2019.3.28
京都鶴屋 鶴寿庵 京都洛中RC
八木喜久男
皆さんこんにちは。今日は伝統ある宇治鳳凰ロータリークラブのスピーチに寄せていただきありがとうございます。大変光栄に存じておる次第でございます。ただ今は高橋さんからご紹介がございましたように、私は京都洛中ロータリークラブの創立以来のメンバーで40年になります。高橋さんはこの度叙勲をお受けになられまして誠におめでとうございます。親族といたしましても大変光栄に思っている次第でございます。これからも十分お元気でご活躍されんことを心から望んでおる次第でございます。今日は「八木家と新撰組」というお話をさせていただきます。私は10年ほど前に八木家と新撰組の書籍を表しました。新選組は最近雑誌やテレビ取り上げられ、忠臣蔵を凌駕する勢いで大変な人気でございます。上洛将軍家茂を守る浪士隊(後の新撰組)なぜ京の壬生へ来たか、しかしその新選組の話はかなりの時間が必要になりますので、どのような生活、活動をしたかをお話をしてみたいと思います。
皆さんは子母沢寛という作家をご存知だと思いますが、その作家が我々の方へ昭和の初めに参りましてくまなく取材をいたしました。
そして、新撰組遺聞 新選組始末記の2冊の本が出ました。今、新選組を書いている作家は沢山おられます。もう何人おられるかわかりません。あの本は後の作家の皆さんに本当のバイブルといいますか、根本になって小説を書いたりいろんな事を言ったりしているわけです。ご存知のように他の人と同じことをしててはだめなんですね。特に作家は。それを皆さんはいろいろと研究し捜し出してそれまでとはちょっと違うことを書くことによって“アーこういうこともあったんだ”というような書き方が非常に多いですね。私の方へも現代の多くの作家や関係者の方々がお見えになっておりまして、お話させてもらいましたが、中にはちょっと違うなと思ったことも沢山ありました。まあそういう面からお話をしたいなと思います。
先ずはじめになぜ浪士隊が京都壬生へ来たかということでございます。文久3年(1863年)で、今から120年あまり前ですけれども、14代将軍徳川家茂上洛ということになりまして、それまで上洛した将軍は三代家光以来200年あまりありませんでした。普通上洛は旗本始め、大きな組織を組んで上洛しますがもうそういう余裕や時代じゃなくなっているんですね。明治維新は文久、元治、慶應、明治となりますから後10年もないわけです。ペルーが浦賀へ来てから非常に国が変わってきました。
それで上洛将軍警護を目的として浪士隊が集められました。今の東京文京区小石川の伝通寺というところでした。伝通寺と徳川家とは非常に縁があるのです。と言いますのは、こういうことを言う人はほとんど居ないと思いますが、伝通寺は徳川宗家初代家康、その母(於大の方)がまつられているところです。ちょっと話がそれるかもしれませんが不幸にして家康(竹千代)が3歳の頃、戦国の世ですから故あって父母と別れて人質に出されます。そして母親は松平家を離縁されます。家康は一時織田家の人質となりますが人質交換で今川家へ行き、ずっと長い間人質として過ごしたわけですけども、桶狭間の一戦で今川義元が亡くなってから織田家につきます。その時、母親を手元に置き終生大事にしたといいます。時代も変わり、豊臣秀吉も斜陽になっております。実権は徳川家康が持つことになりまして、江戸は2代将軍秀忠に任せ、自分は京都伏見城で政務を見ていたわけです。その伏見城で母は亡くなります。その時に伝通院という号を与え、その霊を弔うため江戸小石川にお寺を建立したのです。初代宗家を生んだお寺で14代宗家を守る人たち、浪士隊が集められたことは私は作家でも何でもありませんがあまり聞いた事がないんですね。何か因縁みたいなものを感じます。それはそれとしまして、200名の浪人や多くの人が一獲千金の夢見て集まってきます。ずっと中山道を通りまして京都洛西壬生村へ入ります。
なぜ壬生へ来たかということなんですが私から五代前の当主は八木源之蒸でございまして八木家は代々郷士、地方役人(じかたやくにん)を司っておりまして、どのような役目かと簡単に申しますと幕府からの伝達、または壬生村や近隣の村の要望などを受け、双方に伝達や仲介をする大変重要な役をしておりました。そのような地位関係で幕府所司代からの一時浪士隊を預かって欲しいとのことであったと考えられます。と言いますのは最初は突然200名近い人たちがやってきて家を貸せという。大変不思議に思っておりました。私どもの公文書紐解いてみましたら地方役人の文章数点出て参りまして、これでそやなと思いました。現在壬生は我々の近辺以外は勿論変わりましたが当時、壬生郷士であった家が10軒ありますが代々地主は小作農でそれぞれ由諸を持ち、苗字帯刀が許されていました。別名壬生住人士と呼ばれ、門構えで武家風の屋敷でした。浪士隊にとって丁度もってこいの場所でもありました。静かな農村屋敷町で有りましたが大変なことでありました。私のほうは時の浪士の中でも幹部連中、トップクラスで例えば芹沢鴨、新見錦、平山五郎ら5名、そして近藤勇、土方歳三、沖田総司、藤堂平助、原田左之助ら8名、計13名を家で預かったわけです。他は皆それぞれに分宿しておりました。ところが1週間程したら皆を引っ張って参りました清河八郎という人が新徳寺という禅寺に浪士を集めて“我々はもう江戸に帰る“と告げます。清川は極端に言えば、実は勤皇方の人でした。それを隠して京都へ来たのです。所がうちに居た芹沢鴨、近藤勇はじめ13名は“いや、我々は京に残る。皆とは行動をともにしない”ということで皆と別れたその13名がうちに残りました。その人たちが後の新選組の幹部になった訳です。しかしその食いぶちと云うものがありません。芹沢鴨は、水戸天狗党の脱藩浪士として近藤勇、新見錦、土方歳三を引き連れ、黒谷の京都所司代松平吉保のもとへ何とかして欲しいということで直談判に行ったわけです。皆さんもテレビなどでご存知のように大名や所司代に拝謁する時は単なる紋付羽織袴ではだめなんですね。みな裃を付けていく訳です。彼らは着の身着のままで来ておりますからそういうものは持っていません。我々壬生郷士住人士は古くから日本に伝わる行事や儀式を司り継承してきました。ある時は裃、あるときは素襖長袴、又は紋付羽織袴と儀式によって着るものが違います。先の4名は我が家の家紋の付いた裃を着用して所司代のもとへ参りました。そして松平肥後守お預かりと云うことで自分たちの生計が立てられることができたのです。大変喜んで帰ってきたそうで、その日は皆ドンチャン騒ぎで、お酒は壬生と関係深い伊丹の白雪だったそうです。
先年の NHK の大河ドラマ新選組で、芹沢が暗殺されてから新選組と名乗ると有りましたがあれは偽りで、お預かりに成ったときすぐにうちにあった木の板を出入りの大工に削らせ、松平肥後の守預り 新選組宿 と芹沢がしたため、北側の門柱に掲げました。その喜びようは大変だったようです。衣装も水色でだんだら模様がありますね。ある人があの色は死装束だと言ったんですね。関係ないですね。あの水色は、昔から壬生は湿地帯で今でも素晴らしい水が出ます。家でも地下40m から汲み上げています。今も郷士の儀式に客人を招く時、家紋のついた白・水色の二段の幕を門に掲げてお迎えいたします。水色は昔から壬生を代表する色で各家は各々の紋所でこの幕を使用しました。壬生で生まれた新撰組はその水色を借用したのです。装束を大丸で、誠の旗は高島屋であつらえたと言われていますが大河ドラマの時、両店はその証拠があるか調べたそうですが双方とも出てこなかったと聞いております。装束や旗や幟ができた時大変な喜びようで当方の門前で各々旗を投げ回し、大変なにぎわいだったと分家の叔母が祖父の源之蒸から聞いていたそうです。こうして新撰組が発足したわけです。そして早速隊員を募集いたしました。そうすると先程申しましたようにいろんな人が集まってきやはります。武士で関係ない人も。そして何人か集まったそうです。ところが隊が乱れるわけです。それでご存知のあの厳しい局中法度をこしらえ、争いごとをするな、借財するな、隊を脱することを許さずとか、それをやれば皆切腹だと厳しい取り締まりをやったわけです。芹沢鴨は水戸の脱藩浪士新道無念流ですから剣が立ったんですね。普段めったに刀は抜かなかったようで.いつも鉄線で裁いていたそうです。
一旦刀を抜けばそれはすざましかったそうです。祖叔父がそのように聞いてい
たようです。所がお酒が非常に好きで、少し過ぎると酒乱というか、人格が変わった様になる。これは仕様がないと思えるんですけれど、“文武両道の立派な武士だが酒さえ控えたならなー惜しい人物だ”と厳祖父八木源之蒸言ってたそうです。ということで今度は芹沢が邪魔になってきました。所が局中法度に照らすことは絶対出来ません。それである夜、島原で会合がありました時に泥酔して戻って参りました。その夜、祖母が源之蒸が隠居所へ行っておりましたのでたまたま隣の座敷で寝ておりました。雨の降る日で京都は9月でも夜、蒸し暑い雨が降る時があります。源之蒸の帰りが遅いのでなかなか寝付かれませんでした。すると庭先に何か人の気配がし、ああ、帰ってきたと思ったそうです。しかしその気配がすーっと消えたんです。おかしいなと思いがついウトウトとしていたら、突然大きな悲鳴が聞こえた。それが暗殺でした。そして10畳と六畳部屋で6人が寝ておりました。そこを土方歳三はじめ、近藤勇一派の剣豪たち5、6人が泥酔して寝ていた者を襲うと言うやり方で暗殺したのです。6人のうち2人逃げましたけれど女性2人が入っていますが結局4人殺されました。平山五郎は 一刀両断のもとにやられていますがしかし芹沢は大変な剣豪でしたので一太刀浴びて隣のお祖母さんの寝ているところで逃げて参りました。しかし折悪しく置いてあった文机につまずき倒れ、そこを数人が寄ってズタズタにやられました。祖母さんはそれを目の辺りにしたそうです。
夜が明けて大変だということで大騒ぎでした。芹沢の遺体を安置するために抱き上げたところ、そしたら首がポロッと落ちたと私の祖母が聞いていたそうです。それくらい悲壮な事件でした。芹沢がもし助かっていたら大変なことで幕末の歴史も変わっていたかもしれません。池田屋騒動はどうして起こったのか、なぜ伊藤甲子太郎を暗殺したか。近藤勇と酒を酌みかわして肝胆相照らしながらその帰りに惨殺したのか、その手口だと我々の常識から解せないところがあります。それだけ厳しい時代であったのだと思います。彼らは足かけ3年居りましたが隊士が増えたので壬生では賄いきれないということで西本願寺の太鼓判所へ移りましたが壬生は無防備で危ないと言う理由でした。しかしそれも半年ほどで今のロイヤルホテルの辺にすぐに伏見奉行、そして江戸へと移ります。新選組にとって壬生の3年間が最盛期であったように思います。ちょうど時間が参りました。新撰組初期のお話をさせていただきました。とりとめのない話だったかもしれませんが本日はご勘弁いただき、また機会がございましたらお話させていただければと思います。ご清聴どうもありがとうございました。
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