2019.2.28
僧侶 酬恩庵 一休寺住職
田辺宗一
皆さんこんにちはただいまご紹介いただきました田辺でございます。どうかよろしくお願いいたしたいと思います。林さんとは城南高校の同窓会でご一緒でして私の方が老けて見える。先輩のように見える。私の方がずっと後輩でございますので、そのご縁でお招きをいただき大変ありがとうございます。お手元にパンフレットとそれから一休禅師が読まれました歌、道歌と漢詩、そして年譜がございます。後ほどそれをご説明いたします。
日本人10人に聞きましたらあなたの一番親しく思うお坊さんは誰ですかというと多分7人ぐらいは一休さんと答えます。では一休さんとはどんな人ですかと聞くとトンチの一休さん、それは皆さんお答えになります。そしたらいつの時代でどんなことをされましたかというとさあ~というのがほとんどだったように思います。そういう意味では日本人に大変親しく思われている。ある部分いろんな宗派、セクトがあるわけですけども宗派を超えたお坊さんというイメージが多分一休さん、そういうところからみなさん方に久しく思っていただいているわけです。一休さんというとかわいい子坊主が大の大人を翻弄する話、例えば一番有名なのは「屏風に書いた虎」そして「この橋渡るべからず」それは多分皆さんよく知っておられると思います。私らの寺の庫裡というところに屏風に書いた虎を置いてあります。もう少し奥には小さい橋があります。そこに、立て札にこの橋渡るな、この二つがあります。皆さん、そこで写真を撮って帰られます。
昭和50年ぐらいからアニメの一休さんが始まりました。今日のみなさん方、そのアニメをご覧いただいて育ったと思うわけです。このアニメは最初はタイ、そして中国、台湾へ行きました。
中国ではおしんか、一休さんというぐらい一休さんを知らない人がいないぐらいなんですけども、でもその中国の人たちの知っている一休さんはあのアニメの一休さんを知っておられ、一休さん自身が実在の人物だというのがほとんど知られていないわけです。そういうイメージもありまして、皆さんの知っているとんち話は江戸時代に一休さんが亡くなられて200年後の江戸時代に出来上がったお話なんです。そういうイメージと私ども一休さんが亡くなられる前に作られました木像がございます。一休さん自身の頭の毛を剃られてそしてそこに自分の毛を植えられた木造が残っております。かわいいイメージで来られた時に88歳の一休さんを見て皆ガックリされるわけです。
今日は本当の一休さんはこういう人でありましたと言うお話をしてみたいと思います。一休さんが生まれられたのは応永元年、今から630年ほど前の方なんです。室町時代、世の中大変乱れておりまして、特に京都は応仁の乱の戦争時代でありました。当時はお坊さんになる方というのは公家さんとか、それから武士の子供とか、そういう方たちですね、俗世間の身分が左右する、そういう時代でもあったわけです。一休さん実は100代の後小松天皇の皇子さんでございます。ちょうど後醍醐天皇の南北朝が始まりまして、そしてその終えんの天皇さん、100代の後小松天皇、この人は一休さんのお父さんなんです。天皇さんの子供ということ。現在、私どもお寺の一休さんのお墓がございます。宮内庁管轄の御廟になっています。一休さんには1人の子供さんがおられました。岐翁紹偵と言います。一休さんについて禅の修行をしておられて立派なお坊さんになっておられた。この方のお弟子さん、少納言和長という方がおられました。この方についておられた方の日記の中に一休禅師は後小松院の皇子なり、世の人これを識らずという一文があり、そういうところから明治になりましてから御陵になったわけです。南北朝が合体した時、お父さんの後小松天皇が北朝系の方、お母さんが南朝藤原家の一族と言われておりまして花山院の宮様、現在春日大社の宮司さんは花山院の宮様の末孫であります。その中に花山院の宮様の娘さんがその一休さんのお母さんと言われています。宮中で側室であったわけですけども、懐に短刀を持って天皇を殺そうとしたと中傷におわれまして宮中を下がられ嵯峨野の農家で一休さんは生まれと言われています。現在では嵯峨野に地蔵院というお寺がございます。そこで一休さんは小さい時代に育ったと言われています。一休さん自身が南朝の血を引いているということで大きくなっていろんなことがありまして、お坊さんになることによりまして政治の世界から身を引くということで6歳の時に安国寺というお寺に預けられました。このお寺は京都四条大宮にあったといわれています。そこへ一休さん6歳の時に入門をされまして、そこで周建という名前をもらっておられます。13歳ぐらいからは京都建仁寺の中に霊源院というお寺がございます。最近、今年も冬の旅なんかで霊源院を拝観しておられますがそこの慕哲竜樊に漢詩を習われました。禅宗のお坊さんというのは自分の心境をすべて漢詩で述べるわけです。実はそこで漢詩の勉強を積まれまして一休さん自身生まれて16歳ぐらいから亡くなるまで沢山の漢詩を作っておられる。その漢詩の名前を狂雲集と呼びます。狂った雲と書いて狂雲、自分自身狂雲と名乗っておられまして、安国寺というお寺は大きなお寺でありましたから実際には禅の修行ができないということで17歳の時に京都西山におられた謙翁宗為という方について禅の修行をやる。そこで一休さんは宗純という法名をもらいました。一休さん自身の本名一休宗純と申し上げます。一休さんが20歳ぐらいのときにこの方が亡くなられます。自分の一生のお師匠と思われたんですけども亡くなれてからどうしたらいいのかわからんということで石山寺の観音さんに1週間、籠もられますが結局何も得られなかったということで前の瀬田川に入水自殺をされるわけです。お母さんに謙翁さんの亡くなられたことを報告に行っておられたので様子がおかしいということで見張りをつけておられまして、その方に助けられて京都に帰り もう一度自分のお師匠さんを探されるわけです。滋賀県の堅田、現在大津市ですけれども、そこにおられた華叟宗曇という方について禅の修行をするということで現在でも私たちはそういう専門道場に修行に行くわけですがとりあえず自分はどんな心境でこの道を選んだということで現在でも庭詰と言いまして縁側に一日中頭を下げて私は今、こんな心得できましたということで、トイレとか食事とか、いただけるわけですがそういう中で庭詰をするわけです。一休さんは寒い朝、庭詰をしておられた。そこへ華叟さんが出てきて弟子に水をぶっかけて、外出をされ、そして帰ってこられたら。一休さんはずぶぬれのままで庭詰をした。それは見込みがあるということで入門を許されるわけです。華叟という人は京都大徳寺の住職になれる十分力量を持ったお坊さんでありましたが都の弊風を嫌いまして祥端庵におられました。大変貧しいお寺でありまして、その弟子たちは人形さんの着物を着せたり、そういう内職をして比叡山を超えて京都の街に行く、そういう生活をしておられました。禅宗では修行をするのに座禅をします。座禅をしますといろんなことを考えますから公案として中国の問答をいただきます。禅ではすべての人が生まれながらにして仏様の心を持っている。小さい時は純情無垢ありますけどもだんだん年を重ねることによりあれが欲しい、お金が欲しい、誰々が憎い、これは煩悩という言葉で表現するわけです。それを取り除くという一つの方法として座禅をいたします。例えばまんまるいお月さんに雲がかかった。そうするとお月さん見えません。まんまるいお月さんというのが仏心、私たちの持っている仏の心、そして雲は煩悩です。雲を取り除きますとまたまんまるいお月さんが見えてくる。ですからその雲を取り除く一つの方法として座禅をします。それに対しまして、ただそれだけではいけないということで中国のいろんなお坊さんの問答をいただくわけです。一休さんの25歳のとき洞山三頓の棒という公案をいただかれます。これは中国の唐の時代のことです。洞山というお坊さんが全国のいろんな所に立派なお坊さんがおられる。そして自分のお師匠さんを探しに行かれる。あるとき雲門というお坊さんの所へ行かれました。雲門は洞山のウロウロしている姿を見て、お前に30棒叩いてやる。ですから警策で30発叩いてやろうかとかと言われた時にハッと洞山は悟った。という問答があります。それをあなたはどう思いますかという問題を出されて、そこで一休さんはたまたま座禅をしながらこの公案を頭だけではなく体全体で取り組む。これは私ども禅宗では拈提という言葉で表します。その時にたまたま盲目の女性が平家物語を語っていた。その歌を聴いてお悟りになるわけです。そこで一休さんは華叟さんにその心境を述べられた。その時に一休という号をもらわれるわけなんです。その時に読まれた歌が
一「有漏地より無漏地に帰るひと休み 雨降らばふれ風吹かばふけ」
有漏地というのは煩悩の世界であります。無漏地というのは悟りの世界です。煩悩の世界から悟りの世界へ行っても、雨が降ろうが風が吹こうが全然動じない。そういう意味で一休さんという号をもらわれるわけです。
一休さんの人柄といたしましては29歳のときに華叟さんについて華叟さんのお師匠さんである言外という方の33回忌の法要が大徳寺でありました。一休さん華叟さんについていかれますがその時一休さんだけボロボロの衣を着ておられました。そしたら華叟さんがお前も衣をちゃんとせんかと言われたら私は偽物のまねなんてまっぴらごめんですと言いました。
一休さんに次のようなお話がございます。
ある日一休さんはボロボロの衣で街を歩いておられましたらある家でお葬式がございました。一休さん、お坊さんですからお参りを頼みますとその家の人は一休さんのボロボロの姿を見て乞食坊主と思いオッパらってしまった。そしてまた、別の日、たまたまその日は立派な衣を着ておられた。また、そのお家でお葬式がございました。そこで一休さん、私にお参りをさせてくれと頼みますとその家の人は頼んでもいないのに立派なお坊さんが来たということで上に上げ、沢山のごちそうを出しました。そしたら一休さん、自分の着てました衣をたたんで、それをお膳の前に置いて自分はちょこんと座られた。家の人が不思議がって聞きます。以前、私がボロボロ衣来た時はオッパわれた。たまたま今日は立派な衣を着てきたらこのように沢山のごちそうを出してくれた。でもこのごちそうは一休自身ではなく、私の着ておりますこの衣に出されたもの、食べることはできませんと言うトンチ話があります。そういうふうに変わった言葉とか口答によりましてうそのかざりを憎む反抗心、それを腕力とか、説法によらずに皮肉たっぷりな表現でやっていかれます。一休さん自身は大変形式主義の嫌った方でした。そういう生き方でずっと過ごされまして63歳のときに私ども京田辺市薪というところにやって来られます。もともと私どもは鎌倉時代に大応国師という方がおられ、中国に行かれて禅宗を日本へ持って帰ってこられるわけです。この方のお弟子さんが大燈国師、京都の大徳寺を作られた。その大応さんと言う人が作られた妙勝寺がありました。焼けてしまっております。一休さんは大変この大応さんを慕っておられ、お寺を作られました。大応さんの恩して酬いるので酬恩庵と言われました。一休さんが晩年住まわれたことから現在では一休寺と呼んでいます。そして一休さんと言いますと大徳寺お坊さんというイメージが大変強いと思います。京都市内の人に一休さんを聞くとああ、大徳寺さんですかとほとんど、以前はそのように言われました。でも、だんだん最近一休寺と言うと名前も知っていただけるようになりました。一休さん76歳の時に大徳寺は焼けてしまいました。それを復興するということで時の103代の御土御門天皇より綸旨と言いまして一休さんに大徳寺を復興してくださいと言う手紙をいただかれるわけです。一休さん自身は今までどちらかというとアウトロー的な反対勢力側の人でありました。大徳寺の住職になるということは逆に自分のこれまでの生き方と違った体制側になるということで住職になることに大変迷われたわけです。でもそういう基盤がなければ仏法というものが伝わっていかないということで81歳の時に決心して大徳寺の住職になられます。そして晩年88歳で一休寺で亡くなられます。生前中、82歳の時に自分のお墓を作っておられます。11月21日にお亡くなりになって、あくる日の22日に自分の作ったお墓に葬られるわけです。遺偈と言いまして一休さんの遺言なんです。禅宗のお坊さんは遺言ではなく、漢詩を作って自分の心境を述べるということであります。
二 須弥南畔 誰会我禅
虚堂来也 不直半銭
須弥南畔は須弥山思想があり須弥山という山を中心にこの世ができているということ、その南側と言うことは私たちが住んでいるこの世界ということなんです。虚堂と申しまして中国のお坊さんの名前なんです。一休さんはこの人を大変尊敬しておられて、自分は虚堂さんの生れ変わりだと言っておられました。その虚堂さんが私の目の前に来ても一休さんの禅の境地にはかなわないんだと言っておられる。そのような言葉を残しながら亡くなっていかれます。深山幽谷の中で一人座禅するとか.そういう人が立派なお坊さんだと思われがちでありますけども、一休さんはそういう山の中の生活ではなくて、京都の街の中に来て、そしていろんな方とお話をしながら諭していく。そういう一つのスタイルを取られるお坊さんでありました。
一休さんにこういうお話がございました。お正月に一休さん、竹の先にしゃれこうべをつけて京都の街中を歩かれました。そしてめでたいな、めでたいなと言われました。そしたら京都の街の人たちはお正月気分に浸っている、めでたいと言っている時にこのしゃれこうべを見て大変不機嫌になられた。そうしたら一休さんに何か、めでたいことを一つ書いてくださいと言われたら一休さんこの歌を述べられました。
三 門松は冥途の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし
と答えました。京都の街は3日間全部戸を閉めた。一休さんのしゃれこうべをもって一軒一軒ご用心ご用心と歩かれるものですから縁起が悪いと言われました。ある人がなぜそんなに目出度いんですかと聞かれたら、このしゃれこうべを見なさい。目が出て空っぽになっているから目出度いのですと言われました。お正月が来ますと年を一つ重ねます。年を重ねるということは目出度い事ではありますけども一つ歳をとるということは死に一歩近づくということです。そうしたら目出度くない。そういうふうに言われたわけです。皆しゃれこうべになっていくということは知っているわけですけども、でも昨日も今日も何もなかった。明日がまた来るじゃないかというふうに思っている私たちにそうではないんです、しっかり生きなさいという多分一休さんのそういう忠告ではないかと思うわけです。
禅では大切にされる言葉にこういう言葉があります。即今、当処、自己。すなわち、即今は今、当処とはここで、そして自己は自分自身ということ。今ここで自分自身が何をするかということであります。これが禅の教えでございます。現在はいろんなことがございますけども、例えば問題が起こった時に悪いのは自分ではなくて家庭が悪い、学校が悪い、世間が悪い、そういうふうに今皆さん言われます。そしてそれがまたまかり通る時代だというふうに思います。でもそれは学校も家庭も世間も少しは悪いかもしれませんけどもそれに関している自分も全く無関係ではなくて自分自身も悪いと反省をするというそういうことも必要ではないかと思います。
四 「昨日は去った明日もまだ来ない今を大切に生きよ」
という言葉がございます。昨日にとらわれている人は今という時間を充実して生きていない。ですから今を生きていないからまた先のことが気になる。私たちは今日出来なければ残りは明日すればいいという生き方。ところがそんな明日が来るという補償は何にもないわけです。未来という字はいまだ来ずと書きます。未来がまだ来ないぞ、来ないということですから明日があるということは何の保証もない。この先、5分先どうなるかわからないというのが私たちの世界ではないかと思うんです。仕事を残すことが悪いことではないと思います。大事な仕事であるならばそう簡単にそのうちに片づかない場合もあるでしょうし能力の限界というものもあります。問題はやり残したという思いと明日を頼むということだと思います。今日は今日の仕事、明日は明日の仕事、その日その日のうちに精一杯やればそれでいいと思います。そうすればもっとさわやかな明るい気持ちで今日を終えることができる。今日ただ今のことを全力を集中し無念無心にやっていくこと。これこそが本当の人間の生き方じゃないかと思います。
一休さんにこういう話があります。ある日一休さんのところである若者がやってきました。うちの親というのは“し”ということを使うと大変忌み嫌うんで一休さんに何とか頼みたい。そうすると一休さんは今暇だから一緒に行ってあげるということで行かれました。その途中に魚屋さんがありました。一休さん、そこで息子さんにカレイを4匹買わされましてお父さんのお土産に持って行きました。4匹のカレイを土産をもらったお父さん、4匹ということで1234、自分が嫌いな“し”という言葉をとりまして“し”カレイ、怒りました。そうしたら一休さんはこう言われました。あなたは"し"カレイととりましたが私はこれをよかれいと思って持ってきた。こういうふうに言われました。私たちはこの現在に、お互いにある家の男となり女に生まれてきたわけでありますけれども、自分の生まれてきた環境とか身体に対して、例えば男の場合ですともっと男前だったらな、女性の場合でしたらもっと美しく産んでくれればよかった。もっと頭のいい子に産んでくれればよかった。もっと金持ちの家に産んでくれればよかった。自分の生まれてきました環境や身体に対して不平不満、他人さん見て、あの人はいいなとうらやむ人も多いわけです。妬んだりする人もあります。
ここで考えていただきたいんです。幸せというものは他人さんとの比較によって出てくるものではない。今、与えられたものを良かれと思うところから良かれの人生がやってくる。でも、それを”し”かれととって不平不満をタラタラ言うか、また逆にですね、それは良かれとありがたく感謝するかは皆さんの心一つでございます。ですから今日からは良かれ良かれと言いながら毎日をお過ごしいただきますこと、そして一休さんのいろんな生き方をお話させていただきました。一休さんの 生き方を少し参考にしていただきましてこれから良かれ良かれの人生を歩んでいただきますことをご祈念を申しあげまして大変まとまりのない話でございますけどもご清聴どうもありがとうございました。
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