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八木家と新撰組

2019.3.28京都鶴屋 鶴寿庵 京都洛中RC八木喜久男皆さんこんにちは。今日は伝統ある宇治鳳凰ロータリークラブのスピーチに寄せていただきありがとうございます。大変光栄に存じておる次第でございます。ただ今は高橋さんからご紹介がございましたように、私は京都洛中ロータリークラブの創立以来のメンバーで40年になります。高橋さんはこの度叙勲をお受けになられまして誠におめでとうございます。親族といたしましても大変光栄に思っている次第でございます。これからも十分お元気でご活躍されんことを心から望んでおる次第でございます。今日は「八木家と新撰組」というお話をさせていただきます。私は10年ほど前に八木家と新撰組の書籍を表しました。新選組は最近雑誌やテレビ取り上げられ、忠臣蔵を凌駕する勢いで大変な人気でございます。上洛将軍家茂を守る浪士隊(後の新撰組)なぜ京の壬生へ来たか、しかしその新選組の話はかなりの時間が必要になりますので、どのような生活、活動をしたかをお話をしてみたいと思います。皆さんは子母沢寛という作家をご存知だと思いますが、その作家が我々の方へ昭和の初めに参りましてくまなく取材をいたしました。そして、新撰組遺聞 新選組始末記の2冊の本が出ました。今、新選組を書いている作家は沢山おられます。もう何人おられるかわかりません。あの本は後の作家の皆さんに本当のバイブルといいますか、根本になって小説を書いたりいろんな事を言ったりしているわけです。ご存知のように他の人と同じことをしててはだめなんですね。特に作家は。それを皆さんはいろいろと研究し捜し出してそれまでとはちょっと違うことを書くことによって“アーこういうこともあったんだ”というような書き方が非常に多いですね。私の方へも現代の多くの作家や関係者の方々がお見えになっておりまして、お話させてもらいましたが、中にはちょっと違うなと思ったことも沢山ありました。まあそういう面からお話をしたいなと思います。先ずはじめになぜ浪士隊が京都壬生へ来たかということでございます。文久3年(1863年)で、今から120年あまり前ですけれども、14代将軍徳川家茂上洛ということになりまして、それまで上洛した将軍は三代家光以来200年あまりありませんでした。普通上洛は旗本始め、大きな組織を組んで上洛しますがもうそういう余裕や時代じゃなくなっているんですね。明治維新は文久、元治、慶應、明治となりますから後10年もないわけです。ペルーが浦賀へ来てから非常に国が変わってきました。それで上洛将軍警護を目的として浪士隊が集められました。今の東京文京区小石川の伝通寺というところでした。伝通寺と徳川家とは非常に縁があるのです。と言いますのは、こういうことを言う人はほとんど居ないと思いますが、伝通寺は徳川宗家初代家康、その母(於大の方)がまつられているところです。ちょっと話がそれるかもしれませんが不幸にして家康(竹千代)が3歳の頃、戦国の世ですから故あって父母と別れて人質に出されます。そして母親は松平家を離縁されます。家康は一時織田家の人質となりますが人質交換で今川家へ行き、ずっと長い間人質として過ごしたわけですけども、桶狭間の一戦で今川義元が亡くなってから織田家につきます。その時、母親を手元に置き終生大事にしたといいます。時代も変わり、豊臣秀吉も斜陽になっております。実権は徳川家康が持つことになりまして、江戸は2代将軍秀忠に任せ、自分は京都伏見城で政務を見ていたわけです。その伏見城で母は亡くなります。その時に伝通院という号を与え、その霊を弔うため江戸小石川にお寺を建立したのです。初代宗家を生んだお寺で14代宗家を守る人たち、浪士隊が集められたことは私は作家でも何でもありませんがあまり聞いた事がないんですね。何か因縁みたいなものを感じます。それはそれとしまして、200名の浪人や多くの人が一獲千金の夢見て集まってきます。ずっと中山道を通りまして京都洛西壬生村へ入ります。なぜ壬生へ来たかということなんですが私から五代前の当主は八木源之蒸でございまして八木家は代々郷士、地方役人(じかたやくにん)を司っておりまして、どのような役目かと簡単に申しますと幕府からの伝達、または壬生村や近隣の村の要望などを受け、双方に伝達や仲介をする大変重要な役をしておりました。そのような地位関係で幕府所司代からの一時浪士隊を預かって欲しいとのことであったと考えられます。と言いますのは最初は突然200名近い人たちがやってきて家を貸せという。大変不思議に思っておりました。私どもの公文書紐解いてみましたら地方役人の文章数点出て参りまして、これでそやなと思いました。現在壬生は我々の近辺以外は勿論変わりましたが当時、壬生郷士であった家が10軒ありますが代々地主は小作農でそれぞれ由諸を持ち、苗字帯刀が許されていました。別名壬生住人士と呼ばれ、門構えで武家風の屋敷でした。浪士隊にとって丁度もってこいの場所でもありました。静かな農村屋敷町で有りましたが大変なことでありました。私のほうは時の浪士の中でも幹部連中、トップクラスで例えば芹沢鴨、新見錦、平山五郎ら5名、そして近藤勇、土方歳三、沖田総司、藤堂平助、原田左之助ら8名、計13名を家で預かったわけです。他は皆それぞれに分宿しておりました。ところが1週間程したら皆を引っ張って参りました清河八郎という人が新徳寺という禅寺に浪士を集めて“我々はもう江戸に帰る“と告げます。清川は極端に言えば、実は勤皇方の人でした。それを隠して京都へ来たのです。所がうちに居た芹沢鴨、近藤勇はじめ13名は“いや、我々は京に残る。皆とは行動をともにしない”ということで皆と別れたその13名がうちに残りました。その人たちが後の新選組の幹部になった訳です。しかしその食いぶちと云うものがありません。芹沢鴨は、水戸天狗党の脱藩浪士として近藤勇、新見錦、土方歳三を引き連れ、黒谷の京都所司代松平吉保のもとへ何とかして欲しいということで直談判に行ったわけです。皆さんもテレビなどでご存知のように大名や所司代に拝謁する時は単なる紋付羽織袴ではだめなんですね。みな裃を付けていく訳です。彼らは着の身着のままで来ておりますからそういうものは持っていません。我々壬生郷士住人士は古くから日本に伝わる行事や儀式を司り継承してきました。ある時は裃、あるときは素襖長袴、又は紋付羽織袴と儀式によって着るものが違います。先の4名は我が家の家紋の付いた裃を着用して所司代のもとへ参りました。そして松平肥後守お預かりと云うことで自分たちの生計が立てられることができたのです。大変喜んで帰ってきたそうで、その日は皆ドンチャン騒ぎで、お酒は壬生と関係深い伊丹の白雪だったそうです。先年の NHK の大河ドラマ新選組で、芹沢が暗殺されてから新選組と名乗ると有りましたがあれは偽りで、お預かりに成ったときすぐにうちにあった木の板を出入りの大工に削らせ、松平肥後の守預り 新選組宿 と芹沢がしたため、北側の門柱に掲げました。その喜びようは大変だったようです。衣装も水色でだんだら模様がありますね。ある人があの色は死装束だと言ったんですね。関係ないですね。あの水色は、昔から壬生は湿地帯で今でも素晴らしい水が出ます。家でも地下40m から汲み上げています。今も郷士の儀式に客人を招く時、家紋のついた白・水色の二段の幕を門に掲げてお迎えいたします。水色は昔から壬生を代表する色で各家は各々の紋所でこの幕を使用しました。壬生で生まれた新撰組はその水色を借用したのです。装束を大丸で、誠の旗は高島屋であつらえたと言われていますが大河ドラマの時、両店はその証拠があるか調べたそうですが双方とも出てこなかったと聞いております。装束や旗や幟ができた時大変な喜びようで当方の門前で各々旗を投げ回し、大変なにぎわいだったと分家の叔母が祖父の源之蒸から聞いていたそうです。こうして新撰組が発足したわけです。そして早速隊員を募集いたしました。そうすると先程申しましたようにいろんな人が集まってきやはります。武士で関係ない人も。そして何人か集まったそうです。ところが隊が乱れるわけです。それでご存知のあの厳しい局中法度をこしらえ、争いごとをするな、借財するな、隊を脱することを許さずとか、それをやれば皆切腹だと厳しい取り締まりをやったわけです。芹沢鴨は水戸の脱藩浪士新道無念流ですから剣が立ったんですね。普段めったに刀は抜かなかったようで.いつも鉄線で裁いていたそうです。一旦刀を抜けばそれはすざましかったそうです。祖叔父がそのように聞いていたようです。所がお酒が非常に好きで、少し過ぎると酒乱というか、人格が変わった様になる。これは仕様がないと思えるんですけれど、“文武両道の立派な武士だが酒さえ控えたならなー惜しい人物だ”と厳祖父八木源之蒸言ってたそうです。ということで今度は芹沢が邪魔になってきました。所が局中法度に照らすことは絶対出来ません。それである夜、島原で会合がありました時に泥酔して戻って参りました。その夜、祖母が源之蒸が隠居所へ行っておりましたのでたまたま隣の座敷で寝ておりました。雨の降る日で京都は9月でも夜、蒸し暑い雨が降る時があります。源之蒸の帰りが遅いのでなかなか寝付かれませんでした。すると庭先に何か人の気配がし、ああ、帰ってきたと思ったそうです。しかしその気配がすーっと消えたんです。おかしいなと思いがついウトウトとしていたら、突然大きな悲鳴が聞こえた。それが暗殺でした。そして10畳と六畳部屋で6人が寝ておりました。そこを土方歳三はじめ、近藤勇一派の剣豪たち5、6人が泥酔して寝ていた者を襲うと言うやり方で暗殺したのです。6人のうち2人逃げましたけれど女性2人が入っていますが結局4人殺されました。平山五郎は 一刀両断のもとにやられていますがしかし芹沢は大変な剣豪でしたので一太刀浴びて隣のお祖母さんの寝ているところで逃げて参りました。しかし折悪しく置いてあった文机につまずき倒れ、そこを数人が寄ってズタズタにやられました。祖母さんはそれを目の辺りにしたそうです。夜が明けて大変だということで大騒ぎでした。芹沢の遺体を安置するために抱き上げたところ、そしたら首がポロッと落ちたと私の祖母が聞いていたそうです。それくらい悲壮な事件でした。芹沢がもし助かっていたら大変なことで幕末の歴史も変わっていたかもしれません。池田屋騒動はどうして起こったのか、なぜ伊藤甲子太郎を暗殺したか。近藤勇と酒を酌みかわして肝胆相照らしながらその帰りに惨殺したのか、その手口だと我々の常識から解せないところがあります。それだけ厳しい時代であったのだと思います。彼らは足かけ3年居りましたが隊士が増えたので壬生では賄いきれないということで西本願寺の太鼓判所へ移りましたが壬生は無防備で危ないと言う理由でした。しかしそれも半年ほどで今のロイヤルホテルの辺にすぐに伏見奉行、そして江戸へと移ります。新選組にとって壬生の3年間が最盛期であったように思います。ちょうど時間が参りました。新撰組初期のお話をさせていただきました。とりとめのない話だったかもしれませんが本日はご勘弁いただき、また機会がございましたらお話させていただければと思います。ご清聴どうもありがとうございました。

「一休禅師を語る」

2019.2.28僧侶 酬恩庵 一休寺住職田辺宗一皆さんこんにちはただいまご紹介いただきました田辺でございます。どうかよろしくお願いいたしたいと思います。林さんとは城南高校の同窓会でご一緒でして私の方が老けて見える。先輩のように見える。私の方がずっと後輩でございますので、そのご縁でお招きをいただき大変ありがとうございます。お手元にパンフレットとそれから一休禅師が読まれました歌、道歌と漢詩、そして年譜がございます。後ほどそれをご説明いたします。日本人10人に聞きましたらあなたの一番親しく思うお坊さんは誰ですかというと多分7人ぐらいは一休さんと答えます。では一休さんとはどんな人ですかと聞くとトンチの一休さん、それは皆さんお答えになります。そしたらいつの時代でどんなことをされましたかというとさあ~というのがほとんどだったように思います。そういう意味では日本人に大変親しく思われている。ある部分いろんな宗派、セクトがあるわけですけども宗派を超えたお坊さんというイメージが多分一休さん、そういうところからみなさん方に久しく思っていただいているわけです。一休さんというとかわいい子坊主が大の大人を翻弄する話、例えば一番有名なのは「屏風に書いた虎」そして「この橋渡るべからず」それは多分皆さんよく知っておられると思います。私らの寺の庫裡というところに屏風に書いた虎を置いてあります。もう少し奥には小さい橋があります。そこに、立て札にこの橋渡るな、この二つがあります。皆さん、そこで写真を撮って帰られます。昭和50年ぐらいからアニメの一休さんが始まりました。今日のみなさん方、そのアニメをご覧いただいて育ったと思うわけです。このアニメは最初はタイ、そして中国、台湾へ行きました。中国ではおしんか、一休さんというぐらい一休さんを知らない人がいないぐらいなんですけども、でもその中国の人たちの知っている一休さんはあのアニメの一休さんを知っておられ、一休さん自身が実在の人物だというのがほとんど知られていないわけです。そういうイメージもありまして、皆さんの知っているとんち話は江戸時代に一休さんが亡くなられて200年後の江戸時代に出来上がったお話なんです。そういうイメージと私ども一休さんが亡くなられる前に作られました木像がございます。一休さん自身の頭の毛を剃られてそしてそこに自分の毛を植えられた木造が残っております。かわいいイメージで来られた時に88歳の一休さんを見て皆ガックリされるわけです。今日は本当の一休さんはこういう人でありましたと言うお話をしてみたいと思います。一休さんが生まれられたのは応永元年、今から630年ほど前の方なんです。室町時代、世の中大変乱れておりまして、特に京都は応仁の乱の戦争時代でありました。当時はお坊さんになる方というのは公家さんとか、それから武士の子供とか、そういう方たちですね、俗世間の身分が左右する、そういう時代でもあったわけです。一休さん実は100代の後小松天皇の皇子さんでございます。ちょうど後醍醐天皇の南北朝が始まりまして、そしてその終えんの天皇さん、100代の後小松天皇、この人は一休さんのお父さんなんです。天皇さんの子供ということ。現在、私どもお寺の一休さんのお墓がございます。宮内庁管轄の御廟になっています。一休さんには1人の子供さんがおられました。岐翁紹偵と言います。一休さんについて禅の修行をしておられて立派なお坊さんになっておられた。この方のお弟子さん、少納言和長という方がおられました。この方についておられた方の日記の中に一休禅師は後小松院の皇子なり、世の人これを識らずという一文があり、そういうところから明治になりましてから御陵になったわけです。南北朝が合体した時、お父さんの後小松天皇が北朝系の方、お母さんが南朝藤原家の一族と言われておりまして花山院の宮様、現在春日大社の宮司さんは花山院の宮様の末孫であります。その中に花山院の宮様の娘さんがその一休さんのお母さんと言われています。宮中で側室であったわけですけども、懐に短刀を持って天皇を殺そうとしたと中傷におわれまして宮中を下がられ嵯峨野の農家で一休さんは生まれと言われています。現在では嵯峨野に地蔵院というお寺がございます。そこで一休さんは小さい時代に育ったと言われています。一休さん自身が南朝の血を引いているということで大きくなっていろんなことがありまして、お坊さんになることによりまして政治の世界から身を引くということで6歳の時に安国寺というお寺に預けられました。このお寺は京都四条大宮にあったといわれています。そこへ一休さん6歳の時に入門をされまして、そこで周建という名前をもらっておられます。13歳ぐらいからは京都建仁寺の中に霊源院というお寺がございます。最近、今年も冬の旅なんかで霊源院を拝観しておられますがそこの慕哲竜樊に漢詩を習われました。禅宗のお坊さんというのは自分の心境をすべて漢詩で述べるわけです。実はそこで漢詩の勉強を積まれまして一休さん自身生まれて16歳ぐらいから亡くなるまで沢山の漢詩を作っておられる。その漢詩の名前を狂雲集と呼びます。狂った雲と書いて狂雲、自分自身狂雲と名乗っておられまして、安国寺というお寺は大きなお寺でありましたから実際には禅の修行ができないということで17歳の時に京都西山におられた謙翁宗為という方について禅の修行をやる。そこで一休さんは宗純という法名をもらいました。一休さん自身の本名一休宗純と申し上げます。一休さんが20歳ぐらいのときにこの方が亡くなられます。自分の一生のお師匠と思われたんですけども亡くなれてからどうしたらいいのかわからんということで石山寺の観音さんに1週間、籠もられますが結局何も得られなかったということで前の瀬田川に入水自殺をされるわけです。お母さんに謙翁さんの亡くなられたことを報告に行っておられたので様子がおかしいということで見張りをつけておられまして、その方に助けられて京都に帰り     もう一度自分のお師匠さんを探されるわけです。滋賀県の堅田、現在大津市ですけれども、そこにおられた華叟宗曇という方について禅の修行をするということで現在でも私たちはそういう専門道場に修行に行くわけですがとりあえず自分はどんな心境でこの道を選んだということで現在でも庭詰と言いまして縁側に一日中頭を下げて私は今、こんな心得できましたということで、トイレとか食事とか、いただけるわけですがそういう中で庭詰をするわけです。一休さんは寒い朝、庭詰をしておられた。そこへ華叟さんが出てきて弟子に水をぶっかけて、外出をされ、そして帰ってこられたら。一休さんはずぶぬれのままで庭詰をした。それは見込みがあるということで入門を許されるわけです。華叟という人は京都大徳寺の住職になれる十分力量を持ったお坊さんでありましたが都の弊風を嫌いまして祥端庵におられました。大変貧しいお寺でありまして、その弟子たちは人形さんの着物を着せたり、そういう内職をして比叡山を超えて京都の街に行く、そういう生活をしておられました。禅宗では修行をするのに座禅をします。座禅をしますといろんなことを考えますから公案として中国の問答をいただきます。禅ではすべての人が生まれながらにして仏様の心を持っている。小さい時は純情無垢ありますけどもだんだん年を重ねることによりあれが欲しい、お金が欲しい、誰々が憎い、これは煩悩という言葉で表現するわけです。それを取り除くという一つの方法として座禅をいたします。例えばまんまるいお月さんに雲がかかった。そうするとお月さん見えません。まんまるいお月さんというのが仏心、私たちの持っている仏の心、そして雲は煩悩です。雲を取り除きますとまたまんまるいお月さんが見えてくる。ですからその雲を取り除く一つの方法として座禅をします。それに対しまして、ただそれだけではいけないということで中国のいろんなお坊さんの問答をいただくわけです。一休さんの25歳のとき洞山三頓の棒という公案をいただかれます。これは中国の唐の時代のことです。洞山というお坊さんが全国のいろんな所に立派なお坊さんがおられる。そして自分のお師匠さんを探しに行かれる。あるとき雲門というお坊さんの所へ行かれました。雲門は洞山のウロウロしている姿を見て、お前に30棒叩いてやる。ですから警策で30発叩いてやろうかとかと言われた時にハッと洞山は悟った。という問答があります。それをあなたはどう思いますかという問題を出されて、そこで一休さんはたまたま座禅をしながらこの公案を頭だけではなく体全体で取り組む。これは私ども禅宗では拈提という言葉で表します。その時にたまたま盲目の女性が平家物語を語っていた。その歌を聴いてお悟りになるわけです。そこで一休さんは華叟さんにその心境を述べられた。その時に一休という号をもらわれるわけなんです。その時に読まれた歌が一「有漏地より無漏地に帰るひと休み 雨降らばふれ風吹かばふけ」    有漏地というのは煩悩の世界であります。無漏地というのは悟りの世界です。煩悩の世界から悟りの世界へ行っても、雨が降ろうが風が吹こうが全然動じない。そういう意味で一休さんという号をもらわれるわけです。一休さんの人柄といたしましては29歳のときに華叟さんについて華叟さんのお師匠さんである言外という方の33回忌の法要が大徳寺でありました。一休さん華叟さんについていかれますがその時一休さんだけボロボロの衣を着ておられました。そしたら華叟さんがお前も衣をちゃんとせんかと言われたら私は偽物のまねなんてまっぴらごめんですと言いました。一休さんに次のようなお話がございます。ある日一休さんはボロボロの衣で街を歩いておられましたらある家でお葬式がございました。一休さん、お坊さんですからお参りを頼みますとその家の人は一休さんのボロボロの姿を見て乞食坊主と思いオッパらってしまった。そしてまた、別の日、たまたまその日は立派な衣を着ておられた。また、そのお家でお葬式がございました。そこで一休さん、私にお参りをさせてくれと頼みますとその家の人は頼んでもいないのに立派なお坊さんが来たということで上に上げ、沢山のごちそうを出しました。そしたら一休さん、自分の着てました衣をたたんで、それをお膳の前に置いて自分はちょこんと座られた。家の人が不思議がって聞きます。以前、私がボロボロ衣来た時はオッパわれた。たまたま今日は立派な衣を着てきたらこのように沢山のごちそうを出してくれた。でもこのごちそうは一休自身ではなく、私の着ておりますこの衣に出されたもの、食べることはできませんと言うトンチ話があります。そういうふうに変わった言葉とか口答によりましてうそのかざりを憎む反抗心、それを腕力とか、説法によらずに皮肉たっぷりな表現でやっていかれます。一休さん自身は大変形式主義の嫌った方でした。そういう生き方でずっと過ごされまして63歳のときに私ども京田辺市薪というところにやって来られます。もともと私どもは鎌倉時代に大応国師という方がおられ、中国に行かれて禅宗を日本へ持って帰ってこられるわけです。この方のお弟子さんが大燈国師、京都の大徳寺を作られた。その大応さんと言う人が作られた妙勝寺がありました。焼けてしまっております。一休さんは大変この大応さんを慕っておられ、お寺を作られました。大応さんの恩して酬いるので酬恩庵と言われました。一休さんが晩年住まわれたことから現在では一休寺と呼んでいます。そして一休さんと言いますと大徳寺お坊さんというイメージが大変強いと思います。京都市内の人に一休さんを聞くとああ、大徳寺さんですかとほとんど、以前はそのように言われました。でも、だんだん最近一休寺と言うと名前も知っていただけるようになりました。一休さん76歳の時に大徳寺は焼けてしまいました。それを復興するということで時の103代の御土御門天皇より綸旨と言いまして一休さんに大徳寺を復興してくださいと言う手紙をいただかれるわけです。一休さん自身は今までどちらかというとアウトロー的な反対勢力側の人でありました。大徳寺の住職になるということは逆に自分のこれまでの生き方と違った体制側になるということで住職になることに大変迷われたわけです。でもそういう基盤がなければ仏法というものが伝わっていかないということで81歳の時に決心して大徳寺の住職になられます。そして晩年88歳で一休寺で亡くなられます。生前中、82歳の時に自分のお墓を作っておられます。11月21日にお亡くなりになって、あくる日の22日に自分の作ったお墓に葬られるわけです。遺偈と言いまして一休さんの遺言なんです。禅宗のお坊さんは遺言ではなく、漢詩を作って自分の心境を述べるということであります。二  須弥南畔 誰会我禅虚堂来也 不直半銭須弥南畔は須弥山思想があり須弥山という山を中心にこの世ができているということ、その南側と言うことは私たちが住んでいるこの世界ということなんです。虚堂と申しまして中国のお坊さんの名前なんです。一休さんはこの人を大変尊敬しておられて、自分は虚堂さんの生れ変わりだと言っておられました。その虚堂さんが私の目の前に来ても一休さんの禅の境地にはかなわないんだと言っておられる。そのような言葉を残しながら亡くなっていかれます。深山幽谷の中で一人座禅するとか.そういう人が立派なお坊さんだと思われがちでありますけども、一休さんはそういう山の中の生活ではなくて、京都の街の中に来て、そしていろんな方とお話をしながら諭していく。そういう一つのスタイルを取られるお坊さんでありました。一休さんにこういうお話がございました。お正月に一休さん、竹の先にしゃれこうべをつけて京都の街中を歩かれました。そしてめでたいな、めでたいなと言われました。そしたら京都の街の人たちはお正月気分に浸っている、めでたいと言っている時にこのしゃれこうべを見て大変不機嫌になられた。そうしたら一休さんに何か、めでたいことを一つ書いてくださいと言われたら一休さんこの歌を述べられました。三 門松は冥途の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなしと答えました。京都の街は3日間全部戸を閉めた。一休さんのしゃれこうべをもって一軒一軒ご用心ご用心と歩かれるものですから縁起が悪いと言われました。ある人がなぜそんなに目出度いんですかと聞かれたら、このしゃれこうべを見なさい。目が出て空っぽになっているから目出度いのですと言われました。お正月が来ますと年を一つ重ねます。年を重ねるということは目出度い事ではありますけども一つ歳をとるということは死に一歩近づくということです。そうしたら目出度くない。そういうふうに言われたわけです。皆しゃれこうべになっていくということは知っているわけですけども、でも昨日も今日も何もなかった。明日がまた来るじゃないかというふうに思っている私たちにそうではないんです、しっかり生きなさいという多分一休さんのそういう忠告ではないかと思うわけです。禅では大切にされる言葉にこういう言葉があります。即今、当処、自己。すなわち、即今は今、当処とはここで、そして自己は自分自身ということ。今ここで自分自身が何をするかということであります。これが禅の教えでございます。現在はいろんなことがございますけども、例えば問題が起こった時に悪いのは自分ではなくて家庭が悪い、学校が悪い、世間が悪い、そういうふうに今皆さん言われます。そしてそれがまたまかり通る時代だというふうに思います。でもそれは学校も家庭も世間も少しは悪いかもしれませんけどもそれに関している自分も全く無関係ではなくて自分自身も悪いと反省をするというそういうことも必要ではないかと思います。四 「昨日は去った明日もまだ来ない今を大切に生きよ」という言葉がございます。昨日にとらわれている人は今という時間を充実して生きていない。ですから今を生きていないからまた先のことが気になる。私たちは今日出来なければ残りは明日すればいいという生き方。ところがそんな明日が来るという補償は何にもないわけです。未来という字はいまだ来ずと書きます。未来がまだ来ないぞ、来ないということですから明日があるということは何の保証もない。この先、5分先どうなるかわからないというのが私たちの世界ではないかと思うんです。仕事を残すことが悪いことではないと思います。大事な仕事であるならばそう簡単にそのうちに片づかない場合もあるでしょうし能力の限界というものもあります。問題はやり残したという思いと明日を頼むということだと思います。今日は今日の仕事、明日は明日の仕事、その日その日のうちに精一杯やればそれでいいと思います。そうすればもっとさわやかな明るい気持ちで今日を終えることができる。今日ただ今のことを全力を集中し無念無心にやっていくこと。これこそが本当の人間の生き方じゃないかと思います。一休さんにこういう話があります。ある日一休さんのところである若者がやってきました。うちの親というのは“し”ということを使うと大変忌み嫌うんで一休さんに何とか頼みたい。そうすると一休さんは今暇だから一緒に行ってあげるということで行かれました。その途中に魚屋さんがありました。一休さん、そこで息子さんにカレイを4匹買わされましてお父さんのお土産に持って行きました。4匹のカレイを土産をもらったお父さん、4匹ということで1234、自分が嫌いな“し”という言葉をとりまして“し”カレイ、怒りました。そうしたら一休さんはこう言われました。あなたは"し"カレイととりましたが私はこれをよかれいと思って持ってきた。こういうふうに言われました。私たちはこの現在に、お互いにある家の男となり女に生まれてきたわけでありますけれども、自分の生まれてきた環境とか身体に対して、例えば男の場合ですともっと男前だったらな、女性の場合でしたらもっと美しく産んでくれればよかった。もっと頭のいい子に産んでくれればよかった。もっと金持ちの家に産んでくれればよかった。自分の生まれてきました環境や身体に対して不平不満、他人さん見て、あの人はいいなとうらやむ人も多いわけです。妬んだりする人もあります。ここで考えていただきたいんです。幸せというものは他人さんとの比較によって出てくるものではない。今、与えられたものを良かれと思うところから良かれの人生がやってくる。でも、それを”し”かれととって不平不満をタラタラ言うか、また逆にですね、それは良かれとありがたく感謝するかは皆さんの心一つでございます。ですから今日からは良かれ良かれと言いながら毎日をお過ごしいただきますこと、そして一休さんのいろんな生き方をお話させていただきました。一休さんの 生き方を少し参考にしていただきましてこれから良かれ良かれの人生を歩んでいただきますことをご祈念を申しあげまして大変まとまりのない話でございますけどもご清聴どうもありがとうございました。

年男放談 2019.

愛犬が動かない太田壱将皆さんこんにちは、クラブにおける放談は3回目になります。その中でやっぱり忘れられないのは24年前の最初の放談の年ですね。矢野喜久雄さんが会長の年で、特に15、16、17日。今でも鮮明に記憶に残っています。その頃は成人の日は15日と決まってまして、小学校でいつもその新年に左義長がありました。それを手伝って帰って来ましたら一つ隣の町内で、200 m ほどのところで火災が起こってました。私が第1発見者で、あとで警察に大分聞かれました。ちょうどお昼やったので気づくのが近所の人も遅かって、一軒丸焼けで両隣燃えました。その全焼した家の奥さんが亡くなられまして消火してからご遺体を発見するまでが消防の仕事、発見したら直ちに警察が入りまして現場検証。昼から12時頃までずっと寒い中、番をしていまして、冬のことで水利も悪くて消火も手間取りました。発見した時はもう手のつけようがない。2階の畳が落ちてかなり積もっていました。それをどけるのに1時間ぐらいかかりました。消防署員の人がその畳の下に必ずご遺体があるという。においでわかる。頭の骨が見えた時はすぐに警察に引き渡しました。次の日は日曜日でいいお天気だったんですが夕方の夕焼けが綺麗いで、犬の散歩のコースを回ってましたら、神戸の方角に犬を連れて行きますとそこでピタッと止まって動かないんですね。引っ張ってもだめだし別の方向に行ったんですけども犬はその辺のことがわかるんでしょうか。17日の朝、やはり同じ方角から地震の波が感じられました。その感じた後に大変な揺れがきました。2階で家内のフランス人形のショーケースが落ちました。そのガラスの音で家内はびっくりして布団をかぶって潜ってじっとしていました。私は起きてすぐに娘、息子の部屋を見廻り、息子は大物か知らないけどもまだ寝てました。娘はやはり布団をかぶって潜っていました。幸いにその頃、私は消防団に入っておりまして、その前の年に防災講演会で総長になられた尾池さん、その頃はまだ助教授だったんですけども講演を聞きました。150年周期で高松から敦賀を結んだ線上にマグニチュード7以上の地震を起こす断層帯がある。その前の年にとっくに過ぎているのでいつ起こってもおかしくないということを聞き、早速タンスとか食器棚、全部固定しました。おかげで実質被害はフランス人形のケースとそれとお酒のビンが一本割れただけで済みました。周りの灯ろうが倒れたりした家はあったんですがうちは被害も少なくてけが人もなくてよかったです。昨年いろんな災害が起こりましたけども今年はそういった災害がないように願いまして放談を終わらせていただきます。浅井貫心神戸が燃えていた皆さんこんにちは。今月の10日の初例会欠席いたしまして本当にすんませんでございました。ちょうどその時は祇園の方で飲んでおりまして申しわけないと思っております。本年もどうぞよろしくお願いいたします。年男ということなんですけども、今年は72歳に突入していく年なんです。今日も朝、うちのかないとしゃべっておったんですけども“なんとあんたも年いったな”と言われて、なんでって言うたら、体力なくなったし、歩き方もモタモタモタモタしてるやんと言われ、そうかなと思ったんですがよう考えてみたらそうかなと思いますけどもちょっと寂しくなってくるんですね。年とともに力がなくなってくるのも間違いないなと思っております。今日は何を話そうかということも全然考えておりませんでした。先程会長が神戸の方の地震のことでお話しておられました。17日のことですね。うちのばあさんも神戸の灘区の方に結婚していっておられまして、地震の時に他から電話がかかって来て、“はよう、おばあさん迎えに行け”というんですね。そんなもん、そんな状態でいけるんかいな。どうにかして行け行けと言われて困りました。2日、3日経って、阪神高速も止まっておりますのでどうしたらいいのかなと宇治警察まで行きまして神戸まで行かなくてはなりませんがどうしたらよろしいかと尋ねたら車で物資ということで宇治署からステッカーをもらいまして、それを前において車で夜中に4時間5時間かかりまして下の道を走りました。ずっと行くたびに燃えている、燃えている、何かこう、手を合わすにおられないなということで止まっては手を合わせながらやっと神戸の寺まで着いたんです。“本堂があらへんがな”“ここやがな”潰れてしまっておりまして屋根だけが綺麗に残っているという状態でまあ、ばあさんはどうしたんだろう。部屋で布団を頭からかぶって動かれんという。何とか起こして京都まで引っ張って行こうということで、それで無理に車に乗せて一日以上かかりまして1年の間だけでしたけどもそのおばあさんの面倒を2人で見ました。その間に2回ほど入院して91でしたもんですから神戸に帰りたいということで送りました。あとは施設に入り、99歳で亡くなりました。大変な運命だったなとこちらは何も力にはなれないのですけどもそういうことを今つくづく思って震災のことを思い出してしゃべっております。北島聡之リーダーシップ私も歳男です。テレビを見ていますとイノシシ年には災害が多いということで調べてみましたら昭和22年カスリーン台風で、その12年後(昭和34年)伊勢湾台風、その12年後(昭和58年)日本海中部地震、そしてその12年後、阪神淡路大震災、その12年後、新潟の中越地震、これは平成19年の出来事でした。災害の年に生まれた私にとっては結構、今の私を作っている年でもあったなと思っております。阪神淡路の時は入会した年で、このときにボランティアをしたのが初めてでした。実は社会人になって1年目の冬でした。この震災を通じて私は何をやるべきかということを気づかせてくれた年でありました。ちょうどこの年から四国に赴任しまして10年間転勤族の生活をしていました。最初に赴任した高松。瀬戸大橋が開業して7周年目でした。坂出の経済が落ち込んでいるということで瀬戸大橋ブームが落ち着いてしまって、どうしようもなくなっていた。その時、吉丸パーキングエリアでそこの町おこしにちょっとだけ関わったのが最初でした。何か作って行こうと考えました。会社が軌道に乗って、これやったらワシ一人で商売やっていける。出て行ったのが平成17年のことでした。平成19年は今の家賃事業ですね。いわゆる家主事業を始めたのがこの年でした。今はちょこっと増えまして5軒になっております。まだ半人前ぐらいです。さかのぼって、昭和58年、私は何をやっていたかな このときに私は料理を始めてました。きっかけが家で作るお好み焼きがあまり美味しくないということで、なんでかな。その当時、同級生のお母さんがやっておられたお店のお好み焼き店、そこで作り方を教えていただきまして、そこが私の料理の原点でした。ふっくら焼くためのコツとか、そこらへんを教えていただきました。その息子のおばちゃんと今までつき合いがありまして一緒に商店街をやっております宮川君はその時のおばちゃんの息子です。その時の商店街の仲間に向日町の激辛商店街に知人がいます。その人に12年前何をやってましたかと聞きますとちょうどイオンモール桂川ができる前で計画が立って、このまま行けば商店街は食われてしまうと危機感を持ってやっていました。工夫と努力の結果、5年後には名声を得て、商店街が反映しております。これは皆さんの協力のおかげだということです。私はそのリーダーシップがすごかったなと思いました。平成21年に商店街ができてますので今年10周年になります。10年でここまでできるんや。閃くものがあって今日からは12年後のこの場で同じように年男放談で商店街がここまでできたと言う話ができたらいいなと思っております。今年もまたいろいろと始めたりします。よろしくお願いいたします。安井克典牡丹鍋4月で3回り目の36歳の年男ということでございます。0歳の時も年男らしいです。ですから私の場合は4回り目の5回目の年男と言うらしいです。太田さんをはじめ、浅井さん、北島さんと私、4人なんですね、イノシシ年ということで何か共通するところがないかなと考えたら、男前であったり、お金持ちであったり、スポーツマンであったり、歌がうまかったりということであまり共通点がないような感じですね。シラーとしてますね。何ででしょか。12年前なんですけども36歳の年男の12月にこのクラブに入会しまして、そして年を開けた時に年男年女放談として喋らんなんよと言われた時にはよかった、当分、来ないなと思っていたんですけども、もうそれが12年経つんですね。早いもんでこの場に立たしていただいているということです。イノシシ年、何で動物園とかイノシシがいるところのイノシシを見ます。イノシシの目を見たことはありますか。イノシシの目というのはすごく悲しい目をしています。何かかわいそうになってくるんです。そういうところで何か感情移入なんか、しちゃったりなんかして………。この4人で今年度中にボタンなべでも食べて騒ぎたいなと思っています。ありがとうございました。

俳句の楽しみ

2019 2.21俳句のユネスコ無形文化遺産登録に向けて株式会社 京都ホテル 代表取締役社長 福永法弘(京都ロータリークラブ会員)失礼いたします。林様よりご紹介いただきました京都ロータリークラブの福永と申します。私、京都ホテルの社長をしております。皆様いつも、京都ホテルオークラを、そしてからすま京都ホテルをご利用いただきまして誠にありがとうございます。御礼申し上げます。今日はそのホテルの話とか、京都の観光の話、そんな話ではございません。私の趣味か仕事か、どっちが本業かよくわからないぐらいの時間を使っています俳句の話をちょっとさせていただきます。私は20代の頃から俳句をやっております。もう40年以上になります。俳句は年寄りの趣味という風に思われがちですので、今63歳と6ヶ月になりまして、やっと年齢相応の趣味になったかなと思っております。さて、中高年の三大趣味ということが世間では揶揄的に言われております。一つはカメラ、そして俳句、もう一つは寺めぐりだそうです。カメラは何となく芸術家のような気分になれる。俳句は何となく文学者気分になれる。寺巡りは、これはあまり言いたくはありませんが、そろそろお迎えが来るかもしれないのでだんだんそちらの方の覚悟を決めるための準備をする。それがすなわち中高年三大趣味です。で、今日はそのうちの俳句の楽しみということでお話をさせていただきます。そして特に、実は私は俳句をユネスコの無形文化遺産に登録しようという協議会の理事をやっておりますので、その話を中心にさせていただこうと思います。まず、俳句を語る資格があるのかということですがちょっと肩書きだけを紹介します。私は公益社団法人俳人協会の理事をしております。俳句の団体は日本で4つほどございますが、そのうちの最大規模の協会の役員を今6年ほどやっております。協会の正会員は1万5000人ほどです。その他、賛助会員といたしまして、いろいろ結社が入っております。俳人はだいたい、結社というものに所属し、俳句活動をしておりますが、それが大体20万~30万人ぐらいおられます。そして、今日の主題でございますところの、ユネスコ登録に関しては、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の理事をやっております。俳句そのものは「天為」という結社で活動しております。主宰は東大学長、文部大臣などを歴任された有馬朗人先生です。ノーベル賞の候補にも何度かなったといわれておりますが、昔は、日本政府があまり力を入れてなかったので、残念ながら取れませんでした。1500人ぐらい会員がおり、私は今、そこの同人会長を務めております。それから私、個人的に石童庵という、小さなグループで俳句を中心とする活動をしております。仕事の傍らいろんなものを書き留めるのが趣味でございまして、さすがに30年、40年やっていますと結構たまっているものですから、何冊か本を出しております。句集は3冊、俳句とエッセイが4冊。小説や評伝などもございます。転勤族でしたので北海道、鹿児島、千葉、東京などを点々としながら、書き続けてまいりました。いろんな新聞に連載も持ちましたが、今ちょうど京都新聞にも「季節のエッセイ」を連載中です。その他小説で賞を取ったこともございます。俳句がらみで一番の自慢と言うべきは「歳時記」だと思っております。これは角川書店が大歳時記というのを10年ぐらい前に改訂しまして、私はその時に季語の解説者の一人として参加しました。どの季節にはどういう季語があって、それはどういう解釈をするべきかという解説文を書いたのです。歳時記は俳句の根本だと思っています。以上のような感じで、仕事の傍ら、俳句を中心とする文筆の方にも力を割いておりました。本題に入ります前に、まずは一句、私の俳句をご紹介したいと思います。これは4年ほど前に出しました第三句集、『福』という句集に入れている一句です。父母(ちちはは)の旬なる昭和福寿草もうすぐ平成も終わりますけども、これはそれよりもっと前、昭和を偲んでの一句です。私の父親は裏千家の大宗匠より一つ上の大正13年生まれで、昭和63年に亡くなりました。従いまして、その人生が全く昭和と重なるということであります。父母は昭和という波乱の時代を、旬な人生として生き抜いたという意味です。この句はあちこちで褒められまして喜んでいましたところ、母親が半ば怒って言うには、「私はまだまだ長生きする。私の青春はお前の父親が死んでからだ」とか何とか言って、カラオケだ、ダンスだと遊び歩いております。昭和どころか平成ももうすぐ終わりますが、まだまだ健在でございます。大宗匠は96歳、今年、年男で大変お元気でございます。私の親父が生きていたとしても、こんな風に元気で暮らすことが出来るのだろうかと、ふと考えることがあります。33年前に亡くなりまして、つい先週、墓参りを済ませてきたばかりです。広島で原爆に遭い、残念ながら60歳で脳腫瘍を発症しまして3年ほど寝たきりの後に他界をいたしました。様々な思いを込めて作った句です。今日は、俳句をユネスコの無形文化遺産登録しようという運動を始めておりますので、その話を簡単にさせていただきたいと思います。よくユネスコの世界遺産と無形文化遺産とを混同される方がおられますが、ちょっとこれはモノが違うんです。世界遺産というのは1972年に条約ができまして192ヶ国が参加していますが自然遺産、文化遺産、複合遺産と三つの分類があります。基本的にはこれは有形固定資産なんです。自然遺産は皆様よくご存知の屋久島とか知床など、それから文化遺産は例えば京都ですと清水寺などが入っています。富士山はかつて、自然遺産で登録申請をしたところ上手くいきませんでした。かなり開発が進んでいるため、自然遺産とは認められなかったのです。そこで改めて、複合遺産ということで登録申請して認められました。富士山という自然と富士山信仰という文化、この二つをセットにしたものです。こういったものが、公式に登録された自然遺産、文化遺産、複合遺産なのです。海外にもいろいろございます。その他に危機遺産という分類の仕方もあります。ポーランドの岩塩の採掘の穴なんかは今、中でテーマパークとか、遊園地化されています。しかし、いずれは侵蝕され滅んでしまうものなので危機遺産というわけです。それから負の世界遺産という分類もあります。広島の原爆ドーム、アウシュビッツの強制収容所、或いはアフリカの奴隷貿易の拠点、こういったものも世界遺産に登録されていますが、これらを負の遺産と呼びます。人類差別の撤廃や平和運動のために、それにとっての重要な象徴的な案件だということで認められているのです。そういうものが、世界遺産の中の負の遺産です。そしてこれらはみな有形固定資産です。一方で無形文化遺産は、2003年に171ヶ国が参加して保護に関する条約が結ばれました。京都では和食が一昨年登録されました。その他にもいくつかすでに登録されているものがございます。基本的には無形資産でございまして、そして、世界遺産と違って世界という冠がついていないんです。無形文化遺産というのは、ある特定の地域、特定の民族とかで大事にその自己の文化遺産として保存されているものであれば登録して保護していこうというものです。日本の代表的なものとしては歌舞伎、能学、和食、こういったものがユネスコの無形文化遺産として保護対象ということになっています。その他にも、いかにももう滅びそうだ、今何とか支援しないと滅びるという分類の、危機の無形文化遺産というものがございます。日本には今のところ登録されているものはありません。海外のものを一つだけ紹介しますと、モンゴル書道というものがありまして、もうほとんど作り手もいないようですが、あるいは、もしかしたらもうやっている人がいないんではないかなという状態なので認定され、保護の対象とされています。このようなものが無形文化遺産の中の危機遺産です。我々は今、俳句を、このユネスコ無形文化遺産に登録しようという運動を始めたところです。まずは、俳句がユネスコの無形文化遺産に認定される価値があるかということをちょっとご説明します。①世界で最も短い詩形で、誰でも簡単に作れる。ルールは575の17文字であることと、季語を入れるというたった2つしかありません。皆さん多分、子供の頃、学校の授業か何かで一度は俳句を作られたことがあるでしょう。その意味では1億みな俳人です。ですがまあ、それは大げさとして、日常的、或いはそうではなくても年1回ぐらいは俳句に接しておられる人は、2000万人ぐらいはおられるんではないか、というのが我々の推計です。年賀状の端にちょっと書くとか、会話の中に芭蕉の句を引用するとか、そういったことです。我々のように日常的に結社というグループを作って活動しているコアな人が50、60万人から100万人ぐらいいますけれども、その周辺には2000万人ぐらいの俳句人口がいるのです。②それから日本人の生活の隅々まで俳句が浸透している。これは新聞を開きますと、ほとんどの新聞に文芸欄があり、その中にはだいたい俳句のコーナーがあって、多くの人が投稿しておられます。週刊誌にもそういう欄がありますし、最近ではテレビでも、「プレバト」という番組で芸能人が俳句を作って添削を受け、ちょっとしたブームになっています。また、昨年でしたか、山科のロータリークラブでは記念行事として俳句の募集をやっておられました。それから私が以前いました㈱エアドゥという航空会社では、北海道と飛行機の俳句を募集して優秀作品にはチケットなどを賞品として提供するなどしていました。ちょっと皆様の周りを見回していただきますと俳句が、思いのほか浸透しているのがわかると思います。③また、最近では、海外にも俳句が普及し始めております。ただ、海外ではちょっと日本とは違うんですが、ローマ字でHAIKU と呼び、2行、あるいは3行に分けて書きます。今、ソサエティ、いわゆる協会が、世界の50か国ぐらいにできていて、大体30ぐらいの言語でHAIKUが作られています。日本だけの文化だったものが今、世界に広がっている途中なのです。④次に、俳句には、人生に対してどういう効用があるのかということです。「人生に希望を、日常生活に潤いを与えてくれる」ということを、俳人協会の名誉会長で前会長だった鷹羽狩行先生がかつて言っておられました。高度成長期、日常生活が非常に忙しい中で俳句を仕事の傍らやっておられる人が多くいた。俳句はそうした殺伐とした仕事人生に潤いや癒しを与えてくれたというのです。一つの例をご紹介しますと、私は北海道に7年おりましたが、その間、北海道の俳句史を仕事の傍ら調べてみました。昭和20年代、30年代、北海道はたいへんな俳句ブームでした。それはなぜかと言うと、過酷な労働を強いられた炭鉱で働く人たち、開拓の農民の人たちがおられたわけですが、日常ほとんど娯楽がない。そういう時に、酒を飲んで苦労を紛らわせるのではなくて、文化的な活動をしたいという欲求が沸き起こりました。そこで、北海道の炭鉱、或いは開拓農民の間で俳句が異常なブームになったのです。このように、「人生に希望を、日常生活に潤いを与えてくれる」のが、俳句の大きな役割だった時代があったのです。現在、その鷹羽狩行名誉会長は88歳になられましたが、時代に合わせて仰ることが変わってまいりました。最近では「高齢化社会を迎え、人々に生きる力を与えてくれる」のが俳句だというのです。今、私は俳人協会の理事をしています。63歳です。しかし、会員の平均年齢は76歳から77歳くらいになります。平均ですから一番上の方には100歳を超えている人が沢山おられます。ですが俳句を日常的に作っていると頭が呆けない。また、俳句というのは1人で作って1人で楽しむものではありません。句会というのがありまして、明治30年頃に正岡子規が始めた方法なんですが、みんな匿名で俳句を出します。先生がどんなに威張っていても先生も匿名で句を出し、お互いに良いと思うものを選びあう。誰がどんな句を作ったかわからないままで選んでいるので、先生の句がひとつも選ばれないこともあります。民主的に運営されながらも、一方でゲーム性もあるので、適度に競争心が起こり心身の活性化につながるのです。また、吟行という形でアウトドアにて俳句を作れば、よく歩くので健康にも良い。そして何より、句会に参加することにより人と人との繋がりを維持することが出来る。これは少子化、高齢化が進み、人とのきずな、家族とのきずなが薄れてきている現代社会においてはとても大切なことではないかと思います。⑤もう一つ、私の先生、有馬朗人先生は大変重要なことを言っておられます。俳句は自然を詠む文学であり、これは日本独特なものだ。いわゆるアミニズムといいますか、鳥獣、草木すべてに仏性を認め、悉皆成仏の世界観を有する日本ならではの文芸である。鳥や獣や花や木をたんねんに観察しながら、移り行く季節へ挨拶をする、それが俳句の基本であり、一神教のユダヤ教やキリスト教、あるいはイスラム教の様に相手を一切認めない宗教観とはまったく違う。ありとあらゆるものに価値を認めて、お互いに尊敬し合うということですから、これを世界に広めていけば世界平和に繋がるのではないかというのが、私の先生、有馬朗人先生が常日頃言っておられることでございます。⑥そして、何よりも俳句というのは日本オリジナルな、日本発の文芸ムーブメントでございますので、ぜひこれを世界中の人にもっと広く知ってもらうために、ユネスコの無形文化遺産に登録したらいかがですか、と運動しているところなのです。そのための推進体制が2年前に出来ました。一つはユネスコ無形文化遺産推進協議会でこれは俳句の4団体のほか30自治体ぐらいが参加しておりまして、名誉会長には中曽根康弘さん、それから名誉顧問は EU の総裁、大統領でありましたヘルマン・ファン・ロンパイさん、そして会長には、国際俳句交流協会の会長でもある有馬朗人先生になっていただき、発足いたしました。そしてもう一つ、役所を動かさないといけないので、現役の先生方にもご協力をいただき、議員連盟を1ヶ月遅れで作っていただきました。発起人には当時外務大臣だった岸田文雄先生、国際俳句交流協会会員でもある盛山正仁先生などにお願いし、伊吹文明先生や馳浩先生などにもメンバーとして参加していただき、錚々たる顔ぶれになっております。さて、いくつか俳句をご紹介したいと思います。今、協議会に入っている自治体の中で、京都府からは、与謝野町があります。ここは与謝蕪村のお母さんの故郷だといわれています。もともとは加悦という町でしたが、合併により与謝野町になりました。「丹波の加悦という所にて」という前書きをつけて蕪村が作ったのが、夏河を越すうれしさよ手に草鞋(わらじ)という句です。蕪村は大阪四条畷あたりの出身だろうといわれていますか一切自分の故郷のことを語ったことはございません。その代わり自分の母親の故郷はとても大事にしておりました。母親の故郷で作った句がこれです。現在の俳人たちも、蕪村を慕って、この与謝野町を俳句の吟行先としてよく訪れます。そして今、句碑が30基ぐらいこの町にはあります。町がそこでハイキングロードとして整備しまして、町おこしの材料に俳句を使っている、そういう町でございます。それから名誉会長の中曽根康弘先生の句碑ですが、これは広島の平和公園に建っております。昭和57年から62年まで5年ほど総理大臣を務められました。その間3回中曽根先生は8月6日の追悼式典に出席されました。私の父親も被爆者でしたので、私も列席したことがありますけども、中曽根さんがその際に作られたのがこの句でございます。悲しみの夏雲へ向け鳩放つで、総理大臣を辞められた後、広島のライオンズクラブの人たちがこの碑を建立されました。それから、ヘルマン・ファン・ロンパイというベルギーの首相でEU の大統領を務めた方に、名誉顧問になっていただいています。「HAIKU」という句集を出しておられます。ベルギーという国はとても複雑な国なので公用語が3つあります。そして、公用語じゃないけども世界共通語とでも言うべき英語がありますので、この4つの言語を使った句集を出しておられます。日本語で私が訳したのをつけます。あまりいい訳にはならないのが残念なので、これはむしろ、英語とかフランス語とかがよくわかる人は、そっちで味わっていただいたほうが良いでしょう。Celui quil regarde Le soleil, la mer, les etoiles Aime la paix (仏)Who looks at the sun At the sea,at the stars Love peace (英)陽を海を 星を見る人 和を愛す 一応575の形にして訳してみましたが、海外の人は俳句を作るときには、このように2行、或いは3行で表すというのが普通のパターンです。それから私の先生、有馬朗人先生は物理学の泰斗でございますので、物理用語が出てくることもあるんですが、初日(はつひ)を見てビックバンを連想するという壮大な句がございます。ビッグバンの残光にして初日影このような句を作っている人たちを頭の方に戴いて、ユネスコへの登録運動を今、行っているところです。世界には実は短詩系という文学ジャンルはものすごく少ないんです。ヨーロッパ人は、とにかく詩は長ければ長いほうが良いと思っている節があって、ダンテの神曲などのように、3日も4日も朗読しなければ終わらないような長い詩が優れているのだという観念があり、短い詩というのはヨーロッパにはほとんどありません。フランスに一行詩があるのが唯一の例外といえるでしょう。あと、ルーマニア、アイルランドにあることはありますが、もうほとんど廃れております。一方で中国には五言絶句、七言律詩なんていうものがあります。短詩系の発祥の国と言っても良いと思うのですが、残念ながら、かの文化大革命の際に文化人が激しく弾圧され、さらに簡体字なるものが普及したために、今は中国で漢詩を作る人はほとんどありません。今でも五言絶句、七言律詩を作っているのはほとんど日本人です。韓国には時調というのがありますけども、これも作る人はほんの少数です。ところが日本では、作る人も大勢いるし、様々な形の短詩形がございます。俳句や短歌のほかにも、皆さんご存知の川柳は一大勢力ですし、都々逸も広く普及しています。日本の短詩系文学が、中国の漢詩のように作り手がいなくなって滅ぶことのないよう、ユネスコの無形文化遺産として登録し、そして世界中の人に知ってもらい、世界中の人に俳句を作ってもらって、日本発の文芸ムーブメントとして世界中に普及することを願って、運動を進めているところなのです。最後にもう一句。芭蕉の有名な句を紹介します。古池や蛙飛び込む水の音  この句は多くの外国の文化人、日本文学の研究者などにより翻訳され、世界中に知られています。ですが、これまでの日本人の感覚にはなかったような訳し方をされています。大きな原因は、日本語に単数形、複数形の概念がないことによるものです。日本人は長いこと、この句の蛙は一匹だと思っていました。芭蕉が提唱した侘び寂びの概念からすると一匹が適当なのです。ところが、これを外国語、特に英語に訳すときには、一匹か複数かが大問題になったのです。カエルは一匹だったんだろうか、沢山いたんだろうか、そのことが論争になりはじめて、もう半世紀以上も経ちます。最近では、日本の俳人の中にも、多数いたと主張する人が出始めています。一匹だと侘び寂びの静かな世界ですが、複数だと生命の躍動という全く別な景色が見えてきます。しかし、なんとも平和な論争ではありませんか。口角泡を飛ばしても、銃弾は飛び交いません。論争大いに結構、こうした文学上の解釈の問題で論争するのであれば、戦争などけっして起きはしないということを、我々俳人は確信しております。「俳句をユネスコ無形文化遺産に」という運動は、まだ緒についたばかりです。いずれ、署名活動などを行う局面が来るかもしれません。そういった際には、ぜひご協力をお願いしたいと思います。ちょうど時間が参りましたので以上で終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

人の行方

2019.01.25           藤堂 稔之   現在の社会は混沌としているように思います自然災害の多発、終わらない世界各地の紛争、流出する難民の群れ、広がる貧富の格差自由・孤立・勝手主義に傾く人々、自国優先主義に傾く国々、止まらぬ貿易戦争、協約無視の核兵器開発など人々の間に不安や緊張が増していますそれが何を意味するのか、どういう方向に人類は歩もうとするのか、を探ってみたいと思います人口の増加について農耕に成功した人類は村落を形成し定着を図る、そのころから人口は少しずつ増加し、産業中心社会に向かうにつれ人口はさらに増加、今や70億を超えて80億に向かっている人口の増大は自然環境に影響をもたらし、人類自身の社会環境にも影響をもたらしている生物は場所や食物が豊かであればどんどん繁殖し、場所や食物の減少、枯渇によって疲弊衰退する過去の地球の歴史において、多くの生物の繁茂、衰退の例がみられ、繰り返されている人類はどうなのか自然環境が人類の行為によって悪くなっているとすれば、或いは地球上の多くの場所が人類の生活圏となっている(他の生物圏まで犯している)のであれば、それは範囲を逸脱してまで繁殖しているといえる地球にとってはバランスを欠いた行為ということになります自然災害多発について地震、津波、干ばつ、山火事、竜巻、豪雨が人々の暮らしを破壊している人類の食糧・資源・エネルギーの消費は膨大なものになっており、異常気象といわれる現象が頻繁になりつつある温暖化対策は各国で取られてはいるが異常気象が封じられたという証はなく、環境対策会議はコップ24まで来ても足並みをそろえていない大国が環境対策からの離脱を宣言している災害の頻度が少なければ時間をかけて復興すれば元へ戻る、頻度が多ければ復興が追いつかなくなり、その分地域の疲弊が進む災害が多く発生する現状はいびつな現状への警告であり、大自然の修正行為であるかもしれません    人類は英知を持っているが抜けたところもある縄張り根性や私利私欲に走り、大事なところで協力しない難民の増加について人類にとって紛争は絶えません、各地で宗教、民族、食糧、資源、領土を元にした紛争で難民が増えています人々は国を追われ、行き所がありません動物には縄張り争いがあるが、人もまた動物であり自らの城を守ろうとする争いから逃れるもの、争いから敗れたものは難民となり路頭に迷う、時に施政者が民を追い出し、時に民が飢えや迫害から逃れて国を出るアフリカ諸国、南米、イスラム圏など各地で増えている難民には住まい、食糧、健康の不安が付きまとう、支援も容易ではない今では難民の受け入れをおおらかに受け入れるところがありません自国も困窮しているのであり、受け入れる余地はないというこれを人道的に受け入れようとした国の党首は国民から拒否されていますポピュリズム(大衆迎合主義)がものをいう時代になりましたこの現象をどう説明すればよいか、人類の飽和状態が原因であると言えなくもありません貧富の格差について産業社会になって工場やビジネスオフィスが仕事の本場を占めるようになって貧富の差がつき始める物の生産に大量生産、大量流通、大量消費が生まれて資本が重要な位置を占めたことにも一因がある更に情報産業中心の世の中に変わると世の中に加速度がついてきたあらゆる情報が瞬時に流れ、時間距離にかかわらず取引は一瞬のうちに行われるしかしものづくりには何日も何か月も掛るのに、というギャップも生まれたマネーは世界を駆け巡る、金は金を生むのであるまして益々高度な技術が必要になる今の世では,教育や先端技術が物を言う学ぶ機会に恵まれない人も多い貧富の差はこういうところからもやって来る社会が二分するようであればそこに不穏な空気が漂う政治が動揺し、巷でプラカードをもって声を上げるものも、それに乗じて暴動を起こすものも出る各地に紛争が起こる種は増えている 自由主義、孤立主義、勝手主義について集団で行う農耕時代からみれば、核家族主義の工業化社会になって子育ては不便になった親がいなくなったからである更に情報化社会になって暮しの主体は核家族から個人に変わった仕事の性質が暮しを変えているのだ今や個人中心主義になって一面自由になったが、孤立主義、勝手主義も増えてきている個人の好きなように生きる、個人のやりたいようにやるという多様な社会であり自由な選択ができる、しかし競争の激しい社会でもある社会の連携が希薄になるにつれ、結婚式やお葬式の行事も簡素化され、村や町内の行事も減少気味である 社会の変化は家族や学校、企業にも及びネグレクトやいじめ・パワハラという問題を引き起こし、大事な人間関係に大きなヒビが入ってきた人々同士で間引きを行っている実態がある各国の分裂について個人主義・自由主義・民主主義を謳歌していた米国は今どうなってしまったのか環境の協約や貿易の協定や核兵器の非拡散条約など、重要な条約を皆破棄して国連を軽視する国内では深刻な貧富の格差を抱え、難民の流入を阻止しようとして必死になっている外に向かっては大国にのし上がる気配の中國を抑えようとガムシャラな交渉を行っている中國のGNPの絶対額は各国を抜いて、第2位になっているそれが米国の焦りにもなっている貿易交渉は貿易戦争になっている兵器に関連する技術のせめぎあいも絡まって余計厳しさを増している昔の大国の風格は今どこへ行ったのか?自国優先主義は他国にも広がり、EUからの独立をうたう英国や難民の押し寄せる国々が同じような方向に動いているいずれも国内で成長が鈍化し、貧富の格差を抱えて困っている結果として国々の協力より分裂に向かっている世界の秩序はこれからどうなっていくのであろうか勝手主義と非協調主義の中から環境や人類を救う政策は生まれそうにない越える技術について人の好奇心や探求心は留まるところを知らずコンピューターから始まって遂に人工頭脳を開発したAIが将棋や囲碁の名人に勝ったという話はお茶の間をにぎわしたどういう手を打てばよいかは名人の熟考の末の手であり、これを負かすことは余程の切れ者であるといえる無論 人がAIに多くの定石や知識を与え、過去の差し手、経緯などを十分に入力した結果ではあるが、そこから論理的な計算を導き、AIが判断して打った結果の勝利であるこのことは、仕事の多くが論理的な構造である限り、なんでも覚え、できるようになる可能性を秘めている効率的な生産、効率的な販売、最適な処理、最適な選択といったことであればAIを活用すればどういう仕事にも活用できる世の中はますます便利になり、自動化、無人化、迅速化、監視化が進行するしかし一方で政治的戦略の中でサイバー攻撃や無人兵器の開発、宇宙戦争といわれる技術も現れるロボットは産業で活用されるが、無人兵器にならないとは限らないドローンは道なき道を通り荷を届ける便利な搬送機になるであろうが兵器にもなるAIやIOTを活用するビジネスとそうでないビジネスのギャップは大きいAIやIOTを組み込んだ製品は、そうでないものよりはるかに便利になるに違いない素晴らしい世界の実現は人類の考え如何であることを思えば、将来は楽観もあるが、危惧なしとは言い切れないAIと人との関係はどうなるのか、AIは人知を超えるか、人知がAIを制御するかAIと人知の共存が図れるか、いずれにしてもぼけっとしてはいられない人間至上主義人は多くの科学の知識や技術を元にあらゆる可能性を実現しようとしている工場を変え、オフィスを変え、暮しを変え、社会を変え、生活空間を宇宙にまで拡大し、また、生命の越えてはならない領域まで踏み込もうとしている、人間至上主義という考えが出てきているあらゆることは人において可能であるという果たして大自然の摂理を超えて人間至上主義が可能なのであろうかその場合人の拠り所はいったい何処に求められるのであろうか地球という大自然の中で育まれた人類は、通常この地球上でしか生きられない地球上では何億年の営みの中で大繁茂して、いつかピークを迎え、そして消滅していった多くの生物が記録されている、    人類もまた生物である多すぎる人類が自然災害を誘発し、人類自身が飽和状態に直面しているとすれば、やがてピークを迎える生物のごとくならないとは限らない誰が人類を救うのか、人類自身か、AIか、それとも大自然かご清聴ありがとうございます

会員増強につながる職業奉仕

2019.1.24(ホームクラブでの卓話)地区職業奉仕委員長中島 健 (宇治鳳凰RC)改めましてこんにちは。今月は職業奉仕月間ということで職業奉仕に関するお話です。職業奉仕と云いましてもいろんな切り口があると思います。核心的なところは、商売の極意であるとか、企業経営の心であるとか、そういったところを出来ればいいが、そういう話は事業の上で大成功を収めておられる会員の方にお話し頂くことが一番です。わたしの話は、ロータリーが云う職業奉仕とはどんなものであるかということです。ちょうど大石会長の年度から今回で3年連続ということで、前と同じお話をするわけにもいかない。昨年7月28日に地区の会員拡大増強、公共イメージの両委員会が主催するフォーラムがありました。増強につながる話、それも実践的なものを、わかりやすい内容の話をせよとの依頼がありました。今日はその内容をお話しします。まず、この話を始める大前提としてロータリーとはいったいどういう団体であるのか。RIはロータリーをどのように考えているのか。を説明しておく必要があります。2015年10月のRI理事会で決定した内容ですが、最近までのロータリーは人道的な奉仕に傾きすぎていた。特徴である事業や専門職種、地域社会のリーダーの集まりであることを重要視してなかった。2015年理事会では、そうではなくて、この事業、専門職、地域社会のリーダーの集まりであるとともに、且つ、人道的な活動を行う団体である。ロータリーという団体を定義しなおしたんですね。とても重要なところです。「職業奉仕の手引き」(職業奉仕入門)が今年度、久しぶりに改訂されました。表題からして、”実践しよう”、理念の話ではなくてとにかく”行動しよう”といっています。今日は、増強とつながる部分だけをピックアップしましたが、「スキルと職業」という項目があり、そこでは奉仕プロジェクトで職業スキルを活用する。自分の職業上の手腕を用いてボランティア活動をしなさいといっています。実際、それが増強につながるのかどうかということですが、日本ではこういう例は少ないでしょうが、外国とくに途上国では、私は医者の資格をもっているとか、人道的援助の上ですごく役に立つ技術をもっている人が、その技術を社会の役に立てたいと考えている人が結構多いんですね。だからロータリーに入って、奉仕プロジェクトでそういう手腕を発揮する。日本のロータリーでも中にはいらっしゃるんですね。この月曜日に京都西RCで卓話をさせていただきました。そのなかには私も実は自分の仕事を奉仕に生かしたいと思って入りましたという人がいらっしゃいました。ところが実際ロータリークラブに入ってみると、割と伝統的な日本古来の職業奉仕論が主流で、職業ボランティアなど論外ということになるんですね。RIが、職業奉仕として職業ボランティアをせよと云っている、ということをあまり知らない、先輩方があまりそういうことをおっしゃらない、RIがこんなことをいっていると聞いて逆にビックリされている。そんな例もありました。それから職業研修と職業スキルの向上ということで、ビジネスネットワークの拡張。自分の仕事のつながりで奉仕プロジェクトとかいろんなことをやってそのつながりで入会してもらう、そういう展開ですね。それからキャリア相談会。これは技能をもっている会員がロータリーに入って、あの人がいらっしゃるから私は入りました。メンター制度的に仕事の場以外のところでいろんな助言なりを求める。これも一つの可能性としてあるわけです。是非手引きを読んでください。1-実際それが増強につながるのか。日本ではその例はないとはいえないが少ない。自分の仕事をいかしたい。で、奉仕プロジェクトを立ち上げて、そのつながりで入会してもらう。専門的な立場からの助言をする。自分を知ってもらって話し合うことが大切なんです。世界の実例からキャピトルヒル・RC: 地元のNPOと共同で地域の課題に取り組む。会員は戦略コンサルタントとしてこれらの団体に協力して専門的な立場から助言を行う。大体NPOは、いわゆる社協に入っているボランティア団体のような活動をしているわけです。そこに技術者とか、手話ができる人とか、技能を持つロータリーの会員がその団体に対して助言を行う。そういう仕組みをクラブの中で作っているわけです。そういう活動をしている内にそこからロータリーに入ってくる人が見つかる。で、実績をあげているというのがキャピトルヒル・RCです。クラブには職業上いろんな手腕をもっている人がいます。そういうひとが自分の職業上のスキルを実際その奉仕活動に生かすことが出来るわけです。そういう場、機会が増えるわけです。それによって自分の職業がすごく社会のために活きているということを実感されてロータリーの会員維持にもつながっている。その結果、クラブ員による奉仕への参加が増え、会員維持、新会員が増えた。地域社会からその可視性が高まった、クラブがそういうことをやっている団体であることが認知されてきた。日本にも活動例がある。東京愛宕RC:―育て、企業家「東京愛宕創業支援塾」―といい、若い人で、これから事業を起こす人を対象に講習会をやったわけです。起業を目指す学生、会社に勤めながら起業を目指しているサラリーマン、事業転換による新規事業を行うことを考えている人々を対象に、起業・創業を促し、地域社会の活性化に取り組むことを目的とした全4回の授業、講習会をやります。前半に起業家や投資家による基調講演や対談を行い、そして後半に参加者とクラブ会員によるグループディスカッションを行う。全4回を起承転結と捉えて4回すべてに参加することにより、起業・創業を具体的にイメージし、起業・創業できる状態まで高められるような内容としている。最終回では参加者が自らの事業計画のプレゼンを発表し、ゲストの投資家や中小企業庁の方々、及びクラブの会員が採点、講評を行うというものです。結果として、ロータリーへの認知度が高まった。ロータリークラブがあるんだ。それはこういう活動をしているんだ。参加者が実際に起業し成功してロータリーに入会し、その経験を還元してくれることが最終的な目標である。やったからといってすぐに会員増強につながらないけれど種を蒔いて育てて、そしてロータリーに入ってもらおうというとある意味、気の長い話なんですがそういうことをやられたんです。(「Rの友」2016.1月号)まとめ1RIや世界のロータリーが考える増強につながる職業奉仕海外では職業奉仕、特に若い会員へのメンターシップ制度や個人的な指導が会員維持や会員増強に役に立つと考えられている。会員が自身の技能(手腕)才能、リソースをロータリーに持たらすこと(奉仕プロジェクトを通じた社会貢献)で、会員増強と会員維持に貢献できると考えられている。これらはあまり日本ではなじみのない議論であるが日本以外のロータリーではクラブが行う職業奉仕の例として認識されている(RLI PARTⅢ)2-日本型職業奉仕論を前面に出した会員増強職業奉仕的なアプローチをすることによって増強につなげている、そして日本型職業奉仕論(=商人道、職業倫理)を前面に出し会員増強につなげている東京御苑RCの場合 つい最近にできたクラブで、名誉会員にボニージャックスが入会しています。2015年3月に会員40名で創立する、2017年7月には、ほぼ2年半ぐらいで会員120名(内女性会員が37名)、年内目標として会員数200名を目指している。会員の種類としては、事業主またはこれに準ずる会員、それから一般会員(41歳以上、それと31歳から40歳)、専業主婦やシニア。例会食事代後払い会員があります。事業主の会費が年間18万円、それから一般社会人、40歳以降は14万円、31歳から40歳までが12万円、専業主婦、シニアは12万円の会費。食事会後払い会員は年間8万円。それ以外に入会金が3万円、R財団・米山寄付として強制的に2万円。ただ、例会参加費が必要です。18万円の会費を払う人は例会参加費が2500円。この中に食事代が入っています。食事代後払い会員は1回例会に参加するのに5500円必要です。このクラブの特徴は、初期ロータリーの特徴である会員同士の相互扶助やシェルドンの職業奉仕理念を前面に出しています。会員のビジネス上の発展を入会することのメリットとしてPRしています。このクラブの、いわゆるうちのクラブでいう、クラブ活動概況報告書を開けますと最初にロータリーを立ち上げた方の写真があって、ロータリアン創成期の、そういう理念に戻ろうとかいうことを謳っています。また、ホームページのトップページには「東京御苑ロータリーに入会するとこんなすてきなことがあなたを待っています」としていくつか項目が上がっています:1・友情2・ロータリーを定時にビジネス上の発展3・個人的成長と発展・・・・・・家族のためのプログラム・世界の市民たること・旅行中の援助・名声というのがあります。・人前で話を話す術の養成20個ある項目の中で一番最後に「奉仕する機会」が上がっています。奉仕というのが一番最後になっているわけです。この中でロータリーの定義に、会員のビジネスの発展がロータリーが創立されたのがもうひとつの理由です。誰でもネットワークが必要です。ロータリアンはすべてのビジネス社会を網羅する横断的な組織です。会員はあらゆる職業の人々が参加しています。ロータリアンはお互い助け合い、団体として他者を助けます。仕事の発展とか、そういうところに繋がるだろうということを前面に打ち出して会員増強をやっているわけです。親睦はほとんど出てこないですね。興味のある方はホームページを見てください。大宮西ロータリークラブの場合ロータリー活動の両輪である親睦(仲間づくり)と奉仕(感動)の上に、事業上の利益(ビジネスチャンス)を加えて会員増強をやっておられます。若手の勧誘の際、ロータリーの理念の説明とともに「ロータリーは異業種の集まりで経営の勉強になる」こともPRをしています。会員数が一時50人ぐらいから42人ぐらいまでに下がりましたが、そういう形で増強に努めた結果として113人に増えたということです。もともとは大きなクラブでもっと沢山の会員がいたのいですが、減り続けて底が42人。そのあと熱い思いを持った増強委員長が現れ、こういうことを前面に出して113人までにもっていった。もちろんロータリーに入ったからといってすぐ仕事が増えるよとは言ってないんです。親睦と奉仕を重ねることにより、信頼関係が生まれてくる中でビジネスチャンスも広がるというメリットをアピール。確かにこれは言えていると思います。入ったからといってすぐ誰、誰、これちょっと頼むわとかいうふうにはならないと思います。一緒にいろんな親睦の事業に出たり、或いは奉仕活動で汗を流したりしている内にお互いがわかってきて、ちょっと頼んでみようかなというふうになる、ということをアピールしています。例えば例会とかであまり仕事の話ばかりをするのは、現在では何となくタブー視されているような気がしますが、この殻を破ったわけです。相互扶助、これはもともとポールハリスがロータリーを作ったときの目的のひとつ。相互扶助というロータリーの草創期の原点に戻り会員の事業上の利益増大、ビジネスチャンスの利点を打ち出したのですね。尤も入会する方も初めからそうしたことを大いに期待しているという訳でなく、今の若者の考え方として、入会だけで仕事が増えるとは誰も考えていない。経営の勉強であったり、異業種交流会のように考えている。メンバーとの地域的関わり合いや生きた情報を求めている。入会後は仲間を作り上手にビジネスに活かしている。こういうことを親睦とか奉仕とか、そういうことではなくて本当にロータリーの草創期の目的である相互扶助、それを前面に出して増強をやった結果こうなったという話です。まとめ2ロータリーがこの事業上の利益をどのようにとらえて発展させたか、ということですが、まずロータリーの誕生、これが1905年.ポールハリスを含む4人の仲間、ポールハリスは弁護士、石炭商、鉱山技師、もう1人は洗濯屋さん。いずれもそんなに大きくビジネスをやっていた人たちではなくて、本当に小さな零細であったり、中小であったり、そういう人たち、そういう経営者が集まってきて、お互いに助け合って行こうよというのがロータリーの始まりだったんですね。そういう物質的な相互扶助。それでしばらくは行くのですが、そんなものだけでは組織としては発展していかないからもっと社会に的に意味のある奉仕をやろうということで、そのきっかけになったのがアーサーシェルドンの“He Profits Most Who Serves Best”に代表される経営学ですね。ロータリーに入ればその最新の経営学みたいなものが学べるというのがありまして、それがまた会員増強の原動力になったんですね。それは拡大の原動力となるとともに、気の合う者同士が単に儲けのために集まっているのではなくて、ロータリーという奉仕、サービスを重視する、もっと社会的に良いことをする団体であると認知されていくんですね。その後、資本主義が進んでいくと今度は賃上げであるとか労働者の保護であるとか、労働争議という形でいろいろと問題が起こってくる。それを例会の中で、お前とこどうしているんだ?というふうに情報交換、アイディアを交換して……という一時期がありました。これは精神的な相互扶助、事業の発想とかアイディアを交換する、例会に行ってメリットのある時間を過ごしたわけです。その時代、それがまたロータリーの会員増強に繋がっていったということです。その後、時間の経過とともに社会奉仕や人道的奉仕活動に重点が移ってしまうとともに、従来の例会機能が低下してしまって、いわゆる金持ちの、裕福な人たちが集まって昼ご飯を食べる会になってしまった。そういうのが今の停滞というか、それを招いているんじゃないかということです。で、そのアンチテーゼということで、例会機能の重視であったりビジネスというものをもっと前面に打ち出して、拡大していったというのが大宮とか東京愛宕のお話ということになります。1916年、道徳律が出来た直後、決議23-34よりも前になりますが、当時ロータリーは次のようなことをPRしています。ロータリーに入るといいことがある。1・人生で、是非とも持たねばならない知己が得られる。2・純粋で健全な親睦というものがどんなによいものかを知ることができる。3・どうすれば仕事が成功し、問題解決ができるかについて啓発を受けることができる。4・効率の高い経営方法とは何かについて知らず知らずのうちに教育が受けられる。5・多くの自分の知らない情報が得られ、先見の明を授けられる。6・自分の思考の限界を自覚し、持って転機を得ることができる。7・知己を広め、自分を他に理解してもらう機会が得られ、そのことが自分の企業に対する信頼を呼ぶことに繋がり、その結果として企業上の利益となる。8・各自が社会の指導者となるだけの訓練を受けられる。9・自分を人間的に磨くことができる。(ガイ・ガンディカ-著「ロータリー通解」1916)勿論、社会奉仕、人道奉仕もやっているんですが、それよりむしろ事業上の利益を非常に重視していたことがわかると思います。決議23-34は、ロータリーは人生哲学で、利己的な欲求は(会員の自己の)事業の発展、対社会的な奉仕は他人への奉仕、この相反する2つの心の葛藤を調和させるのが決議23-34です。しかし、事業発展に関する配慮がクラブの運営等で喪失してしまってそれがロータリーの魅力の減退に繋がったのではないか?クラブのあり方○個々のロータリアンの事業が発展すれば間違いなく会員は増えていく○事業人の「利己の心」とは自らの事業を反映させること○職業奉仕はシェルドンの経営学の理念を実践し、事業を継続的に発展させること○クラブの例会は会員同士が自らの事業について語り、相談する場合、発想、アイディア、ノウハウを交換する場こういうことでロータリーの会員であることのメリットを創出することが必要である○かっては職業奉仕を前提として奉仕の心を磨く場をロータリーでは例会と呼んでいた○企業経営上の問題点を胸襟を開いて相談できる環境がクラブ内にあるでしょうか?○自分が直面する問題を親身になって相談できる友人がクラブ内にいるでしょうか?○職業上得られた発想やアイディアを交換し、自分の家庭・職場・地域社会に戻って、それを実践に移していますか?○会員は事業上の大切な時間を割いて例会に出席している。従って例会出席によって得られるメリットは事業上の貴重な時間を割くデメリットよりも大きくなければならない。はたしてそれができているのか?これらは職業奉仕にとどまらず、クラブの管理運営とか例会の在り方とか、そういうところにつながってくる問題なんですね。この後、みんなでディスカッションする時間があれば一番いいわけですが、今日はちょっとそこまでないので問題提議ということでとどめたいと思います。最後にポールハリスの言葉一番いい時代はこれからだ!!(1922年にロータリーが全世界に拡大していく中で、ある新聞社のインタビューにポールハリスが答えたものです)ということでどうもご清聴ありがとうございました。

自転車生活

2018、12、13菊地勝彦皆さんこんにちは。会員の菊地です。本日は皆さんの大切な時間をいただきロードバイクのことについて、できるだけ知って帰ってもらえればいいかなと思ってお話させていただきます。短い時間ではございますがどうぞお付き合いください。一般的に自転車といえばシティーサイクル、通称ママチャリといわれているタイプの自転車を想像されると思いますが、ママチャリとロードバイクとはどこがどう違うのかというと重さが圧倒的に違います。俗にママチャリというのは重量が20キロ前後となるんですが、ロードバイクの場合はだいたい、そのフレームの素材にもよるんですが10キロ以下ということで半分から3分の1の重量ということになっております。鉄製やアルミでもだいたい10キロ以下で最近の主流のカーボン素材となると最低重量は6キロぐらいとなります。私の自転車も7キロを切るぐらいで、よかったらあとでちょっと持ってもらったらよく知っている「自転車」とはだいぶ違うことが、まず重量で感じてもらえると思います。そしてロードバイクは舗装路を高速で走るために特化した作りになっていまして、物を入れるカゴとか、泥除けなんかもついておりません。走る以外の一切の無駄を省いたシンプルなデザインで自転車の大敵である風や空気の抵抗を極力受けないような形になっております。それと路面との接触(路面抵抗)を最低限に減らすために親指1本ぐらいのタイヤの幅で、その中には車の空気圧の約3倍ぐらいの空気を充填して走っています。次にママチャリと違う部分というのは変速機がついているということですね。前が2枚、後が11枚のギアからなっておりまして22段変速になります。最近では12枚というギアもメーカーによっては販売されております。それでですね、コースとか、状況によって、そのギヤを選択して走っていく訳ですが、前のギアが2枚あるというのはどういうふうに使い分けていくかというと、例えば平地を走っていて向かい風を受けてなかなか前に進まないという状況ではインナーギア、小さいギアに落とします。そうすることで踏み込む力を軽くすることができます。また、追い風とか無風状態であるときはアウターギアで大きいほうに移していきます。すると重いギアを楽に回すことができるので自転車はスピードに乗ります。ギアチェンジのタイミングは、その先に上り坂がある場合はあらかじめインナーギヤに落として後ろのギアを小さい目にして上りに備えて変速をあらかじめ変えておくということが重要です。それから下りになりますと今までインナーギヤで、軽いギアで走って来たものが急に下りになるとそのギヤで速い速度で突入するとペダルが空回りしてしまって非常に危ないのであらかじめ重いギヤに変えておくというのも重要なことです。上りや下りに入ってから変速をするのではなく、あらかじめコースの変化を見極めて用意しておくのは安全に走るためにも大切になります。変速機に関してはこんな感じです。そしてフレーム、特に自転車で重要な部分がこのフレームという部材に当たります。フレームにはサイズがあります。ママチャリにはサイズはないと思いますがサドルの高さで大体、乗る人のいい具合に調整できるんですが、ロードバイクの場合はメーカーによって違うんですが、だいたい5種類から9種類ぐらいのサイズ展開があります。その中で表示されている47cm、50cm、52cm、54cm、56cmというのはどこのサイズを示すかと言いますとシートチューブというサドル下の縦のチューブのシートポストを除くフーレム部分だけの長さを示していて、これをフレームサイズといいます。適切なフレームサイズを選ぶと次はポジション(乗車姿勢)という形を煮詰めていきます。ポジションで一番肝心なのは最初に自分に合ったバランスの良いフレームサイズを選ぶということから始まりますが、次にはサドル高です。サドルの座面からボトムブラケットと言われるクランクを取り付けている真ん中の芯のところまでの長さを「サドル高」と言い「股下×0.88」で、おおよそその人のサイズを計算で出すことができます。あとは適正なステムサイズ。ステムというのはフレームとハンドルを繋ぐ10cm前後の短い部品です。ここで各自、腕の長さとか、姿勢とかが変わってくるので、ステムでも短いものから長いものまでいろいろサイズがあるのでその中から選んでもらいます。だいたい60mm~130mmぐらいまでサイズがあり、ハンドルまでの距離を近くしたり遠くしたり調整できます。そしてハンドル。幅や前への突き出しの量など、これもちょっといろいろありますので肩幅とか、体型、乗車姿勢の好みに合わせて選んでもらう。それから「クランク長」と言いましてクランクの長さを調整できます。標準では170mmというサイズなんですが前後2.5mmずつぐらいで展開されていまして、その人の足の長さや身長等に応じたサイズを選ぶことができます。これによってかなり追い込んだ効率の良い自転車が完成されます。非常にややこしいといえばややこしいですが、自分の体に合った自転車というのはそうやって作っていくということです。一番最初まあ、標準的な自転車を買ったとしても、その人の乗り方とか体型によって、ステムであったり、クランク長であったり、たった数センチの範囲ではありますが調整していけば、よりよいセッティングというか、乗りやすい自転車に仕上がっていくということです。自分に合った自転車を作りましたら次は実際に自転車をこぐということになるんですが、どのようにしてこぐのが良いのか。一番効率の良い、意味のあるペダリングというのは、クランクを真横から見た状態を時計の文字盤で例えますと、12時ぐらいから力を入れる準備が始まり2時の位置から力をかけ始めて3時までが最も強く、4時らへんでもう力を抜く。最悪なのは一番下の6時で力を入れてしまうこと。こうなるとペダルを地面に向けて下に押し付けてしまう力だけで何のこぐエネルギーにもなっていないということです。あと重要なのは反対側の足はどうするかというと踏む側の負担にならないように引き上げる。ロードバイクというのはビンディングと言ってスキーのようにペダルとシューズが固定してあるので足を上げる動作でペダルを引き上げることができます。だから極論をいうと片脚でもクランクが回せるんです。反対側の足で引き上げることで踏む側の力をサポートし「踏む」のではなく「回す」のです。そこまで力を入れなくても負担にならないくらいで回していけばきれいなペダリングになるかなという感じです。あとどれぐらいの速さで回していくのが良いかというのもあります。一つは重いギアでゆっくり回す。それか軽いギヤでくるくる回す。2種類のこぎ方があるんですが重いギアで踏むと長距離で走っているとかなり後から負担がかかってきて走れなくなります。それは筋肉を使っている走り方なんです。筋肉を使った走り方は長時間もちません。早く回す方法というのは心臓を使って走る。心臓は1分間で平均60拍脈打ちますが、ペダリングは1分間で90回転ほど回します。これで永遠6時間ぐらい続くと心臓の鼓動よりも早いぐらいの回転で回してるんですが、これで全然疲れないので大丈夫な走り方になります。乗車姿勢ですがママチャリというのはどっかりとサドルに腰を落とした地面と背中が垂直のような姿勢ですよね。マウンテンバイクというのはもう少し前のめりな状態。クロスバイクはさらにもう少し前傾が深く。ロードは地面と背中が平行に近いような前傾。ロードでも走り始めの慣れないうちはハンドルの高さをもう少し高くして上体を起こしたアップライトなポジションで、徐々に慣れてきたら低くしていく感じで良いと思います。ハンドルの持ち方もロードバイクのハンドルはいろんな持ち方ができます。向かい風であれば風の抵抗を受けにくいようにハンドルの下の方を持ち、あとは変速機を使うためだいたいブラケット部分を持って走ることが多いですが、こういう形で同じポジションでずっと乗っているとそれだけ一部分の筋肉に負担がかかるので、それを分散するというか、ハンドルを持つ位置を変えることによって姿勢が変わって長時間のライドでの体の負担を軽減することができます。上体が起きた体勢ではほとんどおしりに力が行ってしまいますが、前傾が深い姿勢にすることでペダルとお尻とハンドルと体重が分散されるのでお尻も痛くなくなる。そういう効果もあります。ちょっと息が切れてきました。ウェアについては、私が今着ている服はウェア全般に安全のためにヘルメットやサングラス、グローブとかちゃんと着けるということは大事なのでそれはちゃんと着けていただきたい。どうしても自転車はコケるということは避けられないので、コケた時の対策をしておかないといけません。ウェアの生地は汗を素早くすって発散させたり、夏は涼しくて冬は暖かい生地が使われております。それから初心者だと必ず最初に訪れるのがお尻の痛み。とりあえずお尻が痛い。硬いサドルなので特にそうなんですがこういうサドルというのは必ずレーサーパンツを履く前提で、厚みが10mm 以上の低反発スポンジが仕込んであるという仕組みがあってぜひそういうロードバイクを乗られる時はレーサーパンツを着用していただいたら良いと思います。ロードのウェアがこれだけぴっちりというのはいつも風にさらされているもので、その風の空気抵抗を減らして、バタツキを減らしてストレスをなくす。快適に走るためにとても重要な部分です。ですから明日走りに行くんやけどもその時の気候、寒暖の差は?それからコース、そういうのをいろいろ考えて、明日はこのウェアでバッチリや!と決めて行こうというのを常にやっております。それにウェアは快適性だけではなくて自転車とのコーディネートやファッションとしても楽しむことができるアイテムやと思います。では実際に走り出した話になりますが、ロードバイクは2人以上で走る場合は助け合って走ることで、力の弱い人と力の強い人がそこそこ同じように走れる面白さもあります。ロードバイクの大敵は空気抵抗なので先頭を走る人は風を全身に受け止めて、ペダルは重くなり、前に進むのに力を使ってしまいます。そこで前に強い人が走って後ろに弱い人が走ることで後ろの人が風を受けるのを少しでも少なくして走れるようになります。これで後ろの人は前の人の6割ぐらいの力で前に進むことができます。風を受けて走るというのはそれだけでとても力を使うことになります。前の人が疲れてきたら後ろの人と交代することで走りながら体を休めることができて、そうすることで長距離を少しでも楽に走れることになります。何十万円のロードバイクをいきなり買うのは難しいですが、レンタルで一日だけ借りたりすることも最近はできるようになっていますので、もし興味があればそういうのを試されてはいかがかなと思います。11月の11日に琵琶湖を一周してきました。その時のビデオを見てください。ロードバイクの機材の一つにサイクルメーターがあります。もちろん必要であります。今、この自転車についてあるのはアメリカのメーカーのものですが各社たくさんの種類が販売されていて価格によって機能は何段階かありますが、表示されるのは時速(スピード)、時計、それからライド時間、心拍数、クランクの回転数、平均時速、消費カロリー、最高速。他にも気温や標高、坂道の勾配などいろいろ表示ができます。走っている時に全て見るわけではないので私は時速とクランクの回転数と心拍数を表示させています。心拍数は腕にはめる時計と同じようなもので心拍数を測るようなものがあります。ここから電波でメーターに飛んでモニターできるようになっています。走った距離や時間も知りたいですが、このメーターの一番魅力的な部分はGPSで現在地を補足して地図が出ます。ライドの後、家でパソコンで今日走ったコースが地図上に表示されて、どこを走ったか確認することができます。それとあらかじめスマートフォンのほうから行き先を設定して走りたいコースを決めておくことができます。そうするとサイクルメーターの地図上で走るコースが示され、いわゆるナビの機能があって非常に便利です。このメーターのすごくすぐれている部分は、これ専用のアプリがありまして、走りに行ったあと、どうしたいかというと記録に残しておきたい。今日はどんだけ走った。どういうコースを走った。そういうのが自動的に記録してくれる。そういう機能がすごく魅力的であります。例えば先程の動画のように琵琶湖大橋から上を回ったんですが地図が拡大されまして、詳しく見たいときは一周した記録が自動的に残ります。距離が141キロでアクティブ時間というのが実際こいでいる時間、5時間47分。平均時速は24.4km/h。上昇というのは獲得標高差といいまして、どれだけ高いところに上ったか標高差を足していった数値、そういう数字になります。心拍ゾーンというのは走っている間の心拍数をのんびりしている時からかなり追い込んでいる時まで何段階かに分けられていて、入力した年齢によって心拍数の範囲が区分けがされています。0~128拍まではのんびりしたゾーン、脂肪燃焼ゾーンは129~147拍、それ以上は追い込んでいるゾーン。こういう比率で走っているな、追い込まないで脂肪を燃焼させるゾーンでゆるゆると走っているな、というモニターができます。平均速度は24.4km/hで、最高速度で92km/hとか出てますがそういうスピードは出てないのでこれはちょっと誤作動だと思います。心拍は平均138の最大168、消費カロリーが4344kcalと表示されています。実際かかった時間は7時間57分なので休憩とか、いろいろな時間が信号で止まっているとか、そういう時間がまあ、2時間もあるというちょっとさぼりながら走っているということです。大変便利なメーターでございます。補給食とは走っている時に食べる物ですが、何を食べているかと言いますと実際にレースの時とは違って、コンビニもいろいろあるのでほとんどコンビニに寄って好きなもの食べております。例えば、琵琶湖一周したときには一番最初はマクドで朝マックを食べて、それから道の駅でおにぎりを食べて、最後もう1軒コンビニでパンとか食べて帰ってくるということですがその間にどうしても何かちょっとお腹がすいたなと感じるときはハンガーノックとか言われますが、低血糖状態になって、体を動かすのが、こうやる気がなくなるというか、テンションが下がってくる時がありますのでそういうことが来るかなと予感した時にはいつも背中のポケットにジェルというハチミツよりも甘くないんですがフルーツの味付けがされた液体状の補給食があり、これにカフェインが入っているタイプがあるので、これを吸って飲むとまた元気よく走れるようになります。自転車は消費カロリーが多いため、たまたま店が無い場所で空腹感を感じることもあるので、走る時は必ず後ろのポケットには二つ入れて走っております。では、よく言われる「自転車に乗って痩せるか」。これは多分、摂取カロリーと走る消費カロリーが一緒くらい食べるので、これはちょっとどうかなという部分なんです。ただ脂肪が燃焼して筋肉に変わるということがあるので、体重は一緒なんですけども脂肪と筋肉は脂肪が1に対して筋肉が3ぐらいの重さがあるので見た目は大分締まった体形になってくると思います。例えばタイプ別に競輪選手はどんな体型か。ロンドンオリンピックで銅メダルで2010年世界選手権で金メダルを取得した自転車のローベルト・ヘンスマー、筋肉ムキムキマンのすごい人です。これはトラックという特殊な競技で短距離をいかに速いスピードで、筋力でねじ伏せてスピードを出して勝っていくかという競技に特化された体なのです。これはツール・ド・フランスというレースで16ステージ走り終えた時の選手の足ですが、有酸素運動の究極というか、体脂肪が2%とか、すごく少ない。ロードレースのトップ選手は大体、平均で体脂肪5%くらいしかありません。一日に200キロ前後の長距離を毎日毎日走る競技に特化した体です。筋肉と骨と血管、それで補給さえしていればなんぼでも走れるというそういう足です。もう一つよく言われる「自転車に乗りすぎるとED勃起不全になるのか」ということですが私はそんな長い距離は走ってませんので、最長でも250キロぐらい一日で走ったんですけども、世の中には「ブルベ」の人々という、単独で長距離を走るという競技がありまして、日本でも行われていますが200キロを制限時間内に完走すると、次は300キロ走って、400キロ走って、600キロを走って・・・と1年間の間に全ての大会でパリにある本部から認定を受けるとクリアした人だけがフランスの「パリ~ブレスト~パリ」というパリからブレストまで行って帰ってくるという競技の参加資格が得られるという、4年に1回しか開催されない大会を目指して走ってる人たちがいまして、世界中のブルベ愛好者、約6000人が集まって1200キロを走ります。皆さん非常に元気な方が世の中にはたくさんおられるもんだなと思われます。多分これぐらい走るとEDにもなるかなという気もせんでもないですけども普通に乗っているぶんにはあまり関係ないかなと思います。今日は自転車について卓話2回目のお話をさせていただきましたけども前回の卓話で、昔は競技として激しく追い込んだ試合に出ていましたけども、今は純粋に自転車で走ることを楽しみにしていて爽快でのんびりとした気持ちで走っております。毎日の慌ただしい日常生活からほんの少し違った景色の中で羽を伸ばしていい気分転換になって程よく体を動かす自転車は健康維持のためにとても効果があると思います。心と体の健康のためにこれからも続けていきたいと思っております。長々とお話をさせていただきましたけどもロードバイクの魅力が少しでも伝わったら私としてもうれしく思います。今日はどうもご清聴ありがとうございました。

高齢者の病気

2018、12.6高橋権也会員高齢者の病気についてお話します。この会場には高齢者でない方もいますがそのうちに高齢者になりますのでよく聞いておいてください。まず老化についてです。老化というと白髪、皮膚のしわ、シミ、その辺で私達は老化をだんだん感じるようになってきます。男性は30歳代からゆっくりと老化します。それに対して女性は女性ホルモン(エストロジエン)の影響で閉経期の50歳ぐらいまでは若々しいが50歳をすぎると急に老化が進みます。特に女性は老化をはっきりと感ずる人が多い。例えばシミ。「シミができたんですけど…」これは「年齢がいったためで誰でもありますよ。私もありますよ」と私の手のシミを見せると「ああ、そうですか」ということで安心する。だけども男女差の他に時代差があります。例えば昔は老化が早く、今は70、80で若々しい人が沢山います。全然、年を感じさせない人が多い。身体的な変化を見ますと老眼、白内障による視覚障害。これは非常に多いです。耳鼻科では難聴、歯科では歯周病や咀嚼力の減退などいろいろあります。味覚もだんだん退化する。甘味、辛味をあまり感じない。骨は骨粗鬆症による骨折が多い。関節は変形が起こって痛みが増えてくる。免疫力が低下して感染症にかかりやすい。性格も変化しまして、知的能力、判断力が低下する。自分で感情を抑えることができない。ガンコ、自己中心的、孤独、疑い深い。このようなことが高じてくると認知症に移行してくるということになります。フレイルという言葉があります。これは健康な状態から年齢とともに要介護の状態、その間、健康と要介護の間を虚弱(フレイル)という言葉を使っています。健康な人がこのフレイルになることをまず予防しなくてはいけない。フレイルというのはいろんなことに通じます。ます医療費が高くつく。転倒、骨折が多くなる。薬を沢山飲むようになる。病気が10個ほどついて、薬が10個以上という人は結構多い。施設に入所したり入院したりすることになります。それから認知症になる。要介護状態になる。最終的には死亡。だから我々元気なうちはこのフレイル予防、これが非常に大切です。フレイルの評価の方法と言いますと体重の減少、6ヶ月で2、3キロ以上やせる。それから筋力の減退、握力が男性で26kg 、女性で18kg 以下、これぐらいが大体の目安になります。疲労感、ここ1~2週間いつも疲れるというような疲労感がある。今までと同じような仕事をしていても特に肉体労働の場合は何かこの頃疲れやすいなというような自覚を持つ人がいます。今までこのぐらいの仕事をしてもどうもなかったのにあちこち痛い筋肉痛。歩行速度、1秒間に1m 以下、1分間に60m 以下の歩行で。それから小股なる、すり足になる。予防法は大股に歩いて腸腰筋を使うことです。軽い運動やスポーツをしなくなる。この辺がフレイルの評価の対象になります。この項目全部に対してチェック項目がなければまあ、健康である。3項目以上あればフレイルと判断して考えてください。身体活動、これもいろいろと問題があります。どういう活動がフレイル予防に繋がるか。まず身体活動、文化活動、ボランティア等の地域活動の3つがあります。これら3つの活動ができていればフレイルのリスクは最小。3つとも出来ていなければリスクが最大です。この3つの活動の内、身体活動がフレイル予防に最適です。身体活動ができていなくても文化活動、ボランティア活動ができていればフレイル予防に効果的です。ですから身体活動+文化活動、ボランティア活動をしている人が精神的にも肉体的にも健康でいられるということです。この3項目を同時に満足さしてくれるような生活を心がけましょう。栄養はバランスの取れた食事、歯科口腔の定期的な管理が大切です。これはやはり歯が悪いと咀嚼、栄養摂取の面で大きなハンディが出る。どういう病気で要介護になるかと言いますと、ヘルパーさんとか、医療とか、他人の支援を沢山要するひとたちは脳血管障害の人が多い。それに認知症が加わると要介護になってきます。全体としてみると要支援の人は整形外科的な病気、脳血管障害と認知症等が重なった人は要介護に移行する人が多い。身体機能の低下と認知症機能の低下、この辺で要介護になっていく人が多い。目の病気について。失明の原因の横綱は緑内障です。眼圧が増加する。しかし眼科の先生の話では眼底の変化、視野狭窄があるかどうかできまる正常圧緑内障が多いので、最終的には視野を見ないと判断できないが、視野狭窄は自分ではなかなか気が付きません。検査で視野を調べてみると欠けていることが一目瞭然でわかります。普通は眼圧が上がるので眼圧を下げるような目薬を定期的につける。飲み薬もあります。いよいよとなると手術が必要な場合もあります。目の中の液体がいつも循環していますがその循環が悪くなります。それから非常に多くて深刻なのが糖尿病性網膜症、これは糖尿病がある程度進行した場合に出てくる網膜症、これで失明する人が非常に多い。今、失明する人の多くは目の疾患というより糖尿病から来る。網膜色素変性症、加齢黄斑変性症、これらは高齢とともに増加します。白内障も非常に多くなる目の病気です。白内障は水晶体が濁る、すりガラス状になるということで光が十分に入らないために見えづらくなってきます。この治療は手術以外にない。最近は人工レンズが非常に簡単になりました。昔は眼球を大きく切開して硬いレンズを挿入していましたので大変でした。今は折り畳み式に入れることができますので非常に簡単で15分ぐらいの手術で済むようになりました。それから多いのが転倒事故、これは原因としては視力障害、視野狭窄、前がしっかり見えていない。平衡感覚の低下でふらつきの人、特に女性が多い。その原因はいろいろあります。筋力の低下、すり足、厚さ5ミリ 程度の敷物に足を引っかけて転んでしまう。足をしっかりと挙げないのが転倒事故の原因になります。骨折で多いのは転んだ場合の大腿骨頚部骨折です。これが非常に多い。昔は高齢でこれを起こすともうほとんど寝たきり。そのまま亡くなる方が非常に多かったです。今は手術がうまくなりまして、それから人工関節も性能が良くなって非常に治癒率が高い。少々のことは手術で修正できる。それから転んで手をつきますので前腕骨折、それから背骨の骨折、これは圧迫骨折ですが尻餅をついたときによくやります。非常に痛くて起き上がることができない。上腕骨は転んで肩を打つことが多いんですけれど骨折する。この辺が高齢者の骨折の特徴です。それから頭を打った場合の慢性硬膜下血腫、その時は大したことないと見過ごしてしまうことが多いです。転倒を見過ごさないようにするということが大切で、1ヶ月ぐらいは注意する。この病気は2、3週間後ぐらいで症状が出てくる。麻痺が起こったり、言葉がちゃんとしゃべれなかったり、極端な例では体が十分動くのに認知症の症状が強く出る。うちの患者さんで家族が連れて来て「うちのおじいちゃん、扇風機に向いてお辞儀をして話しかける。痴呆症になったに違いない」と。脳を断層写真で調べると頭蓋内に出血がある。それは脳の中で出血したのではなくて脳の外、頭蓋骨と脳との隙間に出血する。高齢者は脳が萎縮して隙間がたくさんある。だから少々出血してもすぐには症状が出ない。相当大きくなって発見される、ということなんです。それは手術で簡単に治る。たまった血液を吸い出せばいいので手術が終わった時にはもう元通り、劇的に良くなります。硬膜下血腫が発見された場合、どこかで転びませんでしたか、頭を打ちませんでしたかと言っても本人は何も覚えていないし、家族も気がついていない。そういえば自転車で転んだのか、自転車が壊れていた、その時でしょうてな感じのことがあります。高齢者に多いがん。がんは生まれた時からある病気です。年齢とともにがんの発生率は高まってきます。しかし高齢者のがんは進行が遅い。ここがミソでありまして非常に高齢の場合には、侵襲の大きい手術をしない方が長生きということもあり得ますのでその辺の決断が難しいところです。40歳、50歳のがんはあっという間に進行してしまいますが、70,80になるともうがんと共存ですね。高齢者で多いのは前立腺がんです。前立腺肥大は高齢者に非常に多いのですが自覚症状としては排尿困難。肥大であるか、がんかの区別はなかなかむつかしい。泌尿器官の先生が前立腺を触診したり、バイオプシー(生検)(前立腺の中に太い針を5ヶ所6ヶ所差し込んで検体を取ってがんか否かを確認する。また血液で PSA 検査がよく行われています。自治体の健診で隔年に無料でやっています。4以上の値は要注意です。大腸癌、これも健診では便潜血反応をやります。その反応陽性になった人は大腸のファイバースコープをします。そこで見つかるのはポリープが多いです。ポリープを取ってきて顕微鏡で見て、がん化していないか確認する。ポリープも切除します。それからまた、何年かおきに見ていって同じことが発生していないかどうか確認する。便潜血反応が健診で採用されてから今までは大腸がんの死亡率がどんどん上がっていたんですがそれをきっかけに最近は下がってきています。そういうことでポリープの状況で見つけるということが大腸がんの発生を防ぐということになりますので、ポリープの内に切除することが大事です。心臓病、これも多くて心筋梗塞と慢性心不全。心筋梗塞は狭心症が起こる人と起らない人があります。冠動脈が閉そくするとこれは全く待ったなしのことが多いので気をつけておく。普段から心電図をとってある程度の予防ができます。慢性心不全、そんなには多くはありませんが足が腫れで来るということでわかります。心臓の収縮力が低下することで足が腫れる。心不全で足が腫れる人が多いです。少し足を上げて休めばそれで収まります。本格的な検査結果でわかります。耳の病気としては加齢性難聴。これは老人性うつや認知症のきっかけになります。聞こえないということは周囲から隔離されることに繋がりますので、注意が必要です。耳鼻科で診てもらったら年だと言われて何もしてくれないと、患者さんの不満は多いです。有効な薬物療法はないということで補聴器を紹介されるけれども、きっちり使える人は少ない。変形性関節症は膝、股関節が多いです。関節の軟骨の老化による変形、これは太った女性に多い。常に体重がかかりますので膝や股関節の変形です。治療は生活改善、それから運動療法とか薬物療法があります。で、最終的には手術です。体重を増やさないことが大事ですね。高齢者の入浴事故は非常に多い。救急搬送させる家庭内の不慮の事故としては。高齢者の7、8割は浴室で起こる溺死です。病気としては脳卒中があります。脳梗塞が発症した場合には早急に救急車を呼びしかるべき病院に行くことが大事です。これは時間がないので省きます。以上です。ありがとうございました。

宇治市の教育―宇治ならではの取り組みー

宇治市教育委員会教育長 岸本文子ご紹介賜りました宇治市教育委員会教育長の岸本でございます。宇治鳳凰ロタリークラブの皆様におかれましては、平素より、宇治市政とりわけ教育行政に多大なご理解とご支援を賜っておりますことをこの場をお借りいたしまして、改めまして御礼申し上げます。ありがとうございます。さらには、社会貢献という大変な事業を展開され多々ご尽力賜っておりますことに敬意を表する次第でございます。昨年の10月12、前任の石田肇教育長の後任といたしまして、教育長に就任させていただき、奇しくも本日で丁度丸1年でございます。そのような日に、貴クラブの例会にお招きにあずかり、お話をさせていただく機会を頂戴いたしまして誠にありがとうございます。浅学菲才なうえ、生来口下手で皆様にお話し申し上げるような立場ではございませんが、お耳を拝借し、どうぞ最後までお付き合いよろしくお願い申し上げます。それでは、本日配布をさせていただきました資料をご覧いただきながら、宇治市の教育につきまして、宇治ならではの取り組みも交えましてお話をさせていただきます。資料の1頁から4頁は、皆様既にご承知の内容でございますので、5頁をご覧願います。下段でございますが、本市の幼稚園、小中学校の状況でございます。4つの幼稚園、22の小学校、10の中学校合わせまして36校園がございます。このうち、平成24年度に開設いたしました「宇治黄檗学園」は、施設一体型の小中一貫校でございまして、この、小学校、中学校を1つずつカウントいたしまして22小学校、10中学校でございます。児童生徒数は、本年5月1日現在、幼小中合わせまして、14,878人、教職員数は、非常勤、市費職員合わせまして1,143人でございます。資料が前後しますが、5頁下段の本市の教育予算は市全体の予算総額(一般会計)617億9千万円のうち、56億3654万5千円で、予算に占める割合は9.1%でございます。他の類似団体の平均は12%くらいかと思っておりますので、類団に比較して少し低い状況です。資料の6頁をお願いします。本市の教育に関する大綱は、平成26年3月に策定いたしました「宇治市教育振興基本計画」に示した「教育ビジョン」を持って代えることとし、平成27年5月に策定いたしました。教育理念は、家庭・学校・社会でささえる宇治のひとづくり・まちづくりとし、目指す人間像は1つに宇治の自然、歴史、文化を守り育てふるさと宇治をつくるひと、2つには地域社会と協働し、世界に誇るあすの宇治をつくる人といたしております。ここに掲げました人間像に向けた教育の基本目標を3つ掲げ、教育環境のより一層の充実を図り、地域社会全体の絆を一層深めるとともに、ふるさと宇治の恵まれた自然や歴史遺産、伝統文化を基盤として、郷土を愛し、生涯にわたり学ぶ力と自ら行動する力を備えた21世紀の社会と明日の宇治を切り開いていく市民が育つ本市ならではの教育を進めております。本市の教育の特色ある取組といたしまして、大きく4つございます。まず1点目が資料の7頁から8頁上段にございます、小中一貫教育です。本市では、人口急増期に必要に迫られて学校を開設してまいった経過から、現在では、中学校の校区と小学校の校区が合致しないところが多くあり、1つの小学校から、別々の中学校に進学するという、我々、分散進学と申しておりますが、地域コミュニティが分断されるような状況がございます。また、御多分にもれず、少子高齢化の進展により、学校よりまして児童・生徒数が減少いたしております一方で、逆に増加や微増、横ばいといった傾向の学校がみられるなどいくつかの課題を抱えておりまして、これらを解消するために、平成9年度から、時宜に応じ、検討委員会や懇話会を立ち上げるなどして検討進めてまいり、平成19年に「宇治市小中一貫教育と学校規模の適正化の方向」を示した「NEXUSプラン」を策定いたしました。先ほど申し上げました宇治黄檗学園はこのプランに基づき、学校規模の適正化を図るとともに1つの小学校ではございますが分散進学を解消するために、開設した学校でございます。小中一貫教育の目標といたしましては、「学校が変わり、地域が変わり、そして子どもたちが光輝く小中一貫教育」を、目指す子ども像といたしましては「将来の夢を持ち、自己実現に向けた努力ができる子ども」を掲げております。9年間を見通した系統的・継続的な学習指導、生徒指導により、児童生徒の学習意欲の向上や学習習慣の確立、児童生徒の個性の伸長と社会的な資質・能力の育成などをねらいとするとともに、小中学校の教員が相互に交流を深めることにより、教職員の資質と指導力の向上を図ることもねらいといたしております。また、中学校ブロック(2小学校・1中学校を基本)を単位とした地域の諸団体や保護者相互の連携を深めることにより、学校・家庭・地域が一体となった教育環境づくりを推進いたしております。次に2点目といたしまして、8頁下段の地元大学との連携でございます。本市には、京都文教大学・短期大学と京都大学宇治キャンパスの2つの大きな大学が存在します。これら大学の「知」を生かさない手はないということで、平成22年2月にまず、京都文教大学・京都文教短期大学と宇治市が「連携協力に関する協定」を締結いたしました。この中から生まれましたのが「宇治学副読本」の編集でございます。宇治学につきましては、後程ご紹介申し上げます。さらに、平成26年11月、日本を代表する「知」の拠点でございます京都大学の研究機関が集積する「宇治キャンパス」とも包括連携協定を締結し、科学技術に夢と希望を持つ人材の育成、本市理数系教員の指導力向上に向け協働して研究を行う「スクール・サイエンス・サポート事業」を実施いたしております。3つ目は資料の9頁でございますが、「宇治学」の推進でございます。先ほどの小中一貫教育の特色ある教育活動といたしまして、「宇治で学ぶ、宇治を学ぶ、宇治のために学ぶ」をコンセプトとした「宇治学」いわゆる総合的な学習の時間でございますが、におきまして、地域社会の一員としての自覚を持ち、ふるさと宇治をよく知り、諸問題に目を向け、主体的・創造的・協同的に取り組むことで、よりよく問題を解決する資質や能力を育て、自己の生き方を考えることができるようにすることを目標に取り組んでおります。宇治学に関しましては、先ほども触れさせていただきましたが、京都文教大学のご協力もいただき、小学校3年~中学校3年までの七つの学年の「宇治学副読本」の編集を進めております。この共同研究を進めるため、京都文教大学では、文部科学省から官民連携による「宇治学」副読本作成と現場での活用に関する研究等の指定を受けられ、副読本編集にご協力をいただいてまいりました。この副読本は、本市の地域素材や地域活動を取り入れた探究的な学習を進めるための副読本であり、本年3月に示されました、新学習指導要領の趣旨にも合致する主体的・対話的で深い学びを具現化するものとなっております。さらに、教職員の負担の軽減と資質の向上にも資するため、指導の手引も合わせて作成いたしております。平成29年度に、小学校3年生と6年生の副読本が完成しており、既に全小学校で学習に取り組んでおります。3年生は宇治茶の素敵を伝えよう、6年生は「ふるさと宇治」の魅力大発信がテーマとなっております。平成30年度からは、小学校4年生の「発見 ふるさと宇治の自然を伝えよう」と中学校1年生の「命そしてふるさと宇治を守る 私たち中学生としてできること」をテーマとした副読本が完成しており取り組みを進めているところでございます。残りの学年につきましても、現在、副読本の編集を進めております。4つ目が資料の12頁の下段にございます「スクール・サイエンス・サポート事業」の推進でございます。京都大学宇治キャンパスとの連携事業ですが、小・中学校の教員研修をはじめ、防災研究所宇治川オープンラボラトリーでの防災体験学習、小中学生を対象とした理科教室の開催、幼稚園への出前講座などを実施いたしております。子どもたちからは、わくわく感や驚きの感想、理科が好きになった、実験が楽しかったなどの感想がございました。 今後におきましては、小中一貫教育の手法を生かした宇治ならではのアプローチによる取組を一層推進し、何よりも、児童生徒の学力向上につなげるよう取り組んでまいりたいと考えております。 甚だ簡単、稚拙なスピーチでございますが、本日のお話は以上とさせていただきます。つたない報告を最後まで、ご清聴賜り、誠にありがとうございました。

私の留学生活

2018、10.25米山留学生 丁 健皆様こんにちは。丁 健と申します。正直、私5年ぶりに宇治に来ました。本日、宇治鳳凰ロータリークラブでスピーチさせていただき、ありがとうございます。とてもうれしく思います。本日の演題は私の留学生活です。まず、私の出身地について簡単にご紹介します。私は中国山東省出身です。故郷は山東省の濰坊市という小さい町です。毎年、故郷で国際凧フェスティバルが行われます。昨年、会場で多くの日本の方と出会いました。主な食べ物というと日本ならお米ですね。私のふるさとは中国の北の方ですから小麦粉から作られたものがメインです。例えば肉包子、パオツと言います。日本では肉まんと言っています。饅頭というものは、小麦粉から作られ、中身は具がないものです。一番好きなものは「火烧」(音読み:ふぉうしょう)、中にお肉の具が入っています。よく朝食で食べられます。中国の南の方は、だいたいお米かお米から作られたものが主食となります。本日、私は四つの部分に分けて少しお話していきます。1日本に対する第一印象。2日本へ留学に来てからの学校と生活3感じたこと4今後以上についてお話します。まず私は子供の頃、みんなと同じようにテレビや漫画などを通して日本と初めて出会いました。アニメの中の町、食べ物、家庭、学校の生活、友情など中国と違う風景を見ながら日本という国をいろいろ想像していました。日本といえば礼儀正しい、綺麗町、桜、着物、茶道、電気製品などのイメージが強かったです。だんだん成長してきて日中文化経済の交流に長い歴史があることを知りました。昔、戦争や政治など日中関係に大変厳しい時期がありましたが、しかし、民間的な交流は途切れたことがないんです。日本留学を決めた頃、私は民間人として将来は日中友好関係交流に少しでも役に立ちたいと思いました。私は昔、中国の専門学校で航空と旅行観光業について勉強していました。卒業後、総合的な旅行会社であるシートリップで約1年半仕事をしていた経験があります。その時、グローバル時代がやってきたことを改めて認識し、語学力の非力も痛感しました。もっと多くの人たちに接したり、多くの人たちとコミュニケーションをとったりしたいと思って、私は日本語にずっと興味を持ち、視野を広げて日本語を身につけるため留学しようと考えていました。その時、ちょうど日本に長年勤めている友達と出会いました。友人から日本の現状、環境などを知り、日本留学のことを決意しました。大学に入ってから日本人と同じ授業を受けたので一回生の頃は大変だったんです。学校ですぐ友達ができ、わからない事があったら友達や先生に気軽に尋ねられたし、みんないろいろ親切に教えてくれましたので学校の生活と授業に早く慣れることができました。そして中国語を勉強している友達にもお手伝いし一緒に発音の練習をしたこともよくありました。友達が中国のことについて興味があったら私はとてもうれしくて、どんな質問でもできる限り教えました。学園祭では留学生の皆さんと一緒に白菜を切り水餃子を作りまして、屋台を出しました。とても人気がありまして予想より早く完売しました。儲けたお金を使ってみんなと一緒に打ち上げ会をしました。私は学校の部活筝曲部に所属していました。日本のお琴を皆さんと一緒に弾いた風景です。先生と友達の写真です。昨年3回生の始まりの頃、ゼミ全員と先生と一緒に桜を見に行きました。留学生活は学校での勉強だけではなく研修会や学校間の交流会も参加しています。日本の職場の雰囲気を感じたり、沢山の留学生と知り合ったりすることもできました。留学生の皆さんはそれぞれ違う文化や習慣があります。同じ日本に留学することでお互いに体験したことや考え方など一緒に共有して交流できました。日々授業、アルバイト.交流活動、日本観光など充実した留学生活を送っています。私は、日本人に真面目で固いイメージを持っていましたが、日本に来てから初めて彼らの優しさを感じました。中国と海を隔てている日本は距離的にとても近いんです。また、日本語は中国の漢字と同じものを使っているので何となく日本に対する親近感があるような気がしました。よくテレビや身の回りでもボランティア活動に活躍している人たちの姿を見て他人のために努力すること、人の幸せが自分の幸せになるという日本人の素晴らしさを学びました。私は留学している間に沢山の所へ行き、そして沢山のことにチャレンジしました。感じたことも非常に多くて、二つのことについてお話します。1つは変る日本、変わらない日本今はネットインフラが発達し、海外の情報はすぐ手に入ります。日本文化の特徴として常に世界中の最新の技術や文化を採り入れる際に常に自分の伝統文化や週間に融和できるようイノベーションを行っています。このことを中国にも適用すればきっと発展のボトルネックに遭遇している中国の役に立つと考えます。日々、変わって発展している一方、日本は地域固有の伝統文化を大切にしているし、保全も重視しています。多くの行事、家屋、食習慣など昔と変わらなく保存してきました。これも私たち中国人も学ぶべきだなと思っています。例えば茶道と弓道、お茶と弓そのものは昔々中国から渡ってきたものです。しかし現在、中国では抹茶はほとんどなくなり弓 もあまり見かけないです。逆に日本でだんだん特有の芸になり、世界有名に発展してきました。今年2月九州へ旅行に行きまして長崎でランタンフェスティバルを見に行きました。ひさしぶりに様々なオブジェたちが幻想的に飾られた風景を見て、子供の頃の中国の元宵節のイベントを楽しんでいた様子が浮かんできました。それを日本で見られて、とてもうれしくて懐かしく思いました。長崎の中華街で融合した日中文化を感じながら、自分の国の伝統や行事などがもっと多くの人たちに守られ、深さのある文化を継承して欲しいと言う気持ちが強くなりました。日本での就職活動です。私は今4回生です。今年3月から約5ヶ月間の就職活動を経験しました。大変だったのですがその時、日本特有の就職活動を楽しめるように頑張りました。しかし、今、正直、楽しいとは思わないです。でも、就職活動という学生時代の大きなイベントとして日本のビジネス社会に触れられチームワークとコミュニケーション能力の大切さを改めて学びました。本当にいい経験になりました。中国には新卒採用もありますが企業により違います。経験者を優遇する企業が少なくないです。いわゆる即戦力を求めているようです。キャリアアップのため、転職も普通のことです。日本のように今までも終身雇用関係であり、新入社員が研修制度でじっくり育っていくというやり方がいかに日本独特であるかわかりやすいかと思います。このような制度が私にとって日本会社への理解にとても良いチャンスになるのではないかと考えております。私自身も就職活動をしていて、みんなと同じ格好、同じ髪型して、エントリーシートの書き方、面接テクニック、適性検査の SPI の勉強もしました。これは何の意味があるのか、正直、今でもちょっと不思議です。多くの企業は学生たちの個性を求めているのになぜ個性を隠すようなことをしなければならないのでしょうか。個人的にはもう少し学生達を自由にさせたら多分多くの可能性が溢れるかもしれないと思います。就職活動の結果は三つの内定をいただき、いろいろ考えた上で総合職としてファミリーマートに入社することを決めました。来年4月から社会人になり日本で続けて頑張って行こうと思います。今、残った学生生活は約4ヶ月しかないので学生でしかできないことを思う存分体験し、最後まで悔いのない留学生活を送りたいと思います。浅い内容ですけれども本日、皆さんご清聴いただきありがとうございました。

農業土木の仕事に携わって42年

【宇治鳳凰ロータリークラブ例会・講演要旨】  H30.11.1      平成30年11月1日   古川和吉 先程、林さんより紹介頂きました古川です。よろしくお願いします。本日は、宇治鳳凰ロータリークラブ例会にお招き預頂き有難うございます。また、私の拙い経験談をお聞き頂けると言うことで大変恐縮しております。 さて、私は、昭和19年に旧田辺町生まれ、地元の小、中学を経て城南高校に進み、京大農学部の農業工学科に入り、農業土木技術を学びました。そして、昭和43年4月農林省に国家公務員上級職の職員として入省し、以来、農林省他関係機関で農業土木技術者とし土地改良事業の実施に務めて参りました。 土地改良事業とは、農業のためのダム、堰、用排水機場、用排水路、ため池等の農業水利施設を造成する仕事です。このほか、開墾、干拓、埋め立て、圃場整備、農道整備、集落排水などの事業を行います。これらの事業は、規模によって国営、都道府県営、市町村他団体営事業に分かれます。例えば、農業水利事業では、受益地が3000ha以上は国営事業で、200ヘクタール以上は県営事業で、20ヘクタール以上は団体営事業として実施します。 1、国営母畑開拓建設事業所:  昭和43年5月に農林省での最初の職場、東北農政局の国営母畑開拓建設事業所に着任しました。事業所は福島県石川町と言う山間部にあます。この事業は、福島県の阿武隈山地に、1000haの畑地と72haの水田を新たに造成し、これらの農地に灌漑する千五沢ダム、堰、揚水機場 、パイプラインを建設する事業です。当時の総事業費は130億円で工期は10年とされていました。初年度の予算は、10億円です。この事業所は、発足したばかりで、年度前半は、事務所、職員宿舎、独身寮の建設がなされ、年度後半は、ダムで水没する県道の付替工事と工事用道路の建設が始まりました。私は、道路測量、河川測量や道路工事の補助監督員を担当しました。次の年度は、いよいよダム本体の設計、積算、施工が始まりました。ダムの建設費は、一期工事として、8億3千万円です。国内でダムの貯水効率が1,2位を争う効率的なダムで貯水量は1200万トンと規模の大きいダムです。私は、ダムの放流施設の設計積算を任されました。3年目に入り、ダムの基礎工事が終わり、盛土工事と放流設備の工事が始まりました。ダムの完成まで見届けたかったのですが道半ばで所長より、9月から、本省の開発課の係員に転勤だとの内示がありました。事業所のあった、石川町は、ラジウム温泉で有名な母畑温泉が有り、私が家を離れ初めて住んだ町で、職場の皆さんと和気藹藹で仕事をした思い出の多い第2の故郷となりました。2.本省開発課国営班係員: 昭和45年9月本省に赴任しました。私は、構造改善局建設部開発課開発第1班第2係の係員として配属されました。本省は、予算編成、全国の土地改良事業の推進と問題案件の処理、国会対策、マスコミ対応と年中緊張感のある日々が続きます。私の担当は。母畑開拓のような全国の国営農地開発40地区の予算編成と事業実施指導が主な仕事でした。私のような、本省の行政を知らない新人にとっては厳しい環境でした。特に、農林省は古い官庁で今だ、課長補佐を通称班長と呼ぶ習わしが残っています。この班長が、実質農林行政の要を担っていると言っても過言ではありません。権限も有り、威張っているので班長は本当に怖い存在でした。本省は予算に明け予算に暮れる1年です。この他、国会対応とマスコミ対策も大事な仕事で作業が深夜に及ぶことがザラでした。こうして、無我夢中の1年半が過ぎ、今度は、昭和47年4月に総理府に出向することとなりました。3.総理府中央防災会議事務局係長: 私の出向した部署は、総理府中央防災会議事務局業務第2係長と言うポストでした。入省5年目で初めての係長職です。この事務局は、寄り合い所帯で、建設省3人、総理府3人、運輸省、農林省、自治省、警察長から1人ずつの10人で構成されていました。中央防災会議と言う組織は、委員会、局員会議、主事会議の3段階の組織からなり、委員会は内閣総理大臣が議長を務め、委員は外務大臣除く各大臣で構成される大会議ですので、重要災害案件がある時だけしか開催されません。私の在任期間2年半で1度、大規模震災対策要綱の改正があった時だけでした。局員会議は、各省の担当局長の集まる会議で、大災害時の非常災害対策本部の設置や、政府調査団に派遣の決定などが行われます。主事会議は、各省の担当課長で構成され、局員会議の荒ごなしや激甚災害の指定に関する連絡調整などのため開催されます。ほとんどの災害案件は、主事会議の開催で済ますことが殆どでした。 この他、事務局の主な仕事は、防災白書の作成、大災害時の激甚災害の政令指定、災害対策衆参特別委員会への対応、災害対策に関する各省との総合調整などがありました。激甚災害の指定については、皆さん時々耳にされていると思いますが、大災害の場合一般の災害復旧費の補助率の嵩上げ措置が講じられる制度です。一般公共施設の場合は、70から80%へ、農地農業用施設の場合は80~90へ嵩上げされほとんどが国費で災害復旧工事が行われます。今年の、西日本7月号や、北海道胆振東部地震に際しても激甚災害の指定がなされました。 また、大災害時には、昼夜、土日を問わず災害の被災状況の把握に務め、被害が大きくなれば政府は、非常災害対策本部を設置し政府調査団を派遣し被災状況を掌握の後、各省に被災救援対策を指示します。私は、農地農業用施設や農産物の被災状況の把握と、天災融資法の発動の情報把握に務めます。衆参の災害対策特別委員会は毎週開かれることとなり、質問取り、質問の割り振り、答弁書の作成、委員会での質疑応答の聴き取り、必要な措置の各省への連絡調整等があわただしく進められます。私の着任した47年7月には台風と豪雨による死者行方不明者4百数十人に及ぶ大災害が発生し、事務局はてんやわんやの状態でした。この他にも、大阪ガス爆発、徳島コンビナートの火災、冬の48豪雪、次の夏の大干ばつ、桜島噴火災害とたて続きに大災害が発生し、その対応で激動の2年間を過ごしました。大変貴重な経験をさせてもらったと感謝しています。4.本省建設部開発課開発第2班第1係長: 昭和49年10月、再び本省に戻り、再び開発課に配属されました。私の担当は、開発第2班第1係長と言うポストで、各都道府県が実施する県営農地開発事業の予算編成、補助金の配布、事業実施指導、班の筆頭係長としてのまとめ役と言う仕事です。私の係で年間予算は、70億、そのほか2係、3係と合わせて班全体で約150億でした。県営事業は、全国で50地区実施されており特に北海道、東北、九州地方に多く実施されていました。当時、ミカンを始めとする果樹の生産過剰や担い手の減少、過疎化、高齢化の影響を受け事業が減退し、新規地区が減少しつつありました。このため、制度改正に取り組みました。採択基準60ha以上を40haに緩和する取り組みです。大蔵折衝は上々でしたが、土地改良関係の新規事項が多く、今年は断念してくれと言うことで次年度の実現を期待して引き下がりました。2つは、建売農場方式の新規事業制度要求です。通常の農地開発は農家自らが土地を調達し、その土地を開墾する事業制度ですが、この制度は、各県にある農地保有合理化法人が土地を確保し、その土地を開墾し最小限必要な果樹棚、防風林等を設置して農場を完成し、その後、この法人が各農家に長期低利融資で貸し付け、若しくは売却する制度です。農家は、土地確保の資金が要らず、借り受けてすぐに営農が始められるメリットがある制度です。厳しい大蔵折衝の上新規制度は無事創設出来ました。こうして2年半が過ぎ、中国四国農政局の技術事務所と言う所に転勤しました。5.中国四国農政局技術事務所技術情報課長 昭和52年4月岡山にある技術事務所に赴任しました。技術事務所は土地改良事業にかかわる技術センターの役割を担っています。私は、技術情報課長として配属されました。農林省入省後10年目の初めての課長ポストです。技術情報課は、管内の新技術、新工法や技術雑誌の参考文献の収集・蓄積、これら技術情報の検索システムの開発、技術情報提供等の業務を行う課です。この事務所に3年間務め、次は、中海干拓事務所への転勤となりました。6.中海干拓事務所工事1課長、調査設計課長: 昭和55年4月中海干拓事務所に赴任しました。中海干拓事務所は、松江市にあります。中国四国農政局管内の最大の事務所で、年間予算約40億円の事業を実施する所でした。中海干拓事業は、3つの事業目的をもって進められていました。1つは、中海に5工区、合計2500haの干拓を行い新しい農地を造成すること、2つは、宍道湖と中海を淡水化し新たな農業用水を開発すること、3つは、この新規農業用水を2500haの干拓地と宍道湖・中海の沿岸に展開する水田・畑あわせて15000haに灌漑することを目的とする事業でした。この事務所の工事1課長として配属されました。工事1課は、干拓堤防の造成、干拓地区内の道路・水路の整備を行う課です。私はこの課には1年しかいませんでしたが、淡水化事業を目前に控え、淡水湖締め切りラインとなる3か所の干拓堤防を締め切ることがこの年の最大の課題でした。色々の課題が残されていましたが何とか処理し年度末には3か所の堤防締切り工事を完成しました。 次の年の4月には、事務所の技術関係の主管課である調査設計課長を命ぜられました。この課は、事務所の予算編成、関係機関(本省、農政局、島根県、鳥取県、関係12市町村、建設省、環境庁)との協議、連絡・調整、マスコミや国会対応、淡水化影響評価委員会のフォローと淡水化事業の推進、事務所内関係7課との連絡調整等を担う、大切な課です。私はその責任者として3年間この仕事に取り組みました。中でも、最も大変な仕事は、仲の悪い島根、鳥取両県の事業推進上の合意をまず取り付けることです。次に、淡水化の実施に向けて淡水化影響評価委員会の中間報告書を取り纏め、淡水化しても中海・宍道湖の水質は変わらないと言う研究成果を関係機関に説明し了解を取り付けることでした。これに対して淡水化すると両湖の水質は悪くなり環境悪化を招くとして淡水化に反対するマスコミ、両県の環境部局、宍道湖漁協、島根大学の学者に説明を繰り返し説得する仕事でした。昭和56年度は、淡水化の初期段階である中浦水門の試験運転を実施し、水門は淡水化の実施に際し全く問題が無いことが実証出来ました。57年度は、いよいよ淡水化の前段階である試行作業に入る予定でした。しかし、淡水化反対の世論が大きくなり、本省、農政局の指示を受け、強硬策を避けることになりました。58年度にかけて更に反対運動が大きくなりその対応に終始したところです。結局、淡水化の実施にはこぎつけられず大変無念な思いを残しこの事務所を去ることになりました。4月から本省に新設された管理技術班の班長としての転勤内示を所長より受けました。班長に成れるのだから所長は喜んでくれましたが、新設班で管理のかも知らない者に務まるのかとの不安のまま転勤でした。7.農林水産省構造改善局建設部水利課管理技術班課長補佐 昭和59年4月、入省して16年目で憧れの本省の班長ポストに配属されました。管理技術班は、土地改良施設の管理についての財政支援、技術指導の制度を充実強化することが仕事でした。土地改良事業は、農家、土地改良区の要請に基づき国、都道府県が事業の調査計画を実施し、農家、土地改良区の同意を得て事業が実施されるわけですが、土地改良事業完了後は、この事業によって造成された土地改良施設は、99%のが地元土地改良区の管理に委ねられます。管理の費用は全て土地改良区負担となっています。1%の施設は、国が自ら管理したり、県が管理したりする施設があり、これらは国、県と土地改良区の費用負担で管理されます。従って、管理の問題は、土地改良区が管理する施設に対する財政支援と、技術指導が大きな課題となっています。特に、国営造成施設は近年大規模化、高度化、システム化され、その操作管理に高度な技術と財政負担が伴います。これに対して、土地改良区の技術者は不足し、賦課金の増額も困難で技術的にも財政的にも管理が困難になって来ています。これでは適正な管理が期待出来なくなります。このような状況に鑑み、まず本省に管理に関する組織を作ろうとして設置されたのがわが班でした。4月に転勤した直後、上司から2つの使命を与えられました。まず1つは、この班を核として施設管理を充実強化するための室組織を作り上げること、2つは、国の施設の土地改良区管理に対する財政的、技術的援助の制度の突破口を開くことでした。室については、上司と関係各課の協力があり厳しい財政当局の抵抗にも関わらず施設管理室として設置が新年度に認められました。もう1つの新規制度ですが、土地改良区管理の管理体制を整えるための制度の創設です。即ち、国営事業完了前から地元土地改良区の管理体制強化のため、管理技術者の研修、養成、実施訓練を充実するための財政支援をする制度を創設することとなりました。管理費用は土地改良区が負担するものとの考えが強く、省内での合意形成に苦労し、大蔵省との折衝にも難渋し、夜討ち朝駆けで必要性を説明し、ようやっと国営造成施設管理体制整備促進事業と言う長い名前の制度を新年度に向けて創設することが出来ました。管理制度、組織の充実強化の第1歩が踏み出せた訳です。次の年度は、施設管理室が出来、室長ともう1班を加え2班9名体制となり少し組織は大きくなりました。この年度は、国の直轄管理をする制度の拡充、国の施設を県が管理する場合の補助対象施設の拡充、土地改良施設の修繕事業の創設に取り組みました。直轄管理は、2県にまたがる施設との制約がありましたが、1県の中でも大きな河川の流域に点在する複数のダムや堰などの土地改良施設を統合的に管理する必要がある場合には、この限りにあらずとしてこの制約を撤廃しました。この制度の1号が、兵庫県の加古川流域にあるダム4か所、堰2か所を管理する統合管理制度です。次の県管理補助は、ダムのみが対象でしたが、それに堰を加えました。修繕事業は、1か所2千万円以上の土地改良施設の修繕にかかる費用の1/3ずつ国と県が補助する制度でこの制度を創設しました。2年間で、弱小班としては良くやれたと思っています。今度は、佐賀県に出向を命じられました。8.佐賀県農林部農地整備課長、土地改良課長:  農業土木が佐賀県に出向するのは初めてのことです。昭和61年4月に農林部に赴任しました。佐賀県は、県土面積の小さな県ですが、耕地率が他県に比べ36%と高く農業が盛んな県です。このため、国営事業2か所を始め、県営、団体営の土地改良事業が盛んに行なわれていました。1年目は、農地整備課長と言うポストで、この課の仕事は、県営の圃場整備、地盤沈下対策事業等の実施と佐賀、福岡両県にまたがる国営筑後川土地改良事業事業との調整業務でした。私の主な仕事は、県を代表して予算の確保、新規地区の採択について先頭になって農政局、本省と掛け合うことでした。 次の年、筆頭課である土地改良課長に昇格しました。この課は、土地改良3課の主管課で、土地改良事業全体の人事、予算、組織管理を担い、そのほか、設計積算施工指導、調査計画、かんがい排水事業の実施等の仕事が主でした。農林部長と次長は、私を良く支えてくれ、私のペースで仕事が出来ました。国営事業2地区の採択、県営圃場整備8地区、広域農道3地区、農免農道8地区の新規地区採択を図りました。当時、佐賀県の土地改良事業は最盛期で、県営、団体営事業全体で350億円実施し、全国で5番目の事業実施県となりました。3年間。佐賀県に出向し大変いい勉強になりました。そして、多くの県職員と接し沢山の知人友人を持つことが出来たことは私にとって大きな財産となっています。今度は、国に戻り、北陸農政局の建設部次長にとの内示がありました。9.北陸農政局建設部次長: 平成元年4月北陸農政局建設部の次長に就任しました。北陸農政局は、金沢市にあります。北陸4県が守備範囲で、この4県内の国営事業の実施、県営、団体園事業の予算配分、事業実施指導を行う役所です。土地改良事業は、国営、県営、団体営を合わせて年約1500億円の事業を実施していました。次長の仕事は、特命事項として建設省との河川協議、国営事業の新規着工にかかわる業務や既に実施中の国営事業の計画変更の指導でした。石川県能登地方には、栗園を造成する5地区の国営農地開発事業が実施されていましたが、栗の値段が上がらず外国産の栗に押され事業が下火となっていました。この事業を早期に縮小し、完了を図る計画変更を行うことが必要となっていました。私は、開発課と特別チームを結成し、石川県と、関係市町村との調整を繰り返し2年間で5地区の計画変更を終了させました。もう1つは、佐渡島に3か所のダムを造成し、その灌漑用水を全域に配水する国営かんがい排水事業の新規着工をさせるべく奮闘したことです。佐渡出身の大物県会議員と一部の受益者が事業に反対する運動を展開し農家の同意作業が大幅に遅れていたので、何度も、佐渡島に渡りこの県会議員への説得や関係市町村長や土地改良区の理事長などに協力要請に回りました、幸い、何とか着工にこぎつけられました。次長は、まさに機動部隊のような役割でした。2年間の勤務を終え、本省に4度目の転勤を命じられました。10.農水省構造改善局建設部水利課国営事業調査官:   平成3年4月に本省水利課の国営事業調査官に着任しました。国営事業調査官の仕事は、課長を補佐する副課長のような役割で、国営事業の在り方の検討、予算編成、新規事項要求に際して班長さん方の指導、建設省との河川協議の調整が主なものでした。また、建設部長からの特命事項の仕事有りました。固定した仕事を持たず先ほど言った機動部隊のような仕事が主です。1年が過ぎ、課長から、4月から福島県への出向の内示がありました。11.福島県農地林務部次長: 平成4年4月に福島県の農地林務部次長として出向しました。福島県は、北海道、岩手県に次ぎ、国内3番目の県土面積を持つ大県です。このため、県内では5地区の国営事業と多くの県営、団体英事業が実施され、年間事業費は1千億円に達しておりました。土地改良の組織も大きく農地計画課、農地建設課、農地整備課の3課体制を取っていました。通常の県は2課体制です。私は、そのキャップの次長職に就任しました。大きな県でしたので仕事にやりがいがありました。2年間の勤務を終え、農林省の外郭公団である、農用地整備公団に出向せよとの内示があり、福島県を去ることになりました。12.農用地整備公団九州支社長: 平成6年4月に農用地整備公団の九州支社長に就任しました。九州支社は熊本市に有ります。まず農用地整備公団は、農水省の委託を受けて農村地域に幅延長10㎞幅員7mの2車線の大規模道路を建設し、道路周辺に展開する水田、畑の圃場整備を一体的に行う公団で、東京に本社があり、全国に4つの支社がありました。九州支社が最大の支社でした。わが支社では、阿蘇地域の牧草地域における大規模農道整備と沖縄県宮古島での地下ダム工事を併せて実施していました。年間予算は、約90億円です。支社長は、工事の契約、実施や新規地区の調査計画、諸経費の支出等全ての執行権限が与えられています。いわば、一国一城の主と言えます。支社長専用の運転手付きの車がつき、毎日、宿舎からの支社までの送迎をしてくれました。 阿蘇地域では、外輪山周辺に展開する広大な牧草地に延べ50㎞の大規模農道を新設する事業を実施していました。私のいた頃は、事業の最盛期で年間30数億の事業を実施していました。沖縄県では、宮古島で2ヶ所の地下ダム工事を実施していました。ここに溜まった農業用水を、ポンプアップして、パイプラインでサトウキビ、パイナップル、マンゴウ等の作物に灌漑するのです。当時、2か所の地下ダムとも大規模で1千万トンの貯水容量を持っていました。事業計画では灌漑する面積は7千haに及びます。これらのダム事業に年間30数億円の費用を掛けていました。更に、公団本来の大規模農道と圃場整備を一体的に行う事業は、大分県、宮崎県、鹿児島県で始まりつつあり、3県合わせて10数億の工事を実施中でした。支社長職も2年で終わり、農林省での最後の職場となった近畿農政局の建設部長への内示を本省から受けました。13.近畿農政局建設部長:  平成8年4月近畿農政局の建設部長に就任しました。近畿農政局は、京都市にあり、近畿6府県が仕事の範囲です。建設部は、これら6府県で実施される国営事業7地区の予算確保と実施指導並びに、6府県で実施される県営、団体営の土地改良事業の予算の配分と実施指導を行う組織です。年間予算、国営事業200億、補助事業1000億の 併せて1200億円の事業を実施していました。建設部長は、この総括責任者で農業土木の憧れのポストの1つです。ようやっと、国の重要なポストに就けた訳です。当時局長は、農水省始まって以来の女性局長で、土地改良については口を挟まれず、建設部に任せっぱなしで、その分、責任が重い仕事でした。農林省に入って以来、初めて郷里の地域の仕事に携われ、近畿地域の農業の発展に貢献出来たことを誇りに思っています。 平成9年3月末に、本省の農業土木のトップから、この3月末を持って後進に道を譲り農水省を退職して欲しい、後のことはお任せ下さいとの内示を受けました。遂に、農水省での約30年間の勤務を平成9年3月に終え、農水省を退職しました。上級職の農業土木の職員は、皆52歳前後で肩叩きをされることになっていました。まだ年金も出ず、今後のことが心配でしたが、後日、本省から、農水省の外郭団体である農村環境整備センターの常務理事として再就職斡旋の連絡があり、一安心しました。14.農村環境整備センター常務理事: この4月から農村環境整備センターの常務理事として勤務し2年半勤めました。平成10年9月から、中堅ゼネコンの役員としての再就職の斡旋があり快くお受けしました。15.鉄建建設(株)常務執行役員: 再就職した会社は、鉄建建設株式会社と言う中堅ゼネコンです。再就職の条件は、勤務は満年齢65才まで、給料は農水省退職時と同額、処遇は常務執行役員として言うことでかなり良い条件でした。職員数2千名、年間受注額2千億の中堅会社です。私の仕事は、営業活動を全国的に行うことです。地方の支店には、農政局地域のOBがそれぞれおり、彼らと共に、土地改良事業実施現場や、農政局を訪れ、仕事の掘り起こし活動を行い、年間、10件、15億円の仕事を受注していました。この会社に11年間務め、平成22年6月の株主総会をもって65才で退職し、すべての職を終えたと言う次第です。 農水省に入省して以来、約42年間一貫して農業土木職として働いて来ましたが、1つの仕事を、続けられたことを幸せに思っています。 以上、私の42年間の体験談でしたが、ご清聴どうも有難う御座いました。

宇治の魅力発信と財政健全化について

2018.7.19おもてなしの心でつなげるお茶と歴史文化のまちづくり宇治市長 山本正ただいまご紹介いただきました市長の山本でございます。1年間の御無沙汰でございます。今日は卓話の機会をいただいて、本当に心から感謝申し上げます。まずお話をする前に大阪北部の地震、それから西日本の豪雨、竜巻、自然災害が立て続けに来て、我々宇治市も対策本部を作ったり、避難所を開設したりしてきたわけですけども、幸いにして宇治市では死亡者はないということですが、この災害でお亡くなりになられた方に心からご冥福を申し上げますとともに、今なおまだ救助されてない方、見つけ出していただきたい。そして、まだ避難所生活をしておられますけども被災されたすべての皆様方に心からお見舞いを申し上げます。それでは、今日のテーマである宇治の魅力発信についてお話しいたします。私は宇治市長に平成24年12月19日に就任しましたが、東京や、或いはいろんな人から「宇治市はいいところだ」と言っていただきます。平等院と宇治上神社の世界遺産はもちろん、宇治茶のブームもあり観光入込客数は550万人を超えていますし、NHKのブラタモリが、これまでの情報番組の時間帯以外の時間帯に放映されたこともあり、メディアへの取り上げられ方がすごくなってきているということを、宇治市以外の方々から言っていただくようになりました。宇治市にいるとそういうことは見えにくのかもしれませんが、本当に宇治市は魅力のある市であると思っています。海外へのトップセールスは、以前に台湾、香港に行っており、今回、再度台湾に行くので合計3回目になります。以前に台湾に行ったときに、スーパーの社長から「宇治市の野菜はないか」と聞かれ、「宇治市では野菜がそろわないので、隣の久御山町に素晴らしい野菜があるのでどうか」と言ったら、「宇治市のが欲しい」と、つまり宇治市というブランドが欲しいと言われました。また、2年前の夏に香港の大使館に行った際には開口一番、「何で台湾からなんだ、一番に香港に来てほしかった」と言われました。香港の秋のイベントにも出展しないかとも言われましたが、何回も行く力がありませんので京都銀行の香港出張所にお世話になり、宣伝をしてもらうことになりました。今回も、オール宇治の商工会議所、観光協会、市に加え、平等院にもご参加いただき台湾に行こうと思っています。厳しい財政状況の時に海外かとのご意見もございますが、やることをやり、磨くときは磨き、今いいからということだけではなく、国際都市宇治市、文化都市宇治市、観光都市宇治市としてしっかりやっていきたいと思っています。今やどの都市も、観光が最大のテーマである取り組みを進めていますが、宇治市にはたくさんの素材があります。しかしせっかくの素材も磨かないと、次の世代に引き継げません。お茶の京都DMOが設立され、宇治市における戦略的拠点が宇治橋周辺ということになっていますが、宇治市としては、お茶と宇治のまち歴史公園の整備により、宇治の窓口であると同時に12市町村のお茶の窓口にもしたいということを先日、京都府知事にも申し上げました。このように魅力発信はもちろんのこと今の政策に満足することなく、文化、観光、いろんな面で他の都市よりも魅力のあるところを大いに磨き続けたいと思います。魅力ある宇治市をどう持続的にしっかり財政基盤を作るかということは最大のテーマです。宇治市だけが今、財政で悩んでいるのではないのです。将来はいつまでも国に頼るという事ではなく自立した姿勢というものが地方自治体に望まれる。どれだけ自立したことを考えられるか、その上で国の現状、連携というのが重なり合うということであろうと思いますので、我々は4年間の財政健全化推進プランを出しました。出す動機は何か。1つだけわかりやすい話をさせていただきますと、私は平成24年12月19日就任ですけども、平成20年の税収の中で、28年の決算見合いで行くと40億円減収なんです。ですから、決算見合いでは減収になっています。それからもう一方は待機児童、生活保護、義務的経費と言うものがどんどん伸びるとともに、私も子育て支援医療費というもの、高齢者政策、着実にトップクラスをねらってやってきたことも影響しております。この財政健全化に取り組むというのはなかなか勇気のいることですが、財調の基金は、毎年だいたい5億~7億くらいを出してきて、またうまくやりながら返してきたんですけれども、昨年の予算編成の時に11億ぐらい出してきました。ところがその年は前年の財政の対策で、思い切って学校施設を含めて取りましたので少し割り引かなくてはなりませんが、かなり積極的な予算を組んだということもありましたけども、それは将来への投資なども含めて意識をしてやりました。11億も財調で上げなくても例年やったらいけるはずですけども、4年か5年で枯渇するというような危機感を持ちまして、4月ぐらいからこれはもうしっかりしなければいかんと思いました。どれぐらい4年間で見積もれるのか。4年間で足らない総収入と総支出で見たときに税収の減と歳出の増により、昨年で経常収支比率が98.8%に上がっている。これは国が出す基準でだいたい75%、各市町村でだいたい90%前半から100に近い形の間ですけども、こういうことに危機感を持って積算をして参りました。予算を組む中で、4年間でどれぐらいが必要となるのか、足らないのか、これで85億円というのを見通しの中で出しました。しかし市民には理解と協力をいただかないといけないので、オープンにしようということにしました。そしてオープンにしただけでは健全化はできませんので、9月ぐらいから各部長と私と2回。そして予算編成で2回ぐらい、さらにそれ以外に2回ずつ部長とヒアリングをやりました。そのうち一番のネックはやはり市の職員の給与です。部長のヒアリングと同時に並行して労使交渉をし、私も団体交渉に出て申し上げました。退職金見合いでもかなりの減額になる賃金制度を提案しました。労働組合との交渉が成り立たなければこれをどうしょうかなと、責任を感じておりましたけれども、賃金カットではなくて賃金制度改革に合意できました。賃金カットというのは4年間カットして帳尻を合わしたらいいように見えますけども、4年後はまた上がるわけです。賃金制度は4年後も続くわけなんです。そういうものに合意をしたということです。もちろん特別職、私の本給を10%カット。それぞれの特別職もカットしました。そこで1年間に予算を組むときに歳入の増、使用料なんかもお願いをしたので歳出の減、これで12.5億ぐらいを組み立てることができました。この12.5億円ができたということでだいたい予定通り4年間行くと68.6億円というのができ上がりました。しかし85億円にはたどり着いていません。しかしなかなか85億はもう内部経費削減、その他でやっていかないと議会からも理解が得られないなという思いですけども、少し地域の経済が上がってきて税収も増になってきている状況です。従って1年目では12億+途中の補正予算で人件費が労使交渉合意したものの、1億ぐらいが補正を打てるのではないかということで、あとはいろんなことで頑張っていくとこういうことで、内部経費も引き続いてカットしていく努力をしていきたいということでございます。その総収入と総支出のうち、なぜ使用料をお願いしたかといいますと、利用している人の負担が極端に他の市町村よりも少ないんです。中には40年間上げてないというものが、この部長ヒアリングをやって見えてきたんです。将来を考えたときに利用料を本人の負担を少し上げていただいて、その分だけ税は魅力ある宇治に必要な事業とか、投資的経費、将来の財政構造に変えていく努力がいるということです。あと、公民館の使用料が無料なんです。同じような価値感でしっかり論議しなさいということで教育委員会で論議をしていただいています。これらもやはり整理していきたいと思っているところでございます。次は補助金とか、公共施設の駐車場有料化なども考えて、城陽市の市役所のようなことを考えていかないといけない。来年度以降は難しいものがあります。この85億円というものを見たときに最も影響しているのは義務的経費であり、扶助費なんです。扶助費は生活保護費とか、児童福祉の法律に基づく支援とか、市単独でやっている政策のうちの義務的なものが大きく占めています。従って動かしようがないということなんです。動かせるもので言えば一番意外に多いのは保育園です。私は待機児童対策を久保田前市政からも引き継いでかなり意欲的にしましたので、これの運営費というのはかなり上がってきていることも事実であります。高齢者対策は認知症も含めて取り組んでおりますが、高齢者対策は2つありまして、一つは介護保険で対応しているところもあるということを申し上げたいと思います。もう1つは借金がどうなっているかということなんですけれども、借金はまず国との関係。国は従来税金を吸い上げて交付金をばらまいてきたのですね。今もそうです。国もお金がないから交付金で渡す、足らない分は債権をうて。その代わり将来国が保障するという臨時対策債というのがあるんです。これは債権のうち、占める割合が5割を超えているんです。幾ら交付金を当て込んでいただくといっても5割を超える。これは他の自治体でも同じだと思います。ですから、そういうものを含めれば国との関係についても大切なことだと思っています。ある集会所のところで「国から金をとってこんからこんなことになっているのではないのか。国からもっと取って来い」と言われました。私は「いつの時代のお話をしておられるのですか。国から金を取ってきて、自由に使えるというのは全く0です。今はプレゼン能力とそしてしっかりした基盤のものを上げない限り国は許可をしないのです」と言いました。例えば国との関係はどうなのか。そしたら天ヶ瀬の再開発事業、これは治水対策で最も有効ですけども430億円。この前、破砕体が出て3年遅れで590億円、これは国と府のお金で市は0。それから塔の島のところ、35億円ぐらいで予算計上をしてやって来ています。もうちょっと下流に行くと25年の台風の時に下から降りてきたところの直す河川整備などですね、国費たるもの、宇治市が1円も払わぬものはどんどん取り込んで、石井大臣、副大臣が来られて私が説明をして十分納得していただいて全国の中でも国費の投入が多いというところです。その他は下水とか、上水道、学校のトイレの改修などを含めて国庫補助がつかない限りなかなか宇治市だけの税金でできないということです。もっともはっきりしているのが太閤堤のところです。史跡ゾーンは8割が国なんです。それから今議会でやっていただいている交流ゾーン、これは歴まち法に基づいて3人の大臣が認可すれば国庫を40%、45%まで補助する。私が市長をした時にはもうすでに用地は買われています。用地のうち、約38億円は議会からは全員賛成で議決をいただいています。そこからスタートして、いよいよどうやって宇治市の税金を少なくしてという状況の中でお引き受けをしたということなんですそこで借金のところで、しからば宇治市の先人達を含めて今の職員がやっている事で今度は良い条件のお話をします。将来負担比率は0。これはKTRとか、地下鉄、病院その他いろいろなものを持って、将来負担比率、高いところはかなり高くて、これは宇治市は0なんです。ゼロということは全く経営が良い。それから実質公債費比率。これは2.1%で、八幡市、長岡京市に次いで3番目です。いい内容です。一番悪い宮津は16.1%、隣の城陽市で9.5%、亀岡で11.3%、これも毎年、財務省の京都の方がお越しになり、実質公債費比率、財政健全化判断比率、その他はよろしいが、あと財調がどうなんですかということで指摘を受け、これは今からどうやって財政の構造を変えて将来に備えるかという準備をしているということなんです。決して宇治市の市長のポケットマネーにこの利用料が入ってくるわけではないので、構造を変えて利用者に負担してもらいながらしっかり将来に備える。家計でもそうです。赤字になってから赤字補填するのはしんどい。借金側で健全な時にこの財政構造を変えていく。私自身、宇治市の市長になってから人事監1000万円ほど、水道事業管理者1500万円カットしました。200人の管理職、そのうち30人の主幹クラスを廃止しました。それからもう一つは退職金が400万、公民間格差が高い。これも市長になりたての時にやってきました。やれることはしっかりやっていきたいと思いますし、今後とも職員の給与はどのくらいの位置でいいのかということはしっかり踏まえながらやっていきたいと思います。それから市民にお願いを。今やっているのはどういうことかと言いますと、公平性の観点が一つ、利用者の負担と税で負担の見合いを見直す。それから二重に投資になっているもの、これは一部保育のところにあったんですが国が新しい制度をやるとともに市のほうはそのままおいといたら肥太りみたいなところがあるので、これを整理し、カットをさせていただきました。それから直接現金、その他を渡す事業もカット対象にしました。それからイベント、これは10年も20年も同じことをやっていて成果があるのか。だからイベント2年に1回にするとか、廃止するとか、統廃合するというようなことです。そういうような現金で渡したり、二重になっているものを今、整理をさせていただいているということでございます。中には好景気になれば税収が上がるので85億は数字を動かないとあかんやないかということですけれど、これは良い方向に向けばプラスとして理解する。そこで1年ごとに進捗管理をしますけれども85億円の数字が70億円になったり、60億円になったりという考え方はしておりません。そういうことで4年間仕上げてしっかりやりたいと思っております。自治体もあえいでいることも間違いないんです。今財務省と総務省の戦いが始まっています。ここ3年ほど。国は、赤字国債を押して地方にお金を渡したら、これが財調という基金に積み上げているところがある。そのため、財調の基金の多いところは交付金を減額するというようなことを言っているんです。市長会のほうは、行革やら、いろんな努力で財調を積み上げるのは残すためにやっているのではなく、昨今の災害のときに金がなければ何一つも手だてができないという意味の財調の基金、これは溜めすぎると問題だけれどもやはり適正な額というのは財調には必要。こういう考え方で総務省を通じて市長会で戦いがされている。しかし昨今、財務省というのはかなり厳しい。我々としては地方自治体が血と汗を、そして市民の皆さんの努力で積み上げて来て財調に基金化しているのは、将来を考えて災害時なんかも本当にお金がなかったらできないからなのです。この前、ブロック塀23ヶ所対応を幼小中学校でやったんです。宇治市がトップです。危険なブロック、法的適正でないブロック。これには6000万円必要。財政健全化のときに6000万円なんて大変やろうと言われるけれど、そんなもの、現地に行くと木幡中学なんかブロック塀が波打ってるんですね。こんなもの地震どころではない。だがそういうところに目がいってなかったのが正直なところです。昨日、京都新聞のある記者に聞きますと、市町村で宇治市さん一番早かったということで一本やられたなという市もありますよということだそうです。6000万という決心は大変でしたけれども、会期が1週間ぐらいに控えているときに議会に提案しなくて予備費で9月補正なんてことはするな。議会に意見をもらえ、6000万も予算を出そうやないかということで出したんです。まだその他にもいろんなことをしなくてはと思いますが、いずれにしても金を使いすぎたから、金がなくなったとか、そういうような見方もあるようです。そういうことではなくて、構造的に国と地方の関係、人口が増えるときと同じ考えで公共施設を作ってきた。だから公共施設も総量を今後30年間で延床面積ベースで20%カットを目標に計画を作りました。そういう理にかなったことを、しっかり財政構造を今のうちから変えていく。赤字になる前から。これが最も大事ですので人気が悪かろうが、もう叱られようが、将来を考えたら必ずこのことは大事なことだと私も思い、いろんなところで説明をしております。しかしよくよく考えて欲しい。将来、孫の時代まで借金をどうするかということを考えないかん。人口が増えてきたときと同じことをしていたらどうなるのか。このようなことを何回も言い、各部長とも、もう本格的に危機感をもって共有しています。そういう意味で今日はお願いみたいな話ですけれども、もし、そういうご意見がありましたら我々意見を汲みとめて、直して行かないといけないことはどんどん直していきます。けれども財政のことはそういう考え方でやっております。すべてのことを十分お話ができなかったかもわかりませんが、ご理解とご協力を賜りたいと思っております。お時間をいただきありがとうございました。