愛犬が動かない
太田壱将
皆さんこんにちは、クラブにおける放談は3回目になります。その中でやっぱり忘れられないのは24年前の最初の放談の年ですね。矢野喜久雄さんが会長の年で、特に15、16、17日。今でも鮮明に記憶に残っています。その頃は成人の日は15日と決まってまして、小学校でいつもその新年に左義長がありました。それを手伝って帰って来ましたら一つ隣の町内で、200 m ほどのところで火災が起こってました。私が第1発見者で、あとで警察に大分聞かれました。ちょうどお昼やったので気づくのが近所の人も遅かって、一軒丸焼けで両隣燃えました。その全焼した家の奥さんが亡くなられまして消火してからご遺体を発見するまでが消防の仕事、発見したら直ちに警察が入りまして現場検証。昼から12時頃までずっと寒い中、番をしていまして、冬のことで水利も悪くて消火も手間取りました。発見した時はもう手のつけようがない。2階の畳が落ちてかなり積もっていました。それをどけるのに1時間ぐらいかかりました。消防署員の人がその畳の下に必ずご遺体があるという。においでわかる。頭の骨が見えた時はすぐに警察に引き渡しました。次の日は日曜日でいいお天気だったんですが夕方の夕焼けが綺麗いで、犬の散歩のコースを回ってましたら、神戸の方角に犬を連れて行きますとそこでピタッと止まって動かないんですね。引っ張ってもだめだし別の方向に行ったんですけども犬はその辺のことがわかるんでしょうか。17日の朝、やはり同じ方角から地震の波が感じられました。その感じた後に大変な揺れがきました。2階で家内のフランス人形のショーケースが落ちました。そのガラスの音で家内はびっくりして布団をかぶって潜ってじっとしていました。私は起きてすぐに娘、息子の部屋を見廻り、息子は大物か知らないけどもまだ寝てました。娘はやはり布団をかぶって潜っていました。幸いにその頃、私は消防団に入っておりまして、その前の年に防災講演会で総長になられた尾池さん、その頃はまだ助教授だったんですけども講演を聞きました。150年周期で高松から敦賀を結んだ線上にマグニチュード7以上の地震を起こす断層帯がある。その前の年にとっくに過ぎているのでいつ起こってもおかしくないということを聞き、早速タンスとか食器棚、全部固定しました。おかげで実質被害はフランス人形のケースとそれとお酒のビンが一本割れただけで済みました。周りの灯ろうが倒れたりした家はあったんですがうちは被害も少なくてけが人もなくてよかったです。昨年いろんな災害が起こりましたけども今年はそういった災害がないように願いまして放談を終わらせていただきます。
浅井貫心
神戸が燃えていた
皆さんこんにちは。今月の10日の初例会欠席いたしまして本当にすんませんでございました。ちょうどその時は祇園の方で飲んでおりまして申しわけないと思っております。本年もどうぞよろしくお願いいたします。年男ということなんですけども、今年は72歳に突入していく年なんです。今日も朝、うちのかないとしゃべっておったんですけども“なんとあんたも年いったな”と言われて、なんでって言うたら、体力なくなったし、歩き方もモタモタモタモタしてるやんと言われ、そうかなと思ったんですがよう考えてみたらそうかなと思いますけどもちょっと寂しくなってくるんですね。年とともに力がなくなってくるのも間違いないなと思っております。
今日は何を話そうかということも全然考えておりませんでした。先程会長が神戸の方の地震のことでお話しておられました。17日のことですね。うちのばあさんも神戸の灘区の方に結婚していっておられまして、地震の時に他から電話がかかって来て、“はよう、おばあさん迎えに行け”というんですね。そんなもん、そんな状態でいけるんかいな。どうにかして行け行けと言われて困りました。2日、3日経って、阪神高速も止まっておりますのでどうしたらいいのかなと宇治警察まで行きまして神戸まで行かなくてはなりませんがどうしたらよろしいかと尋ねたら車で物資ということで宇治署からステッカーをもらいまして、それを前において車で夜中に4時間5時間かかりまして下の道を走りました。ずっと行くたびに燃えている、燃えている、何かこう、手を合わすにおられないなということで止まっては手を合わせながらやっと神戸の寺まで着いたんです。“本堂があらへんがな”“ここやがな”潰れてしまっておりまして屋根だけが綺麗に残っているという状態でまあ、ばあさんはどうしたんだろう。部屋で布団を頭からかぶって動かれんという。何とか起こして京都まで引っ張って行こうということで、それで無理に車に乗せて一日以上かかりまして1年の間だけでしたけどもそのおばあさんの面倒を2人で見ました。その間に2回ほど入院して91でしたもんですから神戸に帰りたいということで送りました。あとは施設に入り、99歳で亡くなりました。大変な運命だったなとこちらは何も力にはなれないのですけどもそういうことを今つくづく思って震災のことを思い出してしゃべっております。
北島聡之
リーダーシップ
私も歳男です。テレビを見ていますとイノシシ年には災害が多いということで調べてみましたら昭和22年カスリーン台風で、その12年後(昭和34年)伊勢湾台風、その12年後(昭和58年)日本海中部地震、そしてその12年後、阪神淡路大震災、その12年後、新潟の中越地震、これは平成19年の出来事でした。災害の年に生まれた私にとっては結構、今の私を作っている年でもあったなと思っております。阪神淡路の時は入会した年で、このときにボランティアをしたのが初めてでした。実は社会人になって1年目の冬でした。この震災を通じて私は何をやるべきかということを気づかせてくれた年でありました。ちょうどこの年から四国に赴任しまして10年間転勤族の生活をしていました。最初に赴任した高松。瀬戸大橋が開業して7周年目でした。坂出の経済が落ち込んでいるということで瀬戸大橋ブームが落ち着いてしまって、どうしようもなくなっていた。その時、吉丸パーキングエリアでそこの町おこしにちょっとだけ関わったのが最初でした。何か作って行こうと考えました。会社が軌道に乗って、これやったらワシ一人で商売やっていける。出て行ったのが平成17年のことでした。
平成19年は今の家賃事業ですね。いわゆる家主事業を始めたのがこの年でした。今はちょこっと増えまして5軒になっております。まだ半人前ぐらいです。さかのぼって、昭和58年、私は何をやっていたかな このときに私は料理を始めてました。きっかけが家で作るお好み焼きがあまり美味しくないということで、なんでかな。その当時、同級生のお母さんがやっておられたお店のお好み焼き店、そこで作り方を教えていただきまして、そこが私の料理の原点でした。ふっくら焼くためのコツとか、そこらへんを教えていただきました。その息子のおばちゃんと今までつき合いがありまして一緒に商店街をやっております宮川君はその時のおばちゃんの息子です。その時の商店街の仲間に向日町の激辛商店街に知人がいます。その人に12年前何をやってましたかと聞きますとちょうどイオンモール桂川ができる前で計画が立って、このまま行けば商店街は食われてしまうと危機感を持ってやっていました。工夫と努力の結果、5年後には名声を得て、商店街が反映しております。これは皆さんの協力のおかげだということです。私はそのリーダーシップがすごかったなと思いました。平成21年に商店街ができてますので今年10周年になります。10年でここまでできるんや。閃くものがあって今日からは12年後のこの場で同じように年男放談で商店街がここまでできたと言う話ができたらいいなと思っております。今年もまたいろいろと始めたりします。よろしくお願いいたします。
安井克典
牡丹鍋
4月で3回り目の36歳の年男ということでございます。0歳の時も年男らしいです。ですから私の場合は4回り目の5回目の年男と言うらしいです。太田さんをはじめ、浅井さん、北島さんと私、4人なんですね、イノシシ年ということで何か共通するところがないかなと考えたら、男前であったり、お金持ちであったり、スポーツマンであったり、歌がうまかったりということであまり共通点がないような感じですね。シラーとしてますね。何ででしょか。12年前なんですけども36歳の年男の12月にこのクラブに入会しまして、そして年を開けた時に年男年女放談として喋らんなんよと言われた時にはよかった、当分、来ないなと思っていたんですけども、もうそれが12年経つんですね。早いもんでこの場に立たしていただいているということです。イノシシ年、何で動物園とかイノシシがいるところのイノシシを見ます。イノシシの目を見たことはありますか。イノシシの目というのはすごく悲しい目をしています。何かかわいそうになってくるんです。そういうところで何か感情移入なんか、しちゃったりなんかして………。
この4人で今年度中にボタンなべでも食べて騒ぎたいなと思っています。ありがとうございました。
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