横綱の品格

2019.5.16


同志社大学名誉教授

瀧田 輝己

皆さんこんにちは、瀧田でございます。京都南ロータリークラブに所属しております。今日はよろしくお願いいたします。今日は横綱の品格というテーマでお話させていただきたいと思っています。最近横綱の品格についてはいろいろなところで物議を醸していると思います。相撲と言いますと日本では国技と言われています。正確には国技ということではないんだそうです。法律に相撲は国技であると謳われていることはどこにもない。しかし、一般に国技というように思われているということは言えると思います。それでお相撲さんを見ますと非常に力の強い、けれども、心のやさしい、そういうイメージをどなたもお持ちだと思います。確かにそういうお相撲さんは多いと思います。非常に親しみを持っているお相撲さんなんですけども、その中で横綱ということになりますと厳かな思い出をもって、私たちは接することが多いと思います。例えば、幼いお子さんを抱いてもらったり、あるいは頭を撫でてもらうとその子は丈夫に育つというようなことも言われていますし、そのように私たちも思っています。もともと相撲と言うものの興りは神事であると言うことからそういう厳かな気持ちで崇敬の念を持って横綱というものを見ている。尊敬している。

ただ最近ですね、その横綱についての品格の問題がいろいろと取りざたされている。これも皆さんご存知だと思いますが日本相撲協会理事長の横綱審議委員会で、ここのところで最近の横綱の立ち合いがどうも品格がないと指摘されました。どういう立ち合いかと言いますと張り手、私たちの日常用語でいうとビンタを頻繁に使って立ち合いをする、或いはヒジでかちあげて立ち合いをする。そういう相撲が多いので品格がないんじゃないかと言うこと。そして品格を持つことによって相撲が美しくなるはずだということをいろいろな公の場で話をされた。これが事の発端だと思います。これについては賛否両論と言いますか、意見がいろいろわかれまして、ある考えの人たちは相撲のルールでかち上げだとか、張り手は禁じられていないからルール違反ではない。こういう立場で立ち会いについての批判を反論する、そういう方たちもいます。

もう一つの立場は相撲のルールにはないかもしれないけれども横綱の相撲としてはふさわしくない、品格がない。張り手やかち上げについては改めるようにということを主張しているわけです。この二つの立場に、一口で言ってしまえば別れているだろうと思います。ただ、この問題はよくよく考えてみるとこの二つの言い分と言いますか、主張というのは決していつまでたってもかみ合わない議論ではないかというような気が私はしました。そんなわけでちょっとこの問題について考えてみようということで今日お話させていただきたいと思ったわけです。ただしこの問題については、これを基調としていくつかのこれに関連する文をエッセイにまとめまして、近い将来、公刊したいと思っております。今日、お配りしたレジメの三枚目にこの「横綱の品格について」という基調文を最初に載せまして、それを「美しさのこだわり」とか、「強者と弱者」とか、それから横綱という地位の「私的ポストと社会的ステータス」という、問題、或いは一番表面に出ている論点であります「ルールについて」の四つのテーマに分けて24編のエッセイにまとめて公表しようか、公刊しようかと考えております。

今日、お話しますのはそのエッセイ集ではなくて、その内の最初の基調文についてかなり端折ってお話させていただくことになろうかと思います。エッセイ集『横綱の品格』についての基調文、この部分をまとめてお話します。

物議の問題提議についてでは、大きく分けますと四つのポイントにわかれると思います。一つは今言いましたように物議の発端ですね。これがどういうものだったか、なぜ横綱審議委員会がこういうことを横綱の相撲について言えるのかということです。それからもう一つはルールに反してないということですけども本当にルールに反してないといえるのか、この点ですね。それから三番目は相撲の美しさと言ってますから、その美しいというのはどういうことなんだろうか。特にエンターテイナーではないわけですから相撲取りというのは、力士は。ですからその美しいということの意味はどういうことなんだろうかということです。それから四番目は一体横綱の品格と言う場合の横綱というのは私たち何を想定しているんだろう。目に見えない横綱一般の事を言っているのか。それとも具体的にある横綱のことを頭において品格がないとか、あるとかを言っているのかと言うことです。

横綱、一般について言うということはルールというか、横綱の概念といいますか、そもそも横綱像とはどういうものかということは人によって違うだろと思うんですが。その次元で横綱に品格がないとか、その相撲は美しくなければいけないとかということを考えているのか、あるいは特定の横綱を、つまり具体的に顔の見える横綱を頭において、品格がないとか、あるいはルールに反しているんじゃないかとかと言っているのか、ということになろうかと思います。いずれにしてもこの四点.非常にそれぞれ考え方、ここにおられる皆さんもそれぞれ考えが違うと思いますが、一つの考え方として聞いていただければと思います。

本題に入る前に、共通認識として、横綱の由来について触れておきます。横綱の由来なんですけども、これも皆さん多分ご存知の方多いと思います。もともとは横綱というのは番付上の地位ではなかったということです。大関が一番上の位であって横綱というのは番付の上での地位ではなかった。これが江戸時代、相撲を司る家系の吉田家、吉田司家とよく言われますが、この吉田司家が江戸時代でしょうか、相撲を歌舞伎とか、そういう芸能と同じようにもり立てよう、相撲というものの人気を集めようということで華やかな部分を今でいうとプロデュースすることで品格のある、当時は品格があるとはいってなかったようですけども、人気を集めそうな、歌舞伎で言えば団十郎のような、そのような力士については化粧まわしの上に白い麻縄で編んだ綱をつけて土俵入りを行わせる、こういうことをしたのが横綱の発端だそうです。その縄が、当時「横綱」と言ったんですけども、神事であるということと重ね合わせて七五縄のような意味合いが持たれるようになってきたらしい。ですから、当時は横綱大関、或いは関脇の人もいたらしいから横綱関脇、要するにスターですよね、今で言うと。スターにして興行を盛り上げようということで始めたのが横綱の発端だということです.                     

ただこれについて、皆さんご存知のように江戸時代のあの雷電為右衛門は、技量力量抜群だったらしいですけども横綱になれなかった。調べたところによりますと254勝10敗。これが生涯の成績なんですね。9割6分2厘の勝率。優勝回数28回、これは当時、年に何場所あったか知りませんけども相当な強さだったらしいです。197cm、169キロ。今の白鴎よりもちょっと大きめぐらいでしょうか、そういう体型の雷電為右衛門、浦風という力士の一門に入って、初代横綱の谷風、吉田司家から横綱を任命された谷風の内弟子として送り込まれたらしいんですが、これが横綱になれなかったというのです。何故なれなかったのか歴史家の中で間でも非常に謎らしいんです。ただ言えるのはこの雷電は張り手が非常に強くて、多くの相手の力士にけがをさせたということがあるらしいんです。それなので多分雷電に限っては張り手を封じて、雷電個人に対して張り手は得意技なんだけども、それを封じることを命じました。そういうことがあって多分横綱になれなかったのではないか。風格がないというか、品格がないというか、そういう非常に荒々しいイメージがあったのかな、本当は違うらしいんですけどもね。そういうイメージで横綱になれなかったらしいということのようです。

そこで、相撲のルールなんですけども、スポーツだけではなく勝負をするということであれば、どういうふうになれば決着するのかということがまず基本にありまして、相撲は数あるスポーツの中でも最も単純シンプルなスポーツです。土俵の外に出たら負け。それから土俵の中では膝から上が着いたら負け。それだけしか勝負をつけるルールはありません。ただ禁じ手があります。禁じ手はこれもできるだけシンプルがいいだろうということで八つ。

・まずナックルパートで相手を殴ってはだめ。握りこぶしではだめ。

・まげを故意に引っ張っちゃだめ。

・目とかみぞおちを突いてもいけない。

・両耳を両手で貼ったら同時に張ったらいけない。こういうルールもあるらしいです。

・まわしはたてみつというのがありますね、後ろから前に回す部分。そこを引っ張っちゃいけない。横から手を入れてはいけない。

・のど輪はいんですけども、喉をじかにつかんじゃいけない。

・蹴りもいけないですね、胸とか。

・1本指2本指を裏返しにすることもいけない。

この八つが禁じ手としてあります。先程言いましたルールに反しないというのはこの八つに反してないということ、そういう意味で言っているものだと思います。今のルールは力士に適用するルールなんですけども横綱に関しては特別に私は「命じ手」と呼んでいるんですけども、品格規定があります。五つあります。

・相撲に精進する気迫

・地位に対する責任感

・それから社会に対する責任感

・それから常識のある生活の態度

・そしてまたは横綱として求められる事項。

これら五つを求めているんですね、横綱には。特に横綱になるためにはこれを守りなさい、これを求めているのが吉田司家からバトンタッチして横綱を推挙することになりました審議委員会ですね。そこが横綱に推挙するための基準としてこの五つを品格基準として挙げました。横綱としてふさわしいかどうか判断する目安としては日常の生活を観察したり、師匠の証言、こういうものを参考にして判断するとしています。

大関が横綱になる時に現在伝達式というのがあります。協会から使者が来て横綱に推挙されました、ということを本人と親方に伝え、本人は謹んで受けますという口上を述べます。あの時に必ず異句同音に「横綱としてふさわしい相撲を取ります」と言うことを宣誓するわけです。この意味は結局、もし自分に品格のない、品格基準、命じ手に反するようなことをしたら、いつでもそれは封じ手にしてください。或いは横綱として「引退します」はきついですが、封じられても仕方がないと思いますと言うことを誓ってるというふうにも解釈できると思うんですね。こういう命じ手があります。

それから封じ手、これはまたは個別的な個人の力士に対する禁じ手ですから下手をすると魔女がりのような、あるいは非常に過酷なハンデを負わせるようなことになります。得意技を封じられるわけですから。そうするとスポーツとしてのその公正性という意味で大分印象が悪くなりますので特にはこういうルールは明文化されてないんですけども、先程の伝達式で口上、そういうものの中におそらくこういう封じ手といいますか、封じ手が謳われているだろうと言うことが言えると思います。この品格の中には当然のことですけども取り口だけではなくて勝ち誇ったようなガッツポーズや、或いは不必要なだめ押し、あれはとどめと似たような感じがするんですけども、武士道の中で言われているとどめというのは相手が苦しんでいるのを少しでも苦しみをなくしてあげようという意味でのとどめだそうですね。思いやりが根底にあるということなんですね。品格がない相撲というものの「だめ押し」はそれではないということでこれも品格がないだろう。

それからファイト満々でいいんですけども制限時間いっぱいになった時に塩を取りに行くときの所作ですね、闘志満々というような所作、若い力士も沢山やっています。これも見た感じがあまりにも品格がなさすぎる。いうことでこういうことも命じ手に反する。特に横綱の命じ手に反する。言うことになろうかと思います。取り口ではないんですけども日常の生活態度ということが非常に重要になりますからこういうものも反するということになろうかと思います。

次に、この横綱の品格についての物議の中でもう一つ考えておかなければいけないのは横綱ならば品格がなければいけない。或いは美しい相撲を取らなくてはいけない。或いは美しい相撲を取るためには品格を持たなくてはいけないというようなことになるんですが制裁と同情心、この二つの見方が今の物議の中では立場を二つに分けてしまう部分であろうかと思います。そもそも横綱というのはどういうものか、理想の横綱像を頭に描く場合.或いは頭に横綱像を描くにしても横綱だって人間なんだからという、そういう感覚で等身大の横綱を描く場合、こういう二つの立場がございます。それとは別に個別的に顔の見える横綱を頭に置いてどうなんだろうかという見方も合わせて三つあろうかと思うんです。

それで最初の二つは横綱だったら品格を持たなければいけない。品格を持てば相撲は美しくなる。この範疇でのはなし。それに対して今の横綱はどうなんだろうかいうのは特定の具体的な顔の見える横綱について私たちが判断している場合。こういう分け方になろうかと思います。

当然ですけども理想の横綱像を横綱ならば品格を持たなければいけない。その相撲は美しくなくてはいけないというのであれば、これは当然厳しくなりますね。少しでも品格がなければ厳しく制裁を加える、サンクションを加える。こういう考え方になっていくと思います。しかし等身大の横綱を横綱と考えるような立場であれば横綱だって人間なんだから多少は生身の体ですからということで少し寛大な気持ちになってこの問題を考えるという立場になろうかと思います。

ただ、これはあくまでも横綱というものはどういうものかという、我々がどういうイメージを持っているかという話ですね。それに対して3番目は具体的にこういう力士を横綱と見ている。個別的特定の力士が今いった理想的な横綱と比べてどうか、或いは等身大の横綱と比べてどうか、こういう話になりますね。

私たちの正義感というのは大抵の場合、規則だけのレベルで考える場合は厳しくなります。特に横綱のようなステータス、角界を代表する立場であるということですと非常に理想的な横綱像を描きますね。それと比べて現実の横綱はどうなんだというような形になります。だから厳しくなります。それに対して等身大ですとまあ、人間なんだからということで、多少寛大になりますね。

もう一つ具体的な横綱ということになるとどうしても顔が見えますから、よほど嫌いな横綱だったら別ですけども顔が見えますからまあそこまで言っても酷だろうという気持ちが持ち上がっていきます。そんなわけで、この物議は自分がどういう立場の横綱を想定しているのか、或いは見ているのか、思い浮かべて言っているのか、いうことで厳しさが大分違ってくると思います。しかし一般の力士と違いますので横綱は相撲界を代表する力士ですのでどちらかというと厳しめに横綱というのは立派な人格者なんだということが多いかなと思います。ルールだけの考え方でいくと罪を憎む、人を憎まず罪を憎む、あの精神ですね。ルールだけでは厳しくなります。しかし個別的な横綱を頭に浮かべると人は憎まない。罪は憎むけども人は憎まないというような気持ちがどうしても私たちの正義心には浮かび上がる、湧き上がってくる。

それから、横綱の相撲の美しさなんですけども相撲の美しさというのは、スポーツは何でもそうだと思いますがフエアープレーとそれからはファインプレー、それからナイスプレー、この三つが求められると思います。フエアプレーは公正なルールに従って。ファインプレーというのは技がすぐれているというイメージであると思います。ナイスプレーというのは見事な、立派なというような意味だろうと思います。この三つを合わせるとその最小公倍数として美しい見事なプレーというのが生まれると思います。ですから美しさというとこの三つが要素になるかと思います。それで、この三つの要素を最小公倍数ではなくて最大公約数を取ってみるとやっぱりそこには日本の場合ですから、日本の国技と言われているものですから礼儀と品格というものが煮詰めていくと出てくると思います。礼儀も品格も両方とも大事なんですけど、どちらが優先かと言えば礼儀がまずあって、それから品格となろうかと思います。特に番付があって格下と格上が明快になされているものについては、格下のものが格上のものに礼儀を尽くすというのは当然なんですけども、格上のものが格下のものに対しても非礼を侵してはいけない、ということもいえると思います。むしろどうでしょうか、格上のものが格下のものをあなどるようなことをすれば格上だから許される問題ではなくて、余計に品格のなさを露呈してしまうように思います。そういう意味で美しさということについてはこの三つの要素を格上であろうと格下であろうと備えていなければいけないんだろうということですね。

最後にもう一つ大事な点は国際化ですね。剣道、柔道、相撲道を三大武道と言いますけども、あと空手道というのもありますが、国際化を行ったのは柔道。剣道は国際化を非常に躊躇しているという話を聞きました。柔道は国際化のためにどういうふうに変わったかというとまず柔道着が変わりましたね。生なりの白色だったんですが、観やすいように、観る人の目にわかりやすくするためにブルーに染めた。私たちは生なりとか、白というのは非常に厳かな、そういう神聖なものというイメージがありますね。特に濃い色のついたものは邪悪というか、そういうイメージがありますね。

全国の神社の神馬といいますのは、ほとんど白い馬ですし、「白黒決着つける」というと白は正義で黒は邪悪といい、悪というイメージがどうしてもあるものですから、最初、ブルーの柔道着を見たときは妙な感じがしました。だけど、これは国際化ですけども柔道の内容には影響ありません。観る方の問題です。問題なのは作りなんですね。柔道着の作り。袖を非常に掴みにくくして、これは引き手というんですけども、これを掴みにくくした細身の柔道着にして、たっぷりとした柔道着ではなくて、そういう作りの柔道着で試合に臨む選手が国際化の影響で出てきました。そうなるとなかなか綺麗な技というのがかかりにくいわけですね。引き手と釣り手を合わせて技をかけるわけですから。

あとはそうなるとポイントを稼ぐ試合運びになる。ポイントを稼ぐということであれば相手がすぐ指導というポイントを取られればそれだけで試合時間切れて勝ってしまうわけですからもう技をかけて綺麗に決めるなんていうことではない。ポイントを稼ぐという戦略に内容が代わって来てしまう。そこが柔道の悩みのところでもあるわけですね。こういうのを見ているから剣道はどうも国際化に躊躇している。

相撲の国際化もあるんですね。ただ柔道の国際化というのは内から外へ出て行く国際化なんですけども相撲の場合は外を内に合わせさせる国際化なんですね。ですから大変難しい。国際化で内に合わせる国際化というは非常に難しい。  

これはどこか違う、何か違うものが感じられる。京都の人が東京弁を使うと江戸時代の町衆が使ってたようなイントネーションで話をするからどこかが違うというふうに言われてしまう。東京の人が京都弁を使うと何か幕末の祇園言葉みたいな言葉を得意そうに使うという、どこかやはり地元の人から見ると違う。「そんなのとはちょっと違うんだよね」と言われるような、そういう印象を持ってしまう。そんなんで外をうちに合わせる国際化というのはどこか違う部分がハリボテと言いますと失礼かもわかりませんがどこか違うような伝統と言いますか、何か所作にしても、ちょっと違うなと感じてしまう。

そこで結論としてこの問題では相撲の将来にとって有意義な議論にするにも私は少なくとも三つ整理する必要があると思います。

一つは横綱らしさというものを理想の横綱の像に求めるのか、等身大の横綱像に求めるのかということをきちっと整理する。それから逸脱行為に対してサンクション、制裁を与えるのか、同情するのかということ。これもきちんと整理する。それから横綱の将来を、その後の将来を考える時に国際化というのは必要なのか、伝統主義でいくのか。この辺もきちっと整理をする必要があるかと思います。

横綱というのは理想の横綱像になる、最高位ですから理想の横綱像として考えるのは当然だろうと思いますね。それからサンクションを与えるかどうかということについても理想の横綱像であれば、これはやはり厳しくもし逸脱すれば制裁を加えるということがありうるだろうと思います。

それから一番大事な点は、そういうことはあるんですけども目的と手段との関係をきちっと整理しないと美しい相撲を取るのが目的で、そのために品格を持たせるというような言い方ではなくて、礼儀とそれから品格を持てば結果として美しい相撲が取れるんだというような観点で話をしていかないと、どうしてもそれじゃ禁じ手として張り手とか、かち上げを禁じればいいだろうと、いうと今度は両手ならばいいか、サポーターを着けた肘なら良いのか、グーじゃなくてパーならばいいのか、片方の手ならばいいのか。そういういたちごっこが始まる可能性がありますから、これは目的を定めて手段を決めるというのではなくて、手段の方をきちっと固めて日本の伝統ある相撲を涵養していくということにすれば自動的に品格のある横綱というのが生まれるだろう。自動的に生まれるというためにはこれもありきたりのことかもわからないけども周りがこうしろ、ああしろという権威に基づいて命じるのではなくて、そしてまた制裁を裏付けにするサンクションと先程いいましたけども、制裁を裏付けにして禁じるというのではなくて、やはり横綱自身が本当に自覚を持って美しい相撲というのはどういうものかということを自覚しなければいけない。その自覚するためにはきちっとした涵養する期間というか、それが必要だ。そうしないとどうしても何となくどこかが違うんじゃないかというような品格と言いますか、そういうもので形だけの品格に終わってしまうような気がしてなりません。私が言いたいことはそういうことです。どうもありがとうございました。

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