新しい鞄に変えたいと思っているんですが全然悪くならないので、次の鞄がもてなくて、あの鞄はとても人気があるようですが。このように並んで買ってもらえるような物を作らないと。今は食べ物でラーメンやアイスクリームとか甘党のお店にみんなが並んで待っているのが、テレビなどで放映されますが、食べ物ではなくて、もっと他のもので、並んで買ってもらえる物を日本人は何で作らないのかと私が言ってたのが、平成5年頃でした。ちょうどそのころ、京都府が野菜を売り出そうとして「ブランド京野菜」と名前をつけてました。ブランドというのはそれで固有名詞になるの、と私も言ったのですが、ブランド京野菜というのを京都府のふるさと産品協会が企画し、21品目を選出しました。その時も、ブランド京野菜として選んでいいかどうか、そういうアドバイスのお手伝いをいたしました。現在はそれからどうなったかと言いますと、この企画が日本中にその地域の野菜を大切にするという風潮が広がりました。やはり新しいことはすべて京都から発信することになるのだなと思いました。その運動が日本中に広がって、大阪でも難波のブランド野菜など、いろんなところでやっています。あれは京都で始めたものです。ということでそれはやはり昔からあるものを大切にするということで違った方法で発信していくという方法、これは京都人が持っている宝物ではないでしょうか。そういうことで私もブランド京野菜に関していろいろ仕事をして参りまして、おばんざいに関しても同様で、多くの日本人に影響を与えることができたと思っております。 70歳で定年になりまして、それまでは京都の北の端まで通っておりましたので田辺のロータリーにお昼間帰るなんていうことは不可能なことでしたが、定年とともに友達がそれも城南の時の友達が入れ入れとうるさく言うもんで、それは林さんではなかったんですけども京田辺にいる友達です。断り切れず、決心しました。「私はロータリーのためにお金を使いたくないんやけれど、あんたのためにお金使うわ」と言って入ったのが4年前の71歳の7月でした。「ロータリークラブのメンバーが年寄りばかりになったらあかん」とみんなに言われてるんですけども、そう言われても私は初めから年寄りなんでどうしたらいいのかわからへんのです。その若い人に入ってもらえとか、中核的に価値観の中にも若い人、それからリーダーシップを要請せよとか、いろんなことが言われますが、いつも小さくなっています。それならいつ辞めても困らないのですが、私としましても入ってまだ4年が過ぎたところで、この7月から5年目です。それにやめてええやろか。48年間も私は仕事を続けてきたんですよ、仕事を。それにここで辞めていいんやろかと思っておりまして、それなら死ぬまで行くか、というのが現在の気持ちでございます。以上です。どうもご清聴ありがとうございました。 

RYLA受講報告

2019.5.30受講生 登りこども園 竹之内沙季本日は、お忙しい中、時間を割いていただきありがとうございます。また、研修費用も出して下さりありがとうございました。講義の先生からたくさんの事を学び、グループのみんなでおいしいご飯を食べ、楽しい時間を過ごす事が出来ました。ありがとうございました。これから3日間の研修を通しての学びや楽しかった思い出など、お話させていただきます。宜しくお願い致します。まずは1日目です。後藤先生からの「子どもが守られる社会に」というテーマについてのお話でした。私は保育教諭として働いていますので日々、子どもとたくさん触れ合っています。このテーマでは、子どもの虐待の現状について児童相談所への通告件数は年々増加を続けているというお話がありました。核家族化が進んでいる一方で、地域との交流は減少しており挨拶をするだけという方も多くなっています。そんな環境の中で私たちが子どもを守る為に出来る事は、子どもと関わりながら小さな変化にも気づく事が出来るようにしっかりと様子を見て、また、子どもだけでなく、保護者の微妙な変化や様子にも気づく事が大切だと思いました。保護者が悩んでいても、その悩みを相談する人がいない、我慢をしてしまう方が増えていると感じる事も多いので、相談の窓口になれるような存在になっていきたいと思いました。続いて津田久資先生からの「AI時代にリーダーがしなければいけないこと」というテーマについてのお話です。私はあまりリーダーになって何かをしたいという考えは持っていないタイプなので、自分には向いていない話かなと思っていたのですが、その考えとは逆に全講義の中で1番これからの自分の中で足りない部分をどうやって補うか想像ができ、人として成長できるお話を聞かせていただいたと感じました。今までの私は、1つの物事に対して決められた事以外の事が思い浮かばず、つまってしまう事がよくありました。津田先生がおっしゃっていた日本人は考えることが苦手という言葉は、まさにその通りだと思いました。しかし、書く事が大切と教わり、文字に書き起こす事で、新たなアイデアが生まれてくるかもしれないと感じました。今までは、自分自身に自信がなかった為にリーダーなんて自分には無関係だと思っていたのかもしれません。とにかく考え付いたことを書き出すことで、アイデアが生まれアイデアの量だけ自分自身にも自信がついていくかもしれないと思ったので、実行してみようと思いました。次は、班ごとに自己紹介を兼ねたBBQの時間です。この時はまだ、全員が緊張していて話すことも少なかったので、ただ美味しいお肉や、新鮮な野菜を焼いて食べることを楽しむだけ、今思えば必要最低限の会話しかしていなかったこの時間がもったいないことをしてしまったと思います。すでに交流が深まっている班もいくつかあり、このグループはどうなっていくのかと不安にもなりました。続いて2日目です。まずは朝のラジオ体操の時間です。広い琵琶湖の景色を見ながら、みんなで行う体操は、とても気持ち良く、清々しい気持ちで朝が始まりました。1つ目の講義は三浦準司先生の「ジャーナリズムの現在地・フェイクニュースにだまされるな」というテーマでした。以前に話題になった地震の影響で動物園からライオンが出てきたとツイッターに投稿した例も上がっていたのですが、大きな地震が起こって気持ちが不安定になっている中、あのような不適切な投稿をする人の気持ちが全く理解出来ず、人の気持ちを思う心が欠けていると思いました。そういった投稿をしないことは当たり前なのですが、だまされない為には、どうしたら良いのか、とても悩みました。現状の私たちはSNSを頻繁に利用するので、良い情報も悪い情報もすぐに手に入ります。悪い情報は必要ないからといってSNSをなくしてしまうと不便になって、日常生活を送ることも難しくなるかもしれません。また、ウソのニュースの方が「目新しい」為、速く広く拡散すると学んで、とても怖い気持ちになりました。どう見分けるかの方法として「大きなニュースならマスメディアも出しているはず」という言葉を聞いて、確かにその通りだと思いました。そして私たちも、すぐに信じ込まない、また安易に情報を拡散しないことがフェイクニュースを防ぐことに繋がると思いました。次は安土文芸の郷に行き、岡村遍導先生のお話を聞いた後、信長の館と安土城考古博物館の見学をしました。見学では、昔の武装や王者の服装、安土城の模型等、普段見る機会がないので、歴史を感じながら見学をしていました。また、同じ班の人と行動したので、交流を深めながら見学する事が出来ました。見学が終わった後は、グループごとに自由散策の時間です。散策マップを持って、行きたい場所を話し合いながら散策しました。数珠の店で、綺麗な数珠や木製のアクセサリーを見たり、おいしい食べ物を探したり、楽しく過ごしました。船が運行されていたので、みんなで乗ろうとしたのですが、時間の都合で乗る事が出来ませんでしたが、ロープウェイで山の上まで行く事が出来ました。この頃には、班のみんなとも仲良くなっていたので「きれいー!」「すごーい!」とみんなで感動を共有していました。1日目はグループ行動も出来ずに、ばらばらだった私たちが2日目には、みんなで一緒に行動して会話を楽しんでいる事に、とても嬉しく思いました。そしてお土産を買ってバスで休暇村まで帰って来ました。研修最後の講義は、朝廣佳子先生の「市民がつくるまちづくり~真のリーダーシップとは~」についてのテーマでした。奈良の燈火会についてのお話がありました。私は今まで燈火会に参加したことはなかったのですが、燈火会という言葉には、ろうそくの火が消えた時に花の形になると縁起が良いと中国で言われており、また、人がたくさん集まるようにという願いが込められている事を知りました。私も、たくさんのろうそくの火が灯されている景色を見て、参加してみたいなと思いました。他にも奈良にはたくさんのイベントが開催されており、このお話を通して知った物がたくさんありました。そのイベントの裏側には朝廣先生の熱い思いがある事も感じる事が出来ました。人と人を繋げたいという思いや、失敗は成功の糧になるので、まずは1歩を踏み出すことが大切である事など、その思いが奈良のイベントの活性化に繋がっているのだと思いました。また、リーダーになる為の12のポイントも教わりました。内容は、①夢やビジョンを語る…言い切ることが大事②ポジティブシンキング③迷ったらやる やらずに後悔するよりやって失敗を経験する④Plan→Do→Check→Action⑤わからなくなったら初心に立ち戻る⑥客観的な目を持つ(俯瞰で見る)⑦前例踏襲主義を打ち破る⑧ピンチはチャンス。反対者は味方に取り込む⑨自分の周りに2人キーマンを作る⑩どんなことでもよくなるきっかけだと知る(無駄なことはない)⑪ぶれずにやりきる覚悟を持つ、決してあきらめない情熱と根気⑫周りに感謝この12のポイントは分かってはいても出来ないこと、忘れてしまいがちな事が沢山あるので、一つずつでもよいので、意識を持つことが大切だと学びました。講義が終わった後は、班でミーティングを行いました。1日目は何も決まらず終わってしまったのですが、2日目は1日目とは反対に意見が沢山出て、まとめきれない程でした。その結果、この現状を最終的に発表する事で良いのではないかという意見に辿り着き、たくさん意見が出た為、まとまらなかったこと、また、どうしたら良かったのかを発表する事になりました。考える力はあったのか?アイデアは沢山出ていたので、考える力はあったはず!では、リーダーシップについてはどうだったか?リーダーの意見を尊重する力は欠けていたかもしれない等、振り返る事で反省点に気づく事が出来ました。朝廣先生がおっしゃっていたように、これらの反省点は失敗ではなく、次に繋げる成功の過程だという事にも気が付く事ができた班ミーティングとなりました。最終日の発表の時間では、それぞれのグループが3日間の研修を通じて学んだ事を発表しました。写真を使ったり、イラストを描いたり、模造紙で折り鶴や亀を折って、研修会の委員長に感謝の気持ちを込めて渡したりと、表現の仕方は様々で、それぞれのグループのオリジナルがあり、とても面白かったです。今回の研修では、今の私たちにとって必要な力を学ぶことが出来ました。今の年代は、考える力や発信する力が弱く、学ぶチャンスを逃している事が多かったのではないかと感じました。分かってはいても、勇気が無かったり、携帯もあるので調べたら良いと考えることも多かったですが、そうではなく言葉にすることで相手が理解してくれようとしたり、質問を勇気をもってしたりする事などで、話し合いの中でしか得られない学びがあったりと、とても良い経験となりました。普段、携わっている教育・保育に関する研修ではなかったのですが、“人との関わり”“仕事をする上での大切な事”等、改めて再認識する事が出来ました。3日間、ありがとうございました。

横綱の品格

2019.5.16同志社大学名誉教授瀧田 輝己皆さんこんにちは、瀧田でございます。京都南ロータリークラブに所属しております。今日はよろしくお願いいたします。今日は横綱の品格というテーマでお話させていただきたいと思っています。最近横綱の品格についてはいろいろなところで物議を醸していると思います。相撲と言いますと日本では国技と言われています。正確には国技ということではないんだそうです。法律に相撲は国技であると謳われていることはどこにもない。しかし、一般に国技というように思われているということは言えると思います。それでお相撲さんを見ますと非常に力の強い、けれども、心のやさしい、そういうイメージをどなたもお持ちだと思います。確かにそういうお相撲さんは多いと思います。非常に親しみを持っているお相撲さんなんですけども、その中で横綱ということになりますと厳かな思い出をもって、私たちは接することが多いと思います。例えば、幼いお子さんを抱いてもらったり、あるいは頭を撫でてもらうとその子は丈夫に育つというようなことも言われていますし、そのように私たちも思っています。もともと相撲と言うものの興りは神事であると言うことからそういう厳かな気持ちで崇敬の念を持って横綱というものを見ている。尊敬している。ただ最近ですね、その横綱についての品格の問題がいろいろと取りざたされている。これも皆さんご存知だと思いますが日本相撲協会理事長の横綱審議委員会で、ここのところで最近の横綱の立ち合いがどうも品格がないと指摘されました。どういう立ち合いかと言いますと張り手、私たちの日常用語でいうとビンタを頻繁に使って立ち合いをする、或いはヒジでかちあげて立ち合いをする。そういう相撲が多いので品格がないんじゃないかと言うこと。そして品格を持つことによって相撲が美しくなるはずだということをいろいろな公の場で話をされた。これが事の発端だと思います。これについては賛否両論と言いますか、意見がいろいろわかれまして、ある考えの人たちは相撲のルールでかち上げだとか、張り手は禁じられていないからルール違反ではない。こういう立場で立ち会いについての批判を反論する、そういう方たちもいます。もう一つの立場は相撲のルールにはないかもしれないけれども横綱の相撲としてはふさわしくない、品格がない。張り手やかち上げについては改めるようにということを主張しているわけです。この二つの立場に、一口で言ってしまえば別れているだろうと思います。ただ、この問題はよくよく考えてみるとこの二つの言い分と言いますか、主張というのは決していつまでたってもかみ合わない議論ではないかというような気が私はしました。そんなわけでちょっとこの問題について考えてみようということで今日お話させていただきたいと思ったわけです。ただしこの問題については、これを基調としていくつかのこれに関連する文をエッセイにまとめまして、近い将来、公刊したいと思っております。今日、お配りしたレジメの三枚目にこの「横綱の品格について」という基調文を最初に載せまして、それを「美しさのこだわり」とか、「強者と弱者」とか、それから横綱という地位の「私的ポストと社会的ステータス」という、問題、或いは一番表面に出ている論点であります「ルールについて」の四つのテーマに分けて24編のエッセイにまとめて公表しようか、公刊しようかと考えております。今日、お話しますのはそのエッセイ集ではなくて、その内の最初の基調文についてかなり端折ってお話させていただくことになろうかと思います。エッセイ集『横綱の品格』についての基調文、この部分をまとめてお話します。物議の問題提議についてでは、大きく分けますと四つのポイントにわかれると思います。一つは今言いましたように物議の発端ですね。これがどういうものだったか、なぜ横綱審議委員会がこういうことを横綱の相撲について言えるのかということです。それからもう一つはルールに反してないということですけども本当にルールに反してないといえるのか、この点ですね。それから三番目は相撲の美しさと言ってますから、その美しいというのはどういうことなんだろうか。特にエンターテイナーではないわけですから相撲取りというのは、力士は。ですからその美しいということの意味はどういうことなんだろうかということです。それから四番目は一体横綱の品格と言う場合の横綱というのは私たち何を想定しているんだろう。目に見えない横綱一般の事を言っているのか。それとも具体的にある横綱のことを頭において品格がないとか、あるとかを言っているのかと言うことです。横綱、一般について言うということはルールというか、横綱の概念といいますか、そもそも横綱像とはどういうものかということは人によって違うだろと思うんですが。その次元で横綱に品格がないとか、その相撲は美しくなければいけないとかということを考えているのか、あるいは特定の横綱を、つまり具体的に顔の見える横綱を頭において、品格がないとか、あるいはルールに反しているんじゃないかとかと言っているのか、ということになろうかと思います。いずれにしてもこの四点.非常にそれぞれ考え方、ここにおられる皆さんもそれぞれ考えが違うと思いますが、一つの考え方として聞いていただければと思います。本題に入る前に、共通認識として、横綱の由来について触れておきます。横綱の由来なんですけども、これも皆さん多分ご存知の方多いと思います。もともとは横綱というのは番付上の地位ではなかったということです。大関が一番上の位であって横綱というのは番付の上での地位ではなかった。これが江戸時代、相撲を司る家系の吉田家、吉田司家とよく言われますが、この吉田司家が江戸時代でしょうか、相撲を歌舞伎とか、そういう芸能と同じようにもり立てよう、相撲というものの人気を集めようということで華やかな部分を今でいうとプロデュースすることで品格のある、当時は品格があるとはいってなかったようですけども、人気を集めそうな、歌舞伎で言えば団十郎のような、そのような力士については化粧まわしの上に白い麻縄で編んだ綱をつけて土俵入りを行わせる、こういうことをしたのが横綱の発端だそうです。その縄が、当時「横綱」と言ったんですけども、神事であるということと重ね合わせて七五縄のような意味合いが持たれるようになってきたらしい。ですから、当時は横綱大関、或いは関脇の人もいたらしいから横綱関脇、要するにスターですよね、今で言うと。スターにして興行を盛り上げようということで始めたのが横綱の発端だということです.                     ただこれについて、皆さんご存知のように江戸時代のあの雷電為右衛門は、技量力量抜群だったらしいですけども横綱になれなかった。調べたところによりますと254勝10敗。これが生涯の成績なんですね。9割6分2厘の勝率。優勝回数28回、これは当時、年に何場所あったか知りませんけども相当な強さだったらしいです。197cm、169キロ。今の白鴎よりもちょっと大きめぐらいでしょうか、そういう体型の雷電為右衛門、浦風という力士の一門に入って、初代横綱の谷風、吉田司家から横綱を任命された谷風の内弟子として送り込まれたらしいんですが、これが横綱になれなかったというのです。何故なれなかったのか歴史家の中で間でも非常に謎らしいんです。ただ言えるのはこの雷電は張り手が非常に強くて、多くの相手の力士にけがをさせたということがあるらしいんです。それなので多分雷電に限っては張り手を封じて、雷電個人に対して張り手は得意技なんだけども、それを封じることを命じました。そういうことがあって多分横綱になれなかったのではないか。風格がないというか、品格がないというか、そういう非常に荒々しいイメージがあったのかな、本当は違うらしいんですけどもね。そういうイメージで横綱になれなかったらしいということのようです。そこで、相撲のルールなんですけども、スポーツだけではなく勝負をするということであれば、どういうふうになれば決着するのかということがまず基本にありまして、相撲は数あるスポーツの中でも最も単純シンプルなスポーツです。土俵の外に出たら負け。それから土俵の中では膝から上が着いたら負け。それだけしか勝負をつけるルールはありません。ただ禁じ手があります。禁じ手はこれもできるだけシンプルがいいだろうということで八つ。・まずナックルパートで相手を殴ってはだめ。握りこぶしではだめ。・まげを故意に引っ張っちゃだめ。・目とかみぞおちを突いてもいけない。・両耳を両手で貼ったら同時に張ったらいけない。こういうルールもあるらしいです。・まわしはたてみつというのがありますね、後ろから前に回す部分。そこを引っ張っちゃいけない。横から手を入れてはいけない。・のど輪はいんですけども、喉をじかにつかんじゃいけない。・蹴りもいけないですね、胸とか。・1本指2本指を裏返しにすることもいけない。この八つが禁じ手としてあります。先程言いましたルールに反しないというのはこの八つに反してないということ、そういう意味で言っているものだと思います。今のルールは力士に適用するルールなんですけども横綱に関しては特別に私は「命じ手」と呼んでいるんですけども、品格規定があります。五つあります。・相撲に精進する気迫・地位に対する責任感・それから社会に対する責任感・それから常識のある生活の態度・そしてまたは横綱として求められる事項。これら五つを求めているんですね、横綱には。特に横綱になるためにはこれを守りなさい、これを求めているのが吉田司家からバトンタッチして横綱を推挙することになりました審議委員会ですね。そこが横綱に推挙するための基準としてこの五つを品格基準として挙げました。横綱としてふさわしいかどうか判断する目安としては日常の生活を観察したり、師匠の証言、こういうものを参考にして判断するとしています。大関が横綱になる時に現在伝達式というのがあります。協会から使者が来て横綱に推挙されました、ということを本人と親方に伝え、本人は謹んで受けますという口上を述べます。あの時に必ず異句同音に「横綱としてふさわしい相撲を取ります」と言うことを宣誓するわけです。この意味は結局、もし自分に品格のない、品格基準、命じ手に反するようなことをしたら、いつでもそれは封じ手にしてください。或いは横綱として「引退します」はきついですが、封じられても仕方がないと思いますと言うことを誓ってるというふうにも解釈できると思うんですね。こういう命じ手があります。それから封じ手、これはまたは個別的な個人の力士に対する禁じ手ですから下手をすると魔女がりのような、あるいは非常に過酷なハンデを負わせるようなことになります。得意技を封じられるわけですから。そうするとスポーツとしてのその公正性という意味で大分印象が悪くなりますので特にはこういうルールは明文化されてないんですけども、先程の伝達式で口上、そういうものの中におそらくこういう封じ手といいますか、封じ手が謳われているだろうと言うことが言えると思います。この品格の中には当然のことですけども取り口だけではなくて勝ち誇ったようなガッツポーズや、或いは不必要なだめ押し、あれはとどめと似たような感じがするんですけども、武士道の中で言われているとどめというのは相手が苦しんでいるのを少しでも苦しみをなくしてあげようという意味でのとどめだそうですね。思いやりが根底にあるということなんですね。品格がない相撲というものの「だめ押し」はそれではないということでこれも品格がないだろう。それからファイト満々でいいんですけども制限時間いっぱいになった時に塩を取りに行くときの所作ですね、闘志満々というような所作、若い力士も沢山やっています。これも見た感じがあまりにも品格がなさすぎる。いうことでこういうことも命じ手に反する。特に横綱の命じ手に反する。言うことになろうかと思います。取り口ではないんですけども日常の生活態度ということが非常に重要になりますからこういうものも反するということになろうかと思います。次に、この横綱の品格についての物議の中でもう一つ考えておかなければいけないのは横綱ならば品格がなければいけない。或いは美しい相撲を取らなくてはいけない。或いは美しい相撲を取るためには品格を持たなくてはいけないというようなことになるんですが制裁と同情心、この二つの見方が今の物議の中では立場を二つに分けてしまう部分であろうかと思います。そもそも横綱というのはどういうものか、理想の横綱像を頭に描く場合.或いは頭に横綱像を描くにしても横綱だって人間なんだからという、そういう感覚で等身大の横綱を描く場合、こういう二つの立場がございます。それとは別に個別的に顔の見える横綱を頭に置いてどうなんだろうかという見方も合わせて三つあろうかと思うんです。それで最初の二つは横綱だったら品格を持たなければいけない。品格を持てば相撲は美しくなる。この範疇でのはなし。それに対して今の横綱はどうなんだろうかいうのは特定の具体的な顔の見える横綱について私たちが判断している場合。こういう分け方になろうかと思います。当然ですけども理想の横綱像を横綱ならば品格を持たなければいけない。その相撲は美しくなくてはいけないというのであれば、これは当然厳しくなりますね。少しでも品格がなければ厳しく制裁を加える、サンクションを加える。こういう考え方になっていくと思います。しかし等身大の横綱を横綱と考えるような立場であれば横綱だって人間なんだから多少は生身の体ですからということで少し寛大な気持ちになってこの問題を考えるという立場になろうかと思います。ただ、これはあくまでも横綱というものはどういうものかという、我々がどういうイメージを持っているかという話ですね。それに対して3番目は具体的にこういう力士を横綱と見ている。個別的特定の力士が今いった理想的な横綱と比べてどうか、或いは等身大の横綱と比べてどうか、こういう話になりますね。私たちの正義感というのは大抵の場合、規則だけのレベルで考える場合は厳しくなります。特に横綱のようなステータス、角界を代表する立場であるということですと非常に理想的な横綱像を描きますね。それと比べて現実の横綱はどうなんだというような形になります。だから厳しくなります。それに対して等身大ですとまあ、人間なんだからということで、多少寛大になりますね。もう一つ具体的な横綱ということになるとどうしても顔が見えますから、よほど嫌いな横綱だったら別ですけども顔が見えますからまあそこまで言っても酷だろうという気持ちが持ち上がっていきます。そんなわけで、この物議は自分がどういう立場の横綱を想定しているのか、或いは見ているのか、思い浮かべて言っているのか、いうことで厳しさが大分違ってくると思います。しかし一般の力士と違いますので横綱は相撲界を代表する力士ですのでどちらかというと厳しめに横綱というのは立派な人格者なんだということが多いかなと思います。ルールだけの考え方でいくと罪を憎む、人を憎まず罪を憎む、あの精神ですね。ルールだけでは厳しくなります。しかし個別的な横綱を頭に浮かべると人は憎まない。罪は憎むけども人は憎まないというような気持ちがどうしても私たちの正義心には浮かび上がる、湧き上がってくる。それから、横綱の相撲の美しさなんですけども相撲の美しさというのは、スポーツは何でもそうだと思いますがフエアープレーとそれからはファインプレー、それからナイスプレー、この三つが求められると思います。フエアプレーは公正なルールに従って。ファインプレーというのは技がすぐれているというイメージであると思います。ナイスプレーというのは見事な、立派なというような意味だろうと思います。この三つを合わせるとその最小公倍数として美しい見事なプレーというのが生まれると思います。ですから美しさというとこの三つが要素になるかと思います。それで、この三つの要素を最小公倍数ではなくて最大公約数を取ってみるとやっぱりそこには日本の場合ですから、日本の国技と言われているものですから礼儀と品格というものが煮詰めていくと出てくると思います。礼儀も品格も両方とも大事なんですけど、どちらが優先かと言えば礼儀がまずあって、それから品格となろうかと思います。特に番付があって格下と格上が明快になされているものについては、格下のものが格上のものに礼儀を尽くすというのは当然なんですけども、格上のものが格下のものに対しても非礼を侵してはいけない、ということもいえると思います。むしろどうでしょうか、格上のものが格下のものをあなどるようなことをすれば格上だから許される問題ではなくて、余計に品格のなさを露呈してしまうように思います。そういう意味で美しさということについてはこの三つの要素を格上であろうと格下であろうと備えていなければいけないんだろうということですね。最後にもう一つ大事な点は国際化ですね。剣道、柔道、相撲道を三大武道と言いますけども、あと空手道というのもありますが、国際化を行ったのは柔道。剣道は国際化を非常に躊躇しているという話を聞きました。柔道は国際化のためにどういうふうに変わったかというとまず柔道着が変わりましたね。生なりの白色だったんですが、観やすいように、観る人の目にわかりやすくするためにブルーに染めた。私たちは生なりとか、白というのは非常に厳かな、そういう神聖なものというイメージがありますね。特に濃い色のついたものは邪悪というか、そういうイメージがありますね。全国の神社の神馬といいますのは、ほとんど白い馬ですし、「白黒決着つける」というと白は正義で黒は邪悪といい、悪というイメージがどうしてもあるものですから、最初、ブルーの柔道着を見たときは妙な感じがしました。だけど、これは国際化ですけども柔道の内容には影響ありません。観る方の問題です。問題なのは作りなんですね。柔道着の作り。袖を非常に掴みにくくして、これは引き手というんですけども、これを掴みにくくした細身の柔道着にして、たっぷりとした柔道着ではなくて、そういう作りの柔道着で試合に臨む選手が国際化の影響で出てきました。そうなるとなかなか綺麗な技というのがかかりにくいわけですね。引き手と釣り手を合わせて技をかけるわけですから。あとはそうなるとポイントを稼ぐ試合運びになる。ポイントを稼ぐということであれば相手がすぐ指導というポイントを取られればそれだけで試合時間切れて勝ってしまうわけですからもう技をかけて綺麗に決めるなんていうことではない。ポイントを稼ぐという戦略に内容が代わって来てしまう。そこが柔道の悩みのところでもあるわけですね。こういうのを見ているから剣道はどうも国際化に躊躇している。相撲の国際化もあるんですね。ただ柔道の国際化というのは内から外へ出て行く国際化なんですけども相撲の場合は外を内に合わせさせる国際化なんですね。ですから大変難しい。国際化で内に合わせる国際化というは非常に難しい。  これはどこか違う、何か違うものが感じられる。京都の人が東京弁を使うと江戸時代の町衆が使ってたようなイントネーションで話をするからどこかが違うというふうに言われてしまう。東京の人が京都弁を使うと何か幕末の祇園言葉みたいな言葉を得意そうに使うという、どこかやはり地元の人から見ると違う。「そんなのとはちょっと違うんだよね」と言われるような、そういう印象を持ってしまう。そんなんで外をうちに合わせる国際化というのはどこか違う部分がハリボテと言いますと失礼かもわかりませんがどこか違うような伝統と言いますか、何か所作にしても、ちょっと違うなと感じてしまう。そこで結論としてこの問題では相撲の将来にとって有意義な議論にするにも私は少なくとも三つ整理する必要があると思います。一つは横綱らしさというものを理想の横綱の像に求めるのか、等身大の横綱像に求めるのかということをきちっと整理する。それから逸脱行為に対してサンクション、制裁を与えるのか、同情するのかということ。これもきちんと整理する。それから横綱の将来を、その後の将来を考える時に国際化というのは必要なのか、伝統主義でいくのか。この辺もきちっと整理をする必要があるかと思います。横綱というのは理想の横綱像になる、最高位ですから理想の横綱像として考えるのは当然だろうと思いますね。それからサンクションを与えるかどうかということについても理想の横綱像であれば、これはやはり厳しくもし逸脱すれば制裁を加えるということがありうるだろうと思います。それから一番大事な点は、そういうことはあるんですけども目的と手段との関係をきちっと整理しないと美しい相撲を取るのが目的で、そのために品格を持たせるというような言い方ではなくて、礼儀とそれから品格を持てば結果として美しい相撲が取れるんだというような観点で話をしていかないと、どうしてもそれじゃ禁じ手として張り手とか、かち上げを禁じればいいだろうと、いうと今度は両手ならばいいか、サポーターを着けた肘なら良いのか、グーじゃなくてパーならばいいのか、片方の手ならばいいのか。そういういたちごっこが始まる可能性がありますから、これは目的を定めて手段を決めるというのではなくて、手段の方をきちっと固めて日本の伝統ある相撲を涵養していくということにすれば自動的に品格のある横綱というのが生まれるだろう。自動的に生まれるというためにはこれもありきたりのことかもわからないけども周りがこうしろ、ああしろという権威に基づいて命じるのではなくて、そしてまた制裁を裏付けにするサンクションと先程いいましたけども、制裁を裏付けにして禁じるというのではなくて、やはり横綱自身が本当に自覚を持って美しい相撲というのはどういうものかということを自覚しなければいけない。その自覚するためにはきちっとした涵養する期間というか、それが必要だ。そうしないとどうしても何となくどこかが違うんじゃないかというような品格と言いますか、そういうもので形だけの品格に終わってしまうような気がしてなりません。私が言いたいことはそういうことです。どうもありがとうございました。

八木家と新撰組

2019.3.28京都鶴屋 鶴寿庵 京都洛中RC八木喜久男皆さんこんにちは。今日は伝統ある宇治鳳凰ロータリークラブのスピーチに寄せていただきありがとうございます。大変光栄に存じておる次第でございます。ただ今は高橋さんからご紹介がございましたように、私は京都洛中ロータリークラブの創立以来のメンバーで40年になります。高橋さんはこの度叙勲をお受けになられまして誠におめでとうございます。親族といたしましても大変光栄に思っている次第でございます。これからも十分お元気でご活躍されんことを心から望んでおる次第でございます。今日は「八木家と新撰組」というお話をさせていただきます。私は10年ほど前に八木家と新撰組の書籍を表しました。新選組は最近雑誌やテレビ取り上げられ、忠臣蔵を凌駕する勢いで大変な人気でございます。上洛将軍家茂を守る浪士隊(後の新撰組)なぜ京の壬生へ来たか、しかしその新選組の話はかなりの時間が必要になりますので、どのような生活、活動をしたかをお話をしてみたいと思います。皆さんは子母沢寛という作家をご存知だと思いますが、その作家が我々の方へ昭和の初めに参りましてくまなく取材をいたしました。そして、新撰組遺聞 新選組始末記の2冊の本が出ました。今、新選組を書いている作家は沢山おられます。もう何人おられるかわかりません。あの本は後の作家の皆さんに本当のバイブルといいますか、根本になって小説を書いたりいろんな事を言ったりしているわけです。ご存知のように他の人と同じことをしててはだめなんですね。特に作家は。それを皆さんはいろいろと研究し捜し出してそれまでとはちょっと違うことを書くことによって“アーこういうこともあったんだ”というような書き方が非常に多いですね。私の方へも現代の多くの作家や関係者の方々がお見えになっておりまして、お話させてもらいましたが、中にはちょっと違うなと思ったことも沢山ありました。まあそういう面からお話をしたいなと思います。先ずはじめになぜ浪士隊が京都壬生へ来たかということでございます。文久3年(1863年)で、今から120年あまり前ですけれども、14代将軍徳川家茂上洛ということになりまして、それまで上洛した将軍は三代家光以来200年あまりありませんでした。普通上洛は旗本始め、大きな組織を組んで上洛しますがもうそういう余裕や時代じゃなくなっているんですね。明治維新は文久、元治、慶應、明治となりますから後10年もないわけです。ペルーが浦賀へ来てから非常に国が変わってきました。それで上洛将軍警護を目的として浪士隊が集められました。今の東京文京区小石川の伝通寺というところでした。伝通寺と徳川家とは非常に縁があるのです。と言いますのは、こういうことを言う人はほとんど居ないと思いますが、伝通寺は徳川宗家初代家康、その母(於大の方)がまつられているところです。ちょっと話がそれるかもしれませんが不幸にして家康(竹千代)が3歳の頃、戦国の世ですから故あって父母と別れて人質に出されます。そして母親は松平家を離縁されます。家康は一時織田家の人質となりますが人質交換で今川家へ行き、ずっと長い間人質として過ごしたわけですけども、桶狭間の一戦で今川義元が亡くなってから織田家につきます。その時、母親を手元に置き終生大事にしたといいます。時代も変わり、豊臣秀吉も斜陽になっております。実権は徳川家康が持つことになりまして、江戸は2代将軍秀忠に任せ、自分は京都伏見城で政務を見ていたわけです。その伏見城で母は亡くなります。その時に伝通院という号を与え、その霊を弔うため江戸小石川にお寺を建立したのです。初代宗家を生んだお寺で14代宗家を守る人たち、浪士隊が集められたことは私は作家でも何でもありませんがあまり聞いた事がないんですね。何か因縁みたいなものを感じます。それはそれとしまして、200名の浪人や多くの人が一獲千金の夢見て集まってきます。ずっと中山道を通りまして京都洛西壬生村へ入ります。なぜ壬生へ来たかということなんですが私から五代前の当主は八木源之蒸でございまして八木家は代々郷士、地方役人(じかたやくにん)を司っておりまして、どのような役目かと簡単に申しますと幕府からの伝達、または壬生村や近隣の村の要望などを受け、双方に伝達や仲介をする大変重要な役をしておりました。そのような地位関係で幕府所司代からの一時浪士隊を預かって欲しいとのことであったと考えられます。と言いますのは最初は突然200名近い人たちがやってきて家を貸せという。大変不思議に思っておりました。私どもの公文書紐解いてみましたら地方役人の文章数点出て参りまして、これでそやなと思いました。現在壬生は我々の近辺以外は勿論変わりましたが当時、壬生郷士であった家が10軒ありますが代々地主は小作農でそれぞれ由諸を持ち、苗字帯刀が許されていました。別名壬生住人士と呼ばれ、門構えで武家風の屋敷でした。浪士隊にとって丁度もってこいの場所でもありました。静かな農村屋敷町で有りましたが大変なことでありました。私のほうは時の浪士の中でも幹部連中、トップクラスで例えば芹沢鴨、新見錦、平山五郎ら5名、そして近藤勇、土方歳三、沖田総司、藤堂平助、原田左之助ら8名、計13名を家で預かったわけです。他は皆それぞれに分宿しておりました。ところが1週間程したら皆を引っ張って参りました清河八郎という人が新徳寺という禅寺に浪士を集めて“我々はもう江戸に帰る“と告げます。清川は極端に言えば、実は勤皇方の人でした。それを隠して京都へ来たのです。所がうちに居た芹沢鴨、近藤勇はじめ13名は“いや、我々は京に残る。皆とは行動をともにしない”ということで皆と別れたその13名がうちに残りました。その人たちが後の新選組の幹部になった訳です。しかしその食いぶちと云うものがありません。芹沢鴨は、水戸天狗党の脱藩浪士として近藤勇、新見錦、土方歳三を引き連れ、黒谷の京都所司代松平吉保のもとへ何とかして欲しいということで直談判に行ったわけです。皆さんもテレビなどでご存知のように大名や所司代に拝謁する時は単なる紋付羽織袴ではだめなんですね。みな裃を付けていく訳です。彼らは着の身着のままで来ておりますからそういうものは持っていません。我々壬生郷士住人士は古くから日本に伝わる行事や儀式を司り継承してきました。ある時は裃、あるときは素襖長袴、又は紋付羽織袴と儀式によって着るものが違います。先の4名は我が家の家紋の付いた裃を着用して所司代のもとへ参りました。そして松平肥後守お預かりと云うことで自分たちの生計が立てられることができたのです。大変喜んで帰ってきたそうで、その日は皆ドンチャン騒ぎで、お酒は壬生と関係深い伊丹の白雪だったそうです。先年の NHK の大河ドラマ新選組で、芹沢が暗殺されてから新選組と名乗ると有りましたがあれは偽りで、お預かりに成ったときすぐにうちにあった木の板を出入りの大工に削らせ、松平肥後の守預り 新選組宿 と芹沢がしたため、北側の門柱に掲げました。その喜びようは大変だったようです。衣装も水色でだんだら模様がありますね。ある人があの色は死装束だと言ったんですね。関係ないですね。あの水色は、昔から壬生は湿地帯で今でも素晴らしい水が出ます。家でも地下40m から汲み上げています。今も郷士の儀式に客人を招く時、家紋のついた白・水色の二段の幕を門に掲げてお迎えいたします。水色は昔から壬生を代表する色で各家は各々の紋所でこの幕を使用しました。壬生で生まれた新撰組はその水色を借用したのです。装束を大丸で、誠の旗は高島屋であつらえたと言われていますが大河ドラマの時、両店はその証拠があるか調べたそうですが双方とも出てこなかったと聞いております。装束や旗や幟ができた時大変な喜びようで当方の門前で各々旗を投げ回し、大変なにぎわいだったと分家の叔母が祖父の源之蒸から聞いていたそうです。こうして新撰組が発足したわけです。そして早速隊員を募集いたしました。そうすると先程申しましたようにいろんな人が集まってきやはります。武士で関係ない人も。そして何人か集まったそうです。ところが隊が乱れるわけです。それでご存知のあの厳しい局中法度をこしらえ、争いごとをするな、借財するな、隊を脱することを許さずとか、それをやれば皆切腹だと厳しい取り締まりをやったわけです。芹沢鴨は水戸の脱藩浪士新道無念流ですから剣が立ったんですね。普段めったに刀は抜かなかったようで.いつも鉄線で裁いていたそうです。一旦刀を抜けばそれはすざましかったそうです。祖叔父がそのように聞いていたようです。所がお酒が非常に好きで、少し過ぎると酒乱というか、人格が変わった様になる。これは仕様がないと思えるんですけれど、“文武両道の立派な武士だが酒さえ控えたならなー惜しい人物だ”と厳祖父八木源之蒸言ってたそうです。ということで今度は芹沢が邪魔になってきました。所が局中法度に照らすことは絶対出来ません。それである夜、島原で会合がありました時に泥酔して戻って参りました。その夜、祖母が源之蒸が隠居所へ行っておりましたのでたまたま隣の座敷で寝ておりました。雨の降る日で京都は9月でも夜、蒸し暑い雨が降る時があります。源之蒸の帰りが遅いのでなかなか寝付かれませんでした。すると庭先に何か人の気配がし、ああ、帰ってきたと思ったそうです。しかしその気配がすーっと消えたんです。おかしいなと思いがついウトウトとしていたら、突然大きな悲鳴が聞こえた。それが暗殺でした。そして10畳と六畳部屋で6人が寝ておりました。そこを土方歳三はじめ、近藤勇一派の剣豪たち5、6人が泥酔して寝ていた者を襲うと言うやり方で暗殺したのです。6人のうち2人逃げましたけれど女性2人が入っていますが結局4人殺されました。平山五郎は 一刀両断のもとにやられていますがしかし芹沢は大変な剣豪でしたので一太刀浴びて隣のお祖母さんの寝ているところで逃げて参りました。しかし折悪しく置いてあった文机につまずき倒れ、そこを数人が寄ってズタズタにやられました。祖母さんはそれを目の辺りにしたそうです。夜が明けて大変だということで大騒ぎでした。芹沢の遺体を安置するために抱き上げたところ、そしたら首がポロッと落ちたと私の祖母が聞いていたそうです。それくらい悲壮な事件でした。芹沢がもし助かっていたら大変なことで幕末の歴史も変わっていたかもしれません。池田屋騒動はどうして起こったのか、なぜ伊藤甲子太郎を暗殺したか。近藤勇と酒を酌みかわして肝胆相照らしながらその帰りに惨殺したのか、その手口だと我々の常識から解せないところがあります。それだけ厳しい時代であったのだと思います。彼らは足かけ3年居りましたが隊士が増えたので壬生では賄いきれないということで西本願寺の太鼓判所へ移りましたが壬生は無防備で危ないと言う理由でした。しかしそれも半年ほどで今のロイヤルホテルの辺にすぐに伏見奉行、そして江戸へと移ります。新選組にとって壬生の3年間が最盛期であったように思います。ちょうど時間が参りました。新撰組初期のお話をさせていただきました。とりとめのない話だったかもしれませんが本日はご勘弁いただき、また機会がございましたらお話させていただければと思います。ご清聴どうもありがとうございました。

「一休禅師を語る」

2019.2.28僧侶 酬恩庵 一休寺住職田辺宗一皆さんこんにちはただいまご紹介いただきました田辺でございます。どうかよろしくお願いいたしたいと思います。林さんとは城南高校の同窓会でご一緒でして私の方が老けて見える。先輩のように見える。私の方がずっと後輩でございますので、そのご縁でお招きをいただき大変ありがとうございます。お手元にパンフレットとそれから一休禅師が読まれました歌、道歌と漢詩、そして年譜がございます。後ほどそれをご説明いたします。日本人10人に聞きましたらあなたの一番親しく思うお坊さんは誰ですかというと多分7人ぐらいは一休さんと答えます。では一休さんとはどんな人ですかと聞くとトンチの一休さん、それは皆さんお答えになります。そしたらいつの時代でどんなことをされましたかというとさあ~というのがほとんどだったように思います。そういう意味では日本人に大変親しく思われている。ある部分いろんな宗派、セクトがあるわけですけども宗派を超えたお坊さんというイメージが多分一休さん、そういうところからみなさん方に久しく思っていただいているわけです。一休さんというとかわいい子坊主が大の大人を翻弄する話、例えば一番有名なのは「屏風に書いた虎」そして「この橋渡るべからず」それは多分皆さんよく知っておられると思います。私らの寺の庫裡というところに屏風に書いた虎を置いてあります。もう少し奥には小さい橋があります。そこに、立て札にこの橋渡るな、この二つがあります。皆さん、そこで写真を撮って帰られます。昭和50年ぐらいからアニメの一休さんが始まりました。今日のみなさん方、そのアニメをご覧いただいて育ったと思うわけです。このアニメは最初はタイ、そして中国、台湾へ行きました。中国ではおしんか、一休さんというぐらい一休さんを知らない人がいないぐらいなんですけども、でもその中国の人たちの知っている一休さんはあのアニメの一休さんを知っておられ、一休さん自身が実在の人物だというのがほとんど知られていないわけです。そういうイメージもありまして、皆さんの知っているとんち話は江戸時代に一休さんが亡くなられて200年後の江戸時代に出来上がったお話なんです。そういうイメージと私ども一休さんが亡くなられる前に作られました木像がございます。一休さん自身の頭の毛を剃られてそしてそこに自分の毛を植えられた木造が残っております。かわいいイメージで来られた時に88歳の一休さんを見て皆ガックリされるわけです。今日は本当の一休さんはこういう人でありましたと言うお話をしてみたいと思います。一休さんが生まれられたのは応永元年、今から630年ほど前の方なんです。室町時代、世の中大変乱れておりまして、特に京都は応仁の乱の戦争時代でありました。当時はお坊さんになる方というのは公家さんとか、それから武士の子供とか、そういう方たちですね、俗世間の身分が左右する、そういう時代でもあったわけです。一休さん実は100代の後小松天皇の皇子さんでございます。ちょうど後醍醐天皇の南北朝が始まりまして、そしてその終えんの天皇さん、100代の後小松天皇、この人は一休さんのお父さんなんです。天皇さんの子供ということ。現在、私どもお寺の一休さんのお墓がございます。宮内庁管轄の御廟になっています。一休さんには1人の子供さんがおられました。岐翁紹偵と言います。一休さんについて禅の修行をしておられて立派なお坊さんになっておられた。この方のお弟子さん、少納言和長という方がおられました。この方についておられた方の日記の中に一休禅師は後小松院の皇子なり、世の人これを識らずという一文があり、そういうところから明治になりましてから御陵になったわけです。南北朝が合体した時、お父さんの後小松天皇が北朝系の方、お母さんが南朝藤原家の一族と言われておりまして花山院の宮様、現在春日大社の宮司さんは花山院の宮様の末孫であります。その中に花山院の宮様の娘さんがその一休さんのお母さんと言われています。宮中で側室であったわけですけども、懐に短刀を持って天皇を殺そうとしたと中傷におわれまして宮中を下がられ嵯峨野の農家で一休さんは生まれと言われています。現在では嵯峨野に地蔵院というお寺がございます。そこで一休さんは小さい時代に育ったと言われています。一休さん自身が南朝の血を引いているということで大きくなっていろんなことがありまして、お坊さんになることによりまして政治の世界から身を引くということで6歳の時に安国寺というお寺に預けられました。このお寺は京都四条大宮にあったといわれています。そこへ一休さん6歳の時に入門をされまして、そこで周建という名前をもらっておられます。13歳ぐらいからは京都建仁寺の中に霊源院というお寺がございます。最近、今年も冬の旅なんかで霊源院を拝観しておられますがそこの慕哲竜樊に漢詩を習われました。禅宗のお坊さんというのは自分の心境をすべて漢詩で述べるわけです。実はそこで漢詩の勉強を積まれまして一休さん自身生まれて16歳ぐらいから亡くなるまで沢山の漢詩を作っておられる。その漢詩の名前を狂雲集と呼びます。狂った雲と書いて狂雲、自分自身狂雲と名乗っておられまして、安国寺というお寺は大きなお寺でありましたから実際には禅の修行ができないということで17歳の時に京都西山におられた謙翁宗為という方について禅の修行をやる。そこで一休さんは宗純という法名をもらいました。一休さん自身の本名一休宗純と申し上げます。一休さんが20歳ぐらいのときにこの方が亡くなられます。自分の一生のお師匠と思われたんですけども亡くなれてからどうしたらいいのかわからんということで石山寺の観音さんに1週間、籠もられますが結局何も得られなかったということで前の瀬田川に入水自殺をされるわけです。お母さんに謙翁さんの亡くなられたことを報告に行っておられたので様子がおかしいということで見張りをつけておられまして、その方に助けられて京都に帰り     もう一度自分のお師匠さんを探されるわけです。滋賀県の堅田、現在大津市ですけれども、そこにおられた華叟宗曇という方について禅の修行をするということで現在でも私たちはそういう専門道場に修行に行くわけですがとりあえず自分はどんな心境でこの道を選んだということで現在でも庭詰と言いまして縁側に一日中頭を下げて私は今、こんな心得できましたということで、トイレとか食事とか、いただけるわけですがそういう中で庭詰をするわけです。一休さんは寒い朝、庭詰をしておられた。そこへ華叟さんが出てきて弟子に水をぶっかけて、外出をされ、そして帰ってこられたら。一休さんはずぶぬれのままで庭詰をした。それは見込みがあるということで入門を許されるわけです。華叟という人は京都大徳寺の住職になれる十分力量を持ったお坊さんでありましたが都の弊風を嫌いまして祥端庵におられました。大変貧しいお寺でありまして、その弟子たちは人形さんの着物を着せたり、そういう内職をして比叡山を超えて京都の街に行く、そういう生活をしておられました。禅宗では修行をするのに座禅をします。座禅をしますといろんなことを考えますから公案として中国の問答をいただきます。禅ではすべての人が生まれながらにして仏様の心を持っている。小さい時は純情無垢ありますけどもだんだん年を重ねることによりあれが欲しい、お金が欲しい、誰々が憎い、これは煩悩という言葉で表現するわけです。それを取り除くという一つの方法として座禅をいたします。例えばまんまるいお月さんに雲がかかった。そうするとお月さん見えません。まんまるいお月さんというのが仏心、私たちの持っている仏の心、そして雲は煩悩です。雲を取り除きますとまたまんまるいお月さんが見えてくる。ですからその雲を取り除く一つの方法として座禅をします。それに対しまして、ただそれだけではいけないということで中国のいろんなお坊さんの問答をいただくわけです。一休さんの25歳のとき洞山三頓の棒という公案をいただかれます。これは中国の唐の時代のことです。洞山というお坊さんが全国のいろんな所に立派なお坊さんがおられる。そして自分のお師匠さんを探しに行かれる。あるとき雲門というお坊さんの所へ行かれました。雲門は洞山のウロウロしている姿を見て、お前に30棒叩いてやる。ですから警策で30発叩いてやろうかとかと言われた時にハッと洞山は悟った。という問答があります。それをあなたはどう思いますかという問題を出されて、そこで一休さんはたまたま座禅をしながらこの公案を頭だけではなく体全体で取り組む。これは私ども禅宗では拈提という言葉で表します。その時にたまたま盲目の女性が平家物語を語っていた。その歌を聴いてお悟りになるわけです。そこで一休さんは華叟さんにその心境を述べられた。その時に一休という号をもらわれるわけなんです。その時に読まれた歌が一「有漏地より無漏地に帰るひと休み 雨降らばふれ風吹かばふけ」    有漏地というのは煩悩の世界であります。無漏地というのは悟りの世界です。煩悩の世界から悟りの世界へ行っても、雨が降ろうが風が吹こうが全然動じない。そういう意味で一休さんという号をもらわれるわけです。一休さんの人柄といたしましては29歳のときに華叟さんについて華叟さんのお師匠さんである言外という方の33回忌の法要が大徳寺でありました。一休さん華叟さんについていかれますがその時一休さんだけボロボロの衣を着ておられました。そしたら華叟さんがお前も衣をちゃんとせんかと言われたら私は偽物のまねなんてまっぴらごめんですと言いました。一休さんに次のようなお話がございます。ある日一休さんはボロボロの衣で街を歩いておられましたらある家でお葬式がございました。一休さん、お坊さんですからお参りを頼みますとその家の人は一休さんのボロボロの姿を見て乞食坊主と思いオッパらってしまった。そしてまた、別の日、たまたまその日は立派な衣を着ておられた。また、そのお家でお葬式がございました。そこで一休さん、私にお参りをさせてくれと頼みますとその家の人は頼んでもいないのに立派なお坊さんが来たということで上に上げ、沢山のごちそうを出しました。そしたら一休さん、自分の着てました衣をたたんで、それをお膳の前に置いて自分はちょこんと座られた。家の人が不思議がって聞きます。以前、私がボロボロ衣来た時はオッパわれた。たまたま今日は立派な衣を着てきたらこのように沢山のごちそうを出してくれた。でもこのごちそうは一休自身ではなく、私の着ておりますこの衣に出されたもの、食べることはできませんと言うトンチ話があります。そういうふうに変わった言葉とか口答によりましてうそのかざりを憎む反抗心、それを腕力とか、説法によらずに皮肉たっぷりな表現でやっていかれます。一休さん自身は大変形式主義の嫌った方でした。そういう生き方でずっと過ごされまして63歳のときに私ども京田辺市薪というところにやって来られます。もともと私どもは鎌倉時代に大応国師という方がおられ、中国に行かれて禅宗を日本へ持って帰ってこられるわけです。この方のお弟子さんが大燈国師、京都の大徳寺を作られた。その大応さんと言う人が作られた妙勝寺がありました。焼けてしまっております。一休さんは大変この大応さんを慕っておられ、お寺を作られました。大応さんの恩して酬いるので酬恩庵と言われました。一休さんが晩年住まわれたことから現在では一休寺と呼んでいます。そして一休さんと言いますと大徳寺お坊さんというイメージが大変強いと思います。京都市内の人に一休さんを聞くとああ、大徳寺さんですかとほとんど、以前はそのように言われました。でも、だんだん最近一休寺と言うと名前も知っていただけるようになりました。一休さん76歳の時に大徳寺は焼けてしまいました。それを復興するということで時の103代の御土御門天皇より綸旨と言いまして一休さんに大徳寺を復興してくださいと言う手紙をいただかれるわけです。一休さん自身は今までどちらかというとアウトロー的な反対勢力側の人でありました。大徳寺の住職になるということは逆に自分のこれまでの生き方と違った体制側になるということで住職になることに大変迷われたわけです。でもそういう基盤がなければ仏法というものが伝わっていかないということで81歳の時に決心して大徳寺の住職になられます。そして晩年88歳で一休寺で亡くなられます。生前中、82歳の時に自分のお墓を作っておられます。11月21日にお亡くなりになって、あくる日の22日に自分の作ったお墓に葬られるわけです。遺偈と言いまして一休さんの遺言なんです。禅宗のお坊さんは遺言ではなく、漢詩を作って自分の心境を述べるということであります。二  須弥南畔 誰会我禅虚堂来也 不直半銭須弥南畔は須弥山思想があり須弥山という山を中心にこの世ができているということ、その南側と言うことは私たちが住んでいるこの世界ということなんです。虚堂と申しまして中国のお坊さんの名前なんです。一休さんはこの人を大変尊敬しておられて、自分は虚堂さんの生れ変わりだと言っておられました。その虚堂さんが私の目の前に来ても一休さんの禅の境地にはかなわないんだと言っておられる。そのような言葉を残しながら亡くなっていかれます。深山幽谷の中で一人座禅するとか.そういう人が立派なお坊さんだと思われがちでありますけども、一休さんはそういう山の中の生活ではなくて、京都の街の中に来て、そしていろんな方とお話をしながら諭していく。そういう一つのスタイルを取られるお坊さんでありました。一休さんにこういうお話がございました。お正月に一休さん、竹の先にしゃれこうべをつけて京都の街中を歩かれました。そしてめでたいな、めでたいなと言われました。そしたら京都の街の人たちはお正月気分に浸っている、めでたいと言っている時にこのしゃれこうべを見て大変不機嫌になられた。そうしたら一休さんに何か、めでたいことを一つ書いてくださいと言われたら一休さんこの歌を述べられました。三 門松は冥途の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなしと答えました。京都の街は3日間全部戸を閉めた。一休さんのしゃれこうべをもって一軒一軒ご用心ご用心と歩かれるものですから縁起が悪いと言われました。ある人がなぜそんなに目出度いんですかと聞かれたら、このしゃれこうべを見なさい。目が出て空っぽになっているから目出度いのですと言われました。お正月が来ますと年を一つ重ねます。年を重ねるということは目出度い事ではありますけども一つ歳をとるということは死に一歩近づくということです。そうしたら目出度くない。そういうふうに言われたわけです。皆しゃれこうべになっていくということは知っているわけですけども、でも昨日も今日も何もなかった。明日がまた来るじゃないかというふうに思っている私たちにそうではないんです、しっかり生きなさいという多分一休さんのそういう忠告ではないかと思うわけです。禅では大切にされる言葉にこういう言葉があります。即今、当処、自己。すなわち、即今は今、当処とはここで、そして自己は自分自身ということ。今ここで自分自身が何をするかということであります。これが禅の教えでございます。現在はいろんなことがございますけども、例えば問題が起こった時に悪いのは自分ではなくて家庭が悪い、学校が悪い、世間が悪い、そういうふうに今皆さん言われます。そしてそれがまたまかり通る時代だというふうに思います。でもそれは学校も家庭も世間も少しは悪いかもしれませんけどもそれに関している自分も全く無関係ではなくて自分自身も悪いと反省をするというそういうことも必要ではないかと思います。四 「昨日は去った明日もまだ来ない今を大切に生きよ」という言葉がございます。昨日にとらわれている人は今という時間を充実して生きていない。ですから今を生きていないからまた先のことが気になる。私たちは今日出来なければ残りは明日すればいいという生き方。ところがそんな明日が来るという補償は何にもないわけです。未来という字はいまだ来ずと書きます。未来がまだ来ないぞ、来ないということですから明日があるということは何の保証もない。この先、5分先どうなるかわからないというのが私たちの世界ではないかと思うんです。仕事を残すことが悪いことではないと思います。大事な仕事であるならばそう簡単にそのうちに片づかない場合もあるでしょうし能力の限界というものもあります。問題はやり残したという思いと明日を頼むということだと思います。今日は今日の仕事、明日は明日の仕事、その日その日のうちに精一杯やればそれでいいと思います。そうすればもっとさわやかな明るい気持ちで今日を終えることができる。今日ただ今のことを全力を集中し無念無心にやっていくこと。これこそが本当の人間の生き方じゃないかと思います。一休さんにこういう話があります。ある日一休さんのところである若者がやってきました。うちの親というのは“し”ということを使うと大変忌み嫌うんで一休さんに何とか頼みたい。そうすると一休さんは今暇だから一緒に行ってあげるということで行かれました。その途中に魚屋さんがありました。一休さん、そこで息子さんにカレイを4匹買わされましてお父さんのお土産に持って行きました。4匹のカレイを土産をもらったお父さん、4匹ということで1234、自分が嫌いな“し”という言葉をとりまして“し”カレイ、怒りました。そうしたら一休さんはこう言われました。あなたは"し"カレイととりましたが私はこれをよかれいと思って持ってきた。こういうふうに言われました。私たちはこの現在に、お互いにある家の男となり女に生まれてきたわけでありますけれども、自分の生まれてきた環境とか身体に対して、例えば男の場合ですともっと男前だったらな、女性の場合でしたらもっと美しく産んでくれればよかった。もっと頭のいい子に産んでくれればよかった。もっと金持ちの家に産んでくれればよかった。自分の生まれてきました環境や身体に対して不平不満、他人さん見て、あの人はいいなとうらやむ人も多いわけです。妬んだりする人もあります。ここで考えていただきたいんです。幸せというものは他人さんとの比較によって出てくるものではない。今、与えられたものを良かれと思うところから良かれの人生がやってくる。でも、それを”し”かれととって不平不満をタラタラ言うか、また逆にですね、それは良かれとありがたく感謝するかは皆さんの心一つでございます。ですから今日からは良かれ良かれと言いながら毎日をお過ごしいただきますこと、そして一休さんのいろんな生き方をお話させていただきました。一休さんの 生き方を少し参考にしていただきましてこれから良かれ良かれの人生を歩んでいただきますことをご祈念を申しあげまして大変まとまりのない話でございますけどもご清聴どうもありがとうございました。

年男放談 2019.

愛犬が動かない太田壱将皆さんこんにちは、クラブにおける放談は3回目になります。その中でやっぱり忘れられないのは24年前の最初の放談の年ですね。矢野喜久雄さんが会長の年で、特に15、16、17日。今でも鮮明に記憶に残っています。その頃は成人の日は15日と決まってまして、小学校でいつもその新年に左義長がありました。それを手伝って帰って来ましたら一つ隣の町内で、200 m ほどのところで火災が起こってました。私が第1発見者で、あとで警察に大分聞かれました。ちょうどお昼やったので気づくのが近所の人も遅かって、一軒丸焼けで両隣燃えました。その全焼した家の奥さんが亡くなられまして消火してからご遺体を発見するまでが消防の仕事、発見したら直ちに警察が入りまして現場検証。昼から12時頃までずっと寒い中、番をしていまして、冬のことで水利も悪くて消火も手間取りました。発見した時はもう手のつけようがない。2階の畳が落ちてかなり積もっていました。それをどけるのに1時間ぐらいかかりました。消防署員の人がその畳の下に必ずご遺体があるという。においでわかる。頭の骨が見えた時はすぐに警察に引き渡しました。次の日は日曜日でいいお天気だったんですが夕方の夕焼けが綺麗いで、犬の散歩のコースを回ってましたら、神戸の方角に犬を連れて行きますとそこでピタッと止まって動かないんですね。引っ張ってもだめだし別の方向に行ったんですけども犬はその辺のことがわかるんでしょうか。17日の朝、やはり同じ方角から地震の波が感じられました。その感じた後に大変な揺れがきました。2階で家内のフランス人形のショーケースが落ちました。そのガラスの音で家内はびっくりして布団をかぶって潜ってじっとしていました。私は起きてすぐに娘、息子の部屋を見廻り、息子は大物か知らないけどもまだ寝てました。娘はやはり布団をかぶって潜っていました。幸いにその頃、私は消防団に入っておりまして、その前の年に防災講演会で総長になられた尾池さん、その頃はまだ助教授だったんですけども講演を聞きました。150年周期で高松から敦賀を結んだ線上にマグニチュード7以上の地震を起こす断層帯がある。その前の年にとっくに過ぎているのでいつ起こってもおかしくないということを聞き、早速タンスとか食器棚、全部固定しました。おかげで実質被害はフランス人形のケースとそれとお酒のビンが一本割れただけで済みました。周りの灯ろうが倒れたりした家はあったんですがうちは被害も少なくてけが人もなくてよかったです。昨年いろんな災害が起こりましたけども今年はそういった災害がないように願いまして放談を終わらせていただきます。浅井貫心神戸が燃えていた皆さんこんにちは。今月の10日の初例会欠席いたしまして本当にすんませんでございました。ちょうどその時は祇園の方で飲んでおりまして申しわけないと思っております。本年もどうぞよろしくお願いいたします。年男ということなんですけども、今年は72歳に突入していく年なんです。今日も朝、うちのかないとしゃべっておったんですけども“なんとあんたも年いったな”と言われて、なんでって言うたら、体力なくなったし、歩き方もモタモタモタモタしてるやんと言われ、そうかなと思ったんですがよう考えてみたらそうかなと思いますけどもちょっと寂しくなってくるんですね。年とともに力がなくなってくるのも間違いないなと思っております。今日は何を話そうかということも全然考えておりませんでした。先程会長が神戸の方の地震のことでお話しておられました。17日のことですね。うちのばあさんも神戸の灘区の方に結婚していっておられまして、地震の時に他から電話がかかって来て、“はよう、おばあさん迎えに行け”というんですね。そんなもん、そんな状態でいけるんかいな。どうにかして行け行けと言われて困りました。2日、3日経って、阪神高速も止まっておりますのでどうしたらいいのかなと宇治警察まで行きまして神戸まで行かなくてはなりませんがどうしたらよろしいかと尋ねたら車で物資ということで宇治署からステッカーをもらいまして、それを前において車で夜中に4時間5時間かかりまして下の道を走りました。ずっと行くたびに燃えている、燃えている、何かこう、手を合わすにおられないなということで止まっては手を合わせながらやっと神戸の寺まで着いたんです。“本堂があらへんがな”“ここやがな”潰れてしまっておりまして屋根だけが綺麗に残っているという状態でまあ、ばあさんはどうしたんだろう。部屋で布団を頭からかぶって動かれんという。何とか起こして京都まで引っ張って行こうということで、それで無理に車に乗せて一日以上かかりまして1年の間だけでしたけどもそのおばあさんの面倒を2人で見ました。その間に2回ほど入院して91でしたもんですから神戸に帰りたいということで送りました。あとは施設に入り、99歳で亡くなりました。大変な運命だったなとこちらは何も力にはなれないのですけどもそういうことを今つくづく思って震災のことを思い出してしゃべっております。北島聡之リーダーシップ私も歳男です。テレビを見ていますとイノシシ年には災害が多いということで調べてみましたら昭和22年カスリーン台風で、その12年後(昭和34年)伊勢湾台風、その12年後(昭和58年)日本海中部地震、そしてその12年後、阪神淡路大震災、その12年後、新潟の中越地震、これは平成19年の出来事でした。災害の年に生まれた私にとっては結構、今の私を作っている年でもあったなと思っております。阪神淡路の時は入会した年で、このときにボランティアをしたのが初めてでした。実は社会人になって1年目の冬でした。この震災を通じて私は何をやるべきかということを気づかせてくれた年でありました。ちょうどこの年から四国に赴任しまして10年間転勤族の生活をしていました。最初に赴任した高松。瀬戸大橋が開業して7周年目でした。坂出の経済が落ち込んでいるということで瀬戸大橋ブームが落ち着いてしまって、どうしようもなくなっていた。その時、吉丸パーキングエリアでそこの町おこしにちょっとだけ関わったのが最初でした。何か作って行こうと考えました。会社が軌道に乗って、これやったらワシ一人で商売やっていける。出て行ったのが平成17年のことでした。平成19年は今の家賃事業ですね。いわゆる家主事業を始めたのがこの年でした。今はちょこっと増えまして5軒になっております。まだ半人前ぐらいです。さかのぼって、昭和58年、私は何をやっていたかな このときに私は料理を始めてました。きっかけが家で作るお好み焼きがあまり美味しくないということで、なんでかな。その当時、同級生のお母さんがやっておられたお店のお好み焼き店、そこで作り方を教えていただきまして、そこが私の料理の原点でした。ふっくら焼くためのコツとか、そこらへんを教えていただきました。その息子のおばちゃんと今までつき合いがありまして一緒に商店街をやっております宮川君はその時のおばちゃんの息子です。その時の商店街の仲間に向日町の激辛商店街に知人がいます。その人に12年前何をやってましたかと聞きますとちょうどイオンモール桂川ができる前で計画が立って、このまま行けば商店街は食われてしまうと危機感を持ってやっていました。工夫と努力の結果、5年後には名声を得て、商店街が反映しております。これは皆さんの協力のおかげだということです。私はそのリーダーシップがすごかったなと思いました。平成21年に商店街ができてますので今年10周年になります。10年でここまでできるんや。閃くものがあって今日からは12年後のこの場で同じように年男放談で商店街がここまでできたと言う話ができたらいいなと思っております。今年もまたいろいろと始めたりします。よろしくお願いいたします。安井克典牡丹鍋4月で3回り目の36歳の年男ということでございます。0歳の時も年男らしいです。ですから私の場合は4回り目の5回目の年男と言うらしいです。太田さんをはじめ、浅井さん、北島さんと私、4人なんですね、イノシシ年ということで何か共通するところがないかなと考えたら、男前であったり、お金持ちであったり、スポーツマンであったり、歌がうまかったりということであまり共通点がないような感じですね。シラーとしてますね。何ででしょか。12年前なんですけども36歳の年男の12月にこのクラブに入会しまして、そして年を開けた時に年男年女放談として喋らんなんよと言われた時にはよかった、当分、来ないなと思っていたんですけども、もうそれが12年経つんですね。早いもんでこの場に立たしていただいているということです。イノシシ年、何で動物園とかイノシシがいるところのイノシシを見ます。イノシシの目を見たことはありますか。イノシシの目というのはすごく悲しい目をしています。何かかわいそうになってくるんです。そういうところで何か感情移入なんか、しちゃったりなんかして………。この4人で今年度中にボタンなべでも食べて騒ぎたいなと思っています。ありがとうございました。

俳句の楽しみ

2019 2.21俳句のユネスコ無形文化遺産登録に向けて株式会社 京都ホテル 代表取締役社長 福永法弘(京都ロータリークラブ会員)失礼いたします。林様よりご紹介いただきました京都ロータリークラブの福永と申します。私、京都ホテルの社長をしております。皆様いつも、京都ホテルオークラを、そしてからすま京都ホテルをご利用いただきまして誠にありがとうございます。御礼申し上げます。今日はそのホテルの話とか、京都の観光の話、そんな話ではございません。私の趣味か仕事か、どっちが本業かよくわからないぐらいの時間を使っています俳句の話をちょっとさせていただきます。私は20代の頃から俳句をやっております。もう40年以上になります。俳句は年寄りの趣味という風に思われがちですので、今63歳と6ヶ月になりまして、やっと年齢相応の趣味になったかなと思っております。さて、中高年の三大趣味ということが世間では揶揄的に言われております。一つはカメラ、そして俳句、もう一つは寺めぐりだそうです。カメラは何となく芸術家のような気分になれる。俳句は何となく文学者気分になれる。寺巡りは、これはあまり言いたくはありませんが、そろそろお迎えが来るかもしれないのでだんだんそちらの方の覚悟を決めるための準備をする。それがすなわち中高年三大趣味です。で、今日はそのうちの俳句の楽しみということでお話をさせていただきます。そして特に、実は私は俳句をユネスコの無形文化遺産に登録しようという協議会の理事をやっておりますので、その話を中心にさせていただこうと思います。まず、俳句を語る資格があるのかということですがちょっと肩書きだけを紹介します。私は公益社団法人俳人協会の理事をしております。俳句の団体は日本で4つほどございますが、そのうちの最大規模の協会の役員を今6年ほどやっております。協会の正会員は1万5000人ほどです。その他、賛助会員といたしまして、いろいろ結社が入っております。俳人はだいたい、結社というものに所属し、俳句活動をしておりますが、それが大体20万~30万人ぐらいおられます。そして、今日の主題でございますところの、ユネスコ登録に関しては、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の理事をやっております。俳句そのものは「天為」という結社で活動しております。主宰は東大学長、文部大臣などを歴任された有馬朗人先生です。ノーベル賞の候補にも何度かなったといわれておりますが、昔は、日本政府があまり力を入れてなかったので、残念ながら取れませんでした。1500人ぐらい会員がおり、私は今、そこの同人会長を務めております。それから私、個人的に石童庵という、小さなグループで俳句を中心とする活動をしております。仕事の傍らいろんなものを書き留めるのが趣味でございまして、さすがに30年、40年やっていますと結構たまっているものですから、何冊か本を出しております。句集は3冊、俳句とエッセイが4冊。小説や評伝などもございます。転勤族でしたので北海道、鹿児島、千葉、東京などを点々としながら、書き続けてまいりました。いろんな新聞に連載も持ちましたが、今ちょうど京都新聞にも「季節のエッセイ」を連載中です。その他小説で賞を取ったこともございます。俳句がらみで一番の自慢と言うべきは「歳時記」だと思っております。これは角川書店が大歳時記というのを10年ぐらい前に改訂しまして、私はその時に季語の解説者の一人として参加しました。どの季節にはどういう季語があって、それはどういう解釈をするべきかという解説文を書いたのです。歳時記は俳句の根本だと思っています。以上のような感じで、仕事の傍ら、俳句を中心とする文筆の方にも力を割いておりました。本題に入ります前に、まずは一句、私の俳句をご紹介したいと思います。これは4年ほど前に出しました第三句集、『福』という句集に入れている一句です。父母(ちちはは)の旬なる昭和福寿草もうすぐ平成も終わりますけども、これはそれよりもっと前、昭和を偲んでの一句です。私の父親は裏千家の大宗匠より一つ上の大正13年生まれで、昭和63年に亡くなりました。従いまして、その人生が全く昭和と重なるということであります。父母は昭和という波乱の時代を、旬な人生として生き抜いたという意味です。この句はあちこちで褒められまして喜んでいましたところ、母親が半ば怒って言うには、「私はまだまだ長生きする。私の青春はお前の父親が死んでからだ」とか何とか言って、カラオケだ、ダンスだと遊び歩いております。昭和どころか平成ももうすぐ終わりますが、まだまだ健在でございます。大宗匠は96歳、今年、年男で大変お元気でございます。私の親父が生きていたとしても、こんな風に元気で暮らすことが出来るのだろうかと、ふと考えることがあります。33年前に亡くなりまして、つい先週、墓参りを済ませてきたばかりです。広島で原爆に遭い、残念ながら60歳で脳腫瘍を発症しまして3年ほど寝たきりの後に他界をいたしました。様々な思いを込めて作った句です。今日は、俳句をユネスコの無形文化遺産登録しようという運動を始めておりますので、その話を簡単にさせていただきたいと思います。よくユネスコの世界遺産と無形文化遺産とを混同される方がおられますが、ちょっとこれはモノが違うんです。世界遺産というのは1972年に条約ができまして192ヶ国が参加していますが自然遺産、文化遺産、複合遺産と三つの分類があります。基本的にはこれは有形固定資産なんです。自然遺産は皆様よくご存知の屋久島とか知床など、それから文化遺産は例えば京都ですと清水寺などが入っています。富士山はかつて、自然遺産で登録申請をしたところ上手くいきませんでした。かなり開発が進んでいるため、自然遺産とは認められなかったのです。そこで改めて、複合遺産ということで登録申請して認められました。富士山という自然と富士山信仰という文化、この二つをセットにしたものです。こういったものが、公式に登録された自然遺産、文化遺産、複合遺産なのです。海外にもいろいろございます。その他に危機遺産という分類の仕方もあります。ポーランドの岩塩の採掘の穴なんかは今、中でテーマパークとか、遊園地化されています。しかし、いずれは侵蝕され滅んでしまうものなので危機遺産というわけです。それから負の世界遺産という分類もあります。広島の原爆ドーム、アウシュビッツの強制収容所、或いはアフリカの奴隷貿易の拠点、こういったものも世界遺産に登録されていますが、これらを負の遺産と呼びます。人類差別の撤廃や平和運動のために、それにとっての重要な象徴的な案件だということで認められているのです。そういうものが、世界遺産の中の負の遺産です。そしてこれらはみな有形固定資産です。一方で無形文化遺産は、2003年に171ヶ国が参加して保護に関する条約が結ばれました。京都では和食が一昨年登録されました。その他にもいくつかすでに登録されているものがございます。基本的には無形資産でございまして、そして、世界遺産と違って世界という冠がついていないんです。無形文化遺産というのは、ある特定の地域、特定の民族とかで大事にその自己の文化遺産として保存されているものであれば登録して保護していこうというものです。日本の代表的なものとしては歌舞伎、能学、和食、こういったものがユネスコの無形文化遺産として保護対象ということになっています。その他にも、いかにももう滅びそうだ、今何とか支援しないと滅びるという分類の、危機の無形文化遺産というものがございます。日本には今のところ登録されているものはありません。海外のものを一つだけ紹介しますと、モンゴル書道というものがありまして、もうほとんど作り手もいないようですが、あるいは、もしかしたらもうやっている人がいないんではないかなという状態なので認定され、保護の対象とされています。このようなものが無形文化遺産の中の危機遺産です。我々は今、俳句を、このユネスコ無形文化遺産に登録しようという運動を始めたところです。まずは、俳句がユネスコの無形文化遺産に認定される価値があるかということをちょっとご説明します。①世界で最も短い詩形で、誰でも簡単に作れる。ルールは575の17文字であることと、季語を入れるというたった2つしかありません。皆さん多分、子供の頃、学校の授業か何かで一度は俳句を作られたことがあるでしょう。その意味では1億みな俳人です。ですがまあ、それは大げさとして、日常的、或いはそうではなくても年1回ぐらいは俳句に接しておられる人は、2000万人ぐらいはおられるんではないか、というのが我々の推計です。年賀状の端にちょっと書くとか、会話の中に芭蕉の句を引用するとか、そういったことです。我々のように日常的に結社というグループを作って活動しているコアな人が50、60万人から100万人ぐらいいますけれども、その周辺には2000万人ぐらいの俳句人口がいるのです。②それから日本人の生活の隅々まで俳句が浸透している。これは新聞を開きますと、ほとんどの新聞に文芸欄があり、その中にはだいたい俳句のコーナーがあって、多くの人が投稿しておられます。週刊誌にもそういう欄がありますし、最近ではテレビでも、「プレバト」という番組で芸能人が俳句を作って添削を受け、ちょっとしたブームになっています。また、昨年でしたか、山科のロータリークラブでは記念行事として俳句の募集をやっておられました。それから私が以前いました㈱エアドゥという航空会社では、北海道と飛行機の俳句を募集して優秀作品にはチケットなどを賞品として提供するなどしていました。ちょっと皆様の周りを見回していただきますと俳句が、思いのほか浸透しているのがわかると思います。③また、最近では、海外にも俳句が普及し始めております。ただ、海外ではちょっと日本とは違うんですが、ローマ字でHAIKU と呼び、2行、あるいは3行に分けて書きます。今、ソサエティ、いわゆる協会が、世界の50か国ぐらいにできていて、大体30ぐらいの言語でHAIKUが作られています。日本だけの文化だったものが今、世界に広がっている途中なのです。④次に、俳句には、人生に対してどういう効用があるのかということです。「人生に希望を、日常生活に潤いを与えてくれる」ということを、俳人協会の名誉会長で前会長だった鷹羽狩行先生がかつて言っておられました。高度成長期、日常生活が非常に忙しい中で俳句を仕事の傍らやっておられる人が多くいた。俳句はそうした殺伐とした仕事人生に潤いや癒しを与えてくれたというのです。一つの例をご紹介しますと、私は北海道に7年おりましたが、その間、北海道の俳句史を仕事の傍ら調べてみました。昭和20年代、30年代、北海道はたいへんな俳句ブームでした。それはなぜかと言うと、過酷な労働を強いられた炭鉱で働く人たち、開拓の農民の人たちがおられたわけですが、日常ほとんど娯楽がない。そういう時に、酒を飲んで苦労を紛らわせるのではなくて、文化的な活動をしたいという欲求が沸き起こりました。そこで、北海道の炭鉱、或いは開拓農民の間で俳句が異常なブームになったのです。このように、「人生に希望を、日常生活に潤いを与えてくれる」のが、俳句の大きな役割だった時代があったのです。現在、その鷹羽狩行名誉会長は88歳になられましたが、時代に合わせて仰ることが変わってまいりました。最近では「高齢化社会を迎え、人々に生きる力を与えてくれる」のが俳句だというのです。今、私は俳人協会の理事をしています。63歳です。しかし、会員の平均年齢は76歳から77歳くらいになります。平均ですから一番上の方には100歳を超えている人が沢山おられます。ですが俳句を日常的に作っていると頭が呆けない。また、俳句というのは1人で作って1人で楽しむものではありません。句会というのがありまして、明治30年頃に正岡子規が始めた方法なんですが、みんな匿名で俳句を出します。先生がどんなに威張っていても先生も匿名で句を出し、お互いに良いと思うものを選びあう。誰がどんな句を作ったかわからないままで選んでいるので、先生の句がひとつも選ばれないこともあります。民主的に運営されながらも、一方でゲーム性もあるので、適度に競争心が起こり心身の活性化につながるのです。また、吟行という形でアウトドアにて俳句を作れば、よく歩くので健康にも良い。そして何より、句会に参加することにより人と人との繋がりを維持することが出来る。これは少子化、高齢化が進み、人とのきずな、家族とのきずなが薄れてきている現代社会においてはとても大切なことではないかと思います。⑤もう一つ、私の先生、有馬朗人先生は大変重要なことを言っておられます。俳句は自然を詠む文学であり、これは日本独特なものだ。いわゆるアミニズムといいますか、鳥獣、草木すべてに仏性を認め、悉皆成仏の世界観を有する日本ならではの文芸である。鳥や獣や花や木をたんねんに観察しながら、移り行く季節へ挨拶をする、それが俳句の基本であり、一神教のユダヤ教やキリスト教、あるいはイスラム教の様に相手を一切認めない宗教観とはまったく違う。ありとあらゆるものに価値を認めて、お互いに尊敬し合うということですから、これを世界に広めていけば世界平和に繋がるのではないかというのが、私の先生、有馬朗人先生が常日頃言っておられることでございます。⑥そして、何よりも俳句というのは日本オリジナルな、日本発の文芸ムーブメントでございますので、ぜひこれを世界中の人にもっと広く知ってもらうために、ユネスコの無形文化遺産に登録したらいかがですか、と運動しているところなのです。そのための推進体制が2年前に出来ました。一つはユネスコ無形文化遺産推進協議会でこれは俳句の4団体のほか30自治体ぐらいが参加しておりまして、名誉会長には中曽根康弘さん、それから名誉顧問は EU の総裁、大統領でありましたヘルマン・ファン・ロンパイさん、そして会長には、国際俳句交流協会の会長でもある有馬朗人先生になっていただき、発足いたしました。そしてもう一つ、役所を動かさないといけないので、現役の先生方にもご協力をいただき、議員連盟を1ヶ月遅れで作っていただきました。発起人には当時外務大臣だった岸田文雄先生、国際俳句交流協会会員でもある盛山正仁先生などにお願いし、伊吹文明先生や馳浩先生などにもメンバーとして参加していただき、錚々たる顔ぶれになっております。さて、いくつか俳句をご紹介したいと思います。今、協議会に入っている自治体の中で、京都府からは、与謝野町があります。ここは与謝蕪村のお母さんの故郷だといわれています。もともとは加悦という町でしたが、合併により与謝野町になりました。「丹波の加悦という所にて」という前書きをつけて蕪村が作ったのが、夏河を越すうれしさよ手に草鞋(わらじ)という句です。蕪村は大阪四条畷あたりの出身だろうといわれていますか一切自分の故郷のことを語ったことはございません。その代わり自分の母親の故郷はとても大事にしておりました。母親の故郷で作った句がこれです。現在の俳人たちも、蕪村を慕って、この与謝野町を俳句の吟行先としてよく訪れます。そして今、句碑が30基ぐらいこの町にはあります。町がそこでハイキングロードとして整備しまして、町おこしの材料に俳句を使っている、そういう町でございます。それから名誉会長の中曽根康弘先生の句碑ですが、これは広島の平和公園に建っております。昭和57年から62年まで5年ほど総理大臣を務められました。その間3回中曽根先生は8月6日の追悼式典に出席されました。私の父親も被爆者でしたので、私も列席したことがありますけども、中曽根さんがその際に作られたのがこの句でございます。悲しみの夏雲へ向け鳩放つで、総理大臣を辞められた後、広島のライオンズクラブの人たちがこの碑を建立されました。それから、ヘルマン・ファン・ロンパイというベルギーの首相でEU の大統領を務めた方に、名誉顧問になっていただいています。「HAIKU」という句集を出しておられます。ベルギーという国はとても複雑な国なので公用語が3つあります。そして、公用語じゃないけども世界共通語とでも言うべき英語がありますので、この4つの言語を使った句集を出しておられます。日本語で私が訳したのをつけます。あまりいい訳にはならないのが残念なので、これはむしろ、英語とかフランス語とかがよくわかる人は、そっちで味わっていただいたほうが良いでしょう。Celui quil regarde Le soleil, la mer, les etoiles Aime la paix (仏)Who looks at the sun At the sea,at the stars Love peace (英)陽を海を 星を見る人 和を愛す 一応575の形にして訳してみましたが、海外の人は俳句を作るときには、このように2行、或いは3行で表すというのが普通のパターンです。それから私の先生、有馬朗人先生は物理学の泰斗でございますので、物理用語が出てくることもあるんですが、初日(はつひ)を見てビックバンを連想するという壮大な句がございます。ビッグバンの残光にして初日影このような句を作っている人たちを頭の方に戴いて、ユネスコへの登録運動を今、行っているところです。世界には実は短詩系という文学ジャンルはものすごく少ないんです。ヨーロッパ人は、とにかく詩は長ければ長いほうが良いと思っている節があって、ダンテの神曲などのように、3日も4日も朗読しなければ終わらないような長い詩が優れているのだという観念があり、短い詩というのはヨーロッパにはほとんどありません。フランスに一行詩があるのが唯一の例外といえるでしょう。あと、ルーマニア、アイルランドにあることはありますが、もうほとんど廃れております。一方で中国には五言絶句、七言律詩なんていうものがあります。短詩系の発祥の国と言っても良いと思うのですが、残念ながら、かの文化大革命の際に文化人が激しく弾圧され、さらに簡体字なるものが普及したために、今は中国で漢詩を作る人はほとんどありません。今でも五言絶句、七言律詩を作っているのはほとんど日本人です。韓国には時調というのがありますけども、これも作る人はほんの少数です。ところが日本では、作る人も大勢いるし、様々な形の短詩形がございます。俳句や短歌のほかにも、皆さんご存知の川柳は一大勢力ですし、都々逸も広く普及しています。日本の短詩系文学が、中国の漢詩のように作り手がいなくなって滅ぶことのないよう、ユネスコの無形文化遺産として登録し、そして世界中の人に知ってもらい、世界中の人に俳句を作ってもらって、日本発の文芸ムーブメントとして世界中に普及することを願って、運動を進めているところなのです。最後にもう一句。芭蕉の有名な句を紹介します。古池や蛙飛び込む水の音  この句は多くの外国の文化人、日本文学の研究者などにより翻訳され、世界中に知られています。ですが、これまでの日本人の感覚にはなかったような訳し方をされています。大きな原因は、日本語に単数形、複数形の概念がないことによるものです。日本人は長いこと、この句の蛙は一匹だと思っていました。芭蕉が提唱した侘び寂びの概念からすると一匹が適当なのです。ところが、これを外国語、特に英語に訳すときには、一匹か複数かが大問題になったのです。カエルは一匹だったんだろうか、沢山いたんだろうか、そのことが論争になりはじめて、もう半世紀以上も経ちます。最近では、日本の俳人の中にも、多数いたと主張する人が出始めています。一匹だと侘び寂びの静かな世界ですが、複数だと生命の躍動という全く別な景色が見えてきます。しかし、なんとも平和な論争ではありませんか。口角泡を飛ばしても、銃弾は飛び交いません。論争大いに結構、こうした文学上の解釈の問題で論争するのであれば、戦争などけっして起きはしないということを、我々俳人は確信しております。「俳句をユネスコ無形文化遺産に」という運動は、まだ緒についたばかりです。いずれ、署名活動などを行う局面が来るかもしれません。そういった際には、ぜひご協力をお願いしたいと思います。ちょうど時間が参りましたので以上で終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

人の行方

2019.01.25           藤堂 稔之   現在の社会は混沌としているように思います自然災害の多発、終わらない世界各地の紛争、流出する難民の群れ、広がる貧富の格差自由・孤立・勝手主義に傾く人々、自国優先主義に傾く国々、止まらぬ貿易戦争、協約無視の核兵器開発など人々の間に不安や緊張が増していますそれが何を意味するのか、どういう方向に人類は歩もうとするのか、を探ってみたいと思います人口の増加について農耕に成功した人類は村落を形成し定着を図る、そのころから人口は少しずつ増加し、産業中心社会に向かうにつれ人口はさらに増加、今や70億を超えて80億に向かっている人口の増大は自然環境に影響をもたらし、人類自身の社会環境にも影響をもたらしている生物は場所や食物が豊かであればどんどん繁殖し、場所や食物の減少、枯渇によって疲弊衰退する過去の地球の歴史において、多くの生物の繁茂、衰退の例がみられ、繰り返されている人類はどうなのか自然環境が人類の行為によって悪くなっているとすれば、或いは地球上の多くの場所が人類の生活圏となっている(他の生物圏まで犯している)のであれば、それは範囲を逸脱してまで繁殖しているといえる地球にとってはバランスを欠いた行為ということになります自然災害多発について地震、津波、干ばつ、山火事、竜巻、豪雨が人々の暮らしを破壊している人類の食糧・資源・エネルギーの消費は膨大なものになっており、異常気象といわれる現象が頻繁になりつつある温暖化対策は各国で取られてはいるが異常気象が封じられたという証はなく、環境対策会議はコップ24まで来ても足並みをそろえていない大国が環境対策からの離脱を宣言している災害の頻度が少なければ時間をかけて復興すれば元へ戻る、頻度が多ければ復興が追いつかなくなり、その分地域の疲弊が進む災害が多く発生する現状はいびつな現状への警告であり、大自然の修正行為であるかもしれません    人類は英知を持っているが抜けたところもある縄張り根性や私利私欲に走り、大事なところで協力しない難民の増加について人類にとって紛争は絶えません、各地で宗教、民族、食糧、資源、領土を元にした紛争で難民が増えています人々は国を追われ、行き所がありません動物には縄張り争いがあるが、人もまた動物であり自らの城を守ろうとする争いから逃れるもの、争いから敗れたものは難民となり路頭に迷う、時に施政者が民を追い出し、時に民が飢えや迫害から逃れて国を出るアフリカ諸国、南米、イスラム圏など各地で増えている難民には住まい、食糧、健康の不安が付きまとう、支援も容易ではない今では難民の受け入れをおおらかに受け入れるところがありません自国も困窮しているのであり、受け入れる余地はないというこれを人道的に受け入れようとした国の党首は国民から拒否されていますポピュリズム(大衆迎合主義)がものをいう時代になりましたこの現象をどう説明すればよいか、人類の飽和状態が原因であると言えなくもありません貧富の格差について産業社会になって工場やビジネスオフィスが仕事の本場を占めるようになって貧富の差がつき始める物の生産に大量生産、大量流通、大量消費が生まれて資本が重要な位置を占めたことにも一因がある更に情報産業中心の世の中に変わると世の中に加速度がついてきたあらゆる情報が瞬時に流れ、時間距離にかかわらず取引は一瞬のうちに行われるしかしものづくりには何日も何か月も掛るのに、というギャップも生まれたマネーは世界を駆け巡る、金は金を生むのであるまして益々高度な技術が必要になる今の世では,教育や先端技術が物を言う学ぶ機会に恵まれない人も多い貧富の差はこういうところからもやって来る社会が二分するようであればそこに不穏な空気が漂う政治が動揺し、巷でプラカードをもって声を上げるものも、それに乗じて暴動を起こすものも出る各地に紛争が起こる種は増えている 自由主義、孤立主義、勝手主義について集団で行う農耕時代からみれば、核家族主義の工業化社会になって子育ては不便になった親がいなくなったからである更に情報化社会になって暮しの主体は核家族から個人に変わった仕事の性質が暮しを変えているのだ今や個人中心主義になって一面自由になったが、孤立主義、勝手主義も増えてきている個人の好きなように生きる、個人のやりたいようにやるという多様な社会であり自由な選択ができる、しかし競争の激しい社会でもある社会の連携が希薄になるにつれ、結婚式やお葬式の行事も簡素化され、村や町内の行事も減少気味である 社会の変化は家族や学校、企業にも及びネグレクトやいじめ・パワハラという問題を引き起こし、大事な人間関係に大きなヒビが入ってきた人々同士で間引きを行っている実態がある各国の分裂について個人主義・自由主義・民主主義を謳歌していた米国は今どうなってしまったのか環境の協約や貿易の協定や核兵器の非拡散条約など、重要な条約を皆破棄して国連を軽視する国内では深刻な貧富の格差を抱え、難民の流入を阻止しようとして必死になっている外に向かっては大国にのし上がる気配の中國を抑えようとガムシャラな交渉を行っている中國のGNPの絶対額は各国を抜いて、第2位になっているそれが米国の焦りにもなっている貿易交渉は貿易戦争になっている兵器に関連する技術のせめぎあいも絡まって余計厳しさを増している昔の大国の風格は今どこへ行ったのか?自国優先主義は他国にも広がり、EUからの独立をうたう英国や難民の押し寄せる国々が同じような方向に動いているいずれも国内で成長が鈍化し、貧富の格差を抱えて困っている結果として国々の協力より分裂に向かっている世界の秩序はこれからどうなっていくのであろうか勝手主義と非協調主義の中から環境や人類を救う政策は生まれそうにない越える技術について人の好奇心や探求心は留まるところを知らずコンピューターから始まって遂に人工頭脳を開発したAIが将棋や囲碁の名人に勝ったという話はお茶の間をにぎわしたどういう手を打てばよいかは名人の熟考の末の手であり、これを負かすことは余程の切れ者であるといえる無論 人がAIに多くの定石や知識を与え、過去の差し手、経緯などを十分に入力した結果ではあるが、そこから論理的な計算を導き、AIが判断して打った結果の勝利であるこのことは、仕事の多くが論理的な構造である限り、なんでも覚え、できるようになる可能性を秘めている効率的な生産、効率的な販売、最適な処理、最適な選択といったことであればAIを活用すればどういう仕事にも活用できる世の中はますます便利になり、自動化、無人化、迅速化、監視化が進行するしかし一方で政治的戦略の中でサイバー攻撃や無人兵器の開発、宇宙戦争といわれる技術も現れるロボットは産業で活用されるが、無人兵器にならないとは限らないドローンは道なき道を通り荷を届ける便利な搬送機になるであろうが兵器にもなるAIやIOTを活用するビジネスとそうでないビジネスのギャップは大きいAIやIOTを組み込んだ製品は、そうでないものよりはるかに便利になるに違いない素晴らしい世界の実現は人類の考え如何であることを思えば、将来は楽観もあるが、危惧なしとは言い切れないAIと人との関係はどうなるのか、AIは人知を超えるか、人知がAIを制御するかAIと人知の共存が図れるか、いずれにしてもぼけっとしてはいられない人間至上主義人は多くの科学の知識や技術を元にあらゆる可能性を実現しようとしている工場を変え、オフィスを変え、暮しを変え、社会を変え、生活空間を宇宙にまで拡大し、また、生命の越えてはならない領域まで踏み込もうとしている、人間至上主義という考えが出てきているあらゆることは人において可能であるという果たして大自然の摂理を超えて人間至上主義が可能なのであろうかその場合人の拠り所はいったい何処に求められるのであろうか地球という大自然の中で育まれた人類は、通常この地球上でしか生きられない地球上では何億年の営みの中で大繁茂して、いつかピークを迎え、そして消滅していった多くの生物が記録されている、    人類もまた生物である多すぎる人類が自然災害を誘発し、人類自身が飽和状態に直面しているとすれば、やがてピークを迎える生物のごとくならないとは限らない誰が人類を救うのか、人類自身か、AIか、それとも大自然かご清聴ありがとうございます

会員増強につながる職業奉仕

2019.1.24(ホームクラブでの卓話)地区職業奉仕委員長中島 健 (宇治鳳凰RC)改めましてこんにちは。今月は職業奉仕月間ということで職業奉仕に関するお話です。職業奉仕と云いましてもいろんな切り口があると思います。核心的なところは、商売の極意であるとか、企業経営の心であるとか、そういったところを出来ればいいが、そういう話は事業の上で大成功を収めておられる会員の方にお話し頂くことが一番です。わたしの話は、ロータリーが云う職業奉仕とはどんなものであるかということです。ちょうど大石会長の年度から今回で3年連続ということで、前と同じお話をするわけにもいかない。昨年7月28日に地区の会員拡大増強、公共イメージの両委員会が主催するフォーラムがありました。増強につながる話、それも実践的なものを、わかりやすい内容の話をせよとの依頼がありました。今日はその内容をお話しします。まず、この話を始める大前提としてロータリーとはいったいどういう団体であるのか。RIはロータリーをどのように考えているのか。を説明しておく必要があります。2015年10月のRI理事会で決定した内容ですが、最近までのロータリーは人道的な奉仕に傾きすぎていた。特徴である事業や専門職種、地域社会のリーダーの集まりであることを重要視してなかった。2015年理事会では、そうではなくて、この事業、専門職、地域社会のリーダーの集まりであるとともに、且つ、人道的な活動を行う団体である。ロータリーという団体を定義しなおしたんですね。とても重要なところです。「職業奉仕の手引き」(職業奉仕入門)が今年度、久しぶりに改訂されました。表題からして、”実践しよう”、理念の話ではなくてとにかく”行動しよう”といっています。今日は、増強とつながる部分だけをピックアップしましたが、「スキルと職業」という項目があり、そこでは奉仕プロジェクトで職業スキルを活用する。自分の職業上の手腕を用いてボランティア活動をしなさいといっています。実際、それが増強につながるのかどうかということですが、日本ではこういう例は少ないでしょうが、外国とくに途上国では、私は医者の資格をもっているとか、人道的援助の上ですごく役に立つ技術をもっている人が、その技術を社会の役に立てたいと考えている人が結構多いんですね。だからロータリーに入って、奉仕プロジェクトでそういう手腕を発揮する。日本のロータリーでも中にはいらっしゃるんですね。この月曜日に京都西RCで卓話をさせていただきました。そのなかには私も実は自分の仕事を奉仕に生かしたいと思って入りましたという人がいらっしゃいました。ところが実際ロータリークラブに入ってみると、割と伝統的な日本古来の職業奉仕論が主流で、職業ボランティアなど論外ということになるんですね。RIが、職業奉仕として職業ボランティアをせよと云っている、ということをあまり知らない、先輩方があまりそういうことをおっしゃらない、RIがこんなことをいっていると聞いて逆にビックリされている。そんな例もありました。それから職業研修と職業スキルの向上ということで、ビジネスネットワークの拡張。自分の仕事のつながりで奉仕プロジェクトとかいろんなことをやってそのつながりで入会してもらう、そういう展開ですね。それからキャリア相談会。これは技能をもっている会員がロータリーに入って、あの人がいらっしゃるから私は入りました。メンター制度的に仕事の場以外のところでいろんな助言なりを求める。これも一つの可能性としてあるわけです。是非手引きを読んでください。1-実際それが増強につながるのか。日本ではその例はないとはいえないが少ない。自分の仕事をいかしたい。で、奉仕プロジェクトを立ち上げて、そのつながりで入会してもらう。専門的な立場からの助言をする。自分を知ってもらって話し合うことが大切なんです。世界の実例からキャピトルヒル・RC: 地元のNPOと共同で地域の課題に取り組む。会員は戦略コンサルタントとしてこれらの団体に協力して専門的な立場から助言を行う。大体NPOは、いわゆる社協に入っているボランティア団体のような活動をしているわけです。そこに技術者とか、手話ができる人とか、技能を持つロータリーの会員がその団体に対して助言を行う。そういう仕組みをクラブの中で作っているわけです。そういう活動をしている内にそこからロータリーに入ってくる人が見つかる。で、実績をあげているというのがキャピトルヒル・RCです。クラブには職業上いろんな手腕をもっている人がいます。そういうひとが自分の職業上のスキルを実際その奉仕活動に生かすことが出来るわけです。そういう場、機会が増えるわけです。それによって自分の職業がすごく社会のために活きているということを実感されてロータリーの会員維持にもつながっている。その結果、クラブ員による奉仕への参加が増え、会員維持、新会員が増えた。地域社会からその可視性が高まった、クラブがそういうことをやっている団体であることが認知されてきた。日本にも活動例がある。東京愛宕RC:―育て、企業家「東京愛宕創業支援塾」―といい、若い人で、これから事業を起こす人を対象に講習会をやったわけです。起業を目指す学生、会社に勤めながら起業を目指しているサラリーマン、事業転換による新規事業を行うことを考えている人々を対象に、起業・創業を促し、地域社会の活性化に取り組むことを目的とした全4回の授業、講習会をやります。前半に起業家や投資家による基調講演や対談を行い、そして後半に参加者とクラブ会員によるグループディスカッションを行う。全4回を起承転結と捉えて4回すべてに参加することにより、起業・創業を具体的にイメージし、起業・創業できる状態まで高められるような内容としている。最終回では参加者が自らの事業計画のプレゼンを発表し、ゲストの投資家や中小企業庁の方々、及びクラブの会員が採点、講評を行うというものです。結果として、ロータリーへの認知度が高まった。ロータリークラブがあるんだ。それはこういう活動をしているんだ。参加者が実際に起業し成功してロータリーに入会し、その経験を還元してくれることが最終的な目標である。やったからといってすぐに会員増強につながらないけれど種を蒔いて育てて、そしてロータリーに入ってもらおうというとある意味、気の長い話なんですがそういうことをやられたんです。(「Rの友」2016.1月号)まとめ1RIや世界のロータリーが考える増強につながる職業奉仕海外では職業奉仕、特に若い会員へのメンターシップ制度や個人的な指導が会員維持や会員増強に役に立つと考えられている。会員が自身の技能(手腕)才能、リソースをロータリーに持たらすこと(奉仕プロジェクトを通じた社会貢献)で、会員増強と会員維持に貢献できると考えられている。これらはあまり日本ではなじみのない議論であるが日本以外のロータリーではクラブが行う職業奉仕の例として認識されている(RLI PARTⅢ)2-日本型職業奉仕論を前面に出した会員増強職業奉仕的なアプローチをすることによって増強につなげている、そして日本型職業奉仕論(=商人道、職業倫理)を前面に出し会員増強につなげている東京御苑RCの場合 つい最近にできたクラブで、名誉会員にボニージャックスが入会しています。2015年3月に会員40名で創立する、2017年7月には、ほぼ2年半ぐらいで会員120名(内女性会員が37名)、年内目標として会員数200名を目指している。会員の種類としては、事業主またはこれに準ずる会員、それから一般会員(41歳以上、それと31歳から40歳)、専業主婦やシニア。例会食事代後払い会員があります。事業主の会費が年間18万円、それから一般社会人、40歳以降は14万円、31歳から40歳までが12万円、専業主婦、シニアは12万円の会費。食事会後払い会員は年間8万円。それ以外に入会金が3万円、R財団・米山寄付として強制的に2万円。ただ、例会参加費が必要です。18万円の会費を払う人は例会参加費が2500円。この中に食事代が入っています。食事代後払い会員は1回例会に参加するのに5500円必要です。このクラブの特徴は、初期ロータリーの特徴である会員同士の相互扶助やシェルドンの職業奉仕理念を前面に出しています。会員のビジネス上の発展を入会することのメリットとしてPRしています。このクラブの、いわゆるうちのクラブでいう、クラブ活動概況報告書を開けますと最初にロータリーを立ち上げた方の写真があって、ロータリアン創成期の、そういう理念に戻ろうとかいうことを謳っています。また、ホームページのトップページには「東京御苑ロータリーに入会するとこんなすてきなことがあなたを待っています」としていくつか項目が上がっています:1・友情2・ロータリーを定時にビジネス上の発展3・個人的成長と発展・・・・・・家族のためのプログラム・世界の市民たること・旅行中の援助・名声というのがあります。・人前で話を話す術の養成20個ある項目の中で一番最後に「奉仕する機会」が上がっています。奉仕というのが一番最後になっているわけです。この中でロータリーの定義に、会員のビジネスの発展がロータリーが創立されたのがもうひとつの理由です。誰でもネットワークが必要です。ロータリアンはすべてのビジネス社会を網羅する横断的な組織です。会員はあらゆる職業の人々が参加しています。ロータリアンはお互い助け合い、団体として他者を助けます。仕事の発展とか、そういうところに繋がるだろうということを前面に打ち出して会員増強をやっているわけです。親睦はほとんど出てこないですね。興味のある方はホームページを見てください。大宮西ロータリークラブの場合ロータリー活動の両輪である親睦(仲間づくり)と奉仕(感動)の上に、事業上の利益(ビジネスチャンス)を加えて会員増強をやっておられます。若手の勧誘の際、ロータリーの理念の説明とともに「ロータリーは異業種の集まりで経営の勉強になる」こともPRをしています。会員数が一時50人ぐらいから42人ぐらいまでに下がりましたが、そういう形で増強に努めた結果として113人に増えたということです。もともとは大きなクラブでもっと沢山の会員がいたのいですが、減り続けて底が42人。そのあと熱い思いを持った増強委員長が現れ、こういうことを前面に出して113人までにもっていった。もちろんロータリーに入ったからといってすぐ仕事が増えるよとは言ってないんです。親睦と奉仕を重ねることにより、信頼関係が生まれてくる中でビジネスチャンスも広がるというメリットをアピール。確かにこれは言えていると思います。入ったからといってすぐ誰、誰、これちょっと頼むわとかいうふうにはならないと思います。一緒にいろんな親睦の事業に出たり、或いは奉仕活動で汗を流したりしている内にお互いがわかってきて、ちょっと頼んでみようかなというふうになる、ということをアピールしています。例えば例会とかであまり仕事の話ばかりをするのは、現在では何となくタブー視されているような気がしますが、この殻を破ったわけです。相互扶助、これはもともとポールハリスがロータリーを作ったときの目的のひとつ。相互扶助というロータリーの草創期の原点に戻り会員の事業上の利益増大、ビジネスチャンスの利点を打ち出したのですね。尤も入会する方も初めからそうしたことを大いに期待しているという訳でなく、今の若者の考え方として、入会だけで仕事が増えるとは誰も考えていない。経営の勉強であったり、異業種交流会のように考えている。メンバーとの地域的関わり合いや生きた情報を求めている。入会後は仲間を作り上手にビジネスに活かしている。こういうことを親睦とか奉仕とか、そういうことではなくて本当にロータリーの草創期の目的である相互扶助、それを前面に出して増強をやった結果こうなったという話です。まとめ2ロータリーがこの事業上の利益をどのようにとらえて発展させたか、ということですが、まずロータリーの誕生、これが1905年.ポールハリスを含む4人の仲間、ポールハリスは弁護士、石炭商、鉱山技師、もう1人は洗濯屋さん。いずれもそんなに大きくビジネスをやっていた人たちではなくて、本当に小さな零細であったり、中小であったり、そういう人たち、そういう経営者が集まってきて、お互いに助け合って行こうよというのがロータリーの始まりだったんですね。そういう物質的な相互扶助。それでしばらくは行くのですが、そんなものだけでは組織としては発展していかないからもっと社会に的に意味のある奉仕をやろうということで、そのきっかけになったのがアーサーシェルドンの“He Profits Most Who Serves Best”に代表される経営学ですね。ロータリーに入ればその最新の経営学みたいなものが学べるというのがありまして、それがまた会員増強の原動力になったんですね。それは拡大の原動力となるとともに、気の合う者同士が単に儲けのために集まっているのではなくて、ロータリーという奉仕、サービスを重視する、もっと社会的に良いことをする団体であると認知されていくんですね。その後、資本主義が進んでいくと今度は賃上げであるとか労働者の保護であるとか、労働争議という形でいろいろと問題が起こってくる。それを例会の中で、お前とこどうしているんだ?というふうに情報交換、アイディアを交換して……という一時期がありました。これは精神的な相互扶助、事業の発想とかアイディアを交換する、例会に行ってメリットのある時間を過ごしたわけです。その時代、それがまたロータリーの会員増強に繋がっていったということです。その後、時間の経過とともに社会奉仕や人道的奉仕活動に重点が移ってしまうとともに、従来の例会機能が低下してしまって、いわゆる金持ちの、裕福な人たちが集まって昼ご飯を食べる会になってしまった。そういうのが今の停滞というか、それを招いているんじゃないかということです。で、そのアンチテーゼということで、例会機能の重視であったりビジネスというものをもっと前面に打ち出して、拡大していったというのが大宮とか東京愛宕のお話ということになります。1916年、道徳律が出来た直後、決議23-34よりも前になりますが、当時ロータリーは次のようなことをPRしています。ロータリーに入るといいことがある。1・人生で、是非とも持たねばならない知己が得られる。2・純粋で健全な親睦というものがどんなによいものかを知ることができる。3・どうすれば仕事が成功し、問題解決ができるかについて啓発を受けることができる。4・効率の高い経営方法とは何かについて知らず知らずのうちに教育が受けられる。5・多くの自分の知らない情報が得られ、先見の明を授けられる。6・自分の思考の限界を自覚し、持って転機を得ることができる。7・知己を広め、自分を他に理解してもらう機会が得られ、そのことが自分の企業に対する信頼を呼ぶことに繋がり、その結果として企業上の利益となる。8・各自が社会の指導者となるだけの訓練を受けられる。9・自分を人間的に磨くことができる。(ガイ・ガンディカ-著「ロータリー通解」1916)勿論、社会奉仕、人道奉仕もやっているんですが、それよりむしろ事業上の利益を非常に重視していたことがわかると思います。決議23-34は、ロータリーは人生哲学で、利己的な欲求は(会員の自己の)事業の発展、対社会的な奉仕は他人への奉仕、この相反する2つの心の葛藤を調和させるのが決議23-34です。しかし、事業発展に関する配慮がクラブの運営等で喪失してしまってそれがロータリーの魅力の減退に繋がったのではないか?クラブのあり方○個々のロータリアンの事業が発展すれば間違いなく会員は増えていく○事業人の「利己の心」とは自らの事業を反映させること○職業奉仕はシェルドンの経営学の理念を実践し、事業を継続的に発展させること○クラブの例会は会員同士が自らの事業について語り、相談する場合、発想、アイディア、ノウハウを交換する場こういうことでロータリーの会員であることのメリットを創出することが必要である○かっては職業奉仕を前提として奉仕の心を磨く場をロータリーでは例会と呼んでいた○企業経営上の問題点を胸襟を開いて相談できる環境がクラブ内にあるでしょうか?○自分が直面する問題を親身になって相談できる友人がクラブ内にいるでしょうか?○職業上得られた発想やアイディアを交換し、自分の家庭・職場・地域社会に戻って、それを実践に移していますか?○会員は事業上の大切な時間を割いて例会に出席している。従って例会出席によって得られるメリットは事業上の貴重な時間を割くデメリットよりも大きくなければならない。はたしてそれができているのか?これらは職業奉仕にとどまらず、クラブの管理運営とか例会の在り方とか、そういうところにつながってくる問題なんですね。この後、みんなでディスカッションする時間があれば一番いいわけですが、今日はちょっとそこまでないので問題提議ということでとどめたいと思います。最後にポールハリスの言葉一番いい時代はこれからだ!!(1922年にロータリーが全世界に拡大していく中で、ある新聞社のインタビューにポールハリスが答えたものです)ということでどうもご清聴ありがとうございました。

自転車生活

2018、12、13菊地勝彦皆さんこんにちは。会員の菊地です。本日は皆さんの大切な時間をいただきロードバイクのことについて、できるだけ知って帰ってもらえればいいかなと思ってお話させていただきます。短い時間ではございますがどうぞお付き合いください。一般的に自転車といえばシティーサイクル、通称ママチャリといわれているタイプの自転車を想像されると思いますが、ママチャリとロードバイクとはどこがどう違うのかというと重さが圧倒的に違います。俗にママチャリというのは重量が20キロ前後となるんですが、ロードバイクの場合はだいたい、そのフレームの素材にもよるんですが10キロ以下ということで半分から3分の1の重量ということになっております。鉄製やアルミでもだいたい10キロ以下で最近の主流のカーボン素材となると最低重量は6キロぐらいとなります。私の自転車も7キロを切るぐらいで、よかったらあとでちょっと持ってもらったらよく知っている「自転車」とはだいぶ違うことが、まず重量で感じてもらえると思います。そしてロードバイクは舗装路を高速で走るために特化した作りになっていまして、物を入れるカゴとか、泥除けなんかもついておりません。走る以外の一切の無駄を省いたシンプルなデザインで自転車の大敵である風や空気の抵抗を極力受けないような形になっております。それと路面との接触(路面抵抗)を最低限に減らすために親指1本ぐらいのタイヤの幅で、その中には車の空気圧の約3倍ぐらいの空気を充填して走っています。次にママチャリと違う部分というのは変速機がついているということですね。前が2枚、後が11枚のギアからなっておりまして22段変速になります。最近では12枚というギアもメーカーによっては販売されております。それでですね、コースとか、状況によって、そのギヤを選択して走っていく訳ですが、前のギアが2枚あるというのはどういうふうに使い分けていくかというと、例えば平地を走っていて向かい風を受けてなかなか前に進まないという状況ではインナーギア、小さいギアに落とします。そうすることで踏み込む力を軽くすることができます。また、追い風とか無風状態であるときはアウターギアで大きいほうに移していきます。すると重いギアを楽に回すことができるので自転車はスピードに乗ります。ギアチェンジのタイミングは、その先に上り坂がある場合はあらかじめインナーギヤに落として後ろのギアを小さい目にして上りに備えて変速をあらかじめ変えておくということが重要です。それから下りになりますと今までインナーギヤで、軽いギアで走って来たものが急に下りになるとそのギヤで速い速度で突入するとペダルが空回りしてしまって非常に危ないのであらかじめ重いギヤに変えておくというのも重要なことです。上りや下りに入ってから変速をするのではなく、あらかじめコースの変化を見極めて用意しておくのは安全に走るためにも大切になります。変速機に関してはこんな感じです。そしてフレーム、特に自転車で重要な部分がこのフレームという部材に当たります。フレームにはサイズがあります。ママチャリにはサイズはないと思いますがサドルの高さで大体、乗る人のいい具合に調整できるんですが、ロードバイクの場合はメーカーによって違うんですが、だいたい5種類から9種類ぐらいのサイズ展開があります。その中で表示されている47cm、50cm、52cm、54cm、56cmというのはどこのサイズを示すかと言いますとシートチューブというサドル下の縦のチューブのシートポストを除くフーレム部分だけの長さを示していて、これをフレームサイズといいます。適切なフレームサイズを選ぶと次はポジション(乗車姿勢)という形を煮詰めていきます。ポジションで一番肝心なのは最初に自分に合ったバランスの良いフレームサイズを選ぶということから始まりますが、次にはサドル高です。サドルの座面からボトムブラケットと言われるクランクを取り付けている真ん中の芯のところまでの長さを「サドル高」と言い「股下×0.88」で、おおよそその人のサイズを計算で出すことができます。あとは適正なステムサイズ。ステムというのはフレームとハンドルを繋ぐ10cm前後の短い部品です。ここで各自、腕の長さとか、姿勢とかが変わってくるので、ステムでも短いものから長いものまでいろいろサイズがあるのでその中から選んでもらいます。だいたい60mm~130mmぐらいまでサイズがあり、ハンドルまでの距離を近くしたり遠くしたり調整できます。そしてハンドル。幅や前への突き出しの量など、これもちょっといろいろありますので肩幅とか、体型、乗車姿勢の好みに合わせて選んでもらう。それから「クランク長」と言いましてクランクの長さを調整できます。標準では170mmというサイズなんですが前後2.5mmずつぐらいで展開されていまして、その人の足の長さや身長等に応じたサイズを選ぶことができます。これによってかなり追い込んだ効率の良い自転車が完成されます。非常にややこしいといえばややこしいですが、自分の体に合った自転車というのはそうやって作っていくということです。一番最初まあ、標準的な自転車を買ったとしても、その人の乗り方とか体型によって、ステムであったり、クランク長であったり、たった数センチの範囲ではありますが調整していけば、よりよいセッティングというか、乗りやすい自転車に仕上がっていくということです。自分に合った自転車を作りましたら次は実際に自転車をこぐということになるんですが、どのようにしてこぐのが良いのか。一番効率の良い、意味のあるペダリングというのは、クランクを真横から見た状態を時計の文字盤で例えますと、12時ぐらいから力を入れる準備が始まり2時の位置から力をかけ始めて3時までが最も強く、4時らへんでもう力を抜く。最悪なのは一番下の6時で力を入れてしまうこと。こうなるとペダルを地面に向けて下に押し付けてしまう力だけで何のこぐエネルギーにもなっていないということです。あと重要なのは反対側の足はどうするかというと踏む側の負担にならないように引き上げる。ロードバイクというのはビンディングと言ってスキーのようにペダルとシューズが固定してあるので足を上げる動作でペダルを引き上げることができます。だから極論をいうと片脚でもクランクが回せるんです。反対側の足で引き上げることで踏む側の力をサポートし「踏む」のではなく「回す」のです。そこまで力を入れなくても負担にならないくらいで回していけばきれいなペダリングになるかなという感じです。あとどれぐらいの速さで回していくのが良いかというのもあります。一つは重いギアでゆっくり回す。それか軽いギヤでくるくる回す。2種類のこぎ方があるんですが重いギアで踏むと長距離で走っているとかなり後から負担がかかってきて走れなくなります。それは筋肉を使っている走り方なんです。筋肉を使った走り方は長時間もちません。早く回す方法というのは心臓を使って走る。心臓は1分間で平均60拍脈打ちますが、ペダリングは1分間で90回転ほど回します。これで永遠6時間ぐらい続くと心臓の鼓動よりも早いぐらいの回転で回してるんですが、これで全然疲れないので大丈夫な走り方になります。乗車姿勢ですがママチャリというのはどっかりとサドルに腰を落とした地面と背中が垂直のような姿勢ですよね。マウンテンバイクというのはもう少し前のめりな状態。クロスバイクはさらにもう少し前傾が深く。ロードは地面と背中が平行に近いような前傾。ロードでも走り始めの慣れないうちはハンドルの高さをもう少し高くして上体を起こしたアップライトなポジションで、徐々に慣れてきたら低くしていく感じで良いと思います。ハンドルの持ち方もロードバイクのハンドルはいろんな持ち方ができます。向かい風であれば風の抵抗を受けにくいようにハンドルの下の方を持ち、あとは変速機を使うためだいたいブラケット部分を持って走ることが多いですが、こういう形で同じポジションでずっと乗っているとそれだけ一部分の筋肉に負担がかかるので、それを分散するというか、ハンドルを持つ位置を変えることによって姿勢が変わって長時間のライドでの体の負担を軽減することができます。上体が起きた体勢ではほとんどおしりに力が行ってしまいますが、前傾が深い姿勢にすることでペダルとお尻とハンドルと体重が分散されるのでお尻も痛くなくなる。そういう効果もあります。ちょっと息が切れてきました。ウェアについては、私が今着ている服はウェア全般に安全のためにヘルメットやサングラス、グローブとかちゃんと着けるということは大事なのでそれはちゃんと着けていただきたい。どうしても自転車はコケるということは避けられないので、コケた時の対策をしておかないといけません。ウェアの生地は汗を素早くすって発散させたり、夏は涼しくて冬は暖かい生地が使われております。それから初心者だと必ず最初に訪れるのがお尻の痛み。とりあえずお尻が痛い。硬いサドルなので特にそうなんですがこういうサドルというのは必ずレーサーパンツを履く前提で、厚みが10mm 以上の低反発スポンジが仕込んであるという仕組みがあってぜひそういうロードバイクを乗られる時はレーサーパンツを着用していただいたら良いと思います。ロードのウェアがこれだけぴっちりというのはいつも風にさらされているもので、その風の空気抵抗を減らして、バタツキを減らしてストレスをなくす。快適に走るためにとても重要な部分です。ですから明日走りに行くんやけどもその時の気候、寒暖の差は?それからコース、そういうのをいろいろ考えて、明日はこのウェアでバッチリや!と決めて行こうというのを常にやっております。それにウェアは快適性だけではなくて自転車とのコーディネートやファッションとしても楽しむことができるアイテムやと思います。では実際に走り出した話になりますが、ロードバイクは2人以上で走る場合は助け合って走ることで、力の弱い人と力の強い人がそこそこ同じように走れる面白さもあります。ロードバイクの大敵は空気抵抗なので先頭を走る人は風を全身に受け止めて、ペダルは重くなり、前に進むのに力を使ってしまいます。そこで前に強い人が走って後ろに弱い人が走ることで後ろの人が風を受けるのを少しでも少なくして走れるようになります。これで後ろの人は前の人の6割ぐらいの力で前に進むことができます。風を受けて走るというのはそれだけでとても力を使うことになります。前の人が疲れてきたら後ろの人と交代することで走りながら体を休めることができて、そうすることで長距離を少しでも楽に走れることになります。何十万円のロードバイクをいきなり買うのは難しいですが、レンタルで一日だけ借りたりすることも最近はできるようになっていますので、もし興味があればそういうのを試されてはいかがかなと思います。11月の11日に琵琶湖を一周してきました。その時のビデオを見てください。ロードバイクの機材の一つにサイクルメーターがあります。もちろん必要であります。今、この自転車についてあるのはアメリカのメーカーのものですが各社たくさんの種類が販売されていて価格によって機能は何段階かありますが、表示されるのは時速(スピード)、時計、それからライド時間、心拍数、クランクの回転数、平均時速、消費カロリー、最高速。他にも気温や標高、坂道の勾配などいろいろ表示ができます。走っている時に全て見るわけではないので私は時速とクランクの回転数と心拍数を表示させています。心拍数は腕にはめる時計と同じようなもので心拍数を測るようなものがあります。ここから電波でメーターに飛んでモニターできるようになっています。走った距離や時間も知りたいですが、このメーターの一番魅力的な部分はGPSで現在地を補足して地図が出ます。ライドの後、家でパソコンで今日走ったコースが地図上に表示されて、どこを走ったか確認することができます。それとあらかじめスマートフォンのほうから行き先を設定して走りたいコースを決めておくことができます。そうするとサイクルメーターの地図上で走るコースが示され、いわゆるナビの機能があって非常に便利です。このメーターのすごくすぐれている部分は、これ専用のアプリがありまして、走りに行ったあと、どうしたいかというと記録に残しておきたい。今日はどんだけ走った。どういうコースを走った。そういうのが自動的に記録してくれる。そういう機能がすごく魅力的であります。例えば先程の動画のように琵琶湖大橋から上を回ったんですが地図が拡大されまして、詳しく見たいときは一周した記録が自動的に残ります。距離が141キロでアクティブ時間というのが実際こいでいる時間、5時間47分。平均時速は24.4km/h。上昇というのは獲得標高差といいまして、どれだけ高いところに上ったか標高差を足していった数値、そういう数字になります。心拍ゾーンというのは走っている間の心拍数をのんびりしている時からかなり追い込んでいる時まで何段階かに分けられていて、入力した年齢によって心拍数の範囲が区分けがされています。0~128拍まではのんびりしたゾーン、脂肪燃焼ゾーンは129~147拍、それ以上は追い込んでいるゾーン。こういう比率で走っているな、追い込まないで脂肪を燃焼させるゾーンでゆるゆると走っているな、というモニターができます。平均速度は24.4km/hで、最高速度で92km/hとか出てますがそういうスピードは出てないのでこれはちょっと誤作動だと思います。心拍は平均138の最大168、消費カロリーが4344kcalと表示されています。実際かかった時間は7時間57分なので休憩とか、いろいろな時間が信号で止まっているとか、そういう時間がまあ、2時間もあるというちょっとさぼりながら走っているということです。大変便利なメーターでございます。補給食とは走っている時に食べる物ですが、何を食べているかと言いますと実際にレースの時とは違って、コンビニもいろいろあるのでほとんどコンビニに寄って好きなもの食べております。例えば、琵琶湖一周したときには一番最初はマクドで朝マックを食べて、それから道の駅でおにぎりを食べて、最後もう1軒コンビニでパンとか食べて帰ってくるということですがその間にどうしても何かちょっとお腹がすいたなと感じるときはハンガーノックとか言われますが、低血糖状態になって、体を動かすのが、こうやる気がなくなるというか、テンションが下がってくる時がありますのでそういうことが来るかなと予感した時にはいつも背中のポケットにジェルというハチミツよりも甘くないんですがフルーツの味付けがされた液体状の補給食があり、これにカフェインが入っているタイプがあるので、これを吸って飲むとまた元気よく走れるようになります。自転車は消費カロリーが多いため、たまたま店が無い場所で空腹感を感じることもあるので、走る時は必ず後ろのポケットには二つ入れて走っております。では、よく言われる「自転車に乗って痩せるか」。これは多分、摂取カロリーと走る消費カロリーが一緒くらい食べるので、これはちょっとどうかなという部分なんです。ただ脂肪が燃焼して筋肉に変わるということがあるので、体重は一緒なんですけども脂肪と筋肉は脂肪が1に対して筋肉が3ぐらいの重さがあるので見た目は大分締まった体形になってくると思います。例えばタイプ別に競輪選手はどんな体型か。ロンドンオリンピックで銅メダルで2010年世界選手権で金メダルを取得した自転車のローベルト・ヘンスマー、筋肉ムキムキマンのすごい人です。これはトラックという特殊な競技で短距離をいかに速いスピードで、筋力でねじ伏せてスピードを出して勝っていくかという競技に特化された体なのです。これはツール・ド・フランスというレースで16ステージ走り終えた時の選手の足ですが、有酸素運動の究極というか、体脂肪が2%とか、すごく少ない。ロードレースのトップ選手は大体、平均で体脂肪5%くらいしかありません。一日に200キロ前後の長距離を毎日毎日走る競技に特化した体です。筋肉と骨と血管、それで補給さえしていればなんぼでも走れるというそういう足です。もう一つよく言われる「自転車に乗りすぎるとED勃起不全になるのか」ということですが私はそんな長い距離は走ってませんので、最長でも250キロぐらい一日で走ったんですけども、世の中には「ブルベ」の人々という、単独で長距離を走るという競技がありまして、日本でも行われていますが200キロを制限時間内に完走すると、次は300キロ走って、400キロ走って、600キロを走って・・・と1年間の間に全ての大会でパリにある本部から認定を受けるとクリアした人だけがフランスの「パリ~ブレスト~パリ」というパリからブレストまで行って帰ってくるという競技の参加資格が得られるという、4年に1回しか開催されない大会を目指して走ってる人たちがいまして、世界中のブルベ愛好者、約6000人が集まって1200キロを走ります。皆さん非常に元気な方が世の中にはたくさんおられるもんだなと思われます。多分これぐらい走るとEDにもなるかなという気もせんでもないですけども普通に乗っているぶんにはあまり関係ないかなと思います。今日は自転車について卓話2回目のお話をさせていただきましたけども前回の卓話で、昔は競技として激しく追い込んだ試合に出ていましたけども、今は純粋に自転車で走ることを楽しみにしていて爽快でのんびりとした気持ちで走っております。毎日の慌ただしい日常生活からほんの少し違った景色の中で羽を伸ばしていい気分転換になって程よく体を動かす自転車は健康維持のためにとても効果があると思います。心と体の健康のためにこれからも続けていきたいと思っております。長々とお話をさせていただきましたけどもロードバイクの魅力が少しでも伝わったら私としてもうれしく思います。今日はどうもご清聴ありがとうございました。