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違和感を抱かえる子どもたち

2020.2.27社会福祉法人あけぼの会登りこども園 教育コーディネーター出江英夫こんにちは。ただいまご紹介いただきました社会福祉法人あけぼの会の教育コーディネーターをさせていただいております出江英夫と申します。本日はこのようなお席でお話させていただく時間をいただきまして本当にありがとうございます。30分という短い時間ですけれども、皆さんもゆっくりされたい時間かなとは思いますが、少しおつき合いいただけたらなと思います。また明石家さんまさんが「ほんまでっか TV」というのをやっていますが、あれと同様「まあ、こういう考え方もあるのか。」というぐらいに聞いていただけるとありがたいかなと思っております。まずは先程も紹介していただきましたが、もう少し自己紹介させていただきます。私は昨年度まで行政と行ったり来たりしながら37年間体育教師として勤めて参りました。途中で一時小学校に行ったりしたこともございますし、府教委に2年、それから知事部局の方にも3年ほど行かせていただいたりして、宇治市では教育支援課というところで2年間お世話になったことがございます。今日はドレスコードがあるということで、散髪まで行ってきましたが、ふさふさとしている頃の写真なのでちょっと違うかな、女子のバスケット部を持ったり、男子のバスケット部を持ったりして18年間バスケットボール部の顧問をしておりました。野球部の方も3年間持たせてもらったこともあります。突然ですけどもみなさん方は部下の方をどのようにお呼びになりますか。「何々君」というふうにおっしゃるのか、或いは「何々さん」とおっしゃるのか、会社によっては呼び捨てで、「おい、何々」とおっしゃる方もおられるかもしれません。小・中学校時代はおそらく皆さん呼び捨てで、呼ばれていたのではないでしょうか。私なんかは「いずえ」と呼ばれていました。特に部活の時は呼び捨てされてこられたのではないかなと思います。私の場合は体育の授業でも部活でもほとんど呼び捨てでやっておりました。当時は自分自身の気持ちとしては、身内は何も敬称をつけないので身内のようなつもりで呼び捨てにして話をしていました。女子を持っても男子を持っても同じように呼び捨てでした。余談ですが中学校の体育教師は男性が多いので、自分の担任している学年は男子を持ちますけども他学年を持つ時には女子を持ちます。国語や算数、数学の教師でしたら自分のクラスを持って、自分の学年をもって、クラス単位で持ちます。体育の場合は男女別修でしたのでそのようになります。何気ない発言がハラスメントになるような時代ですから女子の授業を持つとなかなか大変でした。女子の水泳の授業を持ったことがありますが、水泳は見学する生徒が多いので、「何で見学すんねん」と聞くのにもちょっと気を遣ったような、そんなことを覚えています。例えば部活で女子の部を持ちますと、「足を痛めたからテーピングをして欲しい。」と申し出られることがあります。そう言われてもうかつに体にさわることができなくて、「ちょっとさわんで。」「足さわるで、どこが痛いんや。」というふうにやらないと後で何を言われるかわからない。本人との信頼関係はあっても、周りで見る人からは「何してるんや」という目で見られます。大変気を遣いました。その点、男子を持った時は気が楽でした。男女、こうも違うものかなと思ったのを覚えています。その頃は男性、女性ということをはっきり区別しておりまして、今からお話するようなことは全く気にしておりませんでした。話を戻します。一定の年齢になりまして、教頭として小学校に勤務するようになると自分のこれまでのことは棚に上げて、教員が児童をどう呼んでいるのかが大変気になりました。小学校に最初に勤めたのは、大学卒業してすぐに講師をした時です。京都市内の小学校に行きました。その頃は平の教員として入ってますので同じように呼び捨てにしていました。次に小学校に勤務した時は管理職、教頭で入りました。宇治市内の小学校でした。その時には、どう呼んでいるのかなと気になりまして、そう、呼び捨てにしているのが気になりました。教師は偉そうな言い方をすると感じられる方もおられると思いますが、そこでは呼び捨てにしていることがほとんどでした。自分が若かった頃と同じように親しみをもって呼び捨てにしているのかなと思われる場面もありましたけど、必ずしもそういう事ばかりではありませんでした。ところが、最後に校長として勤めた学校では子供を呼び捨てにしていませんでした。低学年は「君」「ちゃん」。高学年になりましたら「何々君」「何々さん」と呼び分けていました。叱るときは「何々!」と叱っていたと思いますが場面が場面ですのでそれはそれほど気にはなりませんでした。そんな時、ある新聞記事が目につきました。 「『LGBT』 は13人に1人いる」という見出しでした。皆さんご存知のとおり LGBT とは性的マイノリティーを指す言葉です。この割合はざっと 左利きの人と同じぐらいの割合だといわれています。改めて説明するまでもないと思いますがL はレズビアン、女性同性愛者、 G はゲイ、男性同性愛者、そしてBはバイセクシュアル、両性愛者ですね。Tはトランスジェンダー、出生時に割り当てられた性別と性自認が異なる人。これらの頭文字をとった呼称で、性的少数者、セクシュアルマイノリティーともいわれますがこれらの方々を指す言葉です。他にもインターセックス、これは体が男性でも女性でもない、男性でもあり女性でもある、医学的に男性と女性の区別に合致しない人のことで、染色体パターンや内外性器も男女の性別と区別できない状況の方もいらっしゃいます。それから他には、 Q、性的マイノリティーの総称でクエスチョニング、自分のセクシュアリティーを特定することを避ける人、嫌がる人、名づけようとしない人、Aアセクシュアル、無性愛者などもあり、これらを含む呼称として LGBTI LGBTIQs LGBTIQA  なども使われているようです。ある新聞に結婚している夫婦間でも相手には体を触れられるのも嫌だという方が、自分はアセクシュアルだとおっしゃっているという記事が載っていました。(改行)「性的指向」や「性自認」という言葉を使わせていただきました。  性の多様性について理解する指標としては、「性的指向」好きか、嫌いかという事ではなくて生来的に性に関する関心がどういう方向に向かっているのか。「性自認」自分がどのような性別であるか、又はないかについての認識。「性表現」髪型、服装、しぐさ、「性的特徴」染色体や生物学的な男女の違いです。筋肉量、体毛など。このように性の多様性を理解する上での四つの指標があります。今日、お話するのはその中でトランスジェンダーであるいう方のことが私の話の中心となっております。出生時に割り当てられた性別と、性自認、つまり自分自身がどういう性であると認識しているかということが異なる人のことを中心に考えております。性自認と性的指向は別物なのです。LGBT のLGBとTとは別物ですが性的マイノリティーとして一緒に扱われることが多く、生きづらさを感じているという意味では共通している面もあるので区別せずにお話をさせていただいております。さて、最近テレビではマツコデラックスさんに代表されるように女性の格好をした男性がテレビで活躍しています。女装家という表現をされる場合もありますが、例えば IKKO さんとか、りんごちゃん、はるな愛さんなんかもそうだと思います。皆さん、出生時に割り当てられた生物学的な性別は男姓だと公にされています。そんな中、ある番組でミッツマングローブさんが真面目な話で小学校一年生から性的違和感を覚えていたということをおっしゃっていました。私はショックでした。芸能的に男性が女性の格好をされているというように思っていた自分の中の認識が、実はそうではなかったんだというふうに思いました。清水展人さんという方がいらっしゃいます。長女として生まれましたが物心付いた頃から性自認が男性寄りだったとおっしゃっていました。これは岡山大学ジェンダークリニックを受診された方で、性同一性障害当事者の方に対して行われたアンケートです。その約7割が小学校低学年で性別違和感を持っていたと答えています。小学校低学年でとなっていますが、実際小学校へ入ってくる以前から違和感を感じていたと考えられます。これまで芸能界では美輪明宏さんとか、相当早い時期に性転換手術(※当時の表現を使用)をしたと言われているカルーセル麻紀さんとか、男性に産まれながら女性として活躍されていた方は大勢いらっしゃいますけれども、今ほどメジャーに、テレビに全面的に出て男性だと公にしながら女性を演じられた方というのはあまりいなかったと思います。女装されている方すべてが性別違和感を持っていらっしゃったかどうかはわかりませんけれども、これまで自分の中あった女装している芸能界の方に対する見方が少し変わりました。2001年のテレビドラマ「3年 B 組金八先生」で、上戸彩さんが性同一性障害の生徒を演じておられました。女性でありながら学ランを着て学校に来る事が許されていた生徒ということだったと思います。現実の世界にもこういう方がいらっしゃるんだということに改めて気づかされた、そういう瞬間でした。 振り返ってみますと平成24年8月28日に「自殺総合対策大綱」というのが閣議決定されております。ここでは自殺念慮の割合が高い人として性的マイノリティーへの配慮を求められました。平成29年、直近の改訂では、性的マイノリティーにかかる対策も1項目を挙げて明記されました。24年の段階では性的マイノリティーという言葉が出てくる程度だったのです。この29年の改定では完全に1項目を挙げて、「こういう方が、自殺念慮が高い。」というふうに配慮する対象として、そして具体的にどういうふうに対応していく必要があるかということ明記されています。また、27年ですけども4月30日に文科省から「性同一障害にかかる児童生徒に対するきめ細やかな対策の実施等について」という通知が出たんですが翌年教師向けにリーフレット も発行されています。これをきっかけに一部の学校では積極的に性的マイノリティーへの配慮が進められるような面もあったようです。ただし、私がこれまで関わってきた学校ではそれらに関する配慮というのは皆無でした。私自身もそのことが重要だということを十分に認識していなくて、一般の職員にもそういうことは伝えられていませんでした。でも、先程の記事を見まして、「授業中については子どもを『さん付け』で呼び、男女個別しないように。」という指示をしました。教師の世界は大変保守的なので指示をしてもすぐには実行できないことも多いのです。「大人になればみんな『さん付け』になりますよ」とか、「幼小連携のプログラム中で年長組の1月頃に指導する中身として、今は『ちゃん付け』で呼んでいるけども小学校に行ったら苗字を『さん付け』で呼ばれます、『何々さん』と呼ばれます。という項目がある。」という話も交えながら話をしました。予想どおり、先生方はなかなか改善に取り組んではいただけなかったです。特に若い先生方は、男子児童を『さん付け』で呼ぶことに抵抗がありました。これまで何の疑問もなくて、「何々君」「何々さん」と呼んでいたので、そこからなかなか抜けられない。それでも、ベテランの中で何人かの先生方が私の言っていることに理解を示してくれまして、積極的に『さん付け』で呼ぶようになり、徐々に定着していきました。それ以降、毎年、年度当初の職員会議で、「うちの学校では『さん付け』で呼ぶように。」と言いました。「児童の人格への配慮から、本校にもLGBT の児童がいる可能性がある。本人がそのことを明確に意識していなくてもこちらが区別することにより違和感を覚えている可能性がある。だから『さん付け』で呼びなさい。」というようなことで指示を出しておりました。校長になって3年目の年だったと思います。地域の校長会で児童の呼び方について話題になったことがありまました。ある校長先生が「本校ではほとんどの教師が児童を呼び捨てにしているが他の学校ではどうなのだろう。」という質問が出されました。その校長先生は、「呼び捨てはまずいやろう」と考えていたようです。もうすでにその頃本校では『さん付け』を始めてから1年ほど経っていましたので、定着しつつあった本校での『さん付け』のことについて「本校ではLGBT について配慮しています。『さん付け』で呼ぶようにと言っています。」と言いました。質問した校長先生は、そう言っていることは理解していただきましたが、「うちはまだそこまではなかなか行かないな。」ということで難色を示されました。「まだそこまでは」と言われたことにちょっとがっかりしたことを覚えています。理解が進んでないということです。でも、私自身もそんなことにがっかりとしながらも大きな見落としがありました。  年度末には職員と面談をします。その中である職員から「『さん付け』というのは指示なのでやるように努力はしているけれども、やはり違和感がある。」という話があったのです。性別違和を持つ児童に対する配慮が必要ではないかということを丁寧に話させていただきました。なるほどと一応納得してくれたんですが「では、黄帽はどうなんだ。」と問い返してきてくれました。これはありがたかったです。黄帽とは小学生が通学時にかぶる安全帽のことです。遊ぶときでも外に出るときには帽子をかぶるという習慣がありまして、例えば、女の子の黄帽は、ちびまる子ちゃんのようなハット形、男の子の黄帽は野球帽のようなキャップ型、これが学校の約束で決まっていたんです。もうここで男女の区別をしているではないかという指摘を受けまして、なるほど。「気付かへんかった。よう言うてくれたな。」という話ですね。本人にはできるだけ早く改善すると答えて、次年度から男女ともどちらを選んでもいいことに変えました。考えてみれば制服に違和感がある、苦痛を感じている、性別に違和感を持つ子どもたちがいるのだから、帽子で男女を区別する、呼び方で男女を区別する、そういうことに子どもたちは違和感、苦痛を感じているかもしれないということになぜ気がつかなかったかと改めて反省いたしました。もう一つ。性別違和を持つ子どもたちへの配慮として考えさせられたお話をします。私は以前、府教委で健康安全に関わる部署に所属していた関係で、全国の養護教諭の代表の方とお話する機会がありまして、中学校と高校の養護教諭の先生方とお話をしたことがあります。その際、保健室で受ける相談の話になって、トイレの問題が話題になりました。トランスジェンダーの生徒から相談があった時に、例えば体が男性で心が女性の場合、男子トイレも苦痛だし、女子トイレには入りづらい。カミングアウトしていたらまあ、それもできないことはないかもしれないけれども、公にしてなかったら余計にそうだということです。また、体の性が女性で、心の性が男性の場合でも同じです。お話した先生方の勤め先の学校のトイレは男女別で、多機能トイレも十分ではなかったそうです。最近でこそ、多機能トイレが独立して設置されているところもありますが、多くの場合、女子トイレの中に障害者用トイレがあり、男子トイレの中に障害者用トイレがある。これも十分に配慮されたことではあるのですけれども、これはあくまでも障害者に対しての配慮です。 これは、性的マイノリティーのトイレ利用に関するアンケートをあるトイレ機器メーカーがやったときのデータです。少なくとも中学生までに「体の性で割り当てるトイレの利用に抵抗感はありますか。」という問に、「ある」と答えているのが43%というデータが出ています。私の勤務していた学校では、全体で800人ほど子どもがいましたから全体としてトイレの数は少ないのですが、男子トイレと女子トイレの間に「どなたでもお使いください」という洋式のトイレがありまして、これなら男女区別なく使うことができると、言っていただきました。「あー、そういう考え方があるのか。」と改めて感じました。17年前にできた学校ですので、この時にLGBT について配慮されていたということは考えにくいので、おそらく障害を持った児童がトイレに行くとき、介助する側の教師が男性であろうが女性であろうが出入りに不便を感じないようにということだったんだと思うのですけれど、結果的には性別違和を持つ子どもに対しての配慮ということにもなっていました。先程もお話しましたが、清水展人さんは、子どもの頃から遊びの指向も服装も男性寄りで、性自認も男性寄りということでした。小学校でしたら普段は男女にかかわらずズボンをはいていてもいいのですが、親から、行事等の時にはスカートをはいてきちんとしてほしいと言われたのが苦痛だったとおっしゃっていました。ただ当時は「性同一性障害」という言葉も一般的に知られていなかったので、本人は自分をどう理解したらいいのかわからずに苦しかった話をされていました。周囲から理解されず、家族にも話せず、いじめられ苦しんでいた。そんな様子をいろいろと話していただきました。この方も私同様「3年B組金八先生」を見て「性同一性障害」という言葉を知り、初めて納得がいったとおっしゃっていました。先程来お話しておりました「『LGBT』 は13人に1人いる」という数字は2016年に博報堂のLGBT総合研究所がインターネットを通じて実施した調査の7.97%、約8%という数字を元に計算されていますけれども、つい先日、2019年1月に、国立社会保障人口問題研究所の研究チームが大阪市で調査を行った結果が3%だったと、大きく下方修正されました。大阪の住民台帳から1500人を無作為抽出で選んでアンケートを送ってした調査だから調査の仕方としてはこちらの方が信憑性があるということです。ただ、データ数としては格段に少ないです。一方同じ時期にLGBT研究所の調査では10%と数字はアップしています。このアンケート調査もマーケティングを目的とした調査ですのでどこまで信憑性があるかということはあるのですが、同じLGBT研究所のインターネット調査の中で、誰にもカミングアウトしていない当事者は78.8%という結果が出ていました。このようなセンシティブな話、調査は、「数字ではこんだけいるんや。」と言い切るのではなく、「少なくともこれぐらいはいる。」という見方をするべきではないかと私は考えています。3%でも100人いたら3人、800人の児童がいたらその中に24人いる可能性がある。10%なら10人、80人いる可能性があるということですから性的マイノリティーと言われる方がいないということではないんです。一般の方を対象とした調査の中では「性的マイノリティーは自分の側にはいない。」と答えた人が8割以上でした。大体の話はこの辺で終わりなんですけれど、先日、車を運転していたとき、部活の帰りだと思うんですけど、ある駅の近くで制服姿の2人の高校生が手をつないで歩いている姿を見かけました。自分も昔、彼女と一緒にこんなことをしていたなとふと思ったんですが、とても仲良さそうでほほえましかったです。想像してみてください。皆さんはどのような姿を思い浮かべられましたか。今こんな話をした後なので「うん?」と思われた方もいらっしゃると思いますが、実は私が見たのは同じ高校の男子の制服を着た2人連れで、2人ともズボンをはいていました。1人は少し髪の毛が長かったような気がしますけれど、その2人が手をつないで楽しそうに歩いている姿を見たんです。ちょうど、いろいろと本を読み返したりしていたところなんで、この子らも学校では生きづらさを抱えているやろなと思ってしまいました。すでに学校の中でも性的マイノリティーについての理解を進める教育は少しずつ行われてきております。今後さらに進められなければならないと思っています。来年度、東京お茶の水女子大は性同一性障害の男子を受け入れるというニュースが流れて他の大学でも検討が始まっています。また、奈良女子大でも受け入れるというような報道もありました。大阪の淀川区役所では全国の自治体で初めてLGBT支援宣言をしています。配慮の仕方についての動画を配信しています。海外では単数の3人称でもHeやSheを使わずにTheyという言葉を使う場合があることが辞書に載るという時代になりました。清水さんは「性は男性か女性かの2種類だという考え方、二元論だけでは語れない多様性があります。家族のあり方も様々あって良いはずです。」とおっしゃっていました。どうか、すべての子供たちがすべての大人たちが「男らしく」「女らしく」ではなく「自分らしく」生きられる社会でありたい。このように願っています。ご清聴ありがとうございました。

薬物乱用

学校薬剤師として伝えたいこと井上佳子 学校薬剤師の仕事は、学校の水道水やプールの水質検査、教室や体育館等生徒が使う教室の照度検査や空気検査、また、騒音、理科の授業に使う薬品や保健室で使う薬品のチェック等、生徒児童たちが生活しやすい環境を整えるために学校薬剤師が各校おかれています。そして、最近は小中学校で薬教育が学習指導要綱で義務づけられています。学校薬剤師はその薬教育の一環として、薬物乱用の授業も学校から依頼があれば行っています。薬には決められた用法用量(適正使用)があり、その用法用量を守らず服用しないと薬は害になります。薬は、適正使用することで、薬の効果を発揮するもので、あくまでも、薬は自身がもっている自然治癒力が働きやすくするためのサポーターであることを理解していただくよう努めています。薬物乱用授業の根底には薬の適正使用を理解することにあると私は思います。薬物乱用の入り口に未成年者によるたばこの吸引とアルコールの摂取があり、なぜ、未成年者は、たばこの喫煙とアルコールの飲酒が禁止されているのか、身体にどうゆう害があるのかを伝えます。特にたばこは血管を収縮し、いろんな病気を併発する原因なので、なるべく、大人になっても吸いたくないように思える授業を心がけています。たばこもアルコールも、また、吸いたい、飲みたいと依存してしまい、なかなかやめれないもので、大麻や覚せい剤等の危険ドラックも依存してしまうため、一度手を出すと、やめれないということにつながります。このような意図で私は学校から依頼されると薬物乱用授業をおこないますが、今、特に、日常の薬剤師としての業務で気になることは、向精神薬や睡眠薬の服用者が年々増えていることです。それだけ、生きづらい世の中になっているのかもしれないですが、指示通り服用していないような患者さんも事実、見受けられます。あちこちの診療所、医院、病院をめぐり、睡眠薬や向精神薬を処方してもらう、あるいは、医師が処方する処方箋を偽造してまで、薬を手に入れようとする人もいます。闇で売買されているのか、指示通りの服用では効かないから多めに服用したいがために、そのような行為にいたるのか、わかりませんが、世の中にはこういう現実もあります。それが事故や犯罪につながり、社会への悪影響も与えます。幼少期から1日3回バランスのとれた食事をとり、しっかり睡眠とり、規則正しい生活がいかに大切で、そのことが、心の健康にもつながり、将来、心も身体も強い大人になってもらうことを願い、今後も、学校薬剤師として、少しでも子供達の成長のお役に立てれば幸いです。

「地区学友会について」

2020.2.20~自身の経験をもとに~国際ロータリー第2650地区 地区学友会ロータリーフェローズ 会長 吉岡毅ただいま紹介いただきましたロータリーフェローズ吉岡毅と申します。よろしくお願いいたします。今日はロータリーフェローズ2650の取り組みについて皆様にご紹介をさせていただきたいと思っています。まずは私の自己紹介をさせていただきます。今、中島さんからもご紹介をいただきました1933年平成5年の12月5日に生まれました26歳です。仕事は春日大社で秘書をしております。私は2009年に奈良市立一条高校インターアクトクラブに入りました。そこから活動して参りまして2012年からは大学の進学とともにローターアクトクラブに入りまして、2016-17年度にライラを受講させていただきましてインターアクトクラブとライラの学友ということで2016年に発足いたしました地区学友会のメンバーでもございます。今日は地区学友会について皆様に知って頂こうということで参りました。ロータリー学友という言葉はあまり皆様には聞きなじみがないかなと思います。このロータリー学友という言葉が出て参りましたのは2014年10月27日から30日までの間にアメリカのイリノイ州エバンストンで開催されましたRI 理事会がきっかけでございました。RI 理事会の決定38号でロータリー学友という定義を作りまして「ロータリー学友はロータリーファミリーの価値のある一員である。彼らはロータリーの価値を共有しロータリープログラムへの参加経験を持っている。学友と各プログラムを通じてロータリーを経験した個人を指すものである。」こういうふうに定義づけをされました。それまで学友と聞かれますと米山奨学生とか、財団の奨学金プログラムで留学に行かれた方が帰ってこられると学友と言って各クラブで卓話をされたり、各地でロータリーの学友として活動されておりましたけども、それ以外のプログラムでもロータリーの経験を持っている人たちが沢山おられる。ということで、こういうロータリー学友という定義ができまして活動を進めていくということになって参りました。この決定を受けまして私どもの地区では12歳~18歳まで高校生が入りますインターアクトクラブ、18歳〜30歳までが入りますローターアクトクラブ、それから高校生の時に海外に滞在する青少年交換、20代の若い人を指導者に育成するライラ、それからロータリー財団、米山奨学会、この6つのプログラムをあわせまして2016-17年度にこれらの経験を持つ人をまとめてロータリーフェローズという形で学友会を作ろうと活動をし始めました。いろんなプログラムに亘っておりますとインターアクトクラブを卒業したばかりの方は18歳の大学生や社会人になったばかりような方々ですし、ロータリー財団の奨学金プログラムで留学に行っておられた方というのは、大学の教授をされている60歳ぐらいの方もおられる。なかなか幅広い世代が集まっているんですが、私たちは各プログラムからの学友を集めて幹事会を作りました。それぞれの学友たちの取り組みを共有しながら独自の活動をしていこうとガバナー事務所を借りしまして幹事会を月に1回開催してこの組織を運営しています。2014年に定義ができましてから最初にこの学友会を作ろうと動き出したのが刀根ガバナーの年度でございました。2016年7月から地区学友委員会というのが地区に出来上がり、既存でありました財団学友会、青少年交換学友会と米山学友会の3つに青少年プログラムを修了された方々を加えて「どういう学友会をこれから作っていくか」会議を重ねていきまして、2017年3月5日に最初は「地区学友連絡協議会」という名称で各学友会の橋渡しをするような会といして設立レセプションションを行いました。この時に会長として京都西ロータリークラブのロータリアンで元ローターアクターの山崎功詔さんを会長に6名のメンバーが役員になりしました。最初6名というのは各プログラムを網羅しておりませんでして、そこからいろんな方に声がかかりまして私も2017年5月に初めてインターアクトクラブの学友ということでこの会に参加しないかとお誘いを受けまして参加をさせていただきました。そういうことで各プログラムから出て来ていただいた学友の中で動いてくださるような方を幹事にしようと6月17日に「地区学友会」と名称を改め「ロータリーフェローズ2650」という呼称をつけて設立総会をして、実質の活動は2017-18年度から開催をすることで進めました。RI もこういう地区の学友会という組織を認証していくような取り組みをはじめました。私どもは日本で二番目に当時の RI 会長より認証を受け、RI学友会のネットワークにも加盟した正式な学友会として活動をさせていただいております。最初にできました学友会は隣の大阪の2660地区学友会で、これもロータリーフェローズ2660と呼びます。このような学友のことをロータリーフェローズと呼ぼうという動きは各地に広がり、各地区で学友会が出来ています。近年ですと2710地区(福岡)、2720地区(熊本・大分)もロータリーフェローズ2700、ロータリーフェローズ2720と、学友会をロータリーフェローズという呼称で作るという動きができてきております。私どもも日本で二番目ですが、2650地区は様々な方がすぐにご協力をいただいて設立当初からいろんな事業をすることができました。そうなりますと国際ロータリー世界本部との繋がりもできました。2017年11月にはRI 職員で学友担当が来日され、私どもの取り組みの取材をされました。逆に RI の取り組みを伝えていただくということでラジオに出演をする交流もしていただきました。それ以来2650地区とRI 世界本部とが緻密に繋がっております。いろんな活動をするにしてもRI といろんなことができる仕込みもできが上がってきております。どのような活動をしているかですが、まず2018年からロータリーの特別週間に「ロータリー学友参加推進週間」というのが10月7日を含む1週間と決まっております。これは学友とロータリーを「再びつなごう」ということで英語ではRe Connect Weekと申しまして、1週間を学友が参加推進をするための週間にしようと決まっております。2650地区の学友会では様々な方を集めてまずは学友同士の顔を知るということと学友とロータリアンの繋がりを再び持とうということで、京都から奈良へバスを出し奈良の社寺を回るエクスカーションをさせていただきました。この時は東大寺と唐招提寺、私どもの春日大社を回らせていただきました。各社寺の長老がロータリアンということで長老に直々にご案内をいただき、東大寺では大仏様の膝下まで上げていただくという貴重な経験をさせていただきました。再びしばらく離れていた学友とロータリアンとの交流、現役プログラムの時はお知り合いにならなかった方々との交流を行いました。参加していただくことによって新しい仲間を作ってということで活動させていただきました。その他に奉仕活動といたしまして、四条のマルイ前でポリオ撲滅運動にみんなで取り組もうと募金活動をしました。当時の中川基成ガバナーも写真に写っております。元インターアクターですとかローテックスとか、様々な世代の方が同じ赤いTシャツを着て立ち募金活動を行いました。立ち上がって数年ですのでこんな活動があると知っていただこうとメールマガジンを会員に配信しています。例えば、ロータリー地区大会がこの日にありますよとか●●クラブさんでは●●活動で人を集めておられますよ、言うことを定期的に発信しまして、興味ある方に参加してもらう。参加された方には SNSでリアルタイムな活動の様子を配信して、学友が再びこのようにして活動していることをご紹介しております。それに加えまして地区のホームページにもページを設けております。私どもがどういう活動をしているかということが載っておりますので、ぜひ一度見ていただけたらと思っています。加えて、この学友会の活動が活発ということでガバナー月信やロータリーの友またRI のWEB サイトにも活動の様子を掲載していただいております。私たち幹事会はいろんな会に参加し、このフェローズという名前を広めようと、今日のように貴重な時間をもらって卓話をしたり、地区行事でのお手伝いなどをさせていただき、フェローズてなんだろうということを知って頂こうと活動しております。またIMやインターアクト地区大会、ローターアクト地区大会を回わってのPR 活動、それから最近では他地区の学友会との交流。いろんな人材が学友会にいますからその学友を要望のあるクラブへ卓話講師の派遣をやっております。ここからは、なぜこういうふうな学友会の活動を熱心にするかという話を私の経験を交えてお話したいと思います。学友にはそれぞれ何か活動を通してロータリーに感謝をしておりまして、ロータリーでの縁を更に繋げていきたいと考えている者が多いと思います。私自身もロータリーとの関わりは高校生からです。2009年に奈良市立一条高校に入学するまでは、ロータリーと縁の深い家ではなく、父は大阪でサラリーマン、母はパートタイマーで働く主婦です。小学校、中学校と進み、高校に進学する時に、市内でも一番人気のあった高校に行きたいなと心が動き、進学をしました。入学してからは、クラブ活動が活発な学校で「クラブ活動をしなさいよ」と担任の先生から言われ悩んでいたところ、下校中に友達が「吉岡君、クラブ活動決めた」と尋ねるんですね。「いやまだ決めてないねん」と言いますと「インタークラブってあるねん、ぜひ参加しないか」と誘われました。吹奏楽部とかバレーボール部であれば想像がつきますが「インターアクトクラブって聞いたことはないなぁ」と思いました。「それはどんなクラブ」と聞きましたら「ボランティアするんや」と言われたんです。その当時はボランティアということを考えたことはなくて、今でこそそうは思いませんが、当時はなぜ人のために学校終わった後、活動をせなあかんのだろうというぐらいのことを思っていました。「いやぁ、そんなクラブどうなんやろう」と言っていたんです。実は友達はお父さんがロータリアンで高校へ入ったらインターアクトクラブに入れよと言われたので入る気は満々。私はそうじゃなかった。最寄駅で電車を降りたところで「よしジャンケンしよう。負けたら一度、活動に来い」ということでじゃんけんをいたしました。このジャンケンが私の運命を変えました。このジャンケンに負けたおかげで今ここに立っております。私が人生で初めてロータリアンに出会いましたのは校内清掃でした。僕の最初のロータリアンへのイメージというのは同じブルゾンを着たおじちゃん。その活動に行くと先生、先輩はわかるんですけども、何人か青いウインドブレーカーを着たおじさんがいまして一生懸命、掃除をしてくれるんですね。「この人は誰なんだろう、すごく活発的なおっちゃんがいるもんやな」というのがロータリアンの最初のイメージでした。じゃんけんに負けて活動に参加したのですが、意外と「いろんな世代の方と交流して活動するのは楽しいな」とその経験をもとにインターアクトクラブに入りました。奉仕活動に自分が主体的に取り組むようになったのは、2010年でした。このせんとくんというキャラクターで有名になった平城京遷都1300年というお祭りがありました。その実行委員長が朝廣佳子さんという奈良のロータリアンです。この方が、天平行列を高校生1300人を集めてやりたいと思っているとインターアクトクラブに協力を求めに来られました。私は奈良市内でも大阪に近い西側に住んでおり、いわゆる奈良府民と呼ばれるような地域でして、奈良のことは全然知らなかったんですね。友達と「奈良も頑張るんやな」と一言ポツリと言いましたら「そういう意志のない人は来てもらわなくて結構です」とおっしゃいました。僕はまだその時ロータリアンのすごさは全然知りません。「何や、このおばちゃん」と思い、一度行ってみようと参加しました。そしたらいきなり「なぜ平城京遷都1300年がこんなにめでたいのか知ってるか」と尋ねられたんです。僕が「都ができたからと違います?」と答えると「全然わかってへんわ」と言われ「勉強せよ」と言われました。ボランティアでこういう活動をするにも必ず歴史の背景とか、いろんなことを学んでやらないとダメだと。「ただただ活動するだけやったら何も意味がないやん」とおっしゃいました。ああ、そうかと思っていろんな勉強もさしていただいた。そういう経験を経ていろんな人と一緒になってやるのがすごく楽しい。交流ができるクラブって楽しいなと思っていました。それでずっと活動を熱心に続けてきました。高校3年生で初めて奈良ロータリークラブで卓話をしました。その時に「天平祭に関わってよかった」と話しました。「私もあのような人について将来頑張っていきたいと思います」とスピーチを締めくくりましたら朝廣さんが座っておられました。その後、龍谷大学に進学し朝廣さんに連絡しました。ローターアクトクラブという18歳から30歳が入るクラブがあるからそれに入って頑張るんだよと言われまして入会しました。ローターアクトクラブに入りますと地域の活動に参加させてもらえます。奈良には春夏秋冬イベントがございます。その全てに朝廣さんは関わっておられるんです。春になりますと5月に平城京天平祭があるから実行委員会に、夏になりますとなら燈花会があるから実行委員会へ、秋には春日野音楽祭があるからお手伝いを、冬にはなら瑠璃絵があるからお手伝いを、と春夏秋冬で奈良に関わることになりました。ローターアクターとみんな一緒に参加しました。こうした活動では地域の方々と出会うんですね。そうするとロータリアンが多いんですね。インターアクトの時には奈良ロータリークラブのロータリアンしか知らなかったんですが、奈良東・奈良西・平城京・奈良大宮と増えていき地域で活躍する「ロータリアンってすごいなぁ」と思いまして、将来はロータリアンになりたいなと思うようになりました。京都で一つ素晴らしい出会いをいたしました。千玄室さん、私はこの方に会う機会があったんです。「誰かから戦争体験を聞いてきなさい」と大学のゼミの教授に言われました。で、私はどうしようかなと思って友達と相談をしておりましたら、たまたまテレビで千さんが戦争体験を話しておられました。私は本当に常識がなく知らなかったんです、裏千家というところはいかに素晴らしいか。テレビに出ている千さんを見て友達に「おい、この人、ロータリーで見たことがある。パストガバナーや」と。私の提唱クラブにも中野重宏パストガバナー、岡村吾郎パストガバナーという方がおられて、とても気さくに接してくれるお爺さんなんです。なので「パストガバナーだからきっと話を聞かしてくれると思う」と友達に言えば「テレビに出ている人に話が聞けるなんてすごい。頼んで来てよ」と言われて、提唱クラブのローターアクト委員長に電話して「千さんに話が聞けないかな」と言ったら、「やめなさい」と一言言われました。僕は千パストガバナーがどいう方かを知らないので「なんでやねん」って思いました。これはローターアクト委員長だからアカンのか。年が離れすぎているからなと勝手に解釈をしまして提唱クラブの会長に頼みました。そしたら、「お前にな、千さんが話したろうって言わはったらええちゃう」と言わました。それは「やめとけ、話も聞いてもらえへんぞ」という意味やったと今、思えばわかるんですけども、私はそうか、話を取り付けて来たらええんかと勘違いしまして、京都ロータリークラブの例会に行くしかないと水曜日に例会場のホテルオークラに行きました。今でも覚えています。紙に千玄室様と太いマジックで書いて絶対見逃されたらあかんぞと待っていました。入ってこられる京都ロータリークラブの方々にあの子は誰やと見られながら待っておりました。遠くからお越しになる姿を見て大変なことをしたと気がつきました。でも、千さんに一言、「ローターアクトなんですけども」と言ったら「おぉ、アクターか。僕はロータリアンだから話を聞いてあげましょう」と仰って立ち止まってくださった。「戦争のお話を聞きたい」と申しあげまして、後日お話をする機会をいただきました。この時にはロータリアンとローターアクターってこういう関係で恐れ多いことを言ったけどもちゃんとこうやって話を聞いてくださるんだなとそう思ったことが記憶にございます。後日、裏千家の兜門の前に立ったときには震え上がりましたがお話を聞かせていただきました。このことで奈良ロータリークラブでは「千さんに話を聞いたんか」と驚かれ、地区でも千さんから話を聞いたらしいなということが広がりました。これがきっかけになり全国のロータリアンと出会うようになりました。今では南は九州から北は福島県までお知り合いを作ることができるほどです。それに加えまして、ローターアクトでは同世代の友達が世界中に出来ました。国際大会の大会前会議やアジア太平洋地域の会合に参加すると全世界からローターアクターが集まってきます。そのような出会いがありました。ロータリーがいろんな縁を作ってくださっていると今でも感じております。このように頑張っております姿を神様が見てくださっていたのでしょうか。浄土真宗の学校に行った私ですが神社に奉職しました。就職活動をしてなかったのではなく、別の会社で内定をもらっておりました4回生のあるとき、例会に出席しましたら「ところで就職活動をしてどこへ行くの。」「ちょっと東京に」と言ったら「ええ、奈良から離れるの」とみんなに言われました。春日大社の宮司さんに声を掛けていただいて最初は冗談かなと思ったら職員さんから電話で「春日大社を受ける気はありませんか」と言われまして12月に急に内定をいただいた会社を蹴って春日大社へ奉職しました。春日大社に奉職してからもロータリアンの素晴らしさを実感しました。神社の総代や責任役員は、ほとんどロータリアンです。やはりロータリアンって素晴らしいなと改めて実感しながら仕事でもロータリーを活かしております。私は15歳のときにインターアクトクラブに入りました。30歳でローターアクトを卒業すると15歳から30歳までの15年間、人生の半分はロータリーと関わり育てもらいました。僕にとって最初のロータリーへのイメージは憧れだったんですが、それは今も変わりません。どこのクラブへ卓話に行っても、それぞれの地域のリーダーが入っておられるのを感じます。私も30歳になれば、次はロータリアンにと思って、大学2回生の頃から「ロータリアンになりたい」と言い出しました。ある時「ロータリアンになるだけでいいのか」と尋ねられ「ガバナーになりたい」と言い出しました。私は今では「RI 会長になりたい」と思っております。「僕の人生を見てくれたらロータリーが素晴らしいということがよくわかる」ということをRI会長になったら世界各地でスピーチをして、新しい人を、新しい世代をロータリーに結びつけたいと考えております。このようにロータリーに熱い思いを持っている人が学友会にいると思います。学友はロータリーで様々な経験をさせてもらって、様々なことを得てきている。そうするとやはりロータリーにその恩を返したいなと思っています。そういう人を集めて学友会をやっているということでございます。最後にお願いになりますが、皆さんの周りに学友に該当する方がおられると思います。そういう方を1人でも思い出したら「フェローズに参加してみないか」と声をかけていただきたいと思います。入れば熱心に活動をしなくてはいけないではなく、登録をしていただくことで、こちらから活動情報を送れるようになります。その情報を得て自分がやってみたいなと思ったら参加をしていただく形を取っておりますので、もう一度ロータリーと縁を持つ機会として学友会を使っていただけたらと思います。私はこの会に関わるようになってから、米山学友とかロータリー財団学友の方とご縁が出来ました。ローターアクトの例会に学友をお呼びして卓話を聞いたりしております。1人でも多く再びつなげて、この活動を盛り上げたいと考えております。宇治鳳凰ロータリークラブさんでも、一度関わった方々をまた再びロータリーにつないでいただければと思っております。今日は30分の貴重なお時間をいただきありがとうございました。

豊国神社とその歴史

2019年8月8日神職豊国神社権禰宜 田中神社禰宜大島大直 皆さんこんにちは。高いところから失礼いたします。石津君から紹介に預かりました豊国神社の権禰宜の大島大直と申します。本日は30分程どうぞよろしくお願いを申し上げます。本日私がお話をさせていただきますのは普段ご奉仕をさせていただいております京都は東山区にございます豊国神社のお話でございます。場所的には京都国立博物館の北隣にございまして大和大路通りに面しております。三十三間堂とか京都国立博物館のほうは割と人が行きましてワイワイとしておりますけども一歩中へ入りますと豊国神社あたりは割と静かなところでございます。ちょうど正面通りに面してございますので住所的には大和大路正面と言うことになります。今日お話させていただきます豊国神社でございますけども京都の皆さんは大体、豊国(ほうこく)神社豊国(ほうこく)さんというふうにお呼びになります。正式にはと豊国(とよくに)神社と申し上げます。お祀りしている神様は皆様よくご存じの豊臣秀吉公をお祀りしている神社でございます。秀吉公のお墓も当所にございます。秀吉公はご生前のことはドラマでありますとか小説でありますとか、いろいろなことで皆さんよくよくご存知かと思いますけどもお亡くなりになった後どうなったかということは皆さん意外と知られない。お墓もどこにあるのということで知らない方が結構いらっしゃいますので今日は亡くなった後、死後の豊臣秀吉公についてお話をさせていただきます。秀吉公は慶長3年の8月18日、西暦1598年京都伏見城において数え年63歳、満62歳でお亡くなりになります。当時朝鮮出兵中でございましたのでその死は極秘ということになりまして、亡くなられたということは伏せて朝鮮から撤兵すると言うことになります。その死が公表されましたのが翌慶長4年の正月元旦です。そして東山阿弥陀ヶ峰という山がございます。こちらのほうに秀吉公は葬られるわけなんですけどもこの阿弥陀ヶ峰に葬られたというのは秀吉公の御遺言なんです。御遺命と言いますけども、遺言によって阿弥陀ヶ峰に葬られます。この阿弥陀ヶ峰という山、これは奈良時代に行基というお坊さんが阿弥陀さんをお祀りしたので阿弥陀ヶ峰といますけども平安時代は鳥辺山と言われております。鴨川から東側は今の七条とかあたりは鳥辺野と申しまして、その中心地が鳥辺山、平安京の葬送の地であったわけであります。源氏物語では葵の上や夕顔が荼毘にふされた場所でもありますし、歴史上の人物でいいますと藤原道長でありますとか、その息子の頼通さん、この鳥辺野で荼毘にふされ宇治のお墓に葬られたと言うことになります。清少納言の枕草子にも出て参りまして峰は阿弥陀の峰と書かれております。大変、形の美しいきれいなお山でございまして昔から有名なお山でございます。こちらの方に秀吉公は葬られることになります。この阿弥陀ヶ峰という名前から秀吉公はこの山を選ばれたんだと思うんですけども秀吉公は死んだ後、神様として祀って欲しいとご遺言される、で、その神様というのが八幡様。八幡様というのは武神でありまして武の神様であります。その八幡様の新しい神様、新八幡としておまつりして欲しいという希望があったようでございますけども八幡様というのは存じのとおり応神天皇のことであります。朝廷はやはり当時から秀吉公の出自ということはよくよくご存知でございまして、陛下と同じ八幡という神号を名乗らせるのはちょっと問題があったようでございましてあらたな神号を秀吉公に与える。それが豊国大明神という御神号でございます。神様としてのお名前ですね。この豊国というのは豊臣の国と言うわけではございません。これは古事記や日本書紀では日本の国名を豊葦原瑞穂国、豊葦原中津国、このように書かれております。この一番上の豊、一番下の国を取って豊国なんです。ですので秀吉公は天下を統一された方でございますのでその統一した天下を末永くお守りくださいと言う願いを込めて朝廷は秀吉公に豊国大明神というご神号を賜ったわけでございます。今風に言えますと日本神社、日本大明神みたいな名前がついたお社でございます。そして秀吉公は豊国大明神というご神号をいただかれ、正一位の位をいただかれます。正一位豊国大明神として京都東山阿弥陀峰の中腹に創建されました豊国神社で神様としてお祀りされるようになります。そのお祀りされるようになったのが西暦1599年、慶長4年4月18日のことでございます。4月の18日が豊国神社のご鎮座日ということになります。現在でもそうですけども4月の18日は阿弥陀ヶ峰の秀吉公の墓前で毎年お祭りが行われ、表千家、裏千家のお家元が隔年交代でお献茶をされております。豊国神社は豊臣家がその創業者であります秀吉公をお祀りするために創建した神社でございますので大変巨大で豪華な神社でございました。その境内の広さは30万坪と言いますから約100万平方メートル、東京ドームにするとだいたい21個分ぐらいの広さでございます。この境内の中には現在もございます三十三間堂、智積院、養源院、妙法院、そして方広寺大仏殿、これら全部がその境内地に取り込むという巨大な神社でございます。そしてご鎮座日であります4月18日、そして秀吉公がお亡くなりになりました8月18日、この2日間を例祭日と定めまして毎年朝廷からは陛下のおつかいであります勅使が参り、また大阪からは豊臣秀頼公の名代の大名の参拝があり、また町衆の参拝で大変にぎわっておりました。中でも慶長9年、1604年の8月に行われました豊国大明神臨時祭礼というお祭り、こちらは空前絶後の大祭礼であったというふうに伝えられております。で、本日、当社の宝物としてその様子が描かれた豊国祭礼図屏風についても少しお話をさせていただきます。向かって右側が右隻、左側が左隻、六曲一双屏風でございます。まずこの屏風につきましてお話させていただきますとまずこのお祭り、豊国大明神臨時祭礼というお祭りなんですがこれは京都でも毎年ありますような祇園祭、葵祭等、毎年行われるようなお祭りではなく、たった一度きりのお祭りでございます。このお祭りを記録に残そうということで、施主であります秀頼公が片桐且元を奉行としてお祭りを行います。そして片桐且元はその記録として当時の豊臣家のお抱え絵師でありました狩野内膳重郷という人物にこの屏風の作製を命じます。ということでこの屏風は豊臣家オフィシャルによる祭典の公式記録と言うことになります。文章としては信長公の伝記を書きました「信長公記」という本があるんですがその作者であります太田牛一という人が「豊国大明神臨時御祭禮記録」という書物でも残されております。文章と 絵の両方が残されて空前絶後の大祭礼は記録されているわけでございます。詳しく見ていきますと右隻側、中央の上のほうに大きく描かれている建物が昔の豊国神社でございます。三十三間堂があります。その上の屋根が養源院さんの屋根です。馬の行列が入って行こうとする門があります。この門が今の七条通に立っていたものです。場所的には大和大路七条の交差点のところ、国立博物館の西南の角です。大仏前交番というのがあります。あの辺り今、西之門町と言いますがこの門があった場所でございます。この門は今も現存しておりまして移築されています。皆さんもよくご存知の東寺さん、正門の南大門、1号線に面して立っているものがこの門です。東寺さんは鳥羽伏見の戦いで南大門とか近くにあります八幡宮とかが焼かれているんですけども、明治時代に方広寺西大門を移築して現在も残っています。もともとは慶長5年に豊臣秀頼公が作られた門でございます。今も三十三間堂の南大門、それに続く太閤塀というのが重要文化財として残っております。それに連続してあったものがこの門でございます。馬の行列が描かれております。これは神官と楽人さんによります二百騎による馬揃えの場面であります。馬揃えと申しますと京都で織田信長さんが行なった馬揃えが大変有名でございますけども、その規模をはるかにしのぐ馬揃えが行われております。建仁寺を出発いたしまして大和大路を南下、先程の門をくぐって神社にお参りをして照光院というお寺で終了という行列がありました。続いて能楽猿楽です。舞台上では4人の翁面をつけた人物が能を奉納している場面です。この能を奉納しておりますが、大和猿楽4座合同です。金春、宝生、観世、金剛、この4座があわせて三番叟と思われる能を奉納しております。そして門の右左には御簾の下がっているところがあります。その下に桐紋の幔幕がついております。ここが豊臣家のお席です。この中には豊臣家の北政所様、当時は高台院さんと言いますけども豊臣関係の皆さんがこの御簾の中から能楽をご覧になっているという場面が描かれております。この能舞台のあるのが京都国立博物館の本館あたりです。今本館の発掘調査をしておりますけどもこのような遺構が出てこないかなと楽しみにしています。豊国定舞台と呼ばれておりまして秀吉公は大変お能が好きな方でございましたので毎年4月、8月の例祭のときには必ず能が奉納されておりました。続きましてご覧いただきますのが門の下の階段の下で坊主頭の人が何か投げています。ここは田楽を奉納している場面です。この坊主頭の人が投げているのは小刀でございまして今で言うナイフのジャグリングみたいな出し物があります。田楽座の中には品玉師(しなだまし)という人がいらっしゃいましてその中の刀玉という出し物を奉納している場面でございます。豊国神社の昔の本社でございます。権現造りと申しますけども、京都でいいますと北野天満宮さんの国宝の御本殿がございます。この御本殿は慶長12年に豊臣秀頼公が造営になったものですがこの御本殿をさらに規模を大きくして黒い漆を塗って金箔をバンバンと貼って彫刻で一杯飾るとこんな神社になります。後世に徳川家康公を祀る東照宮がこの形式を使ったために東照大権現をお祀りする神社の形式が権現造りと呼ばれるようになりました。東照宮はこの豊国社を、形式をそのまま踏襲しておりまして権現造りの最初のほう、始まりの部分の建物ということでございます。もし残っていれば世界遺産に間違いないだろうなというような建物がありました。この建物があったのが今の秀吉公のお墓の下に太閤垣という広場があります。そちらの方に建っていたわけです。東山七条から京都女子大学のほうへ上がっていく坂道のことを女坂と呼びますけども、あの坂道の突き当たりでございます。あの坂道は通称女坂といいますけども、正式には豊国廟参道になっておりまして、当社の敷地でございます。続いて左隻です。有名なのが風流踊りという踊りが奉納されているところでございます。輪になってみんなが揃いの衣装を着て踊っているという場面でございまして、当時上京から2組、下京から3組、1組300人構成です。それが5組でましたので1500名の人たちが出たわけです。それぞれ豊臣家からお金が出ていますので、揃いの衣装を作り傘鉾という傘を真ん中に立てて、その周りで踊る。私たちは豊国踊りと言っていますけれども、当時は風流踊りといいます。風の流れと書きまして風流(ふうりゅう)と書きますけれども、読む時には風流(ふうりゅう)踊りというふうに呼びます。この輪になって踊るのが今も残る盆踊りの原型であり、これが阿波に伝わり阿波踊りになるわけであります。大変有名な屏風でございますので教科書なんかにもこの場面はよく載っております。大変面白い人物が描かれております。ちょっと画像が荒いので見にくいかもわかりませんが、この三角形の人物、これはタケノコの着ぐるみを着た人物です。今でいうゆるキャラみたいなものです。当時は「一つもの」と呼ばれまして、南蛮人の仮装でありますとか、七福神、あとは鍾馗様とか、そういった様々な仮装した人物が出てきます。その中でもとりわけ珍しいタケノコの着ぐるみを私たちは「タケノコ男」と呼んでおりますけども、これでちょっとキャラクタグッツなども作ったりしております。祇園祭にも孟宗山があるのをご存知の方がいらっしゃるかもしれませんが、中国の書物に24編の孝行話を記した二十四孝という書物がございます。その中に雪中のタケノコというお話がございます。ある時、真冬に年老いたお母さんがタケノコを食べたいとおっしゃるわけです。息子の孟宗という方が無理だと思いながらも山の中を雪をかき分けてタケノコを探しに行く、そうすると天の神様がその孝行な心に感じてタケノコを生やしてくれたというお話があります。おそらくそれを題材にした扮装だと思われますけれども、秀吉公はお母様であります大政所様を大変大切にされた方でございますのでおそらくそういうこともあってこのタケノコ男の扮装が出てきたんだろうなと思われます。 それぞれの団体が控えているところでございまして、南蛮人の服装とか中心には傘鉾という大変飾った鉾を立てて待機をしている場面です。狩野内膳の落款も入っております。そしてこの部分、皆さんよくご存知の清水寺です。赤い建物は清水寺の名前の興りとなった音羽の滝。この舞台は徳川将軍3代の家光公が造営になったものです。その一代前の清水の舞台と言うことになります。ここに描かれている欄干に乗っかった子供、この子供は実は人間ではございません。蹴鞠の精霊なんですね。この欄干に乗った子供を見て驚いているという場面なんですけども、この蹴鞠の精霊が出た時には国家安泰天下泰平であるというお話が清水寺にございまして、それが絵の中に描きこまれているという場面でございます。このように細かく見ていきますと大変楽しい屏風でございまして、通常当社にお越しいただきますと宝物館の方でご覧いただけます。宝物館の方は拝観料300円です。300円でこの立派な屏風がご覧いただけますのでぜひお参りいただきました時にはぜひ宝物館の方も合わせてご覧いただきたいと思います。このように繁栄をしておりました昔の豊国神社ですけども慶長19年、1614年の大阪冬の陣そして1615年翌年の大阪夏の陣で豊臣家が滅んでしまいますとこの神社は廃社ということになってしまいました。これは幕府の命でそういうことになってしまうんですが社領地も没収、みんな追放と神社も燃やしてしまえというような命令がくだされるんですけども当時まだご存命でありました奥様、北政所様が徳川家康さんにお願いをされまして何卒ご本殿だけ残して欲しいというお願いをされます。家康公はとりあえずそれは聞き入れられますけども参道はふさがれてしまいますし、壊れてきて修理もできない、お参りできないという状態になりにして、だいたい江戸時代の中頃にはもう草むらに戻ってしまいまして跡形もなく無くなってしまったようでございます。そして江戸時代はこの神社なかったわけでございますけども、明治になりまして明治天皇が豊国神社の復興の御沙汰を出されます。それを出されたのが実は大阪でして、大阪で神社を再興しましょうという話に一旦なります。やはり秀吉公といえば大阪城、大阪というイメージがやはり明治の初めの頃の人たちにもあったわけでございまして、それを聞いたのが京都の皆さん。もともと京都にあってお墓も京都にあるのだからということで大運動をなさいます。そして京都だ、大阪だという引っ張り合いがございまして、とりあえず明治6年に秀吉公墓前をもって別格官幣者という大変高い社格でもって神社は再興されます。そして新しい御社殿を建てなければいけないと言うんですがそれが京都、大阪を張り合っていたんですが、明治8年にとうとう国の方から命令が出ました。方広寺の大仏殿跡地に神社を再興しなさい。大阪にはその別社を作りなさいと言う命令がくだされた。そして明治8年に大仏殿跡地に決定されまして工事が始まります。そしてでき上がりましたのが明治13年のことでございます。西暦で言いますと1880年、現在の豊国神社は再興されましてこれで名実ともに秀吉公が27.07復興になったということになります。そして合わせて秀吉公のお墓のほうも何とか整備しなくてはならないということでございまして、阿弥陀ヶ峰のほうにもやはり再興の手が入ります。それには莫大な費用がかかるということで明治23年に豊国会という奉賛団体が東京本部で作られます。会長には黒田さん。黒田官兵衛の子孫の方です。そして副会長には蜂須賀さん。蜂須賀小六ですね。子孫の方がなられまして明治の元勲と呼ばれる伊藤博文とか山県有朋、井上薫、そういった方々がメンバーになりまして募金活動を始めます。明治31年がちょうど秀吉公のお亡くなりになって300年という記念の年でございます。その年までに何とかお墓のほうの整備をしましょうと言うことになりまして募金はあっという間に集まりまして整備が始まります。そしてでき上がりましたのが今の豊国廟、大体明治35年頃の写真でございまして、これは女坂です。今は見る影もありませんけども東大路通りから石段を一直線に山のてっぺんまで作りまして、てっぺんに秀吉公のお墓が作られます。設計は伊藤忠太という方です。山のてっぺんには五輪の塔が建っています。これが秀吉公のお墓ですので写真ではあまり大きさはわかりませんけども高さ約10m あります。五輪の塔としてはおそらく日本一大きな五輪の塔です。機会がありましたらこのお墓の前まで行けますのでぜひお参りをしていただきたいと思います。ここに上がっていただくためには約500段の石段を登っていただくことになります。夏の暑い時はちょっと避けていただいて気候の良い時にぜひお参りいただいたらと思います。大河ドラマとかでいろんなドラマで秀吉公の役をされる方、大概お参りに来られます。秀吉というドラマが何年か前に竹中直人さん主演でありました。あれ以来竹中さん毎年お参りに来られます。いつもこのお墓の前までに来てお参りして帰られますね。一方本社の方ですけども豊国神社本社にお越しいただきますとまず目に入るのがこの唐門という門でございます。この内側には普段お入りいただけません。ご参拝いただく時には賽銭箱の前でお参りをしていただくことになります。この唐門は国宝でございます。元は伏見城にあったものだというふうに伝えられております。伏見廃城後は京都二条城二の丸庭園の入口にありました。そして二条城から今度は南禅寺金地院に移されまして明治になりまして豊国神社のほうへ移築されてきた。これだけ大きな建物が何度も引っ越しをしております。もちろん昔は新築するよりも移築した方が簡単ですのでバラしてまた組み立ててということを何度も繰り返して今に残るという建物は沢山ございます。京都では国宝の三唐門、また京の三唐門と言いまして当社の門、それから西本願寺さんの唐門、それから大徳寺さんの唐門。この三つの唐門を京の三唐門と言います。大徳寺は聚楽第、西本願寺と当社は伏見城の遺構とそれぞれ伝えられております。唐門と申しますのは正面についております屋根の形、弓なりの形を唐破風と呼びます。この唐破風がついている門のことを唐門といいます。これが正面についてますと向かい唐門、これが横についていると平唐門と呼びます。その代表的なものが醍醐寺三宝院さんの唐門です。桃山時代の大変豪華絢爛なものでございまして沢山の彫刻がついております。彫刻に関しましてはよくご存知の左甚五郎です。ちょっと立派な彫刻がついているとすぐ左甚五郎の名前がでてきますけども、先日、日光東照宮に行って眠り猫を見てきましたけども甚五郎さんの彫刻だというふうに当社も伝えられております。門の左右の扉についております彫刻。鯉の滝登りの彫刻です。鯉は龍門の滝をのぼって龍と言われております。つまりこの門をくぐると出世する、登竜門となっているわけです。5月5日のこいのぼりも同じ意味でございます。そして屋根の蟇股の左右には鶴の彫刻があります。鶴は子孫繁栄の象徴でございまして、実はこの鶴には目の玉が入れてありません。甚五郎の目なし鶴という名前がついております。これは目の玉を入れると命が宿って飛んでいってしまうから入れなかったんだよと言う伝説つきでございます。実はこの豊国大明神と書かれているこの額の左右に今の鶴の彫刻があります。この額の裏にはその中に小さな鶴がいます。そういう彫刻があるんですけどもその額があるためにその彫刻まではご覧いただけませんけども、この額は慶長12年に時の天皇であった後陽成天皇が豊国神社に奉納されたものです。昔の豊国神社が廃社となった後は妙法院に伝えられておりまして現在の豊国神社が再興された時に妙法院から返却されたものが今の国宝唐門にかけてあるというものでございます。今の豊国神社はこの方広寺大仏殿跡にこざいます。この門のあるところに今、神社の鳥居がありましてその前の石段、その左右の石垣が今も残っております。お越しいただいた時にはこの昔、大仏殿の跡であった今の豊国神社、お参りいただきまして、隣には方広寺というお寺があります。昔有名な方広寺大仏殿の国家安康の鐘が野ざらしで置いてあったという写真でございます。昭和48年まで胸から上だけの大仏殿が方広寺に残っておりましたがこれも昭和48年に燃えてなくなってしまいました。大変残念なことなんですが方広寺の大仏は大変災害に合う大仏でございまして昔から地震雷火事親父、いろんな災害を受けている大仏です。京都の皆さんは京都の災害を一身に背負って代わりに受けたんだというふうに伝えられております。そういうことも思いながらこの大仏殿周辺、秀吉公の遺跡が沢山ございます。またお越しいただきましたらぜひ当社にもお参りいただきまして400年前のことを思っていただければなと思います。本日はこうやってご縁をいただきまして皆さんの前でお話させていただきました事を大変光栄に存じます。暑さがこれからますます厳しくなって行きますのでどうぞお身体ご自愛のいただきましてこれからの活躍をお祈り申し上げます。本日はご清聴誠にありがとうございました。

50歳代からのセカンドステージ

~趣味と暮らしの両立~美術教室「京都水彩画塾」塾長 藤田和平皆さんこんにちは。ただいまご紹介に預かりました藤田和平と申します。石澤君とは洛南高 校時代からの同級生でして、かれこれ付き合いは40年くらいになるでしょうか。 私はその後京都新聞社に入社しまして、この7月3「目で早期定年退職を選びました。 30数 年間新聞記者として報道の第一線でやって来ましたが趣味がございまして一つは絵画、もう一つはゴルフです。ゴルフでご飯は食べて行けませんので第二の人生は60歳で定年してから、子供を中心とし た水彩画の普及と絵画の探求をセカンドステージの元にしようと思っていました。後進を育て終えたり、ちょうど私の-一つ年下の後輩が今年の株主総会で京都新聞社の社長になったり 役員になったりしましたのでちょっとうるさい先輩がいても大変でしょう!という事でいいタイミングだと思いまして4年の任期を残して辞めました。 7月31日に辞めまして翌日の8月1日に失業保険をもらうことなく絵画教室を開業いたしま した。じゃあ新聞記者35年やって来ましたけれど、なぜ絵画なんだ?と皆さん不思議に思われてよく質問されます。新聞社のイメージというのは例えば事件記者であるとか経済記者、宗 教、大学、市政、行政担当などいろんなセクションがあります。そうそう報道カメラマンや スポーツ記者もいます。私がずっといましたのはグラフィック担当という所でした。何をす るかと言いますと、新聞というのは文字と写真、それ以外に実は地図とかカットとかデザイ ン物でできています。 4コマ漫画もございます。そういうものを作画担当するグラフィック記者として30数年やって参りました。この仕事は珍しくて、日本の新聞社の中でも約2~300人ぐらいしかいないと言われていま す。その中でも特筆すべき普通の方ではできない仕事として法廷イラストがあります。被告 人の似顔絵を描く記者席があり、そこから主に殺人事件の被告の似顔絵を描く訳です。常に 後ろ姿しか見えませんし裁判官の顔しか見えません。ですから刑務官と一緒に入廷して来 る、ものの3~4秒の間にどういうそぶりをしているか、どういう表情をしているか?と言 うものを一瞬に描く。で法廷の最中に描いて、描けたら途中退席して本社に似顔絵を伝送して朝刊、夕刊に間に合わせる。そう言う仕事をして来ましたので退職後水彩画教室を開くというのはあながち門外漢では無いとも言えます。そういう意味では今までの長い職業人生の中で新聞記者という仕事と好きな美術、それか ら下手くそなゴルフなんかをうまくやってこられて非常に幸せだと思っています。 これからは人生80年90年時代と言われていますので 次のステージは、この世界で飯を食 って行きたい、もしくは子供の絵画の普及に努めたいと言う大きな理念を持って今ここにおります。 で今回、石津君からロータリーさんで卓話をとお話を頂きまして、僕なんかめっそうもないとお話ししたんですけれども、こういう機会を頂きまして本当にありがたいと思っています。会場に3~4点原画を持って来させて頂きました。つい先日まで滋賀銀行の醍醐支店さん で個展をやらせて頂いておりまして、その時のオーダーで滋賀と京都の風景を描いて欲しいと言う事で描いた水彩画です。次に本日の卓話のテーマの一つであります「水彩画の魅力と歴史」についてお話しさせて頂きます。絵画には大きく分けて油絵と日本画と水彩画があります。また技法別に別れていまして、例 えばテンペラ画であるとか版画であるとか浮世絵であるとか、水墨画であるとかいろんなジャンルがあります。油絵と言うのはクルミとか宝石とか岩を砕いたものを植物油に混ぜて、マーガリンとかマヨ ネーズのような粘度を持たせてキャンバスに塗って描いて行きます。これは非常に持ちがいいんです。写真の無かった1500~1600年代ぐらいに主に宮廷画家により開発されたとも言われています。なかなか乾きませんので大きなキャンバスに描くとか、聖堂の天井壁画に描くとかいうもので非常に高尚な絵画と呼ばれています。今でも美術オークション市場でも何億、何十億とかという値段で取引されるようなジャンルです。次に日本画ですが、日本画と言う言葉ができたのはまだ昭和に入って戦前ぐらいです。それ までは大和絵と言われていました。大和絵の中にも浮世絵であったり水墨画であったりといろいろありまして、 2~3年前に流行りました「琳派」ですね、泡坂芳一とか俵屋宗達とか 伊藤若沖とか、これもみな大和絵と呼ばれてました。 今は大きく総称して日本画と呼ばれております。西暦「500年前後に洋画が空前の大ブーム を起こす訳です。そこに100年ぐらい遅れて日本画が発達して来ました。日本は当時鎖国をしていましたので当然タイムラグがあります。私が描いている水彩画ですが、これは「800年の歴史があります。アルタミラのラスコー洞 窟の壁画がそうですね。水を溶剤として描く絵画と言う意味ではこの洞窟の壁画にさかのぼります。その当時は油絵もありませんし、日本の顔彩なんかも無かった。歴史として一番古いのが実は水彩画なのです。ただオークションとか収集家の中ではやはり油絵とか日本画よりもちょっとランクが下に見られます。技法は一緒なんですけれど。 それはなぜかと言いますとやはり持ちの悪さですね。紙に水で濡れた絵具で塗りますのでどうしても退色性とか腐食性があるという事で軽く見られる傾向にあります。それはちょっと水彩画家として活動している僕としては悔しいなあと言う思いがあります。ただこれはいい紙ができたりいい絵具が出来てくると自然に問題が解消されると思っています。メリットデメリットで言えば油絵を始めようと思えばかなりの出費が必要ですし、後片付 けがものすごく大変です。日本画は下地作りをしなければなりませんからそれもまた。 その点水彩画はものすごく安価で道具を揃えられますし、絵手紙で有名なこのハガキサイズ一番大きなものでも私のこの作品の様に2時間程度で描く事が出来ます。ただやはり油絵と比べてどうしても、ああ水彩画家かと言うような言われ方をしてしまう。 水彩画もすごいんだよ、子供さんもお年寄りも老若男女問わずに取り組める美術なんだよという啓蒙もこれからして行きたいなというのも今回の画塾の開講の目的の一つでもあります。じゃこれからもし習いに行くとしますとなかなか油絵は敷居が高い。日本画はもっと赤い。水彩画は人気があって敷居が低いんでしょうか。開講しまだよちよち歩きの状態ですけども 手応えは感じておりますし、時代も今、各書店の美術コーナーへ行っても水彩画の教本がものすごく多いです。先日みやこメッセで開かれました画材祭りといういろんな画材の展覧会では水彩画の道具が すごく多かったです。人生80年90年時代と言われている中で日本の人口は1億2000万、 3000万人です。しかも3人に1人が65歳以上という高齢社会になって来ています。調べてみますと、この65歳以上の方の習い事率が実に50%を超えているそうです。いわゆる会社を定年し第一線から退かれた先輩たちの半分が習い事をされている訳です。その中でじゃあ何をなさっておられるのかと言うと、男性は資格習得系が多いので例えば京都検定を勉強しようとか社会保険労務士を取ろうとかいろいろありますけれどそれはまず省くとしまして、あとスポーツクラブも省くとしまして1位が男女共に英会話教室。 2位は女性が生け花男性が書道、 3位は女性の絵画、男性は写真、そして男性の4位に水彩画というリクルートの結果が出ています この他に50~100の習い事がありますが、65歳以上の方が水彩画を始める方が多いと言う のも手応えで感じ取れます。もう一つ。私の教室ではジュニアクラスを用意していますが、逆にこのクラスが少ないんで す。なぜかと言いますと最近は紙に手で書くと言うよりもタブレットとかパソコンで直接電 子ペンで書く、その方が家が汚れないと言う親御さんがたくさんおられますのでちょっと悲しいなと思っています。 私の教室に来てもらえば大きな紙と世界中の画材に触って頂いて、手で描く感覚や紙の匂い、絵具の匂い、そういうものを感じて欲しいなと思っています。僕も教室の休みの日にはゴルフも行きますしいろんな事をしますけど、やはり一番多いのはイーゼルを持ってスケッチに行く事なんです。スケッチと言いましても小さなコンパクトパレットをポケットに入れてA3やA4ぐらいのスケッチブック、あとは鉛筆1本。これだけで自転車とか事、バス、電車で京都滋賀へと、行って無い所が無いくらいにスケッチをしています。当然ここ宇治界隈も有名どころは全部描いております。世界遺産の平等院や宇治上神社は中では描けません。醍醐にも醍醐寺がありますがイーゼルを立てて描く事は禁止されています。鉛筆はOKだけれども絵具はだめと定められています。でも汚れない絵具もありますし、水が-滴も落ちないようにしても描けますので、寺院の中でもちょっとスケッチさせて 頂けたらなって、こういう活動もこれからやって行きたいと思っています。話は変わりますが、水彩画には大きな効能があるそうです。まず頭や体が休まる。瞑想状態 で良いアイデアが生まれる。心と体に新鮮な活力が生まれる。精神が安定する。それだった らテニスもゴルフも音楽でも一緒ではないかと思いましたがちょっとニュアンスが違う事がわかりました。例えば音楽は脳の活性とか安眠、精神安定など良く似てはいますが体の治癒が目的で使われることが多いそうです。 一方水彩画はアイデアが次々と湧いてくると言われています。確かに外で描いていますと対象物の森や家を見ながら、この山の向こうには何があるのかな、その向こうに川があってそこにはどんな生物がいるのかなと手を動かしながらいろいろとアイデアが湧いてきて次にそちらへ行きたいなとしばしば思います。 ゴルフだと爽快感はありますが、とりあえず入れ入ればかりでアイデアは確かに湧いてこないなあというのがぼくの感想です。そういう意味でも水彩画は自然の中でスケッチしたりお年寄りや小さな子供でも関係なく進めて学んで行けるものです。非常に頭を活性化する、アイデアも出る、精神的な安定も得られる。ですからこれらの啓蒙と普及活動ももっと 行って行きたいと思っています。日本でじゃあ誰が水彩画の第一人者かというと、別にこれは葛飾北斎や伊藤若沖でもないんですね。これはやはり昭和に入ってからですが、いわさきちひろさんが日本の第一人者じゃないかと言われています。協会や団体がありませんので裏が取れていませんが僕もそう思います。日本には有名な作家さんがおられますが、水彩画は油絵とは大和絵、日本画とは違う進化を するのではないかと思っています。 いわさきちひろさん後はじゃ誰が?となると次は手塚治虫さんなんですね。漫画とものすごく密接な関係がある。油絵を描くための下絵として水彩画が用いられてきたという西洋の歴史とまた違って、アニメの発達した日本においては、アニメの下絵として水彩画が使われてきました。そういう点ではいわさきちひろさんの次は手塚治虫さんでありジブリの宮崎駿さんじゃないか。でそうこうしているうちに50年60年、いわさきちひろさんも没後何年か経ちますけれども、いずれにしても歴史としてはここ70~80年以内の話ですね。昨今水彩画のブームが到来したと言われております。先ほどの耐久年数の話ですが、油絵で600年、水彩画で200年と言われております。それはまあテクノロジーの発展でどんどん改善されて行くと思います。もう一点、緻密な描写ができないとか言われていますが、いやいやそうじゃないんですよと 言って描いたのがこの3点です。絵を自慢する訳ではありませんがここまで詳細に描けま す。またかかっている経費というのは多分紙代も入れて1000円もかかっていません。それ から大きな作品ですが全て2時間以内で完成します。これは油絵ではできないこと。京都のしかも伏見の醍醐地区の水彩画の第一人者としては、安くて短時間で緻密な絵が描けるんだという、こういう活動も画塾の生徒さんとともにやって行きたいと思っています。今、左京区岡崎の京都市美術館が改装工事をしています。今の予定では2020年の3月21日にリニューアルオープンとなっています。ネーミングライツで今度、京都市京セラ美術館という名前になります。当然いろんな過去の工芸、絵画以外の美術品を収集するのが美術館の 仕事なんですが、京都市美術館の美術品収集方針というのが新しく策定されまして、その中で非常に面白い点が三つあります。 一つは絵画美術品、二つ目は江戸後期の何々とかありますがもう一つは現代美術において新たな展開を見せる作家作品に注目して収集するという一文が加えられました。来年の3月リニューアルオープンですが私の作品なり、私の塾生の作品などが将来京都市京セラ美術館に収蔵されればいいなと期待しております。ちなみに3月21日にリニューアルオープンした後の7月はドラえもん展が開催されます。デパート、百貨店で行われるのではなくて京都市美術館で行われる。これはとても大きな意義があると思います。先ほど申しましたように 漫画やアニメとやはり密接に関連している証と言えます。ドラえもんの原画が美術館で見られるというのも本当に面白い時代になりました。そういう 時代にあって僕も水彩画の普及、創作活動に邁進して行きたいと思います。画塾の経営もなかなか大変な時代でして、日本中に同業者なり同僚、友人がいますが彼らもまたしかりです。 1年2年と腰を据えながら経営を軌道に乗せて行って、その理念にも結びつけていきたいと思っております。本日はお招きいただきましてありがとうございました。南郷会長、石津君お世話になりまし た。今後も宇治鳳凰ロータリークラブ様の益々の発展と会員の皆様のご健康ご多幸をお祈りして今日の卓話を終わらせていただきます。 本日はどうもありがとうございました。

少子化に関わる京都府の取組等について

2020.1.30 ~子育て環境日本一の実現に向けて~西田一慶皆様こんにちは。今日はこのような機会を賜り大変ありがとうございます。私は偶然ですが宇治市民でございまして、それから貴クラブの名称に宇治鳳凰がついてございますけれども、私の妻が平等院で働いています。何かご縁があるのかなと大変喜ばしく感じております。資料を使ってお話します。お付き合いください。京都府の少子化の取組ということですが、少子化と高齢化はセットであります。宇治市もご多分に漏れず少子高齢化が大変進んでおりまして、国勢調査の平成27年の数字ですが、宇治市の人口は18万4千人ほどになっています。10年前の平成17年と比べると18万9千人で、5千人ほど人口が減っています。これは宇治市だけではなく、京都府全体もそうですし、日本全国でもこのように少子高齢化が大変すごいスピードで進んでいます。1ページです。京都府全体の人口推移ですが、一番最近のデータ、2015年、京都府の総人口は260万人です。約100年前の1920年の人口は128万7千人でした。この約100年間で京都府の人口は2倍になっていますが、それぞれの年齢区分でみますと、65歳以上の高齢者人口は100年前はわずか6万5千人でした。100年間で総人口は2倍になりましたが高齢者人口は11倍となっています。高齢化は、医学の進歩であるとか、元気で働く方が増え大変喜ばしいことだと感じております。ただ一方、少子化で0~14歳の子どもの人口がこの100年間で総人口は2倍になっているのに42万人から32万人まで、子どもの人口だけが2割以上減少しています。京都府の人口は2015年あたりがピークで、推計人口になりますがあとはどんどん減っていく、もう総人口も減って高齢者人口だけが増え、地域経済の活性化とか、そういった所に繋がる15~64歳の生産年齢人口や子どもの人口が減っていくというのが少子高齢化の状況になります。2ページ、京都府の出生数です。毎年生まれる京都府全体の人数は50年前の1970年が一番ピークで毎年4万人ほど生まれていました。ところが2018年では17,909人で半分以下に減少しているところです。これは全国でも全く同じような状況でして、さらにもっと昔のデータを見ますと1940年代の後半に第1次ベビーブームがありました。その時には全国で270万人の子どもが生まれていましたが今、2018年は100万人を切っていて91万8千人で少子高齢化の現況が伺えます。3ページです。合計特殊出生率といい、特に少子化の時によく使われるデータです。これは1人の女性の方が生涯の間に出産することが見込まれる子どもの数です。全国47県の出生率は全国平均で2人、核家族化と言いますか、2人を切っている状態、全国平均で1.42人で一番高いのは沖縄県で1.89、京都府が1.29、全国で45位になっています。全国1億2千万人がこれからも経済がそのまま維持されるためには、この合計特殊出生率が2.07でないともうどんどん人口が減っていって経済も停滞していくと言われています。当然結婚とか、出産はご本人の意思ですので昔のように産めよ、増やせよはできませんので、結婚され妊娠し、出産を希望される方の希望が叶うことができる率ということで国は1.8を目標として掲げています。4ページの婚姻件数です。これも50年前の1970年がピークで22,621組の方が結婚されていました。2018年は11,491人で半分程度まで減っています。5ページの50歳時未婚率ですが、50歳の時点で結婚を一度もされていない方の割合です。これも京都府の数字ですが年々上昇していまして2015年で男性22.7で5人に1人が50歳の時点で結婚されていません。女性の場合は15.8となっています。ただ、今まで申しあげました出生数や婚姻件数が減っている暗い話ですが、ではまだ結婚されてない若い方で結婚したいか、思っていないか、実は京都府で数年前にアンケート調査をしました。6ページです。将来、結婚したいと思う割合は、すぐにでも結婚したい、いずれは結婚したいを合わせてはおりますけれども8割以上の男女はやはり結婚したいと思っている人が多いのが現実です。ただ、それが未婚であるとか、晩婚の形に繋がっているのが現状です。7ページです。ではなぜ結婚しないのか。結婚したい割合と同じように京都府で結婚を希望する条件を聞いています。やはり一番多いのは経済的に余裕ができること、自分の希望の条件を満たす相手にめぐり合うこと。そういった機会がなかなかないということです。8ページです。結婚している方の理想とする子どもは何人ぐらいですかの問いに、先程京都府の合計特殊出生率は1.29でしたが、男女ともに条件が許せば持ちたいと考えている子どもの数は2人以上となっています。9ページの全国のデータですが、子どもがいてよかったと思うことのアンケート調査が行われています。その中で一番多いのは、子どもの成長に喜びを感じる。次に、子どもとの触れ合いが楽しい。子どものおかげで家庭が明るい。子はかすがいと言いますが、次のようなデータがあります。10ページです。子どもを育てていて負担に思うことや悩みはどうかという調査では、子育ての出費がかさむ、やはり経済的な負担が多いことが子どもを育てていて負担に思うことや悩みの一番となっています。次に多いのが、子どもと過ごす時間が十分に作れない。これはもしかしたら長時間労働とかいったことが影響しているかもしれません。11ページです。休みの日に夫が家事や育児にどれだけ時間を割いているか。それによって2人以降がどれだけ生まれているか。出生の状況ですが見事に家事・育児の時間が増えるほど、第2児以降の出生が増えているデータが正比例に出ております。12ページです。今までの少子化の現状をまとめますと、京都府の合計特殊出生率は45位ということで、若い世代の未婚化、それから結婚されても遅いという晩婚化、晩婚化になりますと当然初めての子どもを出産するのが遅くなりますので晩産化ということで、京都府は厳しい状況であるといえます。特に若い世代、25歳~39歳の女性の未婚率が高く、京都府の43%は全国で45位になります。女性の平均初婚年齢及び第1子出産年齢が年々上昇してこれも全国46位、45位になっています。13ページです。このような状況の中で、京都府がどのような取り組みをしてきたかと言いますと、やはり一番最初の結婚ということで、出会いから行政がここまでするのはどうかと意見がありますが、京都府では婚活を応援するセンターを平成27年につくっています。このセンターで身近な、おせっかいなというか、おじさん、おばさん、要は見合いを紹介してくれたりすることが昔はよくありました。そういった方たちの知恵とか経験を活かして婚活マスターさんという形で登録してもらっています。この方々が京都府の研修を受けて出会いを求める方を、婚活応援センターで会員の登録をしてもらって、そういった方たちの出会いやマッチングをさせていただいております。平成27年にセンターができてから4年間で約600組が結婚されました。14ページ、次は、妊娠・出産です。現状と課題なんですが少子化、核家族化が進む中、結婚された方が子どもができ、赤ちゃんを抱くのは、実は初めてという方が7割おられ、今まで赤ちゃんを近所を含めて甥っ子や姪っ子も抱いたことがない、自分の赤ちゃんが初めてだと。当然そうなると初めての子育てになり、不安や悩みで子育てが大変だと聞きますが、そういうことに繋がるのかなと思っています。もう一つは地域の繋がりが希薄化している。4人に1人は子育ての悩みを周りに相談できる人がいないという声があります。また、府の全国でトップクラスの取り組みとして不妊治療がございます。1回何十万円もかかったり、1回の治療ではなかなか子どもに恵まれないので複数ずっと通院しなくてはならない大変厳しい治療であると聞いています。府の出生の今や9人に1人がこの不妊治療によって妊娠されているデータもございますので治療費の補助であるとか、力を入れているところです。15ページ、妊娠・出産の次は子育てです。待機児童があり、保育園が足りないと新聞等でも言われています。京都府でもまずはこの待機児童ゼロに向けて、保育所等の環境の整備、それから箱物ができただけではだめですので保育士さんとか、保育人材を確保して定着していただく施策を進めるとともに、この子育て世代の方のお金がかかるという経済的な負担を軽減する施策をいろいろと実施しているところです。16ページです。若者が初めて赤ちゃんを産み、抱っこしたのが自分の子どもが7割というデータを紹介しましたが、小学生、中学生、高校生、大学生ですね、そういった方に結婚のこととか、子育てについて触れられる機会、そういった気持ちを持ってもらえるような機会の提供も府は取り組んでおります。例えば、小学校、中学校では教育委員会と連携して助産師さんをお招きしたり、高校生の場合は産婦人科医さんをお招きして、妊娠、出産に関する知識を学んでいただいたり、あと赤ちゃん連れのお母さんが学校の中に少し空き場所があれば、そこで赤ちゃん連れの親子の居場所を作っていただいて、そこに児童生徒さんが休み時間とか放課後にちょっと覗いてみる、今、自然な形で赤ちゃんと交流ができないか、取り組みを始めています。それから大学生の方、2回生、3回生、4回生ぐらいからもう就職で頭がいっぱいになります。就職したら今度は、目の前の仕事で頭がいっぱいになって、いざ結婚しようという時にはもうちょっと早くいろんなことを知ってたら良かったと言う話もございますので今、大学生のライフデザイン、人生設計のそういった機会をつくることもやっております。例えば、大学生がインターンシップで企業、事業所に行かれた時に、そこの従業員の家庭にインターンシップが終わった時にちょっと寄って、その子育て家庭のお母さんのお話を聞いたり、小さなお子さんの面倒を一緒に、例えば、保育所のお迎えを手伝ってもらったりしてインターンシップのときに子育てを体験してもらう事業をやっております。17ページです。児童虐待は大変悲惨な事件がございますが、こういった問題についてもまずは未然防止、それから早期発見ということで、力を入れているところです。18ページ、教育の関係です。京都府の全国の学力や学習状況の結果は高水準の位置にいます。今年の4月から小学生から新学習指導要領が始まります。新しい要領に基づいて ICT 、パソコンや電子黒板を活用した授業を進めたいと考えています。19ページ、企業の取組です。若者が経済的な不安定とかいったところがあるのでなかなか結婚にも結びつかないということもあります。従業員が安心して結婚し、子どもを産み育てながら働ける環境整備が必要と考えています。府は、特に若年者の非正規雇用が多いということですが、観光産業等も多いなど構造上の問題もあると聞いています。例えば、正規雇用の拡大に向けた人材育成、就業支援の強化とか、人材確保・定着支援のため、大学生、専門学校の時に借りていた奨学金の返済の負担を軽くするために企業と府で半分っこするという助成もやっています。20ページです。このような厳しい状況の中、府もいろんな施策を打ってきていますが、さらに昨年9月、子育て環境日本一を目指すんだということで、社会全体で子育てを見守り支えて温かい子育て社会を実現したい。子どもは社会の宝です。そして子育てにやさしい環境は子育て世代だけではなく、例えば、ユニバーサルやバリアフリーの施設ができれば、それは子育てのお母さんだけが便利になったりするだけではなく、高齢者とか障害の持っている方もそう言った整備があれば皆さんも助かりますから、そういった子育てにやさしい環境は、すべての世代にとっても暮らしやすい環境になると考えています。府では昨年9月に、そういったことを今後進めていくために大きな方向性を示すため「京都府子育て環境日本一推進戦略」をつくっております。21ページですが、その戦略をつくる前に、子育てしやすい職場をいっぱいやって行こうじゃないかということでいろんな取り組みを企業の協力を得てやっています。子育てしやすい職場は子育て世代だけではなくて、子育てしやすい職場になればそれが企業の価値も高まり、そうすると人材不足の中、人材の確保、そして定着という循環に繋がると考えております。こういった企業を増やして社会全体の子育てにやさしい気運を醸成していきたいと考えています。一つはこういった企業のご理解をいただいて子育てにやさしいい職場づくりの行動宣言をしていただき、企業、事業者、団体を増やしていきたいと府のサポートチームが訪問して行動宣言の説明をしたり、協力を呼びかけています。まだまだ数は少ないですが、昨年の12月末でこの行動宣言をしていただいたのは今、287社となっています。22ページです。この行動宣言は、まず企業で協力をいただければその行動宣言の中に、例えば、年次休暇を、今一日単位であるところを半日単位の年休をつくりますとか、働きやすい職場にするために室内の環境を整えますとか、いろんなことが場合によっては必要になります。そういったものに対して、府で補助金を用意しています。さらに宣言した企業さんにホームページ掲載や合同企業説明会でのブースの設置等、宣言企業のバックアップをさせていただいています。23ページです。この行動宣言は決して難しいことではありません。例えば、男性従業員の育児休業率を増やすとか、経営者がイクボス宣言、社長等みずからが部下等に配慮、理解のある上司になることを社内に宣言してもらうなど、このようなことでも結構でございます。24ページの子どもにやさしい風土づくりです。昨年からまず企業さんにいろんな取り組みをお願いし、職場づくりを進めておりますが、次のステップとしては京都府全体の風土、地域づくりをやって行きたいと考えております。一つは今年の春、京都子育て環境日本一サミット、例えば、府知事やいろんな各団体の長、トップに集まっていただき、京都で子育て環境をやっていくぞと声明を出していただける形でサミットをやってみたいと思います。そのあと全体のサミットを受けて、各地域ごとに地域サミットを今、準備しております。そこのご案内もみなさん方にもご協力をいただきたいと思っております。御静聴いただき、ありがとうございました。

音楽のもたらす力

2019.7.25 音楽療法士  京都国際音楽療法センター 音楽療法指導員 鷲山和貴子皆さんこんにちは、石津さんの方からご紹介いただきました音楽療法士の鷲山ですよろしくお願いします。簡単に音楽療法について説明します。まず自己紹介から。来年は2020年、この仕事を始めて20年ほどになります。普段は高齢者施設、主にデイサービス、老健等々の高齢者施設での音楽療法、それから障害のある方の成人、または子供さんの施設における音楽療法、また、最近いろんなところで出来ていますが放課後デイサービス、そちらでの音楽療法。これは主に月1、2回ずつ施設に訪問させていただいて音楽療法を提供しております。今、お伝えしたのは大体集団でのグループでの活動ですが、マンツーマンであります個人での音楽セッション等々行っています。ちなみに音楽療法のことを1回1回セッションと呼んでいます。その他に子育て支援センターで音楽コンサートをしたり、地域の高齢者サロンで音楽を提供する活動をしています。音楽療法とはどういうものなのか、私たちが所属しております音楽療法センターでの音楽療法の定義があります。音楽療法とは定義として音楽を聞くこと、歌うこと、或いは演奏することによって人と人との間で心理的なコミュニケーションを図り、心身の障害の軽減、回復、機能の維持、 改善を目指すもの。音楽による心理療法の観点から病気や障害を持った人たちと一緒になり喜びを分かち合うことを目指す療法、これを定義とします。なかなか言葉で聞くと大変難しいかと思います。簡単に申し上げますと音楽を使ってある目的を行っていくものです。といっても簡単にどの音楽でもいいというわけではなく音楽を利用する利用者さんたちに合わせて体を動かしやすいテンポの曲、和んでもらったり、スローテンポの曲、歌いやすい曲を提供していくということです。歌うことで肺の機能とか、嚥下機能の訓練になったり、気分転換、また楽器を演奏していただきますが楽器といっても太鼓や鳴子や、カスタネットいろいろありますがその楽器を演奏していただくことで上肢、下肢の運動、それから手首の運動、脳への刺激、そして自己表現の拡大と言ったものに繋がるということで音楽療法をしています。実はこの音楽療法というのは歴史は長いです。言われておりますのは古代エジプトまでさかのぼります。音楽が癒しに対して効果があるというのは古代エジプトから伝わってきていますが、それは世界第2次大戦で欧米のほうから始まったものなんです。軍人さんが戦争によってトラウマを受けたところに音楽家が行きまして、そこで音楽を提供することでトラウマの軽減になったり、治りが早まったということで音楽療法が始まったといわれています。日本にとりいれられて知名度が上がって来たのは最近のことになります。音楽療法、それぐらい長い期間を持っているということです。では音楽療法の効果はどうなのか。まず一つ目として言葉、意志疎通に障害がある人。人と人とのコミュニケーションが取りやすくなるということがあります。以前、私は頼まれて失語症の方々のグループでお仕事で寄せていただきました。ある病院ではこの失語症の方々に音楽療法がいいと、治療に採り入れられていることもありますし、失語症の方のドラマでも治療の一つとして入れられていました。二つ目は感情を表すことが乏しくなっているケースでも懐かし歌で記憶を刺激して感情を蘇らせてくれる。認知症の重い軽い方々によって曲を変えたりしながら提供しています。そして歌いながら楽器を演奏をしますが人間は二つ以上の動作を一緒にすることで認知症を予防するといわれていますのでその効果を目的としてるということです。四つ目がリズムに乗せることで自然な体の動きを促すことができて、体を健康に保つことができる。五つ目、集団の中で自分表現をすることで人との関わりを楽しむことができる。これが主な効果です。定期的に寄せてもらうところ以外に、緩和ケアの病棟等で音楽療法をされたり、私の経験ですが失語症グループの他に若い方ですが余命がもうあと少しだという方が一緒に歌いたいということで呼んでいただいてセッションさせていただいたことがあります。こういういろんな場面での音楽の提供をさせていただく仕事です。脳トレをこれから行います。お付き合いください。動作の説明。これに歌が入ります。で、テンポアップをやります。クロスしながら、しかも歌いながら指先を動かす。これらの行動をしていくということはなかなかトレーニングになります。歌がなかったらすごく機械的な感じですが、ちょっと馴染みのある歌詞を思い出しながら音楽を採り入れて遊びとして進めています。脳トレにはいろんなものがありまして、幾つかこの後、お付き合いお願いします。2人ずつのコンビで向き合います。まず右と右の手のひらを合わせます。その下に左と左を合わせます。これを左手を離して右の上に持って行きます。そして下に来ている右手を離して左の上に乗せていきます。交差します。左手を離して右手の上で交差、右手を離して左の上で交差させます。これに桃太郎さんが入ります。リズムに乗ってください。今度は下の手を上にあげました。上の手を下に。逆なので簡単でしょう、では。脳トレはできる、できないの問題ではありません。できなくてもいい。ただワイワイ皆さん楽しみながら笑いながらやっていくこと。このトレーニングは脳トレの一つです。キーワードクイズ。童謡唱歌から昔の歌謡曲を選んでいます。月、日、海で何という曲、海は広いな大きいな。次、花嫁。瀬戸の花嫁。では、夕波小波、あなたの島へ、風、テープ、航路。憧れのハワイ航路。仲間 クラス 校舎 高校三年生。こういうキーワードを、歌詞に出てくるキーワードを少しずつ出しながら少し考えていただいて遊んでいただいたりしています。では最後、脳トレ、音楽をバックにかけながらそして口ずさみながら両手を動かしていく。こういったゲーム、脳トレをしながら笑ったりお話されない方も自然に笑われたり、周りの方とお話されてコミュニケーションをとったりして効果が発揮されて.精神的な安定に繋がって、日常生活の充実に繋がっていくという目的を持ってやっております。どんな音楽を利用するか。そしてどう使うか。それを計画してより良く効果をもたらしていくのが音楽療法であり、私たちにとっては笑顔がこぼれる、思わず笑顔がこぼれる、そんなすてきな仕事だと自分たちで自負しているところです。療法とあるんですが音楽の使い方ではどなたともこうして一緒にたのしんでいけるものだと思っています。今日は時間をいただきありがとうございます。私たちが必ず最後に歌うものがあります。都はるみさんの好きになった人、ありがとうございました。

版画について

2019、12、12 美術作家 大学講師熊谷誠皆さんはじめまして。熊谷誠と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。私は現在京都精華大学、岩倉にございますが大学の方で版画の講師として学生に版画の指導をしております。私も精華大学は母校でございまして大学を卒業した後、大学のほうに残って講師として今も後輩に指導しております。本日、お誘いいただきました石津祥治さんとは町内で近くに住んでおりまして小さな頃から一緒に遊んだり、その後、地域の活動でもご一緒させていただいたりしまして親しくさせていただいております。以前から私のアート作品、美術に関する活動に石津さんは興味をお持ちいただきまして今日もこのような会にお招きいただけて大変光栄に思っております。ありがとうございます。私は版画技法の中でも銅版技法、 エッチングを専門的に勉強して参りまして今日は作品を持ってきました。版画と言いましても非常に幅広く、今はこのような作品を作って活動しております。少し版画についてご説明して、それから私が現在、どういう作り方をして、作品を作って活動しているのか、お話します。大学時代に銅版版画を勉強し始めました。今日は実際に刷っている版を持って参りました。銅版の赤茶っぽい、この銅版に直接溝を彫ってそこにインクを詰めて紙に転写する。印刷の技術で転写して作品を作ります。版は小さいのですが実際に刷る紙の大きさはその何倍も大きくて、かなり周りに余白を取り、実際の作品になります。美術館なんかでも展示されている版画の作品は額に入っておりまして、余白が結構広く取られていますがこれは実際に版画の作品そのものの紙の大きさがそれだけ大きいということです。それを切るわけにはいきませんのでそのまま額に収めるとどうしても周りに空間ができます。額の中にポツンと版画の作品があるのはそういう理由です。この余白を取る理由といたしまして、版画のルールがございまして、絵の外側、ここに自分の署名サインをします。ですから、そのために周りの余白をとるわけですが左下の端に分数が書かれてあります。本日、お持ちした作品には4/5、分母5がこの作品は5枚しか存在しませんよという意味です。分子は5枚作っている内の4枚目に刷られた作品だという意味でございまして、この分母の部分が作品によって様々です。作家によりましては100枚であったり、200枚、300枚、分母の部分は変わるんですが1枚目から分母の枚数までが限定分数として印刷されます。これがエディションナンバーというもので版画はこの原版がありますと際限なく印刷することが可能なんです。作品を販売する場合、その限定部数を設定しています。設定することで版画作品が際限なく刷れるのではなくて、その数しか存在しないという、そういう意味で希少価値を高めることでこのナンバーは非常に重要になってきます。このエディションナンバーとそのサインを書くためにこの余白分は重要なんですが、それにしてもかなり広い面積があります。これは通常の美術館で版画の作品を保管する場合はブック形式をとりまして、中性の紙で挟み込んで直射日光や紫外線から守って室温を一定にした状態で保管します。それでも通常コレクションした中でも周りから紙は劣化してちょっと変色して参ります。黄ばんできたりします。この回りの余白は紙の劣化を防ぐために作品に到達するまでの時間を稼ぐ。そういう物理的な意味合いも持っております。作品の部分を紙の劣化から防ぐという意味合いもあり、周りにはかなり広い面積を持つということで版画作品が作られております。これより私の作品をご覧いただきたいと思います。私の作品は非常にシンプルな形をとっております。なぜこういう作品に至ったのかを含めまして私の学生の頃からの作品との出会い、作ってきた過程をお話します。版画技法は銅版画が金属に溝を彫ります。もともとはヨーロッパのほうで中世の甲冑、よろい、兜にいろいろ装飾的な植物のガラですとか、模様を彫っていましたが当時甲冑ができて納品したら手許にはデザインした美しい 模様を残すことができませんのでその甲冑に彫った模様にインクを詰めて紙に写し取る。そうすることで次のお客さんに対してこのようなデザインができますよと言う広報の部分もありまして印刷する版画がそこでも活用されていたり、当時の版画の工房でアーチストが作った作品をより多くの皆さんに広める意味で版画の技術はその頃からどんどん発達していきました。その後、歴代のアーチストたちがピカソ、ムンク、ゴヤ、シャガールなど版画の作品は非常に沢山作られています。そのようにして版画作品がどんどん認知されて芸術性を高めてまいります。現在はその印刷技術の部分はさらに発展を遂げ、家庭のパソコンのプリンターでもかなり高い性能の写真印刷ができるようになりました。大学の方でも大きなプリンターで写真を出力する機械がございます。以前は印刷する紙も限られていたので印刷後の加工が難しかったんですが今は版画が刷れる紙を大形のプリンターで出力することが可能になってきて、つまりデジタル的な写真、そういうデータとアナログの版画を融合されるということがスムーズにできるようになってきました。今の学生の皆さんはデジタルとアナログの手づくりの部分をうまく融合させて、作品を作ることが身近な方法としてどんどん版画技法の広がりが進んでいるように感じております。その中で私はアナログオンリーというか、あまりデジタルには融合させたりはせずに作ってきましたがイメージ、家の形ですとか、椅子の形、シンプルな作品になるターニングポイント的な、ある出来事が学生時代に起こりまして、それはやはり指導していただいた先生との出会いが大きかったです。当時、精華大学に客員教授で1年間だけ指導に来られていたドイツの銅版画作家でヨルク・シュマイサー先生が来られていました。先生のゼミに入り、1年間ご指導をいただきまして非常にコントロールしにくいこの銅版画の技術を巧みにコントロールされて、ああ、こういう作品世界がつくれるんだなと魅了されまして尊敬の念で先生のような作品を作ってみたいなと言う思いが沸々と湧いて参りまして、どんどんそこから銅版画の世界にのめり込んできました。その頃は少しでも先生に近づきたい思いがございまして頑張って作っていました。ある時、ふとこのまま追いつこうという思いで頑張ってやって行っていいのかな、疑問が湧いて参りました。そのまま頑張ってやっていったらよかったなと思うんですが少しそういう疑問が出てきた時からどうもそういう考えが膨らんでいって、その先生が作られている伝統的な方法を使って作らずにもっと自分なりの違う道を進まないと自分の作品が作れないのではないかと思い始めました。その頃から従来の方法だけを取らずに自分なりに工夫した版画の使い方をやって行こうと考え、作り始めてから現在まで続いています。当時、銅版画を作る版画で版画工房が大学に広いスペースであります。その中で銅版画を切り出すスペースがあります。買ってきた銅版を絵の大きさにカットする機械なんです。金属を切るギロチンのような刃の大きい機械で足踏み式のペダルの力で切り落とすような機械で必要なサイズにカットして作品を作るためのものです。その横にごみ箱がありまして切った後の細長いもの、変形しているものをどんどん捨てていくごみ箱が置いてあり、いらなくなった銅片がたまっていました。その時に従来のやり方ではだめだと思い込んで、何か別の手立てを見つけたいなと言う中でひょっとしたらこのごみ箱の中の破片を使って作品ができないかと思うようになりました。その頃の考え方で作った作品が椅子の形をしている作品なんです。この椅子の形は背もたれや足の部分なんかもバラバラになっています。パーツにわかれておりまして印刷するときだけ組みたてて椅子の形にする作品です。ですから刷ったあとでまたバラバラになってしまう。本来、版画作品の四角い画面の中に絵を描いていきますがこのときのアイデアで作った作品は版そのものが作品の形になるというそういうアイデアで作り始めました。ここから版画、版という考え方を自分の解釈で考えていろいろな物に応用することもできるのではないかなと思い、紙にするだけではなくて、布や紙以外の素材にも印刷したりして型を変形させたり、 2m、3m の巨大な作品を版画を使って制作したりするようになっていきます。その中で版画の考えを応用して制作するというのが基本に考えるようになりました。これら家の作品は油絵でございます。これも版画を応用した作品で油絵は従来、筆跡などの迫力を生かせて、キャンパスに描くのが基本なんですがこの作品は非常に平らな面を意図的に作りました。家の形は筆で描いているのではなく型紙のような、家の形の版を作り、それを作品の上からかぶせて上から絵の具をつけるやり方です。その際にこれが銅版画で使うゴムローラーで本来は版画の上にインクを均一にのせるためのローラーなんですがここに油絵の具をつけまして作品の上に転がしてやると筆ではできないような非常に平ら、フラットな画面を作ることが実現しました。何層も絵の具を重ねながら下の色を出したり、削り出したり、そういうことを繰り返しながら版画用の本来絵画の製作には使用しないゴムローラーを絵画に生かす発想で作った作品です。近年、さらにその発想を展開してグレーの黒い鉄でできた物は鋳物です。鋳造の技術でこの作品は作っています。黒い塊の作品は大学ノートを縮小したようなページを何層にも重ねた、そういうノートのをメージした作品で、また、これは絵画でも描いていますが家の形、これを立体化したものです。私に鋳造の技術はございませんので三重県のいなべの職人さんと一緒にこの作品を作りました。原型まで私が作り、その後は鋳造の職人さんと打ち合わせをしながら鉄に置き換えてもらうことをしています。砂型を使います。非常に粒子の細かい砂形で型をとられますので原型はこの大きさなんですが鋳造型はこの3倍ぐらいの大きな型を作られます。実は型どりをするのでそこに鉄を流し込むわけで作品を取り出すときにこの型は砕いて出します。ですから型はあるですが一点しかできない、そういう作り方で、これも版という考え方を応用して彫刻作品に生かす発想で作った、そういう作品でございます。今は主に関西で発表しながら、大阪の展示が多いんですが個展の時にはこういう立体物とか油絵の作品、版画の作品なんかも配置しましてより全体で体感していただけるような作品、世界を見ていただきたい思いで活動しております。こういう個性的な形を排除しまして、シンプルにしております理由は子供の頃に見ました風景、今はもう住んでいる地域はだいぶん建物が建ったりして様変わりしましたが子供の頃に見た畑や田んぼが一面にあってその中にぽつんと農機具のしまってある小屋が建ってあったりして、そういう原風景的なことが今の私の作品に繋がっているのではないかと思います。形をシンプルにすることでご覧いただいた皆さんがどこか旅行に行った時に見た風景を思い出されたり、小さい子供の頃に見た風景を思い出されたり、そういう物事を思い出されたりというような、そういう接点を作ることができれば私が思い出を作品化したのと同じようにご覧いただく皆様からも昔の思い出みたいなことを想像していただける、そういう作品になればなという思いでございます。できるだけ個性的な形は使わずにシンプルな形で作るように心がけているのがこのようなシンプルなイメージにする理由なんです。いろんな版を使った展開をやってきた中で今回改めて自分自身のこれまでの自分の作品のルーツをもう一度考えのなおすもさせていただく機会を頂戴することが出来て大変うれしく思っております。今後またこれを期に原点に戻ってまた新たな展開、応用を考えていきたいなと考えております。本日はありがとうございました

語り物のびわ  「耳なし芳一」

2019.8、22筑前琵琶奏者 大久保雅由皆さんこんにちは。ご紹介いただきました大久保雅由と申します。ご紹介の通り10年ほどオーストラリアに住んでいたことがありまして、そこは移民国家、もともとアボリジニがおられたんですけども、200年ぐらい前にイギリスの人たちがやってきて国を作って、白豪主義を長く取っていましたが1975年に終わることになりました。それからは国の中に欲しい人材があれば外から入れてこれる形です。現在はシドニー、メルボルンの大都会ではどこの国の人でもいるぐらいにいろんな人がいて、マルチカルチャーリズムと呼んでいます。その中で食物と音楽は(誰にでも)共通で、すぐ試せてわかりやすいです。僕はたまたま楽器をしていましたので、オーストラリアに行って音楽を学びたいと思っていました。例えばアラブ、アフリカ、ラテン音楽だとか、それぞれの国の人たちが持っている文化はなかなか面白いなと思っていて、沢山アフリカ音楽をベースで弾いていました。日本に帰ってきた時に日本の楽器もしたほうがいいのかなという思いで筑前琵琶を始めました。今は筑前琵琶、薩摩琵琶が主流となっていて、筑前琵琶(楽器)は裏が桑、表が桐になっています。薩摩琵琶は欅などのもうちょっと硬い木を使っています。ともに九州の土着楽器で、以前は多分盲目の人、目の見えないお坊さんが琵琶を弾いてお経を唱えたり、エンターテイメントという形で長く九州地方にあったものです。それが明治維新の時にたくさん九州のお侍さんたちが東京に行かれて、その頃、西洋のいろんなものが入ってきていて、日本の琵琶も西洋の人に聞いてもらえるように舞台で30分ぐらいのものに改良されたものが、今僕らがやっている古典の琵琶になります。それで以前は歴史を伝える、話を伝える目的でした。テレビもラジオもない時代ですので一晩中やるぐらい話が続く感じで、昔は悠長やったんやなと思います。今20~30分ぐらいで1曲になるんですけれど、僕らでも演奏会に行けば寝てしまいます。今はラジオでは3分に収めないと、なかなか皆さんに聞いてもらえないという時代です。そんな中で、僕が琵琶を始めるまで、全然琵琶のことを知らなくて、先生に付いて習いだして、一対一で先生の見よう見まねで始めました。一応楽譜はあるんですけど、それを見ながら聞きながら覚えるというのが基本的なスタイルになっています。今は録音するものがあるので、家に持って帰って聞きなおしたりします。1曲が20~30分なので、それを2回お稽古をしてもらっても1時間ぐらい十分にかかります。細かいことをやっていこうと思えばすごい手間のかかるものだと思います。もう一つ始めるまで知らなかったんですが、琵琶はどちらかというとお話を「語る」、です。語り物という分野に入っていて、話の間にちょこちょこっと琵琶が入ってきます。BGM のような感じで琵琶が入ってくるのが特徴です。また、日本の習い事なので、この先生やめて他の先生に行くというのはなかなか許されない世界です。ちょうど僕が入門した頃、うちの先生の先生がご高齢で亡くなられていて、僕の先生は大阪の山崎旭萃先生に習っておられました。山崎先生は人間国宝の方で、100歳で亡くなりましたが、山崎先生は8歳の時から琵琶を続けられていました。明治時代のことで、小学校を終えたら、女学校に行くのか、それとも琵琶をするのか、といった具合で、琵琶の道を取られたそうです。戦後は琵琶が下火になったんですが、続けてこられて琵琶界では初めて人間国宝になられ、総範という誠の先生の先生ということで、高槻におられました。僕の先生に「ちょっとあんたもせっかくやし、習いに行っておいで」と言ってもらい、2005年、1年間だけ、2006年に亡くなられるまで、お稽古に行かせてもらいました。その時はもう琵琶もお弾きになられませんでしたけれど、何でもよく覚えておられるし、いろんな話もよくしてくださりました。さすが100歳まで生きられる方で、お酒も好きで、午前中のお稽が終わったら、昨日のビールの残りが冷蔵庫から出して、飲みながらまたお話を伺うといった調子でした。いろんな創作も沢山されて、その中の一つが今日、演奏する「耳なし芳一」です。赤間が関で琵琶の上手な芳一が平家の怨霊にさらわれてしまう物語です。琵琶の曲は昔の話を語るのですが、この曲は芳一の話し自体昔の話なんですけども、その中で芳一が平家物語を語るという、二重の語りになっているのが特徴的なところです。琵琶という楽器ですが、今は5本の弦のもの、五弦琵琶が主流です。実は明治時代に改良されたもので、それまでは四弦の琵琶でした。ドソドレソ(C1, G0,C1, D1, G1)というチューニングになっています。四弦琵琶はソドソソ(G0,C1, G1, G1)、高いソの2本が復弦になっていました。五弦琵琶はメロディアスな旋律のために改良されたものです。聞いてみてください。平家の運も悉く  底の藻屑と沈めたる壇ノ浦近き赤間ヶ関その赤間ヶ関に芳一という若者あり。琵琶を上手に弾じしが平家の怨霊を供養のために建立されたる阿弥陀寺の和尚、芳一の芸能を深く愛し、その貧しきを助けんとして寺の一間をあてがいて食事さえも給しけり。蒸し暑き夜のつれづれに  手馴れの琵琶を弾じつつ和尚の帰りを待ちいたり  夜半も過ぎて裏門より人の足音近づきて  芳一の前にて立ち止まる芳一、芳一と呼ぶ  ハ、ハイ。とおろおろ答えて私は目の見えぬ者でござりまするが、どなた様がお呼びなさいますか一向にわかりませぬが。客はやや言葉を柔らげてわしの主人はさるやんごとなきお方であるが。この程壇ノ浦の合戦の跡をご覧になりたいとて今日はわざわざ御見物遊ばされたが かねがねお主は合戦ものが上手 と聞き及んで、一つそれを聞いてみたいとの御所望故 お主を迎えに参ったのじゃ。その侍につれられて  お邸らしき所に着き大広間にぞ通されける只今これよりその琵琶に合せて平家物語を語って聞かせよとの御所望にござりまする。老女らしきその声は  殿上の優雅なる言葉なり平曲はなかなかもちまして手易く全曲を語り切れるものではござりまするが、してお上にはいずれの段を語れとの御所望にござりましょうや。されば壇ノ浦の合戦の段をお語り遊ばせ。あの段は平家の中でもこよのう哀れの深いくだりじゃほどに。芳一声をはりあげて  はげしき合戦の歌をうたう時こそ来たれ元暦二年  源平両軍船出して壇ノ浦にて落ち合いしが  さしもにひろき早鞆の瀬戸も船にて覆われて  両軍 矢頃に近づけば 戦端忽ちここに開け  一度にあぐるときの声磯打つ浪の音もろとも  山に響きて物すごし周囲には賞賛のささやき起こりしが。やがて御幼帝を抱き奉れる、二位の局入水の有様を語りはじめし時、すすり泣きの声さえ聞こえけぬ。主上は今年八歳にぞ  ならせおはします尼ぜわれをばいず地へ  具してゆかんとはするぞと仰せければ  二位殿はらはらと涙を流して君はまだ知し召され候はずや 御運すでにつきさせ給ひぬ  先ず御念仏候ふべし極楽浄土とて  目出度き処へ具し参らせ候ふぞと  さまざまに慰め参らすれば山鳩色の御衣に  びんづら結はせ給ひておん涙におぼれ  小く美しき御手を合せ御念仏ありしかば  二位殿やがて抱き参らせて浪の下にも都の有り候うぞと  千尋の底にぞ沈み給ふ墓地に聞ゆる琵琶の音の  このもかのもゆらゆらと燃ゆる鬼火の二つ三つ  雨降りしきる闇の中無気味や芳一声はりあげ安徳帝の御陵の前に  端座して壇ノ浦合戦の段を  誦しいたりついに和尚はこれを知り、芳一の身をいたく案じ、つれ戻しつつ身体中 足の裏に至るまで般若心経を書きつけたりさあれ不覚や只一カ所  耳に書くことを忘れしため迎えに来りし幽鬼の眼に 宙に浮べる耳の見えしをせめてとばかりもぎちぎり  持ち去りければそれよりは無惨やな耳なし芳一と  呼ばるる身とは成りにけり呼ばるる身とは成りにけり………20分。どうもありがとうございました。

子供たちは今

2019.9.12社会福祉士 臨床心理士 公認心理師 立命館大学教授  野田正人皆さんさんこんにちは。今日は本当にロータリークラブ,実は東京の方とか何ヶ所とか卓話で呼んでいただいた経験があるんですが、まさにレディー&ジェントルマンという立派だなと思います。何とか違和感とか場違い感があるんですが、私自身はもともと大学では社会福祉を勉強して、そのあと裁判所、家庭裁判所で調査官という家庭問題と非行問題を専門にする仕事をしておりました。平成元年に京都の花園という大学に移ることにしまして、以来、滋賀県の大津に住んでおりまして今、たまたま社会福祉士と臨床心理師と公認心理士というまあそれ以外にも資格があるんですが、社会福祉の専門職養成、それから教員の専門職養成、それから臨床心理士、これは知名度が高いんですが、実は民間財団規格でして昨年から公認心理師という心理に関する国家資格ができています。その大御所も京都には沢山いますので、お出会いただけたらと思います。まあ、そういう経験の中で今日は何が面白いかというのは私にはわからないんですが、子供のことをしゃべれということで今の社会の全体としてもう1回ちゃんと押さえといていただきたい。個人的に思っていることについてお話させていただけたらと思います。最近よく話題になることの一つとしていじめの問題があります。滋賀県の大津の事案をきっかけにしているもんですから、私の地元のできごとで、臨床心理士会でスクールカウンセラーですので、忸怩たる思いがあるんです。実はこれは文科省が出していますいじめの件数ですが、いじめの定義が時々変わるものですから左端が昭和60年で右が29年なんですけども、大津の事件というのは24、5年ぐらいから社会問題化してくるのです。私は京都府の教育委員会のスクールソーシャルワーカーの指導するということもしています。今、学校現場に福祉の専門職がカウンセラーとは別の立場で入っています。宇治市内、実は私の立場から結構しんどいという言い方は不適切なのかもしれませんが、福祉課題を沢山抱えた小学校、中学校が多いものですから、宇治市にもスクールソーシャルワーカーが、市単独で入れているものと、府教委の方から入ってくる部分がありまして、そこにかかわらせていただいています。まぁ他にも京都市とか大阪府、和歌山県なんかで同じような仕事をさしてもらっているんですが、まあ宇治特有のいろんな状況があるなと思っています。ちなみにいじめというのが各学年、小1から高校までありますけどもどの学年で発生するかというと、実は昔の常識が中学校中心。ところが今、小学校の方が低い方から出ている。実は京都府のいじめの認知件数は、昨年分が全国で二番目に下がったんですけども、元々はずっとこの3、4年は一番。全国47都道府県でいじめの認知件数が一番となりました。また10月にそのデータが文科省の調査結果ということであと1ヶ月ほどで公表される予定ですが、そういう状況になっています。ただ、これは一番争いという順番じゃないんです。ただ京都の先生方は少なくとも他所の県に比べて、ささいと思われることでもしっかりと統計に挙げておられるという意味では京都府の教育現場としての特徴だなと思っています。一方でいじめというのはもう人が死ぬくらいだから事件じゃないか。警察の統計を見ますと、文科省の統計を見ますと25年ぐらいからがんと右肩上がりなんですけども、実は警察が事件にできるような案件と言いますと昭和60年頃は2000件くらいあったんです。ところがそれが平成になるとともに下がりまして500件に行くか、いかないか。どうかすれば200台で推移していたのがまあ、大津の事件等があって、で、これが大体10年周期ぐらいで時々いじめが話題になりまして、その時にやや統計的には増えるというこういう凸凹の状況で推移ということです。これがまあ子供たちのつまり事件としてどう立件されたかじゃなくて、子供たち全体の状況としてどういう状況と理解すればいいのか。少なくとも先程のデータのように、いじめの件数は文科省のデータで言えば右肩上がりでどんどん増えてるんですが警察が、事件にするよというような事案ではないものがいじめという形ででできている可能性がある。このあたりが学校の先生方が目を皿のようにして、皆さんドラエモンってご存知でしょうか。ドラえもんの中のいじめっ子って、主人公の名前もよくわからないところですが、あのジャイアンというごついのが、今、ジャイアンみたいなタイプはいじめっ子ではないんです。いじめられっ子なんです。あの中にスネ夫という、ちょっと性格どうなんというのがいます。あれがつい此間までのいじめの主役、イメージです。今はしずかちゃんです。女の子です。もう誰から見てもええ子や。これが実はいじめの主人公なんです。表では全然出さない。これは多分皆さん経営者側として考えるとハラスメントみたいなことがあってあいつは将来的にいいやつだというのが裏で何かみたいな、こんなことをいい出すと疑心暗鬼になってどうしようもないですけども、まあしかしですね、人間関係、かなり変わってきている。それは子供が変わったと言っても5年生でも、5年生は子供は子供で社会的になってきますから。警察が非行ということで、正確に言えば刑法犯という、まあ法律の中で大きく分けるとこういう刑法犯関係とそれから薬物をやりましたとか、交通事故を起こしましたとかというような特別防犯というのは別れるですが、昭和の初めから子供たちの非行はどうなっているのかいうデータです。みなさんが15~20歳のときにどのあたりだったかどういうのを見ていただいておいたら。戦後この水色が少年の事件です。検挙歴、警察が捕まえた人数ですね。だいたい昭和39年、東京オリンピック、或いはそこに名神が通りましたという時代、それから58年、このあたりにピークがありました。特に58年ピークは山です。この後はもうほとんど右肩下がりです。これが経営業績なら大変ですね。これで業績が下がって困った業界とはどこでしょう。困ってはいないですが、宇治少年院ですよね。なくなったでしょ。もう沢山いないからです。明後日、大阪で学会があります。大阪のミナミの泉南学寮というところに宇治少年院の機能が移っているんですが、機能が変わっているんですが、当初建て替え予定だったんですがやめました。もうチョッと年齢のいった若い受刑者、少年院とは少年法ではいる施設ですけども、刑務所、刑務所なんだけど若い人が入る刑務所で、この辺で有名だったものに奈良少年刑務所.ある世代の方はドリームランドなんて、ドリームは今はどっか行っちゃいましたからね。でもその近くにあった奈良少年刑務所も先年たくなりましたね。星のリゾートとか言う所が買い取って、もうすぐホテルとして放射状の一望監視型というヨーロッパに端を発する刑務所の形式が残っている歴史的建造物です。要するにこれだけお客さんが減っているから鑑別所ガラガラ、少年院いらねい。少年刑務所も代わって必要なのが何かというと別に増えているわけじゃないんですけども、この黄土色の線が人口比としての大人の犯罪です。平成15年ぐらいから減って、右肩下りで。ただ子供の減りがこの折れ線グラフは人数です。人口比です。一番新しいデータも次のが間もなく出るんですけども、子供の全体比、数。事件としては昭和58年がだいたい32万件ちょっとでした。今5万件.6分の1です。売上がこれだったら大変でしょう。少年の方の人口比でいうと10万人あたりで493人、ところが大人は607人。子供たちの非行のほうが幅が広いんですが今、事件を起こしている割合で言えば大ざっぱに言えば大人の3分の2しか少年は非行しない。もっと言えば非行できないんですよ。で、こんな若者に誰がした。それは地域と学校と家庭が頑張った結果子供たちの非行は増えなくなったんですね。大人ぐれてるんです。まあ、その結果、私の専門の一つであります犯罪学、或いは刑事政策の世界では刑務所の高齢化が進んでいます。先般もニュースに出ていましたけども刑務所の倉庫が受刑者のためのおむつが入りきらずに、新たにコンテナを発注したという状態なんです。まさに皆さんの歌にありましたように社会の求めに応じて頑張っていただく、その社会というのをどうとらえるかという中で、少なくとも今の子供たちの状況というのはどこまで正確にとらえられるかというあたりが悩ましいなと常に思っておりまして、まぁその辺で言いますと今の子供たちいろんなことで話題になります。まあしかし少なくとも非行はここまでしなくなった。或いは今日データはつけていませんが、このピークをちょっと意識しといていただきたい、昭和58年です。ちなみに私は実はこの山のあるところで家裁調査官で働いていました。めちゃくちゃ忙しかったです。後輩たちのなんとのんびりしているという訳じゃないんです。対応はすごく難しかったです。昔のやんちゃ系はやんちゃ系って見りゃわかるし、どう対応するかというのも当たりがつきやすい、つけやすかった。今の子供たちは先程のしずかちゃん型ですから、その子の問題点を洗い出してどこから始動するのという話になるとこれは簡単ではありません。校内暴力、先程の58年のデータはここには出ていない。その頃こちらはものすごく多かったです。この間、沈静化してたんですが中学校の沈静化路線なんですが合計が増えている。なんでかというとこの点線ですね。小学校の校内暴力がこの10年間で10倍以上増えている。1800件、2000件だったのが今2万8000です。ですから線がちょうど合流してますけども中学校の校内暴力の数と小学校の校内暴力の数、絶対数においてどちらも2万8000で一緒なんです。これはオールジャパンの話です。実は京都府はこれよりもデータで、校内暴力が多いです。だから今、小学校の先生はしんどいんですよ。むちゃくちゃしんどいです。しんどいというのは何を指すかというのはともかくとしてそういう状況はあります。不登校ということに関してちょっと長い目で見ますと、もともと戦後、学校に行こない子供、長期欠席の子供の理由というのは大きく三つ。一つは病気がある。左が小学校、右側中学校です。小学校で来れない子供が多い。実際小学生ぐらいだと病気で亡くなってしまうという子供たちもいました。それからもう一つは経済的理由。貧困ゆえに学校に来れない。このあたりについては宇治も含めて関西の先生方の対応力というのは非常に高いほうなんです。もう一つが障害。重度の知的障害があります。いろんなものを持っているので学校に来れない。その三つが主な理由だったんです。1965年からその三つに入らない今で言う不登校、昔、登校拒否とか、或いは学校不適応と言われていたような子供たち、これが実は黄緑の線なんですけども、もともとはそういう種類を想定しなかったので統計はなかったんですけども1960年代の真ん中ぐらいからその統計を取りだしたんです。中学校でもイメージしといてもらいたいですがこの矢印のところというのは実は先程の非行の昭和58年と同じです。この年ぐらいから不登校が右肩上がりでギューと増えます。代わって先程の非行が急に減るわけです。ちなみにこのグラフで見ると、皆さんが若かりし頃はどの辺ですか。私はジャスト65歳なのでまぁこの辺はしっかり働いていましたけども。まぁそれぞれ時期の非行パターンがあります。教育の問題というのは自分がどういう時代にどのように経験しているかによって実はかなり認識が違い、その認識を自分の子供や今の若者たちに当てはめて考えるので時々、何か方策がちがうんじゃないのと思ってしまうようなことがあるんですが、まあいずれにしてもこのあたりまで不登校は目立たなかったんです。それが非行が減る代わりのようにガーンと増えてるということ。それがガーンと増えだしたので50日ではなくて、途中から30日で、30日休んだ時にカウントしようと言うことになったんですが、ほぼ同じデータが出ています。そのあとほぼ横ばい、やや減ぐらいで子供たちがこの辺から減りだしますから横ばい状況だと、もう経済的な理由なんてほとんどいなくて、障害だからとか、病気だからとかという人がごく一部、まぁこんな状況です。一番新しいところのデータです。実は私は国の方で、文部科学省のほうで日本全体の不登校の増加傾向に対してどう対応するかという委員会がありまして、あそこの会長代理というか、まあそういう役もやらせていただいて、今も一番新しいデータは手元に来ているんですけども、この間の動きで、上が中学、下が小学校、真ん中が人口比で合算しているものです。平成24、5年ぐらいから全国的に示し合わせたように不登校増加傾向なんです。小学校も増えています。中学校も増えています。これは今、不登校というのは1年間、単年度の中で30日休んだら不登校ということになります。ところが、では30日以上か、以下かなんて言ったら乱暴なので、実際どれぐらい休んでいるのということで、統計を変えてもらって、我々の委員会で依頼をして日本中の学校から詳細データを集めたら30日以上休んでいる子は大体14万人、公立で。そのうち90日以上というのは8万ですから6割7割ぐらいが8万人ですから90日以上休んでいる。90日というのは何かというと、1年間に学校に行かなきゃならない日数というのは大体180日ちょっとなんです。ですから全体の半分以上来てないよと言う子が不登校の6割7割いう状況が今の状況です。まあ逆に言えば、宇治市の人口はこんなものではなかったですか。不登校14万人ですから。日本中でそれぐらいこない子がいるということ。ちなみに不登校ってどれぐらいの学年に集中するのかというと、これも不登校関係の世界では当たり前なんですが小1~小6まではトントントントンとほぼ毎年増加率が同じような感じで、中学校1年になると結構ドンと増える。で、中1ギャップと言う。中1だけじゃなくて中2にも上がるんですが中3になるとさすがに進路の問題とかいろんな問題があってでしょうが、ちょっと伸びが抑えられる。これが全国がこの傾向です。京都府でもこのような傾向が見られます。何で不登校になるのか。ちょうど1ヶ月ほど前にNHK が不登校の特集を2回ほどにわたって組みました。それに合わせてNHK がLine を使って現在不登校真っ盛りの中3に、なんで休んでいるんだというアンケートを取ってくれた。この水色のほうは文部科学省がやっている不登校理由なんです。水色の方で行くと教員との関係というのは2.2%なんですね。ところがNHK が直接子供に聞いたら23%が先生との関係で学校に行かれない。他にいじめがある。部活動がある。決まりがいやだった。学校の先生に不登校の理由を聞くと、ほとんどが家庭がむつかしい家庭に言う言い方をされることが多いです。子供たちの正直というか、僕の学校へ行かれないのは家庭のせいですわといっている子が2割いるんです。きれいにみんな2割にしているということなんですね。私は昨日は岩手県に夜まで行っていて、最終便で帰ってきて、今日はこれが終わるなり鳥取県に。不登校が非常に多くて教育委員会の方から2学期始まっての初期対応をどうするかと言うことでの指導に行くんです。例えばこの先生との関係が、ですね、不登校の理由だと気持ちを子供が23%持っているわけです。先生は2.2%しか持ってない。なので私が迎えに行けば子供たちは来るはずだと信じ込んで家庭訪問などをするわけです。子供の方はあんたがいるからでしょうって思ってたとしたらですよ、こんな不幸はないですよね。これはむしろ皆さんのほうがお詳しい。今働き方改革。働き方改革というのは単に時間を短くするのではないですね。生産性を上げておかないと働く時間が短くなった分所得が減るわけです。学校の先生方も時間の短縮の問題ではなくて自分のやっていることがどれぐらい効果が上がるか、その効果が上がるためには何でそうなっているかどういう業務分析が必要なんですね。これが教育業界は今まで欠けていたというか、非常に苦手です。とにかく結果はどうあれこれだけ信念持ってやっているのにガチャガチャ言われる筋合いはないみたいな感じがどうしても強くでてしまう。このあたりを今、学校現場変えなきゃいけない、いうような期待に事態に立ち至っているということです。実は義務教育機会確保法という法律が3年前できまして、今年、参議院選も終わったのでこの法改正、内閣の改造も終わりましたし出てくると思うんですけども、実は知っといていただきたい。今ね、一昔前ならば不登校というのは学校に行かないことが恥ずかしいことだったり、或いは場合によっては悪いことだった、という認識が社会にありました。今不登校というだけで問題行動であると受け取られないよう配慮しなさいという法律で、学校に対して強く要請されています。この間もある学校で、校長先生がうちの学校には不登校やいじめといった問題行動がありませんと胸を張って言ったら、不登校を問題行動の一つだと言ったといって思い切り叩かれて、校長と教育委員会が謝らなきゃいけなかった。これはこれでいいのかいということについては、まあなんせ国会でお決めになったことで、学校現場でもいろいろな考えがあります。まあ、ある意味でいうと、不登校というのは学校に戻すことだけではなくて社会的に自立できるかどうかということが重要で、実は私も中学校から高校まで不登校してまして、高校は工業高校4年かかって卒業した人間なんです。ですから不登校については昔から関心があるんですが、幸い社会的には何とか自立して定年を迎えられそうです。でも不登校の中には確かに引きこもりになってしまう子供たちが、一群います。一方で今は中学校3年で不登校でも、大学進学率は3割~4割確保されています。ですから一枚岩での話ではないんですね。やはり不登校という子供たちをどんなふうに、一人一人の違いがある、そこをどう見ていくか。時間がありませんので虐待のことについてお話をします。虐待の厚生労働省のデータが16万人になった。実は宇治市の、私の認識ですけども宇治市は大久保のところに児童相談所がありますね。一時期、宇治は中央児童相談だったんですが、今は東山のほうにセンターが移っていますが宇治市に児相がある。このデータはその京都府の宇治児相とかいうような、児童相談所がやっているだけの件数なんです。宇治の場合には宇治市も虐待対応をしています。この件数はこれで入ってこないんです。ですから日本で虐待が16万件ありますというのは不適切な表現です。これは都道府県レベルの統計しか取ってないという欠点がありますが、いずれにしてもこのようにどんどん増えています。実は私はこの問題に取り組みたくて裁判所をやめて大学を出た人間なんです。なぜかというと虐待というのは身体的、身体的、性的ネグレクト、心理的虐待という。この心理的虐待の中にDVがあれば虐待だと言うことも、この間話題になったんです。こういう子供たちにとても不安定な心理状態、或いはすぐ僕なんかはいないほうがいいんだとか、死にたいとか、いうようなメッセージが出てきます。私の立場から言えば、例えば家庭裁判所で、何回少年鑑別所に入れても、少年院に入れても、保護観察をつけても、再犯を繰り返す子がいます。こういう子どもたち、なんでやろ、全体で言えば1割5分くらいなんですけども丁寧に見ると根っこに虐待があります。もう一つは自傷的、自分を傷つけることです。ヘッドバッティングというのは頭をガンガンガンあちこちぶつける。それから歯が生えてくると自分の体を噛みまくる。思春期になるとリストカット、自分の体を切り刻む。リストカット、アームカット、レグカット、あるいはスキンステッチなんていうのが今流行です。まあこういったような自傷的傾向があり、もちろんこの延長には自殺の可能性が非常に高い。この攻撃性と自傷性、これらの特徴は就学前から見られます。ですから幼稚園ぐらいで噛みつくとか、或いは傘で本気で友達の頭やら目をねらって攻撃してくる。こういう子供たちというのは予後も非常に悪い。低年齢から非行やっている子はみんな悪いみたいですね。背景に虐待のある子はかなりしんどい。しかも最近の科学が進んでくると脳の画像診断が撮れるようになったので脳の形が変わってしまってるということがわかるようになっていきました。これはちょっと友田明美の著作権があるので、皆さんの手元にありませんが、ネットでこのテーマを見てもらったらわかります。虐待を受けている。例えば小さい時から暴言暴力のうち暴言を吐かれて、お前なんかどっか行けとか、死ねとか、要らんとか、耳から入ってきたのを脳で処理する言語野と言われる、或いは聴覚野と言われる、そこのところが形が変わってしまう。この間、児童福祉法改正されて、しつけのためでも体罰は禁止というふうに言われました。それの科学的根拠はこれなんです。幼少期から叩かれて育つ子供は脳の前頭前野、人間脳と言われる、自分が何かやりたいと思った時にブレーキをかける。ここが2割減るんです。我々2割減ったら大変ですよ。次の卓話の日なんか絶対覚えてませんからね。なので一生懸命くるみまわしたりいろいろするわけです。あれだって2%も差がでないですね。20%削られてしまう。或いは性的虐待を受けた人は視覚野、このように脳がどれほどボロボロになるかということが見えてきて、もっと根本的なデータとしては、このACEスコアというのは、児童期に平たく言えば虐待みたいな背景をもっている人ということでこの左側です。10本、身体的虐待、性的、それからネグレクトを身体と心理に分けています。心理的虐待。それから親に DV がある。親が薬物依存、アルコール依存がある。精神疾患がある。親が服役している。親が離別している。まあ、離婚はいけないということではないしということで、一つ二つある子がいるかもしれません。でもスコアが4項目以上増えると、喫煙の割合が2.2倍、肥満が1.6、薬物依存に至っては4.7倍から薬物によって9倍、それからアルコール依存症になると7.4倍、自殺未遂の確率が12倍、致死リスク、つまり死ぬか、死ぬようなことをする行為4倍、この辺になるとかなり不幸な人生です。スコア6、このうち6項目あると、すると寿命が20年短い、或いは貧困が連鎖する。これはアメリカなんかでもご縁の深い方がいらっしゃると思いますが、アメリカは国民皆保険がうまくいってないですね。平たく言えば、例の、私たちが車にかける任意保険と同じように、死ぬ確率の高い人の保険料を上げないといけない。そのベースとなるデータをアメリカで1900年代からカリフォルニアの南のほうでとりました。こんなデータを取ろうと思ったら虐待を受けた人がこうなりますよというのは、何十年も見ないといけない。それをやった結果、アメリカの連邦保険省と企業体がリンクした結果、要するに早死する要素というのはまあ、成人病になっているとか、コレステロール値が高いとか言うこともあるけども長い目で見たらこのファクターが大きい。31.24最近ACEスコアが今アメリカで発表されて以来、日本でも例えば小児科のお医者さん、精神科のお医者さん、我々犯罪学や心理学をやるものが寄ってたかってこのACEスコアー、日本での追体験をやっている最中です。非常に近い値がやはり出てくる。ですから虐待というのは子供が死んでしまうということでよく話題になります。しかし、大人になっても、大きな影響が残るのですネ、ところで、年間日本では何人の子供が虐待で死んでいるかと統計がありません。厚労省が出しているデータで70人ぐらいなんですけども、多分私は虐待の学会の役員でもありますけども、推定している数字はだいたい一日、300人から400人の子供が死んでいるだろ。そういう意味でいえば目黒の事件とか、野田の事件はちょっとふり回わされている案件なんだろうと思いますけども、それはそれとして今の子供たちの問題、あえて言えばこの問題、まあ、しかし先程言いましたように非行が減っているというところから見れば、これだけ大騒ぎしつつも虐待対応は結構うまくいっているという側面もあるんだろうと思います。ただ、今、子供の死亡の第1原因、第2原因というのは、低年齢の場合には小児がんと事故死なんです。日本特有の事故死のパターには溺死、溺れるというのがあります。その中にはお風呂でも溺れる、そういうタイプがあるということ。もう一つ厄介なのは中学生、高校生年齢の死亡の第1位は自殺なんですね。今の子供たちは非行をしない代わりに学校に来れなくなってたり、自分で命を絶つ子どもたちも馬鹿にならない数がいるんだ。そういう中で彼らに未来を託しながら私たちは順番にこの世を去りたいと思うわけで、まあ、其の辺で考えると社会全体として今、何を考えるかということでお約束の30分が来ておりますのです。ごめんなさい。勝手なことをしゃべらしていただきました。本当にいい機会を与えていただきました。ありがとうございました。またこの辺りをウロウロしておりますので一緒に何かできたらと思っております。よろしくお願いします。

フードバンクその背景にあること

1019年12月5日フードバンカー フードバンク団体役員    澤田政明セカンドハーベスト京都の澤田でございます。セカンドハーベスト京都とはフードバンク団体です。フードバンクとはなんやねん。食料銀行と約されますがその背景も含めてお話します。自己紹介をさせていただきます。特定非営利活動法人セカンドハーベスト京都理事長です。1966年2月京都市内で生まれました。現在フードバンクをする人、フードバンカーをやりながらこれはボランティアです。それだけでは食べてきませんのでどうしているかというと兼業主夫といいますか、家で料理を作って掃除洗濯して主婦をやっております。奥さんに働いてもらいながらということで自分は好きなことやらしていただいております。フードバンクとは簡単に言いますと市民や企業から未利用の食品をいただきまして、それを福祉施設や生活困窮者の支援団体に無償で届ける活動です。フードバンクは1967年、アメリカで始まり、もう50年以上を経っている歴史のある活動なんです。もともとはアメリカの教会で炊き出しをされていた。そこで近所のスーパーで捨てられている、食べられる食品あるよと聞きつけた炊き出しのスタッフはそこに聞きに行かれました。で、使っていいよと許可をもらって譲ってもらったということころがフードバンクの始まりです。現在では全米で130万トンを超える取り扱いとなっております。アメリカ政府も深く関与して税金を使って支援しています。ヨーロッパではフランスで初めてフードバンク団体の活動が始まり、今や大規模なスーパーでは未利用の食品のロスを廃棄することは違法となるような法整備までされております。現在では年間20万トンを扱うフードバンク大国と言っていいかなと思います。アジアでは韓国で一番初めに始まりまして国が、行政主体で活動が始まりました。それが今では民間でも広がっていき、韓国の場合、重さでなくて生産コストベースで約198億ぐらいの食品を取り扱っています。日本では東京でアメリカ人のチャールスEマクジルトンさんが2000年に国内で初めてフードバンク団体セカンドハーベストジャパンをはじめました。現在では取り扱い量も日本国内最大の3000トンを超えますが国内的に見ると巨大な団体なんですが海外から見たら本当に小さな活動規模は小さい。関西では2003年にアメリカ人のブライアンローレンスさんが兵庫県でフードバンク関西という団体を始めました。現在は200トンを超える量を扱っています。京都でも他の先行事例と同じようにやはりアメリカ人の、ベリーワイトエトさんが2004年に活動を始めました。それから遅れること11年、2015年に私どもセカンドハーベス京都ができます。現在では私どものセカンドハーベスト含め府内に6団体、フードバンクを標榜している団体があります。フードバンク活動を語る際にその背景に二つの社会的問題が横たわっています。それは昨今でも耳にするようになりました食品ロスの問題、もう一つは国内の貧困です。食品ロスといいますのは国内と海外では少し定義が違います。国内ではまだ食べられるに捨てられている食品です。この食品フードロスですが事業系と家庭系があります。だいたい食品製造業で22%、外食産業で21%、食品小売業で10%、事業系の合計で55%です。家庭系では45%、家庭のほうの理由は食べ残し、過剰除去、そして多いのが手付かず食品の廃棄。なぜそのような食品ロスが発生するのか。にんじん、スーパーには並ばない、こういったものを道の駅なんかで販売される場合もありますが過剰になった場合、キャベツなんかでもたまにあります。それは畑に放置してそのまますき込んでしまう。で、食品ロスになってしまう場合もあります。こういったものはそもそも規格に合わないのでスーパーなんかで陳列されることはありません。同じように大きく曲がったキュウリ、自然に作りますので当然曲がっているものも出てきます。こういったものも使われない、流通の方に出てこない。食品製造の現場ではこのような形でゴミが出ています。また、流通の現場ではクッキーなんか、パッケージの底、角がちょっと破れている。中身は別の法があって中身は大丈夫なんです。けどもこの箱ごと廃棄してしまいます。もちろんこれを中身だけを取り出して新たなパッケージに入れて、その手間を考えたら捨てた方が安いというモチベーションで廃棄されています。その日陳列されていたものが営業の終わった段階では廃棄されてしまう。で、流通の現場で3分の1ルールという業界独自のものがあります。ある食品が仮に1月1日に生産されたものが、賞味期限が6ヶ月で6月29日まであったというものを1月1日製造で次の6月末の期間を3等分にして初めの3等分の2か月、この場合ですと納品期限が3月1日になります。これまでに食品を納品できなければ受け取ってもらえない。例えば3月2日に、1月1日製造のもの持っていっても小売りは受け取ってくれない。そういうルールがあります。この食品が無事に納品され、お店の方ではこれが次の4月30日までに売りきる。売り切れない場合はよくあるのが値引きシールとか、貼って売りきる。そうでないものもあります。棚からは外してもその置き場がない。そのまま返品になったり、廃棄されたりします。そういった食品ロスが出ています。現在少しずつ改善しようとする機運が出できまして、一つ目には年月日で賞味期限が出ていますがそれを年月だけにしようということで一部の飲料品ではもう始まっているようです。また、この3分の1を2分の1にしょうかとしようかと業界全体で動き出す機運が出ています。一方家庭でよく間違えるのは消費期限と賞味期限です。賞味期限が一日過ぎたらわあ、これはあかんわと言って捨ててしまう場合があります。消費期限は安全に食べられる期限で、賞味期限はメーカーがここまでだったら美味しく食べられますよということを決めている期限です。その賞味期限をメーカーは例えば製造から100日間、大丈夫なものを実は80日という形で切って設定しております。この場合、安全係数と言われ、この場合、安全係数0.8をかけたということで賞味期限が設定されています。だからこれが1日、2日超えたらといってたちまち品質が劣化するのではなくて、その賞味期限と消費期限を混同している消費者がいるということです。で、京都市と京都大学は共同で30年近く研究をしています。ある地域のゴミ袋を全部開いて割り箸で中身を一つずつ分解していきます。その中で生ゴミの中から出てきたのもの20%、これらの食品、手付かず食品と言われフーズドライの味噌汁です。大根も腐っていないようですし、ミカン、パンもカビていません。インスタントラーメンでも4個捨ててあるもありまして、これは多分1個、食べて口に合わなかったからかなと思ったりします。こういった手つかず食品がものすごく多い状態になっています。日本は年間8200万トンの食品を消費しており、その内の2800万トンは自給率が低い国ですので輸入しております。食品の廃棄、食べられるもの、食べられないものを含めてなんですけれど2800万トン、輸入と同じぐらいの量を捨ててるんです。そのうちの646万トンは本来食べられるはずだったのに捨てられているものなんです。320万トン、これは国連が WFP というところが災害の被災者や戦争、難民キャンプ、そういったところに1年間で8000万人に支援する量、それが320万トンです。それの倍の量を日本一国で捨てる。食品ロス大国という悪い名前が日本についています。で、京都府はどうなのか。見ると府は13万トンから17万トンぐらい食品ロスが出ています。ローマ教皇は食品を捨てることは貧しい人々の食事から食べ物を盗むことだと言っています。よく引き合いに出されますのがバナナなんです。日本などでは産地から高く買うんです。高く買うからバナナを作っている産地の労働者は高くて買えないと言う状況が起こったりするんですね。ところが日本では少し黒くなったからといって廃棄に回されたりします。中身は全然食べられる。でも見た目が悪いからもう売れない。食品ロス削減のために私たちがすぐにできる六つのことを紹介します。1、買い物の際に事前に買い物リストを作成する。これはついで買いを防ぐ効果があります。2、買い物に行く前に冷蔵庫や食品在庫を確認する。同じものを買ってしまう予防。3賞味期限が先のものを棚の奥から取りださない。お店で牛乳など日付順に並んでいます。それを奥の方に手を突っ込んで取るということでなくて、できるだけ手前のものを取ってあげる。店の売れ残りが出ないように手伝ってあげよう。もちろん1週間ないと使い切れないという人もあり、その時は奥の方から取っていただいていいと思います。可能な限り順番に取ってあげるということです。で、食品ロスをなくそうということです。4、空腹で買い物に行かない。これで行きますと1.2人倍ぐらい多く買ってしまうそうです。だから何かお腹に入れてから買い物に行きましょう。5、限定という言葉に惑わされる。これはすごく日本人に多いそうです。地域限定とか、数量限定となったらつい買ってしまう。何でなんでしょう。日本人はこういうくせがあるようです。逆に言えばこれをつけたら売れるのちゃうかということです。でも、惑わされないようにしましょう。6、安いと言って必要以上に買わない。特売などでついつい多めに買ってしまう。もちろんトイレットペーパーとか腐らないものならいいですが腐ってしまうようなものを多めに買ってしまう。だから入れ放題だからといって詰め放題で買って食べられないことがないように使える量だけ買うということ。この辺であればどうでしょう、今日からでも始められるんではないでしょうか。もう一つは今度はフードバンクのもう一つの背景に対について、貧困という問題です。貧困といえばどういうイメージを待たれるでしょうか。戦後の闇市の中で子どもが靴磨きをしていたあんな状況でしょうか。それともアフリカの飢餓のイメージでしょうか。世界銀行ではこのような状況のことを絶対的貧困と呼んでいまして、人間が生きていくのに必要最低限の衣食住を満たす生活水準以下であって、現在では一日当たりの生活費が1.9ドル以下、200円くらいの人々がそれに該当します。世界では8億人の人がそういう状況にあるといいます。絶対的貧困と現在の先進諸国が直面している問題、こちらの方は相対的貧困と呼ばれています。相対的貧困というのは具体的にはその国では普通とされている生活水準以下、普通とされている所得の半分以下で生活するということですけども日本では大体の基準がありまして1人世帯であると122万円、2人世帯173万円、これ以下であるとほぼ生活保護の基準と同じくらいなんです。この状況以下で暮らしている人たちのことをいいます。国民の所得を100万円の人か何人、101万円の人が何人、並べてのグラフがあります。山形になっている訳です。この山をつなぎますと一番高いところ、ここは中央値と呼ばれ、現在は427万円なんですね。この所得の半分以下、213万円以下を相対的貧困というふうにとらえているということです。この相対的貧困ですけども時系列で言いますと1985年からちょっとずつ右肩上がりで上がってきております。決して良い数字ではなくて、現在では7人に1人、赤い数字は子どもを育てる子育て世帯、子どもの貧困率なんですね。青いのが国民全体の中の貧困率です。この7人に1人というのは子どもが貧困になっていますが私たちが見ると子どものイメージ、貧困の子ってこんなイメージではないですね。昔のようにつぎはぎだらけの服を着てたり、青っぱなを出しているとかという事ではなくて、今起こってるのは見えないけどもそこにあるという貧困なんですね。これは日本の特徴というふうに言われておりまして、日本の特徴は働いているにもかかわらず貧困になっている。海外の人から見るとおかしいですね。ちゃんとフルタイムで働いているのに何で貧困になるんだ。特にひとり親家庭なんかでは2世帯に1世帯が貧困という状態に陥っています。私たちのパートナー団体を通じてこのような方と出会いました。中学生と小学生の子どもがいるシングルマザーなんです。パートで働いていて収入を得ていますがパート収入が10万円です。この段階ですでに生活保護レベルの基準以下なんです。児童扶養手当は7万2000円出ます。これで月の収入が17万円。一方固定費の支出は家賃、光熱費、この方は奨学金という名前の学生ローンを借りておりましてそれの返済もしなくちゃならない。固定費が上がっております。14万円。この差額が食品に回されるわけです。パートの収入なんですけどもこれが安定しているかという安定してないんですね。例えば子どもがけがした、熱出した。病院へ連れて行かなくてはならない。その分、時間が削られたりします。またパートですから仕事が希望通り入れてもらえないとかいうことも起こり得るかもと思います。そうなるとパート収入が減ります。減った分どうしてるのか。もちろん食費を削っているんですね。固定費を削れないから。ですから何から削っていくかと言うと食べ物で、果物とか、野菜とか、から削られていっている。結局残っているのは炭水化物ということになっていくんですね。逆説的なんですが貧困の人ほど肥満が多いという状況、アメリカも日本も同じような形になってきております。この相対的貧困率なんですけどもこの指標を出しているのはじゃあどこか、どこの国際機関かと調べますと例えばユニセフか、もしくはWAP 、WHO であるか・・・。答えはOECD協力経済開発機構が出しています。なぜ経済に関する機関がどちらかというと人権問題である貧困を調べているのかと言いますと相対的貧困がその国の将来の経済発展に大きな阻害要因になるというふうに考えているからにほかなりません。今、奨学金という名の学生ローンの返済が滞ったりして破産に陥ったり、アメリカでは学生のホームレスまででているそうです。アメリカの数年後の姿が投影されて来た日本でも現実に今後なってくると予測されますが、その一方で大変やなぁ、でも自分とは関係ないかなと思う方もいらっしゃるかもしれません。でもそうでしょうか。子どもの貧困をこのまま放置しておきますと私たち一人一人の将来の生活に大きな影響が出てきます。所得の低い世帯で育った子どもたちは教育を受ける機会が少なくなってしまうことはわかっているんですね。以前私が関わっていた小学校では僕が育った頃と比べ物にならないほど宿題が沢山出されています。その宿題を保護者さん見てもらってくださいと言うんですけども保護者は、例えば共働きで働いて忙しい、シングルになったらとてもやないけどもそんなん見れない。子どもの勉強を見れるほどの時間を作らないという家庭が本当に少なくなかったですね。世帯収入は学力と非常に高い相関関係あると言われていまます。学力の差は学歴の差となって現れます。日本財団が2015年に調査しました。この子どもの貧困を放置すると日本の将来の所得喪失は42兆、財政支出の損失は15兆。これは何かと言いますと本来ならこの子たちは納税する側やった人たちがただ、生活保護であるとか、そういった社会保障を受けないとやっていけない状況になる。大きな損失になるという試算が出されております。つまり私たちの生活にも直結する大問題でして大変やねえ、一言では終わらない問題になっています。これは今、経済的な側面を申しあげたんですけどもそれだけじゃなくてもっと怖いことがあります。子どもたちに頑張れば報われると思いうかというアンケートを採りました。その中にそうは思わないというのは支援が必要な子どもの2割以上がそのように答えるんです。またさらに自分は価値のある人間かと思うかという質問に対してはそうは思わない。支援対象の55%がそのようにこたえる。自己肯定感の低さということはこのことかなと思います。この貧困が子どもに与えるダメージ、どうせ自分なんて何をやってもあかんなぁというような自己肯定の低さ、すごい大きなダメージだと思います。そんなふうに思う子どもたちがいっぱいいる国の将来って一体どんな国が想像出来るでしょうか。投げやりな人や自暴自棄な人が多くなっていかないでしょうか。それを裏付けるようなニュースが最近チラホラ目にするので怖いです。それが見えにくい子どもの貧困の計り知れないインパクトです。食べられるはずの捨てられてしまっている食品、フードロス、これを必要とする方々にお届けする活動、それがフードバンク活動です。我々セカンドハーベスト京都は今年で設立満4年になりました。事務所は東山祇園の北側なんですけども京都市の施設でそこを間借りしております。倉庫はこの宇治市の槙島近くにございまして私は大体、配達に走っているか、倉庫にいるかどちらかです。セカンドハーベス京都は全員がボランティアなんですね。ボランティアばかりなんでこの日はいいけど、この日は来れないという人が多いですから毎日の対応ができないわけです。まだまだ人手が足りない状況ですので、もし手伝ってもいいよという方がいらっしゃいましたら我々のセカンドハーベスト京都のホームページの活動に参加するというところがございますのでそちらの方からご応募いただければありがたいです。年間、取り扱い量は私どもは初年度は10トンから始まりまして少しずつ増えております。直近では20トン、約倍になっております。これでも東京の団体と比べますと150分の1であったり、兵庫の団体と比べると10分の1と大変少ない状況です。東京でフードバンクって知ってるかというアンケートがあったそうです。約30%が聞いたことがある。知っていると答えたそうです。もし京都で同じようなアンケートがあったら多分10%を切るんではないかと思います。それでも私どもの支援を必要としてくれている団体をパートナー団対と呼んでいます。そのパートナー団体がどんどん増加しています。業務量は増える一方で現在のボランティアだけで対応するにはちょっと困難な状況を迎えています。セカンドハーベス京都の活動は主に三つございます。一つはフードバンクという活動、一つは食のセーフティーネットという活動、もう一つは子ども支援プロジェクトです。まずフードバンクの活動には二つございましてデリバリーと言ってこれは母子家庭支援施設、生活困窮者支援団体に定期的に食品を届ける。子ども食堂、児童養護施設にも届けるという活動をやっております。フードドライブという活動がございます。これは家にある食品、例えば今でしたらちょうどお歳暮の時期です。もらったけども、こんなにようけサラダ油使わないだろう。同じものが重なったり、使い切れないな、夫婦2人やしな。ちょっとそういったもの、家で使い切れないような未利用の食品を職場、地域、学校、クラブ、こういったところで回収箱を設置しまして、そこに寄付していただくというものです。京都シネマさんという映画館でやらせていただいたこともあります。京都生協さんで今、府内で7店舗で毎月第1土曜日に実施させてもらっています。喫茶店で常設で置かしてもらっているところもあります。KBS 京都で食品の削減キャンペーンでラジオでタッグ組んでやっていました。食品を集める方の活動です。食のセーフティネット事業、これは行政や社会福祉協議会に生活困窮など、生活相談にこられた方々が対象なんですけども各窓口のソーシャルワーカーがこの人にはどういう支援が適切だろうかと考える。その中でこの人には食の支援があればすぐ立ち直るんではないかなという方々に対して我々に対して支援要請があります。その支援要請を受けて、例えば行政に私どもがお届けして行政がその利用者さんに届けるということです。そのような仕組みになっています。現在、京都府内の10の市や町、17の団体と協定しています。この宇治市では役所と協定しておりましてよく取りに来られます。今年度は130回、延べ219人の方に食品を届けました。このような活動をしていく中で教育関係者とお話をする機会がたびたびありました。その際に夏休みが明けて登校してくる子どもの中にやせてくる子どもがいるという現実ということを何度もお伺いすることがありました。これは昔の話でなくて今の話です。今どきなんやということになると思います。理由、原因はいろいろあると思います。貧困もあるでしょう。またネグレクトも結構大きなファクターです。いろいろひとくくりにできない複合的な要因でそうなっている場合もあるようです。私どもは設立当初から子どもが無料、または低料金で子どもだけが1人でも食べて行ける、こういった活動、子ども食堂と言いますが今は全国では3000ヶ所以上でされているようです。京都府内では現在では120ヶ所ぐらいがあります。この宇治市内にもいくつかございます。当初、この活動をフードバンク団体として支援するための専門の部門を作って様々な支援を行っておりました。私自身も1ヶ所やっております。メディアが子どもの貧困を取り上げる際にその対策のような感じで子ども食堂がよく取り上げられているシチュエーションがございました。その繰り返しによって何が起こっていたかというと子ども食堂=貧しい人が行くところみたいなイメージになりました。やっている人の思いと裏腹に、本当にしんどい子どもたちが来ていない。という状況が起こっています。親はあそこには行ったらあかん、というんですね。子どもはお母さんに言われているから黙っててねと来るのです。「私とこのそんなんちやうから」と親がすごくストップを強くかけてるんですね。だから本当に届けたかったはずの子どもたちに届けられてない、子ども食堂に。で、子ども食堂を支援する部門はこのままでいいのかと考えたときに子どもに直接食品を届けてくるという活動をしている団体が山梨県にあります。それを見て、やろうと思ったんですけども我々の実際にしんどい家庭にアンケートを採ったんです。次のようなことが帰ってきました。2月に離婚しひとり親になりました。小学生二人、保育園児二人がいます。私は仕事を週三回行っていますが、月平均四万円です。不足分のお金は生活保護でなんとかやっています。それはきついと思います。今年5月に主人が交通事故にあってしまい、6月からの所得が私のみの仕事(パート)になってしまいます。節約するとなると食費が1番に出てきたので、申し込みをしようと思いました。かなり大変です。母子家庭。父親(子から見た関係)からの養育費はなし。進学にあたっての制服代などの出費で3ヶ月間、生活の状況が厳しいです。両親も他界しており身寄り無しです。ということです。で、支援するために山梨県で始まっていた活動、これが子ども支援プロジェクトと呼びます。それを始めました。これは学用品とか、給食費など一定所得以下の家庭に対して就学援助というのが支給される制度があります。そういった所帯に教育委員会や学校からプロジェクトの案内を送付してもらって希望される世帯が我々セカンドハーベス京都へ直接申し込んでこられる。で、夏休みに2回、冬休みに1回、様々な食品を入れた10kgくらいの箱を宅配便で届ける、というものです。初年度は京都市と八幡市合わせて185件の申し込みがありました。本年は京都市で六つの小学校からの応募がありました。で、八幡市では8小学校に案内を出して合計で238件の申し込みがあり、出荷をしております。本年、クリスマス前に実施してちょっとしたプレゼントになるといいかなと思っています。出荷作業はセカンドハーベス京都のボランティアを始め、京都府立八幡高校のボランティアの皆さん、プロサッカーチーム、おこしやす京都A.Cさんという方々が手伝いに来てくださって、八幡高校の南キャンパスの教室をお借りして作業しました。職員は企業や行政などから寄贈された防災の備蓄食品や市民や農家、大学から寄付されたお米、また、缶詰とか、八幡にあるホストコホールセールコールさんから今販売している食品、好きなんもの持って行き、と、選ばしてもらって、寄贈していただき、ちょっと太っ腹なところがございました。今年は結局、それでも足りずに幾つかを我々に寄せられた寄付の中から購入いたしました。また、お米なんか足りなくて山梨県に支援要請して1トンぐらいお米を送っていただいたりして、やっとそれまでに合わせました。設立4年で食品取り扱い量がまだ20トンくらいの団体が行うのはなかなかハードルの高い大変な活動なんですけども食品と一緒にアンケートを入れておりまして、その中にはとても助かりました。家族みんなで大喜びでとても盛り上がりました。ありがとうございます。普段は生活に必要最低限の物を購入し子どもたちには我慢させることが多々ありますが今回子どもたちが欲しかったけれど、手に入れたことがなかったものがあり、喜ぶその姿を見て私もまたこれからも頑張ろうと思ったし何よりもありがたかったです。食品に納付してある手紙の部分にぬくもりを感じ、救われました。必死な私を思い、助けて応援してくれる人たちがいるんだと元気をもらいます。など沢山の助かった、ありがとうのメッセージをいただいております。ピンポイントで食品を届けられるので知っていただきたいのは実はこの宇治でも熱心な議員さんがおられ、宇治でもやって欲しい。その要望を受けて先月やっと宇治市教育委員会と話ができ、来年度から宇治市でも1つの小学校以降から始めると言うことになっています。ぜひこういった活動をこれからも続けていくためにどうか皆様のご協力の程よろしくお願いします。こういった紹介をさせていただく場を作っていただきました宇治鳳凰RCの皆さん、また、石津さん、どうもありがとうございました。よろしくお願いします。

故 太田壱将会員 追悼例会

2019年11月14日堀井長太郎会員皆さんこんにちは、まず大田会員さんのご冥福を心からお見舞い申し上げたいと思います。私と太田さん、チャーターメンバーということで一緒にロータリーをやらせていただきましたけども、それより以前から何か深いご縁というか、すごくありまして思い出がすごく多いです。またほうぼうなところでご活躍されておりまして皆さんもご存知と思います。私との深い関係と言いますか、事を思い出しながらお話させていただきます。実は皆さんご存知のように私はお茶やで、戦後すぐ昭和30年代、私は幼稚園から小学校ぐらいの同級生です。もう大家族の中で過ごした思い出があります。お茶やが茶摘み時期になるとホイロ士さんという方が来られたり、修行される全国のお茶屋の息子さんお預かったりすごい大人数でして物事を食品等を買う場合はどれはどうというふうに決まっていたようでその中ですごく印象深いのが太田さんのほうの醤油ですね.当時は今でこそコンビニ等で小さな瓶とか、一升瓶とかありますがうちは樽でお醤油を持って来ていただいたりします。それも濃い口のお醤油でないとだめやったようです。薄口はまたお醤油屋さんで清水醤油、丸宇というところがあって、それぞれに使い分けさせていただいておりました。太田さんとこのお醤油は特にですね、お正月の前になりますとお餅つきがありましてお餅を大きく固めてまた薄っぺらく切って寒い間に乾かしておかきを作ります。そのおかきを焼くときの濃口醤油がおかきにしみてですね、この醤油でないとおかきの味が出ないなというすごく太田さんの丸五の亀甲の真ん中に蘭と書いてあったんです。それが非常に印象に残っております。学生時代になると昭和40年代です。当時私の同志社の大学に通っていたんですけどもその同志社へ行っている学生ばっかりで宇治クラブというのがありまして、学部は関係なしに寄り集まって、その夏休み中に宇治の小学校の生徒を集め夏期学校というのを学生が先生をするわけです。そこで私は太田さんのお父さんと初めてお会いしました。その頃から同志社に行って昔のことですからそういう事業ができるということが懐かしいと言いますか、菟道小学校は確かに昭和43年ぐらいに今の場所から変わりましたがあそこの古い校舎で生徒さんを集めて1週間か10日ぐらいあったと思いますが先生役をやって、こないだもふとアルバムを見てますと太田さんとご一緒に興聖寺の前で写生してたんではないかと思いますけどもそういう思い出がありました。そのあとこのロータリークラブに入らせていただいてチャーターメンバーとして一緒にさしていただいたわけなんです。当時、同志社は通園さん、寺川さん、奥山さん、私と結構、同志社の卒業の者が多くて、特に私と通円さんは同志社香里のほうから内部進学をして、お父さんは岩倉の本校でそこのご出身で、すごく誇りと同志社意識をすごく持たれていて、常にそういうお話を聞かされたような思い出が沢山ありました。また、このクラブの創立チャーターメンバーで鳳凰ロータリーが発足しましたがその初めのほうは何かロータリーの行事等があれば夫婦で出て来いということがすごくありまして太田さんのお母さんにも出ていただいていろんなところでお会いさせていただいた思い出があります。またおばあさんもうちの父親が商工会議所の会頭してた時に婦人部が設立されまして、その役員として婦人部の活動にすごく活躍していただいていた、そういう話を父親からも聞いていて、やはり太田さんと何かご縁があるなと感じておりました。そのあとも近くにある介護施設の私、理事をさせていただいていますがビラ鳳凰の評議員として入っていただいて槙島地区、福祉の事情を地域からお話していただいたことも大変印象に残っております。このクラブでは19代目の会長としてご活躍いただきました。振り返ってみると太田さん会長でいながら幹事色もすごく勤められていたように思います。戸山さんの事務所に私も時々行ってたわけですけども、よく太田さんは通われてたようです。クラブの20周年に向けての基礎作り、しっかりと土台固めをやっていただいたのも太田さんのおかげではないかというふうに大きな足跡を残されたように感じております。太田さんとはそのロータリー以外でも商工会議所の役員を一緒にしましたし、役員旅行というのがあって沢山、方々行かせていただきました。持ち前の温厚でやさしい暖かく私らに接していただいて第一声は長太郎君なあと、堀井君と言わんと長太郎くんなあとこういうお声掛けをいたのは今でも思い出されて、人の接し方とか、お付き合いのあり方の根本、そういうなの太田さんから私に教えていただいたように感じております。来年クラブは30周年を迎えるわけですけどもご一緒にお祝いをしたく思っておりましたが本当に残念でございます。でもきっと天国から私たちのクラブの発展を見守っていただいている事と確信しております。これをもちまして追悼の言葉とさせていただきます。どうぞご冥福をお祈りいたしたいと思います。失礼します。熊谷良生 会員こんにちは、太田会員を忍んでゴルフの方で何か一言お話を、人柄というのは今、堀井さんから話があったように僕は一応入会してから太田さんとはゴルフを通じていろいろとお世話になりましたし、沖縄のほうにも沢山行かせてもらいましたがその時のことを少し話をさせてもらいます。まず、僕が入会するきっかけになったのがゴルフを通じてなんです。ゴルフがあるから参加しないか。まぁ、僕もゴルフ嫌いでないのでいいですよとクラブのコンペに参加させてもらって2、3回そこで太田さんと顔を合わせました。それが終わった時点で雨堤さんともう今は辞めてますけども田村さんという方がうちの方に見えましてロータリークラブに入会員になってます。ロータリクラブって何ですかということでまぁその中でいろいろ話を聞いている間にももうニュー会員になっているからよろしくお願いします。入らせてもらったわけです。それから3年ぐらいしてから那覇西の記念式典に参加した時が沖縄に行った最初のゴルフやったんです。その時にロータリーの沖縄大会というのがまず日本でいくつか大会というのがあったみたいなんで。東京、北海道、沖縄、残っていたのが北海道と沖縄ぐらいしかなかったんです。それに参加させてもらってから毎年一緒に沖縄のほうにクラブとして行くようになったんです。その中でうちのクラブで行ってたのが大体常時4人というのが主やったんですがその中でティーショットと言いまして一番最初に打つところなんですけども僕と太田さんというのはだいたい距離的に同じぐらいなんです。それよりも20ヤードくらい先に雨堤さんのボールがあります。それよりも30ヤードぐらい先に南郷さんのボールがあるんです。いつもセカンドを打つのは僕と太田さんが並んでそこからセカンドを打っていくようなことでした。いつも思うのにあとの2人よりも20ヤード、50ヤード手前から寂しいねえと会話をしもって.それだけはどうしようもないので、幾ら頑張ってもそれ以上は飛ばない。僕がドライバーを打ってもそのぐらい。南郷さんがスプーンで打っても僕よりも50ヤードぐらい先に行っている。ゴルフをやる人はドライバーとかスプーンとか、そういうヤードというのはわかると思います。ゴルフに全然無関係の人はどういうことかなという話と思います。ヤード約1m ぐらいということで計算してもらえばわかると思います。毎年2泊3日で沖縄で、午前中11時半ぐらいに那覇に着きます。そして昼からはワンラウンド、それから夜の会食、それは那覇西のメンバーも一緒にゴルフに参加してくれますので夜の会食は全部那覇西のメンバーさんが設定しといていただきます。一緒に、まあ、私は飲みませんけども太田さんお酒が好きで紹興酒や泡盛はそれを飲んでもやはり次の日はきちっとしてゴルフできるんです。それが毎年3月か4月ぐらいに定例の行事になっているぐらい。いつもなかの琉球とリンクス、それにあと有名なコースばかりでプレーするんですが1時、久世カントリーに行こうかということで太田さんが段取りをして行ったこともあります。久世カントリーというところは周りに湖があってその横に建物が建っている。一応リゾート地なんです。そこで2回ぐらいゴルフをしました。楽しい思い出も沢山作らしていただきましたし、ロータリーの中でのゴルフに関して沢山の思い出もいただけました。今年がちょうど、私、1月から体調を崩して入院してて太田さんが亡くなったということも全然知らなかったんです。たまたま帰った時に太田さん亡くなったということでええっということで今年はそういうことで沖縄には行かなかった。毎年毎年一緒に沖縄にゴルフに行くことを楽しみにしていたんですけどもこれからは一緒に行けないなと思うと本当に寂しくなってきます。ゴルゴによってクラブの中で久しくお付き合いさせていただいたことも確かでございますし、またゴルフができる方が沢山入ってきて欲しいと思います。息子さんの方に関してはお父さんがこよなく愛したクラブの方にまたできれば一緒に活動ができれば幸い思います。よろしくお願いいたします。 南郷孝 会員 南郷です。ゴルフのお話ですがいつも沖縄へ行く時には、太田さん、雨堤さん、熊谷さん、それと入会した何年かは、大西さん、岩井さん、山形さんも元気に一緒にゴルフをさしていただいていました。このメンバーの中でお酒を飲むのが僕と太田さんぐらいであとはあまりお酒を飲まれませんでした。泡盛のボトルを分けて最後まで飲んでいた思い出があります。何でも人の面倒が見るのがものすごく大好き人間でした。ゴルフを一緒に回っていても自分のボールを探しに行ったらいいのに人のボールを探しに行ってくれるのはいいのですが、自分のボールがどこへ行ったかわからないようになってそしてみんなでまた探しに行くこともありました。やはりやさしい面がものすごくあったことを覚えています。ゴルフは沖縄と酒田のほうも行きました。いつもメンバーで行くと一将さんは僕の横にいて注ぎ合って飲みます。一時体調を崩され入院されていて、また復帰していただいて元気な姿も見せていただいていましたが本当にあっけない、元気おられた人がこんなにあっけなく逝かれるのかなと今もすごく痛感しています。これから太田さんにいただいた温情を大事にしていきたいです。切地 会員今日はありがとうございます。大先輩の太田さんのことを語るなんて私ごときがおこがましい限りだと思うのですがプログラム委員長のからロータリーの話、それから人柄については皆さんお話されるでしょうから消防の話をちょっとして頂きたいということでお受けしました。宇治市消防団には女性だけの朝霧分団を含め六つの分団がございます。その中で私は宇治分団、太田さんは槙島分団ということで分団の違い、それから入団年月に約20年のずれがございます。現役の時、私が太田さんと消防の事で接したことが無いものですからちょっとした勘違いや、こちらの思いこみで話をしてしまうことがあるかもしれませんがその時はお許しをいただきたいと思います。太田壱将さんは1970年、昭和45年に宇治市消防団槙島分団、団員を拝命され平成18年3月31日、本団の副団長で退団されるまで実に36年という長きにわたり地域の防火防災の要として活躍されました。その中で特筆すべきは平成2年から15年の13年間にわたり槙島分団の分団長として異例に長く、槙島分団を引っ張ってこられたということであります。分団毎にいろんな事情というものがありますが13年もの間、分団の長を務められたというのは本当に大変だったと思います。火災現場にも何度となく出動されていたようですが分団長の在任中に槙島の六石山、槙島というのは非常に多くの飛び地を持っておられるところでありまして六石山というのは宇治市斎場、金井戸のもうちょっと南東あたりになります。そこで林野火災が発生した時に即座に分団員を招集、そして出動の時に訓示で消防団員として林野火災の三つの鉄則というものを述べられました。消防団員として、決して火を追わないという事。それから決して単独での活動、行動はしない事。そして必ず人員、機材の確認報告をするという事。この三つ、これは二次災害を防ぐためには必ず必要なことであります。これを太田さんは全員を前にして述べられ、そして出動、見事に消防職員と協力、鎮圧、鎮火され分団員全員並びに機材を無事帰還させられたそうであります。この時の太田分団長の活躍には目を見張るものがあったと当時の体験者は今も言われます。数々のご功績があって現役時代には12もの表彰をお受けになられました。そして退団後は平成24年春の叙勲におかれまして瑞宝単光章を受章されました。今年二月、そんな大先輩の太田さんと私は今まで消防のことでほとんど話すことはなかったのですが一度だけご相談に伺ったことがあります。消防団員の任期は2年が一期です。私は本来ならば宇治分団長として次の3月31日までは任期がありました。ところが事情がありまして任期半ば1年を残して辞めさせて頂きたいと言うことを太田さんにご相談に上がりました。太田さんは「なんでや、切地さん、あんたは団歴何年?」31年です。「31年やったら叙勲対象までもうちょっとやろ、もうちょっと頑張ったらどうや」と言われました。いやー自分は叙勲なんて大それた事は考えておりませんし、勲章を貰いたくて入ったわけでもないと申し上げました。理由というのは消防団には定数というのがあり宇治分団は有難い事に私が分団長になってからずっと満数の75名であった所に今年5名の入団希望の若者が現れました。やはり順番に年のいった者、それから辞めてもいいという者を順番にお願いに上がったのですけがどうしても1人分足りない。そういう対象になる人がいなかったわけです。それと自分の身体的な問題がございまして現場に出ても皆に迷惑をかける事があれば申し訳ない。この二つの理由で辞めさせていただきたいのです、と申し上げました。その日は結論も出ずに失礼しました。只、家に帰った時に太田さんは私のことを思って言ってくれたのにあんな言い方もなかったんじゃないかな!次の例会でお会いしたら一番に謝ろうと思いました。そしたら次の例会で太田さんの方が私の方に駆け寄っていただいて、「切地さん、このあいだは悪いこと言ったなー、やっぱしアンタの言う通りや、やっぱり後進に道を譲るということは何よりも大事なことや」そう言われまして何かつっかえが降りたような気がして即座に上申書に私の退団の意向を書かせていただきました。そんな、いつもいつも寄り添っていただける太田さんでした。ロータリーの事についても一昨年、私が会長をさせていただいた時に通常の夜間例会をやらせて頂きました。その理由というのは若い方に入っていただきたい。ただ、働き盛りの方は昼間時間が取りにくいからというような話をしておりましたら、また太田さんはその時に「本当やな、私もな、そろそろ息子に代わってやりたい。いい会やから、ぜひとも息子を入れてやりたい。ただやはり、現状では平日の昼間仕事から抜けるということは難しいから、それはもうアンタの言う通りやと思う。これからはこのクラブを維持していくためには例会の時間であるとか、いろんなことも考えないかんやろなー」ということを太田さんには言われました。いつもいつもそうやって私の考え方に寄り添って頂きました。太田さんが亡くなられる1年ほど前から現役の会員さんが太田さんを含めて3名亡くなられました。で、私がこの SAA の着任の挨拶をする時にそれぞれの方の個性で言わしていただいたのですけども太田さんの時はやはり『やさしい兄貴のような太田さん』と言わせて頂きました。そのような太田さんが今もいつも心の中には残っております。この4月、桜祭りの時、奥様と一緒に店の方に来て頂きましした。あの小柄な太田さんですが弱音を聞いたのはその時初めてでした。「こんな体になってしまってもうどうしようもない。タクシーを呼んでくれないか」もうちょっと待ってもらって送りますからと言ったのですが、いやいやいやという話になりました。そのあと4月の最終例会、ちょうど今日来て頂いております辻さん(城陽RC)、それから宇治RCクラブの左さん、それと雨堤さん、太田さんと私、同席させて頂き楽しい時間を過ごさせて頂きました。しんどそうなところはなく、お元気でした。あれが出席して頂いた最後の例会になるとは心にも思いませんでした。本当にお元気な姿が今も目に焼きついております。一緒に行ったスキーの話なんかもさせて頂きたかったのですけども・・・・・。ひたすらご功績を称え、そして私に対するご厚情に感謝し、そしてただただご冥福をお祈りしたいと思います。どうもありがとうございました。高橋権也 会員故太田会員は2008年から2009年まで第19代目の会長をなされました。会長テーマは「次代に花を咲かせよう」でした。その年のRI会長のテーマは「夢を形に」でした。その目標はロータリアン一人ひとりに幸せと健康に恵まれた平和な世界を築くという夢に向かって共に歩もうとするものでした。その年の地区の川端ガバナーのテーマは「次の世代にときめきを」でした。そこに住むすべての人達が生涯をそこで終えてもよいと思える街づくりを提唱しました。太田さんの テーマ「次代に花を咲かせよう」はそれらを受けて、宇治鳳凰RCのそれまでの18年間の活動の伝統を引き継ぎ発展させて、それらの活動を通して次の世代がときめきを覚えることができ、美しい花が咲く社会の実現に向かって一歩でも近づきたいというものでした。任期が終わる平成20年7月3日の週報コラム欄に西村大治郎パストガバナーの言葉を引用して次のような文章を投稿しています。少し長いですが、面白いので引用します。ロータリーは紳士の修養道場であるから長期間にわたってロータリー生活を続けている間に目覚ましい人間的成長を遂げる。   具体的には ①視野が広くなる。②行儀がよくなる。③人柄が謙虚になる。④顔がきれいになる。⑤仕事が几帳面になる。⑥社交的になる。⑦話題が豊富になる。⑧話術が上手になる。⑨童心にかえる。⑩良い友達に恵まれる。ここからが太田さんの言葉です。一年間会長を務めこの十徳を得る機会は随分増えました。しかし本人の心構えが悪かったこともあり、話題が豊富になる、話術が上手になるという徳は充分には得られませんでした。「最もよく奉仕するもの最も多く報いられる」というモットーを、会長職を終える頃になって改めて思い知った次第です。これからもこのことを忘れずにロータリーの十徳を得られる様活動していきたいと思います。と結んでいます。確かに太田さんは自分から積極的にそのテーブルでの話題をリードする方ではありませんでした。しかし私たちがする質問には誠実に答えられました。わからないことがあると次回お会いした時に教えていただいたことが強い印象として残っています。太田壱将さん静かにお休みください。